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一章 使徒の使命




 コンコン。


「クランベリー?私です、まだ起きていますか?」

 意外な声に軽く驚き、愛でていた埴輪指人形を机の抽斗に入れる。「うん。今行く」と応じてドアに歩み寄った。

「クゥン」

 ボビーが気を利かせて頭でドアを開けた。二週間振りに現れたお目付け役の天使は少しやつれたように見えた。元から元気溌溂なタイプではなかったけれど。

「どうしたのこんな夜中に?お兄ちゃんに何かあった?」

「いえ。私とした事が、下界の時間を読み間違えたようです。もう就寝時間ですか?」

「今十時半だよ。子供はそろそろ寝る時間」机の木製時計を確認する。「イスラっていつも変なタイミングで来るよね今回は。前からそうだっけ?」

「別に意図は無いのですが……女王として規則正しい生活をしているなら、こちらも時間を決めて訪問した方が良いでしょうか?」

「別にいいよ、イスラにも都合があるでしょ?寝てさえなければ何時でも相手してあげる」

 定時なんて病院のカウンセリングじゃあるまいし。いや、逆にその時間だけ行方を眩ませれば会わずに済むからその方がいいのか?いや無理だ。相手は探査機能付きの水鏡を持っている。あれを毎回煙に巻くのは酷く骨が折れる仕事だ。

「あ、そうだ」部屋に戻り、抽斗から裁判官ラント・アメリアのメモを渡す。事情を説明すると天使は明らかに困惑を表した。

「私などに彼の疑問を解決できるのでしょうか……?」

「行くだけ行ってみれば、わざわざ御指名なんだし。住所の場所は分かる?」

「ええ。船の位置検索機能を使えば問題ありません」

 イスラは暫しの沈黙の後、彼は稀に見る本物の信仰者です、と呟いた。

「そうだね」

 ラントは困った時だけ神頼みする一般人とは違う。聖書を毎日読み、教会へ毎週足を運ぶ本格的信仰振り(私にとっては阿呆の境地だ)。しかも社会にしっかり適合している。宗教に嵌って生活破綻、若しくは金銭苦に陥る人間が多い中、彼は地に足を着けて裁判所の職務も果たしていた。

「……本当に私で大丈夫でしょうか?自信がありません」

「決闘にでも行く気?相手は四天使様なだけで満足なんだから、普段通り堂々としていればいいのよ。一度会って話しているんだから分かるでしょ、それぐらい」

「彼が危害を加えない事は分かっています。ただ……私はこれまで布教を行なった事が無いのです。言葉が足りず、彼を落胆させてしまうかもしれないと」

「そんなのいつもの事じゃない」

 呆れて両掌を天井に向けて上げた。

「い、いつも……」

「そう。だから気にしなくていいよ。あと言っておくと、翼は見えなくした方がいいね。クオルは田舎だからいいけど、他の街だと有翼なだけで珍しがって人が沢山寄って来るから」

 と、天使を珍しがらない人間が一人廊下を通り掛かる。

「イスラ?久し振りだな」

 夜の戸締りをしてきたらしい。チェーンの鍵束を持ったレイが声を掛けて、僅かに眉を顰める。

「顔色悪くないか?クランもそう思うだろ?」

 首肯。

「そうですか?」水鏡を覗き込んで「自分では特に何も」

 レイが施錠係と言う事は、アスは他の仕事中……ああ、夕食の時、セミアが文献がどうとか話し掛けていたな。最近妹は物語の豊富な知識を生かし、その専門雑誌(要するに読倶楽だ)のコラムニストに採用された。何でも編集部に生原稿を持ち込んで、その場でOKを貰って来たらしい。大方衛兵は来号の資料を探す手伝いをさせられているのだろう。この皇太子では些かおつむに難がある。

「最近クランの様子見に来てなかったよな?他に何かやってて忙しいのか?」

「ええ、信仰の勉強を……それでつい見守りが疎かに。私がいない間、クランベリーに何か問題はありませんでしたか?」

「いや、特には。でも凄いな」

「イスラが新しい仕事を覚えれば、お兄ちゃん喜ぶよきっと」ついでにお節介の頻度が減って私もハッピー。

 ところが私達の喜び様に反し、天使は重い溜息を吐いた。

「……大父神様には反対されました」

「何でだ?」レイが首を捻る。「普通部下が成長したら喜ぶものだろ?」

「まぁ、イスラ鈍臭いからね。失敗しそうでお兄ちゃんも心配しているんじゃない?」

 運動神経のついでに常識も無いし、下界を歩くだけでトラブルの元だ。

「でもクラン。信仰ってつまり布教活動だろ?教会のバザーで、神父さんが聖書配って神様信じませんかって言っている類の。多少鈍臭かろうとやれそうなもんだけどなぁ。神様の教えは完璧だし、ルックスも良いぞ」

 神の使徒の目の前で、よくそんなざっくばらん過ぎる説明ができる。私なら気を遣って、ああ、あの硬い枕配りね、と極めて控え目に言うだろうに。

「それは下界の信仰者達の仕事です。私が行おうとしているのは火急の危機、異教徒の迫害から教徒を守る、争いを含む信仰です。以前は別の天使がその役を負っていたのですが」

 うわ、お兄ちゃんが反対する訳だ。並の人間より弱いイスラにそんな危険任務ができるはずない。

「……早く彼女のように活動を行わないと」

 何?今一瞬、蒼い目に何かが走った気がする。―――ふぅん。

「よく分かんないけど無理はするなよ。クランは俺達がきちんと見ててやるから。焦らずじっくりやっていけ」無責任な励ましを。相手は下手すれば赤子にさえ負けると言うのに。

「ありがとうございますレイ。では無事も確認できたので、私はこれで」

 そう言い残し、足早に廊下を歩いていく。「待て!そっちは鍵開けないと出られないぞ」レイが慌てて追い掛ける。

 ふわぁぁあ。一際大きな欠伸が出た。

「ボビー、寝よ」

「クゥン」


 バタン。




 人が増えれば商売が成り立つ。

 本日開店のクオル・マーケットに城の代表として乗り込み、首尾良く開店記念価格の食材をゲット。客は新しい住民も含め皆既に顔馴染み、挨拶がそこここで飛び交う。大盛況で開店一時間にして早くも商品が無くなりそうだ。

 小麦粉の袋を抱え、まだクオルに不慣れな御新規さんと喋りながら帰路に着く。

「じゃここで」

「ああ」

 今夜、この国の皆があのマーケットで買った食材で夕食を作るのだ。そう考えると連帯感でほんわか胸があったかくなる。クランの政策がまた一つ実を結んだ結果でもあり、本音を言えば誰彼構わず自慢したい気分。

(母さんも、まさかクオルにスーパーが出来るなんて思わなかっただろうな)

 王国の郊外では、最近よく連合政府の制服を着た男の姿を見かける。一週間程前に女王陛下を訪問して以来、民宿で寝泊まりしつつ連日切り立った崖の辺りを調べて回っていた。俺はまだ話した事は無いが、セミアは興味があるらしく暇があると現場へ行っている。

 買い物袋と少し歩いた時、墓地の前で奇妙な顔に出くわした。

「婆さん?それにアス、どうしたんだ?」

 鳩が豆鉄砲食らったような表情で城の方を向く二人に尋ねた。途端、硬直が解ける。

「あ、ああレイ。マーケットにはもう行ってきたのかい?」

返答にパンパンの袋を示し、「客で一杯だ。もう店仕舞い始めてるかもな」

「そうかい。お婆ちゃんも今度誰かに連れて行ってもらおうかねぇ」

 今日の宮廷魔術師は外出用の丈夫な車椅子に乗っていた。衛兵を付き添いに墓参りをしていたらしい。婆さんはクオル王国の中でも最高齢。俺の家は勿論、墓の殆どは婆さんの知り合いだ。

「で、どうしたんだよ二人共?ぽかんとしてさ」

「ええと……何と言えばいいのか……」アスは何時にない動揺を示し、口籠りつつ「さっきここでイスラさんとお会いし……たんですよねお婆さん??」

「のはずだよねぇアス?」

 天使の顔ぐらい当然知っているだろうに二人は「ですよね?」「確かにそうだったよねぇ?」お互い疑問符を投げ返すばかり。

「三日ぐらい前に来たばかりだぞあいつ」クランをしばらく放っておいたから、真面目に引け目を感じたのだろう。「って事はクランの所か?」

「はい。執務室で来月の予算に目を通していると答えました……あの、レイさん。以前お会いした時はその……普通でしたか?」

「?ああ、何か勉強で疲れてるみたいだったけど、他は別に。本当どうかしたのかあいつ?」

 衛兵は頭を押さえて、「見たら分かりますよ。お婆さん、そろそろ帰りましょう。何だか僕疲れてきました」

「私も紅茶を一杯飲んで落ち着きたい所だねぇ。行こうかいアス」

「はい」



 平常心平常心……。

「クランベリー?」

 もこもこファーのコートを羽織り、清楚なスカートを履き、白髪を綺麗に切り揃えた天使はカールした睫毛を開いて、「聞いているのですか?」と言った。

「勿論。今より様子見の頻度が少なくなるかもって話でしょ?」

「そうです。ですから余り無理をしないように、いいですね?」

 頷くと天使は満足そうな顔をした。

「宜しい。では私はこれで」

 吹き出しそうなのを必死に堪えて「待って」と頼む。

「何ですか?」

「今日はいつもの法衣じゃないんだね」できるだけ迂遠に言ってみた。「どうしたの?」

「ああ、昨日ラントの両親にブティックで贈られました。それから美容院で髪と睫毛を整えていただき、レストランでフルコースを」

「……へぇ」方向性は若干おかしいが随分な大盤振る舞い。個人用宇宙船も持っていると言う話だし、結構裕福な家庭なんだな。

「明後日も一緒にスキーに誘われているのです。ラントが言うには、まず両親に信仰を説いて練習すればいいと。それで信頼を得るために参加を」

 中々悪くない提案だ。憧れの天使様の度胸試しのついでに、趣味にあれこれ言う親の説得にもなる。正に一石二鳥。

「いいじゃない。どこのスキー場?」

「ええと、この星のソイスキー場と言っていました」

「ほー」数あるスキー場の中でも、標高千メートルの山を有する本格派スポット。橇で滑り降りたらさぞや気持ち良いだろう。「いいね」

「そうなのですか?私は未だにスキーがどういう物かさえよく分からないのですが」

「ラントに教えてもらうの?」

「ええ、彼と彼の父親に」

「それならまぁ何とかなるかな」筋金入りの運動音痴が相手でも。

 リオウ大臣作成の来月予算の見積もりをチラ見。外交費と給与を若干水増し申請しよう、新発売の牛車引き埴輪を買わないと。

「随分雰囲気変わったね。お兄ちゃんにはもう見せた?」

「大父神様ですか?いいえ、これから戻って中途報告するつもりです」

 堅物の兄がこの変貌振りを見てどう反応するか楽しみだ。

「そうだ、ちょっと待ってて」

「はい」

 執務室を出て自分の部屋へ。抽斗の一番奥から二つのラッピング袋を取り出し、早足で戻った。

「お待たせ」

 仕事熱心に水鏡を覗いていた天使は、慌てて顔を上げ鏡を仕舞う。「どうしました?」

「お洒落なイスラにプレゼント」水色真珠のイヤリングを白い耳朶に着ける。「痛くない?」

「?ええ、これは装身具ですね。ありがとうクランベリー」

「もう一つあるの」黒地に金色の蝶が浮かぶ栞を取り出す。「聖書を読む時に使わない、栞?」

「ええ。神の御言葉は書を開かなくとも、何が書いてあるのか全て記憶しています」

「だったらラントのお父さんかお母さんに聖書と一緒に渡したらいいよ。きっと喜んで信仰してくれる」

 私にとっては実用性皆無だがデザインは良い。

「?こんな薄い紙一枚でですか?人間とは不思議な生き物ですね」裏を確かめてから懐に納める。

 しかし見れば見る程女性にしか見えない。中性的な顔でこんな格好をされたら区別が付かない。面白い、凄く。

「そろそろ水晶宮に戻ったら?先に上の仕事済ませておかないと、安心して降りて来られないでしょ?」

「そうですね。大父神様にもきちんと説明しておきます」

「うん」

「クランベリー」

 ドアの前。真剣な表情で、天使は私相手に頭を下げた。

「私に機会を与えて頂き、ありがとうございます。精一杯努力します」

「頑張ってね」

 驚いた。閉まった扉をチラ見して思わず呟く。あのイスラが私に、ありがとう、なんて。

 一人になって数分後。予算案に訂正印を押した直後、突然ガヤガヤとドアの向こうが騒がしくなった。


 バタン!


「クラン!ど、どうしたんだあれ!?お前の兄貴の命令か?」

 集まってるのはええと……レイにセミアにリリアにリオウ大臣か、ふむ。衛兵はキュクロスお婆ちゃんの所かな?

 ざっくり事情を説明すると、妹は悪戯っぽく笑い「くーちゃんもいい性格してるね」

「セミアには負けるよ」

「本気で言ってるの?」ふっくらしたピンクの唇を窄ませる。「私は普通。貴重な本を胡椒漬けにしようとする女王陛下に比べたら全然正常だよ」

「ん?まだ根に持っていたの?」こっちはすっかり忘れていた。

「当たり前だよ」

「しば漬けの方が良かった?」

 絶叫して廊下を走り去る妹。おや、脅かし過ぎたかな。

「クランベリー……」額を押さえて頭を振る皇女。「流石に同情するわ」

「全くだ。ところで女王陛下、予算案は」

「はい。ここ直しておいて」

 赤字の入った二項目を大臣は眺め、一度大きく頷いた。「女王陛下の仰せのままに」

「しかし自分の部下が女装して帰ってきたら、幾ら万能の神様でも吃驚するだろうな。天変地異が起きない事を祈るぜ」



――穴の中は薄桃色の霧の世界だった。

 靴の裏に当たるふわふわした感触の地面。隣のミルクを注いだような河が遥か彼方へ続いている。視界は通常の七割程度。河岸に草花等は生えていなかった。

 河を覗き込んでみると、今さっきまでいた戦場が鮮やかに映し出された。何て緊迫感の無い風景。敵も味方もまるでチェスの駒のようで酷く滑稽だった。

「父さん」

 前を歩いていた息子が戻って来る。

「こうやって上から見られているなんて誰も思わないだろうな」

 不謹慎にも全体を把握できて戦況がよく分かる。自分が離脱した側が現在若干有利。私は軽く苦笑した――



「ん……」

 母さんのよく読んでいた幻想小説家、封苑ホーエンの短篇だったか。タイトルは『時空の河』。戦場の兵士が未来から来た息子に連れられて異界、時間が河として流れる世界に迷い込む話だ。

 部屋を見回すと、既にベッドの下の布団は空っぽだ。窓の外は白み始め、姉さんが朝食の支度を始めている頃。

 掛け布団から這い出し、書棚から母の形見として貰った封苑の短編集を取り出した。タイトルの下に夢で見たのと似た霧の世界が描かれている。

(そう言やこの作家ってまだ書いてんのかな?)

 母さんが元気だった頃は、数年に一度の発刊ペースにも関わらず律儀に出版間も無く買っていた。ファンだったと言っていい。恐らく人気作家ではないだろうが、作品全体のディティールは良いと俺も思う。

(セミアに訊いてみるか)

 あらゆる書物に精通した彼女なら、ひょっとしてこれも読んでいるかもしれない。

 着替えて部屋を出、食堂へ向かう。長テーブルにはまだ誰もいなかった。


 ガチャッ。


 俺が来たのと反対側の扉から女王陛下とラフ・コリーと衛兵、もう一人見慣れない女が入って来た。衛兵と同じぐらいの背に、どんなトレーニングをしたのかがっしりした身体、なのにナイスバディ。黒めの茶髪を後ろで無造作に結い、金目に只者ではない意志の力を感じる。

「おはよう二人共。その人は?」

 クランは毎朝恒例の大欠伸。「ふぁ……私も詳しくはこれからだけど、どうもイスラの代わりらしいよ」

「イスラの?」

「うん。代わりに私の様子見しに来たんだって。全く、御苦労様」

「労われる程の事ではない」アルト、いやテノールに近いか。耳に心地良い低音だ。「急な任務故、慌てて日も昇らぬ内から来た私を快く迎えてくれた貴殿等に感謝する」

「構いません。客人をお迎えするのも衛兵の大事な務めです」

 完璧な一礼に女も腰を深く曲げて返す。

「貴殿、中々の使い手だな」

「え?」

「獲物はその槍か。成程、日々の鍛錬にも余念が無い。――良い兵士を持ったな、女王陛下」

「まぁね」

 一瞬だけ浮かんだはにかみ笑いが余りにも可愛らしくて、俺の心臓が高鳴る。

「ふむ、しかし幾ら何でも早朝過ぎたな。朝餉の前とは些か礼を失する時間だ」

「別にいいよ。イスラだってこの前寝る直前に来たもん。でも流石に寝てる時は出迎えられないからね、時計ぐらい確認した方がいいかも」

「了解した。今日の任務の合間に調達しておくとしよう」

 長テーブルの端にクランと女が並んで腰掛ける。衛兵は、もうすぐ朝食の時間なので皆さんを起こしてきます、と言って食堂を出て行った。

「で、どうだったの?お兄ちゃん吃驚した?」こらこら!こんな時だけ目を輝かせるんじゃない!

女は頷き「ああ、あの格好の事か。あの天使の伝聞に寄れば、目にした瞬間見事に引っ繰り返ったらしい。未だ三十八度の熱があるそうだ。事情を問い質した結果、彼はしばらくその一家への布教活動に専念する事になり、貴殿の件は私に回って来た、と言う次第だ」

 神様が倒れただって?本気で隕石の一つや二つ落ちるかもしれないな。

「今日って確かあれだろ、ラントの家族とスキーに行くとか何とか」

 彼女は渋面を浮かべ、実に言いにくそうに口を動かした。「そうだ」

「お兄ちゃんに連れ戻して来い、とか言われたんだ?」

 私の台詞にはっ、と顔を上げる。

「鋭い、その通りだ。だが私は彼と一度しか言葉を交わしていない。初対面も同然の相手が幾ら言った所で、本人は本気で布教しているつもりなのだし……うむ」

 つもりって、中々手厳しい姉さんだな。

「じゃあ戻るまで、あなたも下界で適当にサボればいいよ。イスラだって脈無しと悟れば諦めて帰るはず」こちらは相変わらずやる気ゼロ発言。「と言うより、戻って来てもどうせお説教ばかりだもの。私帰って来ない方がいいなぁ」それが本音か。命の恩人に酷い言い草だ。

 姉さんは苦笑し、「そう言う訳にもいかぬのだ。大父神、様は大層彼を心配している。何せ戦闘能力が皆無だからな、もしもの事があっても対処できぬと」

「過保護じゃない?あと言いにくいなら様付けしなくていいよ。気にしてないし告げ口も面倒臭い」

 台詞に女が口元に手を当てて笑った。

「女王陛下は随分とざっくばらんな方だな」

「実利主義なの。ね、ボビー」撫で撫で。「クゥン?」

「とこちらは言っているが、貴殿はどう思う?」いきなり話を振られてビビる。「貴殿も同意見か?」

「う……あくまで当人同士の問題だしな。取り合えず今日はこっそり様子を見て、危険が無さそうなら下手に割り込まない方がいい、んじゃないのか?変に第三者が邪魔してやる気を削ぐのも悪いし」

 普段クランと言う変人を相手に散々疲れている天使だ。偶にはその任務を忘れ、正常な人間と和気藹々させてやればいいと思う。筋金入りの信仰心を持つ常識人のラントはその相手にぴったりだ。

「つまり私と彼女の折衷案か、ふむ。確かにそれが一番良さそうだ」頭を下げる。「助言感謝する」

 では食事の前に任務を片付けてしまおう、と女は言った。

「大父神から貴殿の健康診断を行うよう命じられている」

「健康診断?」

「ああ、様子見の度の定期検診だと聞いているが」

「イスラそんなのやってたか?」記憶に無い。

「ううん。いっつも小言言って帰ってくだけ」

「彼の場合は水鏡がある。常の検査は事前にそれを使って行っているのだろう」

「ああ、成程。って、それなら会いに来る必要自体無いんじゃない?」

 彼女は首をゆっくり横に振った。

「そういう訳にもいかないだろう。実際に会話して初めて分かる事もあるかもしれぬ」

「うわ、鬱陶しい」何度も世話になった人間に何つう言い草だ。

 女は壁脇に置いてあった鞄から数枚の紙が挟まったボードとボールペンを出して、再び席に着く。鞄の横には女の身長以上の戦斧、ハルバードが堂々と立て掛けられていた。アスの槍より強そうだ。

「では問診から」ペンを用紙の上で構える。「どこか身体に不具合は?痛みはあるか?」

 クランは肩を軽く回し、首をカクカク左右に動かした。

「ん……特に無いみたい」

 シュッ!力強い斜線が引かれる。「なら次は触診だ。こちらを正面に座ってくれ。目の下に触れるぞ」

「はーい」

 女の指がクランの両下瞼をビローンと下げる。

「おや、若干貧血の気があるようだ」右手を持って爪も観察。「ふむ、矢張り鉄分が足りていないな。少し青い」

「誰かさんと同じ事言うね。普通に食べてるつもりなのにどうしてだろ?」

「人によって身体への吸収率は大分異なるからな。単に月の物で一時的に足りないだけかもしれぬ」

「私無いよ」

 無い?年が止まっている影響か?普通十四、五なら無い方が圧倒的少数派だ。

「では単純に体質の問題だ。意識して補給するように」

「はーい」

「良い返事だ」そうか?欠伸混じりだぞ。

 今度は両側の耳の下に手をやり、顎関節から口を開かせる。鋭い目で全ての歯を点検。

「舌を出して」

 綺麗なピンク色の肉を観察し、「ふむ、元に戻して。二、三回歯を噛み合わせて」

 カチカチ。

「うん、異常無しだ」手を首の両側に下ろし、頸動脈付近に両人差し指を押しつける。

「今度は何を診ているんだ?」

「脈拍と甲状腺の検査だ。……うむ、こちらも特に問題無い」

 流れるような触診に感心しっぱなし。クランもリラックスして身を任せている。

「では上着を上げて」

「うん」


パッ。「わっ!」

 ガチャッ。

「へ――きゃ、きゃあっ!?なな、何してるのあなた!!」


 最悪のタイミングだ。セミアが巨乳をドレスからはみ出させながらズンズン歩いてくる。貧、どころか平乳を晒す(ブラジャーを着けていないが、突っ込むまでもなくが必要無いからだ。まるで目玉焼きを貼り付けているよう)クランの胸を見て、

「こんな朝からくーちゃんに扇情的な格好させてどういうつもり!と言うかあなた誰よ!?」

「彼女はイスラの代理。で、今は健康診断中。あと目線外して、これでも恥ずかしいから」至って普通の声で言う。「レイも」

「何ジロジロ見てるのよレイ!………ったた!」大女は突然首を押さえた。

「どうした?」

「昨日寝違えたみたいなの。起きてからこっちに首曲がらなくて」

「少し診せてみろ」女が立ち上がってセミアの後ろに回る。手を添えて首を軽く動かし、「成程」

 ボキッ!小気味いい音が響く。

「きゃぁっ!!何す――あれ?」コキコキ。「治った」

「骨を正常な位置に戻したからな」

 途端、セミアの目が不信に代わり好奇心で爛々と輝く。

「凄い!あなたお医者さんなの?他にも何かできる?」

「そうだな、肩脱臼ぐらいなら自分で治せるぞ」

「凄い!」

 ニコニコ笑いながら診察が見やすい位置に移動する。

「くーちゃんだけ?私もやって!」

「ああ、構わないぞ。貴殿もついでにどうだ?」

「いや、俺はいい」

 服を脱ぐとなれば、嫌でも左腕の覆いを晒す事になる。流石にこいつまで脱げとは言われないだろうが、それでも片想いの少女の目に触れるのは嫌だった。

「そうか」

 女の指が谷間、いや平地に滑りトントントンとリズミカルに叩く。位置を変えて何度か繰り返し、

「後ろを向いて」

「ほらくーちゃん、くるくる」

「はいはい」

 真っ白い背中も背骨を中心にトントン。

「仰向けで寝てもらえるか?」

「はい先生!」俺とセミアで椅子四つを連結させ、クランがその上に横になる。

 臍の上に手が行き、指先に力を込めてめり込ませる。「痛くないか?」「うん」数センチずつ位置をずらしながら腹の全面に指を入れた。

「結構だ。起きて着衣を整えてくれ」

「うん」

 俺達が椅子を戻し、クランが着衣の乱れを直している間、女は紙に所見を書く。

「どこか悪い所あった?」

「ん、いや。特に無い」二番目の『貧血の気あり』以外は斜線が続いている。「触診は万能ではないが、大病なら今までに水鏡で見つけているはずだ。心配はいらない、貴殿は健康体そのものだ」

「それはどうも」ボビーの頭を撫でて「こういうのも偶にはいいね。ちゃんと診てもらってる気がする」

「次は私!」

 セミアが元気良く手を挙げる。姉と席を交替し、早速問診に入る。

「あのね先生、私最近よく肩が凝るの。連動して首も凝っちゃって」

 そんなデカい乳してりゃ当たり前だ!

 女は雪のような白い肩を軽く揉む。

「確かにガチガチだな」首にも触れて「長時間同じ姿勢を取る事が多いのが原因だ。頭の筋肉も固いな。貴殿は知的労働者か?」

「そうだよ。遍く書物を読んで女王様に助言する仕事」何じゃそりゃ?初めて聞いたぞ。

「国政の補佐官か。ならば肩ぐらい凝って当然だな」

「でしょ?でも凝り過ぎて痛いぐらいなの、何とかならない先生?」

「仕事の合間に患部を回すだけでも大分楽になるはずだ」

「それはもうやってる。だけど私胸が大きいでしょ?幾ら動かしてもすぐ元に戻っちゃうの」一応自覚はある訳か。

「ふむ……大分重症だな」

 顎に手を当て、暫しの沈黙の後、ゆっくりと鞄の方へ歩み寄った。

「鍼の経験は?」

「無いよ。え?お姉さんが打ってくれるの?」

「そのつもりだ」布製の裁縫セットっぽい袋と数枚のガーゼ、消毒薬を持ってセミアの背後に立つ。「普段は捻挫や骨折の痛みを一時的に緩和するために使っているが、基本的な打ち方は同じ。肩を出せ」

「痛くない?」珍しく怖いらしい。女は裁縫用よりずっと細い針を取り出し「最初にチクリとする程度だ。血も殆ど出ない」と説明した。

 それを聞いて覚悟を決めたのか、ドレスを脱いで肩全体を晒す。女は広範囲を消毒した後、肩と首の中間に狙いを定めて鍼を入れた。

「う……」

 一瞬呻く間に反対側にも刺し、一度確認するように周辺を触る。

「ううむ、矢張り肩井けんせいだけでは余り緊張が取れないな。天柱と風池ふうちにも打つか」

 そう言って首の後ろ、髪の生え際に四本刺す。

「どうだ?」

「何か変な感じ……じわじわ温かくなってきた」

「よし、ならこのまま十分程放置してから抜くぞ。その頃には随分重さが違っているはずだ」

「本当?」セミアが半信半疑の表情を浮かべつつ言う。「じゃあ少し気持ち悪いけど我慢してる」

その時、テーブルに突っ伏し、好奇の目線で妹を観察していたクランが呼び掛けた。

「どうした?」

「もう一人分ある?」

「まだ十本以上あるぞ。どこか痛むのか?」

 ブンブン。「私じゃなくて、さっきいた」

「あの衛兵か?」何!?「確かに色々疲れていそうだな。了解した」

 キィ。間の悪い事に、婆さんの車椅子を押しながら奴が食堂に戻ってきた。

「おはようねぇ。おや、面白そうな事やっているねぇセミアちゃん」

 キュクロス婆さんは皺だらけの顔を柔和にさせ、自分で移動の足を押して傍へ寄った。患部を垂れ下がった瞼の奥にあるつぶらな瞳で興味深々に観察する。

「鍼灸は若い頃何度かお婆ちゃんもお世話になったよ。この年じゃあ、もう多少打った所で脚は良くならないけどねぇ」

 何せ百五十歳余りだからな。変に血流を良くしたら却って心臓発作を起こしそうだ。そうこうしている内に代理人が「少しいいか?」衛兵を呼ぶ。

「はい」

「彼女は貴殿にも鍼治療を所望だ。どこか不具合はあるか?」

「僕に、ですか?」吃驚した様子で女王陛下に目線をやる。「どうして?」

「ただの気紛れだよ。嫌なら断ればいい」

「いえ、お受けします。折角の女王様の労いを無下には出来ません」

 肘枕で頭を支えながら、眠たげに目を閉じる。「相変わらず大袈裟な……ま、いいけど」

 上半身裸になったアスの背中に女の指が入る。

「ふむ……僧幅筋に張りが見られるのと、神経にストレスが掛かっているな」頭を両手で鷲掴みにしてぐりぐりぐり。「精神の病か?」

「PTSD。今この子の夢療法を受けている最中なの」腕を伸ばし妹の長いピンク髪の尾を掴む。「引っ張らないでよくーちゃん!」台詞と正反対に、珍しい姉からのスキンシップに面白がって後ろ手に金の前髪をくしゃくしゃにする。

「何しているのアス君?」手伝いが何時まで経っても来ない事に訝しみつつ、キッチンから姉が出てきた。

「あ、済みませんリリアさん」

「ごめんリリア。今治療中なの。朝食の支度ならレイを使って」

 止むを得ない。俺はキッチンへ行き、普段衛兵が持って来るワゴンを押して食堂へ戻った。客人を入れて八人と一匹分の食器をサーブ。一昨日スーパーで買った小麦粉で焼いたパンのバスケットを中央へ置いた。朝食は白身魚と野菜入りの塩味スープ、ふかしたさつま芋、昨夜の夕食で残ったビーフストロガノフ。

 スープ以外一通り並べ終わる頃には、既に服を着直した衛兵の頭に十数本の針が突き刺さっていた。

「頭がストレスなのか?」

「ああ。私が知り得るだけのツボに打ち込んだ。効果がどれぐらいあるかは分からぬが」

「アス君大丈夫?」心配した姉が両手にスープ皿を持って尋ねる。衛兵は薄目を開け「はい。頭の中の強張り、が少しずつ解されているような気がします」

「良かった。もうすぐ支度できるから、そのまま安静にしていてね」

「ありがとうございますリリアさん」

 その様子を突っ伏したままの女王陛下は見、「仕方ない、一応様子見に行くか。私は別にどうでもいいんだけど」と呟いた。天使の件と気付くのにしばらく時間が掛かる。「スキーのついでって事で」




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