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流星群  作者: せせり
流星群
23/28

1

 古い石橋の上から、なにかが落ちてくる。

「羽純っ!」

 博己が叫んだ。

 たそがれの、青い闇のなか。それは一瞬のことだったはずなのに。いつもよりも嵩を増した川に落ちてゆく羽純の軌跡が、まるでスローモーションのようにゆっくりと浮かび上がって見える。

 飛沫があがる。律ははっと我に返った。

 落ちた。羽純が。羽純は、泳げない。

「笑里ーッ!」

 博己が橋の上にいるもうひとつの人影に向かって怒鳴った。

「ひとを! 呼んで来い! 誰か、おとなを!」

 笑里は動かない。きっと、今しがた起こったことを、彼女自身処理しきれていないのだ。それでも博己は叫ぶ。

「はやく! 呼んで来い!」

 笑里の影が揺れる。石橋を渡って、転がるように律と博己のもとへ走ってくる。

「向こうだ! 灯りのついている家があるから! はやく!」

 律は博己の肩をつかんだ。

「僕が行く。僕が、助けを呼んでくる」

「律。おまえには、無理だ」

 言い捨てると、博己はみずからの上着を脱いだ。濁った水の上に羽純の頭が浮いて、沈んで、また浮いて、どんどん下流へと流されていく。

 博己はまっすぐに土手を降り、そのまま川へと飛び込んだ。流れを裂くように、水を掻いて、掻いて、羽純のもとへ。

 青ざめた顔をして、橋のたもとで放心していた笑里は、きゅっとくちびるを噛みしめると、助けをもとめに駆け出した。置き去りにされた律は、ただ、呆然とするだけ。

――なにが起こったんだ、なにが。どうして羽純が川へ落ちるんだ。

 博己が流されていく羽純のもとへ辿りつき、彼女のからだを抱き留めた。水のなかでもがく羽純にしがみつかれ、もみ合って、みずからも流されそうになりながら。必死で岸へと泳ごうとしている。

「羽純、羽純ーっ」

 川岸を走りながら、律は叫ぶ。叫んだところで羽純は助からないのに。

 おまえには無理だ、と。さっき、言われた。自分にはなにもできないのか。好きな女の子が、流されているのに。なにひとつできないのか。

 きっとできないのだ。その理由を、自分のこころの深いところは、ちゃんと知っている。こころの奥底から、「ほんとうのこと」が、いま、浮き上がってこようとしている。

――博己。助けてくれ。羽純を。助けてくれ。

 願うことしか、祈ることしかできない非力な自分。

 ポケットのラジオがノイズを発する。おじさん。おじさん、助けて。羽純を助けて。あのときみたいに。あのとき、僕を助けてくれたみたいに。

「――だいじょうぶかーっ」

 野太い声が近づいてくる。笑里が息を切らして駆けながら、川の中ほどを指差す。博己は羽純を抱えたまま、今にも流されてしまいそうになるのを、すんででこらえている。

 笑里が呼んできたのは、近所に住む、農家の青年だった。岡本さんという。律たちも小さい頃遊んでもらったし、地域行事で顔を合わせたこともある。

「博己のやつ、無茶しやがって。自分まで流されるぞ」

 くっと唇をかむと、岡本さんは、ロープにつないだ浮き輪を力いっぱい放り投げた。少し遠い。博己が気づいて、必死でしがみつこうとする。

 流れにもまれて、浮き輪は逃げる。

「頑張れーっ!」

 岡本さんが声を張り上げる。笑里はそのとなりで、青ざめた顔で、電話をかけている。救助を、救急を呼んでいるのか。それとも羽純の家族を呼んでいるのか。その声が、震えている。

 騒ぎに気づいたのか、あるいは来る途中で岡本さんが呼びかけたのか。向こう岸の小道を数人の大人が走って、橋を渡ってこちらに寄ってくる。

 博己の手が浮いて、浮き輪をつかんだのが見えた。そのまま渾身のちからを込めて浮き輪を引き寄せると、羽純を片手で抱えたまま、しがみついた。それを見てとるやいなや、岡本さんはロープを引いて手繰り寄せる。駆けつけた大人たちが加勢した。

「頑張れ。頑張れーっ」

 博己と羽純のつかまった浮き輪はなんとか岸までたどり着いた。博己は、ぐったりと血の気の失せた羽純を抱きかかえて土手をあがり、皆のいる小道までたどりつくと、その場にくずおれるようにして膝をついた。

 しかしすぐに顔をあげ、羽純をたいらな道に横たえ、頬をぺちぺちと叩いた。

「羽純。羽純」

 答えがない。意識がないのか。岡本さんが羽純の腕をとって脈をはかっている。

 博己が羽純の鼻をつまんでふさぐと、身をかがめて口づけた。息を吹き込み、離し、ふたたび息を。

「博己。駄目だ、無理するな。おまえも水を飲んでいるだろう。俺が代わる」

 岡本さんが必死に止めるけど、博己は羽純を渡そうとしない。みずからも青ざめた顔をして、ぼとぼとと水を滴らせながら。懸命に、羽純に息を吹き込み続ける。

「羽純。羽純ーっ」

 羽純の兄が。父が。祖父が。橋を渡って、血相を変えて走ってくる。知らせを受けて、あわてて家を飛び出してきたのだ。

 大人たちに囲まれて、小さくなってふるえていた笑里が、すすり泣きはじめた。どこかの家のおばさんが、しっかりと笑里の肩を抱く。

「ごめんなさい……。ごめん、なさい……」

 うわごとのように繰り返す笑里。

――ごめん律。ごめん……。

 なにかが頭のなかでちかちか瞬いた。律はもう気づいている。ここに集ったおとなたちの誰一人として、律の姿が見えていないことに。今までずっと、そうだった。クラスメイトも、家族でさえも。

 救急車のサイレンの音が近づいてくる。

 羽純はまだ、目を閉じたまま。

「律」

 肩を叩かれ、びくっとふるえる。この、声は。

「羽純」

 ふり返ると、今しがた溺れて応急処置を受けているはずの羽純が、立っていた。

 近づいていたサイレンの音がぷつりと消えた。すぐそばに止まった救急車から、救急隊員が降りてくる。

「どういう、ことだ?」

 今、担架に乗せられて運ばれようとしているのは、羽純だ。たしかに、羽純だ。

 ふたりの羽純がいる。

「あたしも、こっちに来ちゃったみたい。律と、おんなじ」

 羽純はそう言って、さびしげに笑った。

 

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