縄文は遠く
次の目的地は鹿児島。高速バスで移動。
熊本で乗り換え予定だったのだが、到着が遅れてバスを逃した。
このあとのバスは満席。今日はもう進めない。ホテルも予約済みだったのに。
次の日のバスを予約。ホテルには明日チェックインすると電話。
一泊分のホテル代が無駄になった。
熊本城のミニチュア
今日はこれ以上ホテル代を払いたくない。
近くのネカフェに入り、オープン席で夜を明かすことにした。
せっかくなので漫画を読む。「ふつつかな悪女ではございますが」
薬屋が刺さらなかったのでアニメもパスするつもりだったのだが、読んだら面白かった。
しかし五行説百合って新ジャンルじゃないだろうか。もう「木克土」とか「火生土」とかいやらしい(すばらしい)言葉にしか聞こえない。
あと五行百合があるなら陰陽百合だってありますよね。たぶん二人で世界が簡潔してる系の激重百合。そう考えると「陰極まって陽を生じ、陽極まって陰を生ず」とかどうなってんでしょう。可能性が止まりません。
閑話休題
心が百合百合したせいであまり眠れなかったのですが、移動です。
15時すぎ、鹿児島中央駅前に到着。
刺すような日差し。南国の熱気。もう9月なのに……
とりあえずホテルにチェックイン。荷物を下ろし、駅前のイオンに向かいます。
目的は靴。
今の靴はだいぶ死にさらしてます。穴が開いているので中指の皮がごりごりに削れ、靴底もすり減っているのでかかとが超痛いです。
歴戦のスニーカー
いくつか試し履き。ソールがぶ厚いランシュを選びました。雑魚そうなランシュですが、死にかけのスニーカーよりマシでしょう。
ついで晩御飯も調達。一階にミスドがあったので買いあさります。ぱないの。
ホテルのテレビでYouTubeも見れたので、大画面でういママを見ながら夕食。
態度も面積もでかい女。真面目にやってきたんでしょうね
翌日は「上野原遺跡」へ向かいます。
グーグルマップは「リムジンバス鹿児島空港線」に乗れと言っているのですが、バス停でいくら探してもありません。
仕方ないので勘でそれっぽいバスに乗ります。
桜島を横目に走ることしばし。
山中のバス停で降車。
さっそく歩くことになりました。靴を買っておいてよかったです。
人の歩く道じゃありません。よい子は車で来るべき
突如、モニュメントが出現しました。知らなきゃ絶対見落としますね。
まずは展示館に入館。
上野原遺跡では1万600年前から定住が開始。十件前後の竪穴住居にまとまって住んでいました。
角形土器という、この時期の南九州だけに見られる土器が出土
縄文時代というとあたかも日本全土で1万年以上にわたって均一的な文化が広がっていたように見えてしまうが、実際には時期・地域によってさまざまな文化があった。
それらの文化すべてに共通する、縄文のアイデンティティといったものはない。四国はほとんど定住すらしていないし、縄文の信仰はアニミズムと説明されるが、後期以降の長野県の遺跡では祖先崇拝の痕跡もある。
では、どうしてこれらを同じ「縄文文化」という言葉でくくることができるのか。
それに対し、一番しっくりくる答えは”家族的類似性”だ。
これはウィトゲンシュタインが言語という問題を考えるときに使用した言葉。
「哲学探究」より、「現象」と「数」を文化に置き換えて引用する。
``` 引用開始
これらの現象すべてに対して同じ言葉(縄文時代)を適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、―これらの文化は互いに多くの異なったしかたで類似しているのだ、と言っているのである。
~中略~
わたくしは、このような類似性を「家族的類似性」ということばによる以外に、うまく特徴づけることができない。
われわれは、ちょうど一本の糸をつむぐのに繊維と繊維をよりあわせていくように、文化というわれわれの概念を拡張していくのである。しかも、糸の強さは、ある一本の繊維が糸全体の長さをつらぬいているという点にあるのではなく、たくさんの繊維が互いに重なりあっているという点にあるのである。
``` 引用終わり
縄文文化という長い糸を構成するのは小さな繊維群だ。ただし、中には長い繊維もある。そのひとつが土偶である。
上野原遺跡では九州最古(7500年前)の土偶が出土している。
土偶が出現する背景には定住の発達、人口の増加、社会の複雑化がある。
1万1500年前、ヤンガードリアス期(気候が冷涼化した時期)が終わると、気候は温暖化し、四季が明瞭になる。
バイオマス(自然界から摂取できるカロリーの総量)にサイクルが生まれ、秋に最大となり、翌年の夏に最小となった。
このサイクルを乗り切るため、食料の貯蔵が行われる。
貯蔵は定住を促進。
定住が進むと、移動生活時代にはなかった問題が発生した。
現代風に言うなら心理的瑕疵、事故物件である。
自殺があったり近くに墓場がある場所は、物件に機能的な瑕疵がなくとも価値を下げてしまう。
これは縄文人も同じ。心理的瑕疵のある場所には近づきたくない。移動生活ならば離れるだけでよかったが、定住生活ではそうも言ってられないことがある。
そこで心理的瑕疵を取り除くためのお払い、呪術・祭祀が発展。土偶はその発露の一端といえる。
資料館には縄文時代よりずっとあとの時代の出土物も展示されていた。
薩摩国分寺跡の遺物である。
741年、聖武天皇が建立を命じるも、実際に作られたのは8世紀末から9世紀初頭にかけて。
急急如律令(急ぎ律令のごとく速やかに行え)という言葉があるが、ぜんぜん速やかに行われていない。律令時代の周辺支配の限界が感じられます。
資料館の外には復元された集落がありました。
すぐ隣には実際の集落跡。奥に見える丘は祭祀が行われた場所。
写真は丘から見た景色
お昼前に見終わったのだが、次のバスまで3時間。仕方ないので歩きます。
約8キロの道のり
出発前に何か食べたいのだが、レストランもコンビニもありません。コーラでお腹を膨らませます。フランキーさんなんてコーラで戦ってますし、いけるでしょう、知らんけど。
なにもない道をてくてく歩く。一面の緑。ドーパミンがデトックスできそうです。
ドーパミンは「してはる」のみでデトックスできるにあらず。
杉が整然と植林されておるな、と思っていたら石碑と遭遇。檜でした。杉と檜の違いもわからない無教養な人間なのです。
山道を降りると谷地が水田になっていました。この光景は縄文人と弥生人の土地活用を示唆していて面白いです。
縄文時代の集落は中・上流域に多く分布。対して弥生の集落は下流に多くあります。
縄文人は山・川のバイオマスをバランスよく活用する傾向があり、小規模ながら農耕も行っていました。ただし、弥生以降の農耕とは区別して園耕民と呼びます。
紀元前10世紀ごろ、朝鮮半島から稲作民がやってくると沿岸部に住み着き、水田を開発。このとき、園耕民はおもに中・上流域に住んでいたため、衝突も少なかったようです。
水田沿いの道を歩いていると、でかい墓がありました。
島津家16代当主、島津義久の墓。急に近代。




