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深夜に病室で意識を取り戻した羽純は、翌日には退院した。心音も呼吸も身体機能も正常、頭も頸部も打っておらず、脳波にも異常なし。ただ、意識だけが戻らない状態だったらしい。
律と、おなじだ。
父に話を聞いたとき、まっさきにそう思った。自分はたしかに律と夜空を飛んで、小学校の屋根に腰かけて、流れ星の雨をみた。夢じゃない、ほんとうに飛んだ。
兄の車で家に向かいながら、羽純はぼんやりと窓の外を通り過ぎる景色を眺めている。ガードレールの向こうで、みずいろの海が夏の終わりの陽をあびてまたたいている。
自分がいたのは国道沿いの救急指定病院で、律がいるのは隣の市の大学付属病院。笑里の学校の近くにある、大きくて設備のととのった病院だ。笑里は学校帰りに、博己と羽純は、それぞれ休日に見舞いに訪れていた。
病室の白いベッドのうえ、眠っている律に会って声をかけて。その後、廃校舎で、動いてしゃべる律に会うのは、なんとも奇妙な感じだった。どちらが実体なのだかわからない、幽霊と呼ぶにはあまりに生々しい存在で。
律はどうしているのだろう。
博己は。笑里は。
「兄ちゃん」
「ん?」
運転席の兄は、フロントガラスの向こうへ視線を向けたまま、羽純のつぶやきに耳を傾けた。六つ年上の兄は羽純にとって「小さいお父さん」という感じで、母が亡くなってからは「小さいお母さん」にもなろうとしてくれた。進学をせずに地元で就職し、母のかわりに家事をし、羽純にも手ほどきをした。
「いまから律の病院に行きたいんだけど」
「馬鹿か」
間髪いれずに容赦ないことばが飛んでくる。
「自分も退院したばかりのくせに」
「でも」
しょうがないなとでも言いたげに兄はため息をついて、そして、片手をのばして羽純の頭のうえに置いた。
「今日は我慢しろ。どれだけ人に心配かけたと思ってるんだ。みんなが助けてくれたからおまえの命が今あるんだ。とくに……、博己」
「うん」
わかっている。見ていたから。博己。
胸の奥が熱くなるのを、抑え込もうとして――抑えるのが、もうほとんど習慣になってしまっている――、律のことばを思い出した。
逃げちゃ、いけないんだよね。
携帯が鳴る。
液晶画面を指でタップする。彼のことを考えていたタイミングでの、博己からのメッセージで。どくんと心臓が鳴った。
「退院おめでとう」のことば、それから。律の、こと。
律。
画面を見つめる目の奥が熱くて、零れ落ちそうで、何度かまばたいて窓の外に視線を投げる。それでも、流れる景色はどんどんにじんでぼやけていく。
信じていた。信じて、いた。
万一のことがあったらいけないから、家でじっと安静にしているようにと兄にしつこく釘をさされていたものの、からだは元気だし、羽純は部屋でごろごろしているのにもすぐに飽きてしまった。むくりと起きあがって、扇風機を「強」にする。強い風が学習机に置きっぱなしの課題プリントたちを舞い上げた。ため息をつく。
きのう博己は部活を休んで、律の病院へ飛んでいったという。羽純も一刻もはやく律のもとへ行きたいけど、そうもいかず、博己に律の様子を教えてもらっている。じれったい。
延々とつづくやりとりの中で、ふいに、博己が異質なメッセージを投げ込んできた。
――笑里に。話をした。
なんの?
どくりと心臓が嫌な感じに拍動して。そのまま携帯を放り投げて見ないようにする。
だけど。
ぐっと奥歯を噛みしめ、羽純は六畳間の隅に投げた携帯をふたたび拾い上げ、電話をかけた。
笑里は、今から羽純の家に行くと言った。電話越しの声は落ち着いていた。
そわそわと落ち着きなく、くたびれたクッションなどを抱きしめて待つ。やがて呼び鈴が鳴り、羽純は笑里をせまい自室へと通した。
ふたりの目は、合わない。もう修復は不可能なんだろうか。部屋の真ん中、折りたたみ式のちいさな座卓に、麦茶の入ったグラスがふたつ、汗をかいている。
「羽純」
座卓をはさんで、羽純と向かい合わせにぺたりと座りこんで畳の目を見つめていた笑里が、口をひらく。
「ごめんね」
「……うん」
「あたし、自分でもよく覚えてなくて。頭が白くなって、つぎの瞬間にはもう、羽純が落ちてた。水しぶきがあがって」
「うん」
「博己が叫んでた。羽純ーっ、って。それで我に返って。……怖くなって」
笑里の綺麗な顔がくしゃりと歪んで。瞳から、涙がこぼれ落ちる。
「わたし、羽純を殺すところだったんだ……」
苦しげに、声をしぼり出す。
「ごめんね。謝ってすむことじゃないけど……。羽純が助かって、ほんとうによかった。無事を祈ってた」
嘘じゃないの、嘘じゃないの、と。笑里は繰り返す。
「でも。でも、……もう」
笑里は深く息をついて、そして、かすれる声で言葉をしぼり出した。
「……前みたいには、戻れない」
流れる涙を、拭うこともせず。笑里は羽純から目をそらしたまま。
「博己に。わたしとはもうつき合えないって言われた。理由は、羽純にはわかると思う」
「笑里」
「ごめん、って。何度も謝られて。ぜんぶ自分が悪いんだって、わたしに頭を下げたの。博己」
そんなふうに言われたら、もうどうしようもないじゃない。そう言って、笑里はよわよわしく笑う。
「博己といっしょにいるの、つらかった。楽しかったけど、つらかった。だって」
笑里はそこで言葉をのみこんだ。古ぼけた扇風機の羽音がひびく。
羽純は、大きく息を吸い込んだ。いま。いま、伝えなければ。
――あたしは今から、親友を。たいせつな幼なじみを。傷つける。
「あたしは博己が好き」
まっすぐに笑里を見つめる。うつむいて小さくなっている笑里の肩がぴくりと震える。
「博己が好き。ずっとずっと、好きだった」
風が吹いて、出窓のカーテンが揺れる。
「嘘をついていて、ごめんなさい。親友なのに、ほんとうのことが言えなかった」
つくつくぼうしの鳴く声が、入り込んで六畳間を満たす。
「……好き、……だった?」
カラン、と。いまだ手をつけられていないグラスの、なかの氷が解けて、音をたてる。羽純はゆっくりと首を横に振った。
「いまも。いまも、好き」
止められない。消すことができない。
「……悪いけど、わたし、笑えない。羽純みたいに、よかったねって言えない。たぶん、この先もずっと」
「……うん」
「わたし、ずるいんだよ。羽純が思ってるより、ずっと」
「あたしだってずるいよ」
「知ってる」
真っ赤に充血した目をして。ぎこちない笑みをうかべてみせて、笑里は立ち上がった。羽純も。そうしてやっと、目があった。だけど、すぐにそらして、笑里は羽純に背を向けた。
「ばいばい」
「笑里」
とっさに、羽純は笑里の手をつかんでいた。笑里は反射的に振り返る。
「……律を」
笑里は眉を寄せた。羽純はつないだ手に力をこめる。
「帰ってきた律を、三人で、迎えたい。そのときは……、来てくれる?」




