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――台風二十号は明け方ごろに最接近する見通しです。
ラジオの電源を切った。もうすぐ夏休みが終わる。すっかり夏草で覆われてしまった校庭にぽつんと落ちていた、小さなトランジスタ・ラジオ。拾って電源を入れると、きちんとどこかの局の電波をひろって、実在するだれかの声を伝えた。
ぬるい風が吹き渡り、空には暗い色をした雲が低く広がり、淀んでいる。どこからか飛んできたのか、スナック菓子の袋が羽虫のように舞っている。
「大丈夫かな、台風」
校舎を見上げる博己の、色素のとんだみじかい髪も風を受けて持ち上がっている。羽純は手で耳横を押さえて、髪が口にはいらないようにした。
「またガラスが割れるかもね」
「ガラスで済めばいいけど。認めたくないけど劣化がはげしいから」
「せっかく掃除しても、意味ないかもなあ」
羽純はため息をついた。でも、今日しかまとまった時間がとれない。
いつも集っていたあの教室で、生まれ変わった律を迎えたい。博己もそうしたいと言ってくれた。律はまだ病院にいる。目を覚ましたのはいいけれど、ひととおり検査もしなければいけないし、ずっと寝たきりで筋力も落ちているから、すぐには退院できないらしいのだ。見舞いに訪れたさい、律の母が話してくれた。
「あいつ、結局、一度も来なかったな」
「あいつ、って?」
「木原祐市だよ。あいつがこんな目に合わせたんだと思う、律のこと」
「律からなにか聞いたの?」
なにも、と博己は首をふる。校庭を横切って、校舎へ向かう。伸びた草がふくらはぎに当たってちくちく痛い。
「気になってた、ずっと。律のことが見えるみたいだったから。それで怯えて、学校休むようになったし、あいつ」
「追及しなきゃ気がすまない?」
「……ん」
校舎にあがりこんで、古い木の廊下を踏みしめて歩く。ぎゅっ、ぎゅっ、と板が軋む。
しばらく来ないうちに、すみっこのほうに埃が積もっている。
「きっと律が決めると思う。木原のことは」
なにがあったかは知らないけど、目を覚まさなくなった原因のひとつではあるのだろう。
「だいじょうぶ。律は自分で選んだんだよ」
「こちら側」の世界を。羽純にはわかる。みじかい時間だったけど、執行猶予を得て、ただよっていた羽純にはわかる。
「おまえ、律になにか言ったの?」
「なにも。言われたのは、むしろあたしのほう」
怪訝そうに博己は眉を寄せた。夢のようで夢じゃない、まぼろしの時間。うまく説明できる気がしなくて、羽純は黙って歩を進めた。
「六年」というプレートのかかった教室の扉をあける。こげ茶色した木の格子に、すりガラスのはめ込まれた引き戸。
羽純はそっと、ラジオを教卓の上に置いた。もうひとつの世界と自分たちをつないだ、ラジオ。律にはもう必要なくなったのだろう。
ちいさな教室を見回す。もうここに住むものはいない。それでも。羽純と博己は、無言で掃除をはじめた。教室に置きっぱなしにしていた箒と、笑里の持ち込んだフローリングワイパー。水も電気も使えないから、これで綺麗にするしかない。壁は雑巾でから拭きすることにした。ちいさな窓は新聞紙をまるめて磨く。
「思い出すよな、小学生のころ」
「そうだね。夏休み前の大掃除」
「ぬか磨き」
「そうそう」
くすくすと、笑いあう。あらかた埃がとれて、床も壁もひかえめな艶を取り戻した、ように思える。持参したおしぼりで手を拭いて、博己はペットボトルを、羽純は水筒の飲み物を飲んだ。
「あー。がんばったな俺たち。やればできるって感じ。自分の部屋はさっぱり掃除する気おきねーけど」
「きったないなあ」
「どーせ羽純も似たようなもんだろ?」
「失礼な」
かるくパンチをかます。博己はひょいとかわす。パンチ、かわす、パンチ、よける。しばらく続けた後、ふいに、沈黙が訪れて。
教卓に、そっと水筒を置いた。ラジオの横。ことりと、音がする。
「……好き」
告げていた。グラスから水があふれるように、ほんとうの気持ちが、こぼれ落ちていた。
「あたし、博己が、好き」
「……え?」
窓ガラスを風が揺らす。みしみしと軋む音に、既視感をおぼえる。夏の陽は雲に覆われて見えない。夕暮れも訪れていないのに、薄暗くくすんでいる、小さな教室のなか。
「ちょっと待って。だっておまえ、あの時」
「嘘ついてた」
ペットボトルが博己の手からすべり落ちて、転がっていく。
「あたしも好き。ほんとうは」
「羽純」
「好きだった。あのときから……」
月明かりの下で。田んぼのあぜ道で。俺に分けて、って。言ってくれたあのときから。
つたない言葉だったけど、つないだ手から、博己の気持ちが、ぜんぶ、ぜんぶ羽純に流れ込んできた。あのときから。
「ずっとずっと、嘘ついてはぐらかしてごめん。中学のときも、ほんとは、うんって言いたかった」
「羽純」
「助けてくれてありがとう。すごく、すごくうれしかった。博己にちゃんと言いたいと思って帰ってきた、あたし」
顔が熱い。きょうは夕暮れ時でもなんでもないのに、きっと自分の顔はごまかせないぐらいに赤くそまっているんだろう。
好き。
ずっと黙っていた博己が、ふいに羽純の腕をとって、引き寄せた。羽純はそのまま、こつんと額を博己の胸にぶつけて。つかまれた腕をふりほどくこともせず、ただ、うつむいている。
「バカ。なんなんだよおまえ、まじで」
「ごめん」
「生きてるだけでじゅうぶんだって思ったのに。羽純が元気で笑っててくれればそれでいいって、思ったのに」
「うん」
「もう悟りきった気分だったのに、俺」
博己が羽純の頭に手をまわして、ぎゅっと、自分の胸に押し付けた。鼓動の音が聞こえる。とくとくと、速い。これは、あのときのつづき。
「そんなこと言われたら、足りなくなる」
「……うん」
強く抱きしめられて息ができない。足りないのは、自分も同じ。熱くなる胸を、わがままな自分を、許してなんて言えない。だけど。
顔をあげる。熱のこもったまなざしが自分をまっすぐにとらえている。あのときの、つづきが欲しい。
ゆっくりと、目を閉じる。
かさなったくちびるはあたたかくて、思ったよりも生々しい感触に、どきどきする。
はじめてのキスは、甘くて。そして、すこしだけ、苦い。
どうして止まれないんだろう。だれかを傷つけても、それでも、どうして。
博己の大きな背中に両手をまわしてシャツをつかむ。一度離れたくちびるが、ふたたび重なる。もう一度、もう一度。思いっきり背伸びした足が、痛い。痛くて苦くてくるしくて、それなのに、欲しくなる。
窓が鳴っている。嵐が、近づいている。
夏が、終わろうとしている。




