第1話 追放と手切れ金と人形
人形に名前を付けてはいけない。
この国の子どもは、文字より先にそれを教わる。
名前を付けた人形は手放せなくなり、手放せなくなった者は呪われる、と信じられているからだ。
だから、人形は番号で呼ぶ。
そして、人の形をした人形は作らない。
人に似すぎるものには、情が移る。
情が移れば、名前を付けたくなる。
俺は、その両方をやった。
オートマタギルドのギルド長室は、獣の匂いがする。
本物の獣ではない。
壁際にずらりと並んだ、四足歩行型の試作機の匂いだ。
油と削った鉄に、焼けた魔力の匂いが混じっている。
狼型、虎型、牛型、馬型。
どれも迷宮探索のために作られた、ギルドの研究成果だ。
その人形たちを背にして、ギルド長のバルトロは書類を一枚、机の上で滑らせた。
「カイ。今日でお前は、ギルドの人形師をやめてもらう」
声に怒りはなかった。
怒る段階はとうに過ぎて、事務的に片づけている声だった。
書類には、俺のここ三年分の記録が並んでいた。
<膝関節の改良研究――未完了>
<牛型運搬機・積載試験報告書――未提出>
<狼型・反応速度の検証――途中放棄>
その下に、別の欄がある。
<夜間の工房・倉庫使用(無届け)――計八百十二回>
<ギルド魔力の私的流用――人型人形用途>
「八百十二回だ」バルトロは太い指で欄を叩いた。「三年間、ほぼ毎晩だな。昼は指示された仕事のみをして、夜はあの人型をいじっていた。……いや、昼の仕事もしていなかったか」
「していました。最低限は」
「成果がないことを、最低限とは言わん。最悪というのだ」
反論はできなかった。
する気もなかった。
バルトロは椅子の背にもたれ、狼型の一体を顎で示した。
「なぜギルドが四足をやるのか、見習いの頃に教えたな」
「四本の脚なら、一本を上げても三本で立っていられるから、です」
「そうだ。二本脚で立つものは、立っているんじゃない。転び続けているんだ。転びかけては足を出し、また転びかけては足を出す。そんな危なっかしいものに、魔力と人生をつぎ込む馬鹿はいない。百年かけて、先人はそれを学んだ」
知っている。
重い荷を運ぶなら牛型のほうが多く速く、魔獣と戦うなら狼型のほうが強い。
人の形でしかできない仕事は、人間がやればいい。
人型の研究は、もうずっと前に打ち切られている。
専用の部品も装備も、どこの商会にも置いていない。
たまに見かけるのは、迷宮から拾われてきた古い残骸が、蚤の市の片隅でガラクタと一緒に転がっているくらいだ。
「お前の腕は悪くない」バルトロは言った。「関節陣の描き方なら、同期の誰より筋がいい。だから三年待った」
「……ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはない。待った結果がこれだからな」
書類が引っ込められる。
三年分が、紙一枚で終わった。
立ち上がりかけたとき、バルトロが付け加えた。
「それと、第七倉庫のあれは、こちらで解体する」
足が止まった。
「木枠は薪にしかならんが、関節の陣盤と認識器は狼型に回せる。ギルドの資材と、ギルドの魔力で作ったものだ。ギルドに返してもらう」
胸の奥が、すうっと冷えた。
第七倉庫。
あそこに座っている、あれ。
三年分の夜。
八百十二回。
「手切れ金は要りません」
自分の声が、思ったより落ち着いていて驚いた。
「代わりに、あれを俺にください」
バルトロは長いこと俺を見ていた。
狼型と同じ、何も映さない目だった。
やがて彼は引き出しを開け、革の小袋を机に放った。
じゃらり、と寂しい音がした。
「三年分の手切れ金だ。持っていけ。あの倉庫のゴミと、それもだ」
「……え」
バルトロは目を逸らし、窓の外を見た。
迷宮の入口に建つ白い塔が、夕陽で赤く染まっていた。
「あれには、最後までコアが入っていなかったな」
「ええ」
「コアのない人形なら、ただのゴミだ。ギルドが持っていても仕方がない。陣盤と認識器の資材代は、その袋から差し引いてある」
それが本音なのか、別の何かなのか、俺には分からなかった。
扉に手をかけたところで、もう一度呼ばれた。
「カイ。人形に名前を付けた者がどうなるか、知っているな」
「知っています」
「なら、いい」バルトロは背を向けたまま言った。「二度と、この門をくぐるな」
第七倉庫は、ギルドの裏手のいちばん奥にある。
壊れた試作機と使わなくなった工具が積まれた、埃の匂いしかしない場所だ。
そして、俺が三年間、ほぼ毎晩を過ごした場所だ。
その奥に、椅子が一脚ある。
椅子には、布をかぶった人の形が座っている。
俺は布の端をつまみ、ゆっくりと引いた。
栗色の髪が、肩のあたりでふわりと揺れた。
亜麻の糸を一本ずつ染めて植えた髪だ。
白樺を削り出した顔は、目を閉じて、少しだけ俯いている。
手首と首の継ぎ目には、丸い真鍮の蓋が覗いている。
服は、古着屋で買った灰色のワンピース。
似ている、と思う。
似ていない、とも思う。
三年かけても、目尻の角度だけがどうしても合わなかった。
笑うと少し下がる、あの目尻。
記憶の中では何度でも思い出せるのに、彫刻刀で写そうとすると、どこかが嘘になる。
「本当に持ってくのか、それ」
倉庫の入口から声がした。
同期のロイが、腕を組んで柱にもたれていた。
狼型の担当で、俺と違ってちゃんと成果を出している男だ。
「解体されるよりはいい」
「解体されたほうが、お前のためだったと思うけどな」
ロイはそう言いながら、倉庫に入ってきた。
手には、革のベルトが二本。
「背負ってくんだろ。手伝ってやる」
「……悪い」
「悪いと思うなら、人型なんかやるなよ」
俺は人形を椅子から抱き上げた。
軽かった。
人ひとり分の大きさで、人ひとり分の重さがない。
木と布と、空っぽの胸。
ロイがベルトで人形の腕を俺の肩に回し、腰のところで留めていく。
狼型の運搬で慣れているのだろう、手際がいい。
最後に、ロイは小さな布袋を俺の上着のポケットにねじ込んだ。
「餞別だ。端材のルーン片。風と雷と土、水がいくつか。狼型の検品で弾かれた傷物だけどな」
「いいのか」
「どうせ捨てるもんだ。人型に効くかは知らん」
「すまん。恩に着る」
ロイは人形の顔を覗き込み、少し声を落とした。
「なあ。そいつ、本当にエリスに似てるな」
「似せたんだから当然だ」
「そういう意味じゃねえよ」
ロイはそれ以上言わなかった。
言わなくても分かった。
だから俺も、何も言わなかった。
倉庫を出るとき、背中に声が飛んできた。
「カイ。名前、付けるなよ」
俺は返事をしなかった。
ギルドの門を出ると、日が暮れかけていた。
迷宮帰りの冒険者や人形使いと、その人形たちが、大通りを列になって歩いている。
荷を山ほど積んだ牛型。
主人の半歩前を行く狼型。
どれも四本の脚で、迷いなく石畳を踏んでいる。
その流れの中を、俺は人の形をしたものを背負って歩いた。
視線が刺さる。
当然だ。
人形は自分の脚で歩くものだし、歩けない人形を捨てに行くなら荷馬車に積む。
人形を背負って歩く人形師なんて、この街にはいない。
「おかあさん、あの人、人をおんぶしてる」
「違うよ。あれ、人形だよ」
「人形なのに、人の形してる。へんなの」
母親が慌てて子どもの手を引き、俺から遠ざけていった。
へん、なのか。
その通りかもな、と思った。
肩に乗った白樺の顎が、歩くたびにこつこつと鎖骨に当たる。
首筋に、染めた亜麻の髪がかかる。
くすぐったい。
くすぐったいと感じる自分が、少し嫌だった。
下町の端、倉庫街のいちばん安い界隈で、二階の空き部屋を見つけた。
家主は耳の遠い老婆で、俺が背負っているものを見ても、眉ひとつ動かさなかった。
「ひと月、銀貨八枚。前払いだよ」
革袋を開けて数える。
銀貨三十二枚と、銅貨が少し。
八枚を渡すと、袋は二十四枚分の重さになった。
迷宮ギルドへの登録料、人形を動かす魔力ポット、武器、自分の食い扶持。
迷宮で稼げるようになるまで、これで足りるとは思えない。
足りないなら、足りるうちに動かすしかない。
部屋には、軋むベッドと、脚の一本が短い椅子がひとつあるだけだった。
俺はベルトを外し、人形をその椅子に座らせた。
傾いだ椅子の上で、彼女は少しだけ俯いた格好になった。
それから、鞄の底から、布にくるんだ小さな木箱を取り出した。
ギルドから黙って持ち出したものが、この箱に入っている。
蓋に指をかけて、やめた。
今夜はもう、魔力も気力も残っていない。
中身は、明日でいい。
床に腰を下ろして、椅子の上の人形を見上げる。
灯した魔導ランタンの光が、白樺の頬を淡く照らしていた。
迷宮のいちばん深いところには、人形を人間にするものが眠っている。
酒場で、何度も聞いた与太話だ。
誰も本気にはしていない。
最深部まで潜って、帰ってきた者はいないからだ。
与太話でもよかった。
もう一度あの声で名前を呼ばれる道は、ほかにひとつも残っていない。
俺は、本気にすることにした。
この子を歩かせ、戦わせ、あの塔の下のいちばん深いところまで連れていく。
そこで、この子を人間にする。
「おやすみ、エリス」
返事はない。
まだ……




