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ハインリッヒの旅枕  作者: えくぼ えみ
第三部 氷霊が啼く
97/141

ep.5  弔意 _ 42番地

 

 一人の老人が、夕暮れ時に歩いていた。


 積もった雪を踏み締めると、ざくざくと小気味よい音を聞こえる。

 この時間帯には珍しく降雪しなかったある日、老人は、寂れた牧場に訪れた。


 雪に埋もれた道沿いに建てられた柵の向こう側には、雪原にちらほらと黒点のようなものが見える。


 ゆるりと動くそれは、放牧中の長毛に覆われた牛や羊で、器用に口先で、新雪を掻き分けて草を啄んでいた。


 老人は、そんな広大な牧場を半周したところだった。


 すると、ある場所で立ち止まって見てみると、一箇所だけ、柵と柵を繋げる繋ぎ縄がほつれていた。


 老人は、古くなった縄をほどき柵木を持って、(たすき)のように肩にかけていた縄を引っ張ると器用に柵木同士を括り付け、修繕する。


 上手く固定できたところで、老人は一息つくと、ふと自らの手を見た。


 浅黒く乾燥した節くれだった指先が、少し震えている。


 寒さから来るものなのだろうか。老人は、両手を揉み合わせて、再び見ると震えは収まっていた。


 何事もなかったかのように立ち上がると、また雪に埋もれた道を進む。



 ※



 牧場の柵を見回ったあと、老人は枯れ木だらけの林道を人知れず歩いていた。


 脛まですっぽりと嵌まってしまうが、雪に足を囚われないように足腰に力を入れる。


 汗を流すこともなく、呼吸を乱すこともない強靭な体だ。その背中には、数本の薪がある背負子を背負っていた。


 からっとした冷たい空気のせいか、さっきよりも顔の皺は彫刻のように深くなり、はっきりとしている。


 林道を抜けると、少し拓けた場所にやって来た。真正面に構えた厳かな銀白の山間から夕日が沈みかけているのが一望できる。


 そこから左側には、雪の下から、土筆(つくし)のように所々木杭が飛び出していた。


 徐に老人は、そこへ向かうと木杭の前で膝をつき、雪を搔き分ける。


 出てきたのは、つまみのような取っ手がある蓋つきの木箱だ。木箱には木杭が組み込んであり、これが目印の役割を果たしていた。


 豪雪地帯では、こうして雪の下に箱状のものを埋めて簡易的な保冷庫にするのだそうだ。


 慣れた様子の老人だが、これが本当に適切なやり方なのか、彼は今だに分からなかった。


 木箱を開けると、中にはガラスで出来た酒瓶が何本か綺麗に整列してあり、彼はその内の酒一本取り出すと、また蓋を閉めて雪でそれを覆い隠した。


 近くには、白樺(しらかば)のような樹皮の倒木があり、老人はそこで早速焚火を起こす。


 両肩から背負子を下して、比較的濡れていない地面に、隙間を少し空けるようにして薪を組み上げた。

 ポケットの中から綿を取り出し、それを組んだ薪の下に入れると、反対側のポケットから今度は掌に収まるサイズの石を持ち出す。


 そのまま岩から切り出したような黒曜石――。見た目はそれと似ていても、中身はまるで違うものだ。

 石の中には、篝火(かがりび)は閉じ込められたかのような、ほの暗い赤い光がある。


 何の加工も施されていない表面の凸凹とした石肌すら研磨されていない、火の魔石だ。


 老人は、そこら辺に転がっていた何の変哲もない石をもう片手で取ると、魔石と擦るように叩き合わせる。


 すると、簡単に火花が散った。大きな火花が綿の上に落ちると、一瞬にして燃え広がり、ゆるゆると燃え始めた火は数分の内に薪全体を包んだ。


 老人は、しばらく息を優しく吹きかけたり焚火が消えないように手を加えるが、 その内、ぱちぱき、と心地いい破裂音が聞こえる頃には無心になっていた。


 両膝からひんやりとした感覚に気づいて、我に返ると雪解けがズボンに染み込んでいる。


 立ち上がって倒木の上に、はぁー…、と息を零しながらようやく腰を落ち着けた。


 倒れた枯れ木の小枝を手折って、焚火の上に散らすと、持ってきた酒瓶の蓋を開ける。


 後ろに手を回すと、牛革の使い古されたポシェットから干し肉を取り出した。


 年々一日の疲れは寝ても解消されず蓄積していくような感覚に苛まれるが、地酒とこの干し肉があれば、少しは癒される気がした。


 年の割に自慢できる丈夫な歯で、固く味わい深い肉をじっくりと噛み締める。


 時たま酒を口に含むと、氷のように冷えたそれは喉を通り過ぎた途端、かっと熱くなる。


 縮こまるような外気でさえ、体の内からじわりと広がる体温と相まってしまえば風情にすら感じた。


 すると、


「やっぱりここにいたか」

「ん?」


 顔見知りの老人が、朗らかな笑顔を携えて、後ろ手を組んでやってきた。背が少し丸く曲がったその老人は、倒木の上に隣に腰を下ろす。


「よいっしょ……」


「ついてきてたのか?」


 ここは村の者でも、中々訪れることはない所だ。柵の修繕を兼ねて見回る老人ですら、たまに寄る程度なので、何の気なしにやってきた老人にそう訊ねた。


「凍えるような寒さの中で老いぼれが老いぼれを付け回す?何の冗談だ」


「……確かに。可笑しな話だ」


 無愛想な老人とは違い、ほっほっほっ、とまるで梟の鳴き声のような笑い方でもう一人の老人は質問を茶化すが、答えとまではいかなった。


 続けて、


「この日になると、毎年ここに来るのは村のもんなら誰でも知ってる。いつになく村長のお前が険しい顔つきで柵の補修をしていたら、何となく察しはつくもんだ」


「気を使わせちまって悪いな」


「丁度、今日で三十年だからな。今更だろう、改まることでもない」


「それもそうだ」


 村長(むらおさ)の老人は、少し口角を上げて酒を一口飲むと、その酒瓶をもう一人の老人に差し向けた。


「飲むか?年代物だ」


「うん…?このラベルは、二十年前のもんだなぁ。この年のチッカは出来が良かった。懐かしい」


 朗らかな老人は、渡された酒瓶を受け取って微笑ましく眺めるとそれを返した。


「美味いだろうな。…まあ、今日は遠慮しとくよ」


「そうか」


 戻ってきた酒瓶を、少し寂しそうに見て、一口飲んだ。


 しばらく沈黙が続いて、焚き火の音だけが辺りにこだます。


 揺れる炎を前に、村長の老人は徐ろに聞いた。


「そういや、お前には話したことがあったか?俺の先祖の話だ」


「先祖?いや、初耳だ。なんでまたそんな話を?」


「老いぼれが黙って焚き火に当たってると、数分後にはあの世行きかもしれないだろう」


 そんな悪い冗談を言うと、朗らかな老人はまた梟の鳴き声のような笑いをして、


「一理あるかもしれないな。聞かせてくれ」


「そんな大層な話じゃねぇぞ。俺のご先祖は、その昔雪の降る町からここに来たってだけだ」


「雪?」


 そう聞き返すが、村長の老人はすぐに話を続けようとはしなかった。


 干し肉を少し齧って、黙々と味わい、肉がなくなった所で口を開く。


「その町は、今もあってとても綺麗だそうだ。年がら年中、雪が降り続けるこんな寂れた田舎とは大違いでな、発展しているらしい。だが、一年を通して雪が降るのは、二、三か月の間だけなんだと」


「ほおー、」


「何でも雪が降るのはめでたい事で、町で祭りなんかもやるんだそうだ」


「それなら、うちでは年中祭りだな」


 朗らかな老人が、陽気に言うと、村長の老人は「はは、そうだな…」と(しわが)れた声で静かに笑い声を上げた。


 すぐに話は続けず、会話は止まる。


 酒瓶に口をつけ、少しばかり多く流し込むと、村長の老人は大きく息を吐き出した。それから、話し始める。


「……雪が降り終わると、次の季節には作物が豊作になるからだ。収穫の吉兆を雪が告げるから、祝うんだそうだ」


「なるほどなぁ。祝い事に祭りをやるのは、珍しくないな」


「ああ…、」


 村長の老人が、少し気落ちしたように答える。


 ぼうっと燃える焚き火だけでは、この土地の寒さを堪えるのは厳しいらしい。それを身に染みて、感じていた。


「ところで聞くが、どうしてそんな話を?」


 会話が終わりそうなところで、朗らかな老人が不思議そうに聞いてきた。


 暇つぶしにと始まったこの話自体、どうやら疑問だったようだ。それなら、もっと他にも内容があっただろうということだろう。


 村長の老人は、あまり気にすることなく、ただ答えた。


「ん…?俺の名前は、その雪を表す言葉から由来しているらしい。縁起の良い名前だと曽祖父がつけたんだ」


「それは良いことじゃないか。何をそんな深刻そうに」


 取り合うような答えではなかったが、朗らかな老人は、村長の老人の反応を見て少し心配そうに聞く。


 村長の老人から、深刻な色は消えるどころか、むしろより一層深みを増す。


「雨と同じだ。雪は、いつか止む。その考えがなきゃ思いつかねぇことだ。先祖がいた町の祭りにしてもそうだろう」


「まあな」


「それに比べて、この土地はいつからそうなっちまったんだろうな」


「どうしてそうなる。話が見えないぞ」


 唐突に切り替わった話に、朗らかな老人は面を食らったようだ。


 無垢にそう言われると、どうしようもなく込み上げてくるものがあった。村長の老人は、それを抑え込もうとしたが、止まらなかった。


「昔は、緑が豊かだった。木々は生い茂って森があって、野原があっただろ。動物や植物ですら生き生きして、風景に色があった」


 記憶の中で馳せる景色は、今とは随分と違っていた。


 眼前に広がるそれは、無情な喪失感を見せつけられているように感じたのだ。


「それが今やどうだ。雨も、もう随分と見てねぇ。土の中の水分すらも凍てつかせ、根を張ることすらできねぇ。いくら日中、太陽が出ても芽吹かねぇもんだ」


 さっきまで楽しく話していた朗らかな老人は、不穏な語りについに黙り込んでしまう。


 それでも、村長の老人は話を続けられずにはいられない。


「俺達が腰かけてる、この木。知ってるか?数日前に、何十年ぶりに若芽が出てたんだ。なのに、倒れちまった…。日中の日差しを受けた雪から溶け出した水を吸い、毎夜氷点下を下回る気温で昼間に水を吸った根が凍る。

 それを繰り返している内に、栄養が行き渡らずに腐っちまった。元々この気候に耐えれるような木じゃねぇからしょうがねぇ……、言わんとしてることは分かってる」


 落ち着いた語り口だが、それでも言葉数は増えていくばかりだ。


 村長の老人は、俯いた視線を上げて、夕日が沈み、闇が取り囲む景色を見た。


 高く聳える山間――。夕暮れ見た時より山肌は冷たく見え、暗闇の中で堂々と天を衝く姿は更に厳かさを増し、まるでこちらを見下ろす魔物のように思えた。


 いや、それは幻想だ。自責の念が、そう見せているのかもしれない。


「……止みもしない雪を降らせ、この土地を永遠に凍りつかせたのは誰のせいでもねぇ。それも分かっているつもりだ。

 でもな、それでも俺は――、雪が嫌いだ」


 その独白は、己自身に向けた嫌悪のように聞こえた。


 目に映る揺れる光は、焚き火なのか、涙なのか、それは分からない。


 だが、その眼差しには哀愁が滲んで見えた。


 朗らかな老人は最後まで何も返せず、ただゆっくりと励ますように彼の肩を強く掴んだ。





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