2
あたりはすっかり闇にくるまれて、川の流れる音と虫の声、そして笑里の泣き声だけが響いている。大人たちはみな一様に厳しい顔つきをしている。博己は羽純を引き渡すと、気力も体力も尽きたのか、みずからも倒れ込み、一緒に運ばれていった。羽純の父は救急車に一緒に乗り込み、兄たちは車で後を追うと言って一旦戻った。
「……羽純」
「うん」
「僕たち。死ぬの?」
羽純はまっすぐに律の目を見て、ゆっくりと首を振った。
「わからない」
重い空気の中、大人たちは家路へとつきはじめた。笑里はさきほどのおばさんに肩を抱かれたまま、よろめきながら歩いていく。
「見てただろ? みんな必死で羽純のことを助けようとしてた。笑里だって、あんなに泣いて。今なら戻れるんじゃないか?」
「どうやって、戻ればいいの?」
律はその問いに答えることができない。
空にはいつしか、満天の星。雲ひとつない。ゆったりと天空を横切る銀の河。
「どうしてあたし、からだから離れちゃったの? 律だって……、どうして?」
「……わからない。ただ」
羽純がじっと律のことばを待っている。浮かび上がってくる記憶のあぶくのひとつひとつをすくい取りながら、絞り出すように、律は話を続ける。
「ラジオが飛んだんだ。坂道のおわり、国道に出たところで。信号待ちで止まってる車にぶつかって、自転車ごと浮いた。ポケットから飛び出たのかな、ラジオも浮いてた。あっ、死ぬ。そう思った瞬間、目に入ったんだ。空が赤くて。夕暮れ時で。赤くて。ラジオが、ガガガって鳴った」
「……うん」
「目を閉じて。ふたたび開けたとき、僕は倒れている僕を見おろしていた。ふらふらと飛んでたんだ。木原のすがたを見た。あいつ、青い顔して、ごめん、ごめん、って……」
朝、登校したときは普通だった自転車のブレーキがおかしくなっていた。まさか、木原が。そんな考えが一瞬で広がって、黒いタールみたいにまとわりついて離れなくなった。
ごめん、ごめん。壊れたからくり人形のように、ひたすら繰り返してふるえていた木原。
「……笑里みたいに?」
羽純が、さびしげにほほ笑む。
「笑里があたしを押したんだ」
息を飲む。そんな気がしていた。だけど、なんと言って返せばいいのかわからない。
「そんな顔しないでよ。いまは、律の話」
うながされて、律は口をひらく。
「僕はまた、飛んだ。街を超えた。羽純のことを探した」
「なんで、あたし?」
その問いには答えない。
「羽純は廃校舎にいた。博己とふたりで」
息が詰まるような沈黙。息なんてしてないはずのふたりなのに、ちゃんとからだの感覚は、あるのだ。
「博己と目があった。そしてぼくの記憶は消えた」
廃校舎に住みつく幽霊となったのに、自分では普通に生きていると思い込んでいた。不自然なことばかりだったのに。すべてがとぎれとぎれで、ひどくちぐはぐだったのに。
ただ。羽純と、博己と、笑里。かれらだけが、特別だった。――木原も、か。
自分のすがたを認めたときの、木原の青ざめた顔を思い出す。ここにいるはずのない人間がいる、自分が殺したはずの人間がいる。脅かせて泣かせてやろうぐらいの気持ちで、殺すつもりなんかなかったのかもしれない。だけど結果として、そうなってしまった。
「律は」
羽純がそっと、律の手をとった。
「律は、戻らないの?」
――戻る?
「戻れる、のか?」
「戻る気、ある?」
羽純はまっすぐに問うた。大きな瞳が夜をうつして揺れている。
答えられない律に、羽純は表情をゆるめ、ふっ、と笑いかける。
「あたしたち飛べるのかな? 律は飛んだんでしょ?」
たぶん、と言った瞬間に、足が宙に浮いていた。羽純も。浮いて、「わ、わ」と声をあげている。
ふたりはふわふわと浮いて、そのまま、すうっと垂直に浮き上がった。気が付いたら、石橋や大野川が眼下にある。
「すご。超能力者みたい」
「ほんとだ」
「って、律。あんたほんとに無自覚だったんだね」
律のやわらかいくせっ毛が夜風になびく。白いカッターシャツも、風をはらんでふくらんでいる。
「羽純、スカートじゃなくてよかったよね」
「持ってないし。どうせだれにも見えないだろうし。っていうか、何あたしたちのん気にこんな話してんの」
くすくすと笑う。まるで現実感がなかった。きっと長い夢を見ているのだ。いま、自分たちは夢のなかにいるのだ。
東へ行こうとすれば東へ、西へ行こうとすれば西へ、自在に進むことができる。羽純は、
「あたし、水の中は無理だけど空なら泳げるっぽい」
なんてことを言った。なんだか自虐めいた物言いで、律は眉を寄せる。
「学校行こうよ」
羽純が笑った。すいすいと夜を泳ぐ。畑も、田んぼも、自分たちの家のある集落も、道も、河も、すべてジオラマのように小さく遠く、そのかわり、空を渡る銀の河はすぐ近くにある。透き通った宝石のかけらをちりばめたみたいに、白い星のかがやきがあまた揺れる。
あの銀河の果てに。あるいはもっと遠くに。おじさんの居る星があるのか。
選べ、と。海斗おじさんは言った。
こちら側と、あちら側。僕にはまだ、選ぶ自由があるのか。
律が暮らした、みんなが忍び込んだいつもの古い木の校舎へ飛んでいく。あのころのぼったジャングルジムよりもっと高いところを。漂って、屋根のうえへ降りた。
「すごい星だね」
吸い込まれるような暗闇のなかに、散りばめられた星たち。風が強くて、髪がなびいて口のなかに入りそうになる。この風が、これから星くずを飛ばすのだろうかと、疑ってしまうくらいに。
「ペルセウス座って、どこ? そこから星がいっぱい落ちてくるから、ペルセウス座流星群っていうんだよね?」
「そうだよ。……でも、どこだろう」
「星空アプリもないし」
「星座早見盤も」
律は笑った。むかし、気合を入れて用意してきたのに結局使わなかったのを思い出したのだ。
「あたしたちには、なんにも、ない」
なんにもない。たましい、ひとつだけ。いまだ入れ物の姿をとってさまよっている自分たちのことを、たましい以外にどういうことばで言い表せばいいのかわからない。
「ラジオ」
はたと気づいた羽純が、律を見やった。とたんに、律のポケットからノイズが響きだす。まるで会話をしているみたいに。
――おじさんが、また何か語りかけてくれるかもしれない。そのとき僕は、ちゃんと答えを出すことができるだろうか。
ぴたりと、風がやんだ。
「……あ。流れた」
羽純が空のてっぺんを指差した。律も見上げる。星が流れた。ひかりは線になって、一瞬で消えた。それをきっかけのようにして、天球に貼りついてた星たちが、つぎつぎに、すうっ、すうっ、と落ちてくる。
「願い事するひまもないね」
「うん」
「こんなにたくさん流れているのに」
星が落ちてくる。遠いまたたきが、音もなく落ちて、消えて、そしてまたひとつ。雨のように降り注ぐ。
ふたつ一緒に流れる星をみつけた。手を取り合って崖から身を投げるみたいにして、消えていく。ことばをなくしたふたりは、夜のほとりで、ただただ、魅入っている。
――僕たちは、ちいさい。あの儚い流れ星よりももっと、もっとちいさくて。一瞬で消えていくしかない、いのちだ。
「羽純は、さ」
静寂を割るようにして律はつぶやいた。羽純は夜空を見上げたまま。
「願いごとって、あるの?」
「あるよ」
「ひとつだけ、叶うとしたら?」
星に、何を願う?
羽純はじっと夜空を見つめたまま。ややあって、つぶやくように、言った。
「あたしは、四人で流星群を見たい。こんどこそ、四人一緒に、星を見たいよ」
夜を映す羽純の瞳が揺れている。
「そんな日は、もう来ないのかな?」
涙でうるんで、揺れている。
「あたしが壊したのかな。ねえ、あたし、どこで間違ったの? 笑里をあんなに追い詰めていたなんて」
律は、なにも言えない。
「目を覚ますのがこわい。笑里が泣いてるのも、博己が必死で助けてくれたのも、ぜんぶ知ってる。見てた。なのに」
このまま「ふたご星」に行ってしまったら。笑里はずっと、苦しみと罪をかかえたまま。博己も、羽純のおもかげを引きずったまま生きて行かなくちゃいけない。
だけど、戻ったら。向き合わなくちゃいけない。ちゃんと自分の気持ちを、告げなくちゃ、いけない。
羽純に、勇気を出せと言う資格が、自分にあるのだろうか。逃げつづけていた、自分に。
いのちが終わると悟ったとき、律は羽純をさがして飛んだ。さいごに、どうしても伝えたかった。なのに羽純は博己と抱き合っていた。親友に裏切られて、好きな子のあんな場面を目にして。律の記憶は飛んだ。
いまの羽純の気持ちをいちばん理解できるのは、きっと自分だ。長い間ずっと、自分では気づかないまま、木原のことを追い詰めていたのかもしれない。無神経なことを言ったのかもしれないし、傷つけていたのかもしれない。いま考えてもわからないのだ。ずっと一緒にいたのに。あいつはいつも笑ってたから。
羽純だって。笑里の笑顔を守りたかっただけなんだ。だけどそのことが、結果として、いちばん笑里を傷つけた。
「嘘つかないでって言われたの。笑里に。すごくまっすぐな目であたしを見てた。あたしを、試してた。なのにあたしは」
「逃げた、んだ」
「そう。逃げた」
羽純の横顔が、星明りのなか、うっすらと、淡く浮き上がって見える。それがとても綺麗で、律はくるしくなる。
「あたし。怖かった。気持ちを素直に告げて。笑里とも、博己とも、いままで通りでいられなくなるのが怖かった。ばかみたい。好きになっちゃったら、もう、戻れないのに。まっしろな気持ちに戻れるって、無理やり思いこもうとしたんだ。ほんと、ばかだよね」
好きになったら、戻れない。
律は羽純の背中にそっと手を置こうとして――そして、やめた。
ふたりの外側を、どんどん星は流れていって。時が流れるみたいに、星屑が流れて消える。きっといま、果てしなく深い宇宙のなかで、たったふたりきり。なのに、となりにいる羽純は、ほかの男のことを想っている。好きな気持ちを消せなくて、泣いている。
律の思いは、届かない。ほんの数ミリ手を伸ばせば、彼女に触れられるのに。
「羽純」
律はしずかに告げる。
「このまま。だれにも、ほんとうの気持ちを告げないまま、死んでもいいの?」
自分の発したことばは、そのまま自分自身へと向いた。逃げ続けていた自分へと。
羽純はゆっくりと律のほうへと顔を向けた。その大きな瞳には、星でもなく夜の闇でもなく、律のすがたが映っている。
「死にたく、ない」
羽純が、そう告げた瞬間から。彼女の輪郭が溶けるように滲んで、霞のようにおぼろになっていく。
「死にたくない」
はっきりと、羽純は言った。
律が手を伸ばしたその一瞬で羽純は消えて。律の指は宙を泳いだ。
「はす、み」
戻ったのだ。羽純は選んだのだ。
――モラトリアム。
おじさんの声が聴こえる。ポケットからラジオを取り出す。いつも律のそばにいた小さなトランジスタ・ラジオ。いま律に話しかけている声は、いつものようにラジオから響いているようにも思えるし、宇宙のどこかから律の耳に直接届いているようにも思えた。律にしか聞こえない声。
――この星にとどまるか、あちらの星へ渡るか。執行猶予期間は、あとわずかだ。
「決めなかったら、どうなるの?」
――俺が、あっちに連れて行く。おまえを。
「おじさんが? だって、あのとき僕を助けてくれたんじゃないの?」
――助ける? 俺にそんなことができるわけないのは、律がいちばんわかることだろう?
確かに、そうだった。
たましいだけの自分には、好きな子をたすけることはできなかった。溺れて流されていく羽純を前にして、なにひとつできなかった。
ぐっ、と。握りしめたこぶしに力をこめる。この力はなんなのだ。実体のない存在なのに、力のみなぎる感覚だけはある。珈琲や、木や、水。身の回りのモノに。笑里に博己に。羽純に。触れることができた。なぜ。いまだどこかで生きているらしい自分の体と、「たましい」の自分が、細い細い糸でつながっているからなのか。
このまま「あちら側」に行ってしまえば。二度と、二度とみんなに触れられなくなる。
――俺はおまえを呼んでいた。あの星へ連れて行くために、ずっと呼んでいた。
「おじさん。僕は」
ひときわ大きな星が、律の頭上であかるく輝いて、そして流れる。
「僕は行かない。こっちに、残る」
――なぜ。なぜ、もう一度生きるのか? わざわざ傷つくために目をさますのか?
そうだよ。
律はしずかに微笑むと、おじさんの形見のラジオを、漆黒の夜のなかへ放った。意識がからだを離れる直前にみた、あの光景がよみがえる。赤く染まった夕焼け空を舞っていたちいさなラジオ。
さよなら。
「僕は、生きる」
目を覚ましたら、やりたいことがある。まず、あいつだ。木原祐市。あいつをぶん殴ってやる。こんな目に合わせやがってって、殴ってやる。それから話をしたい。あいつの気持ちを聞かずに、消えてしまうなんてできない。
そして、羽純に。
さいごに告げるつもりだったことばを、言おう。
ちゃんと。ちゃんと目を覚ましてから。ぬくもりのあるいのちに戻ってから、きちんと、気持ちを告げよう。
――どうせ、ふられることはわかっているけどね。
くすっ、と。薄く笑うと、律は目を閉じた。




