ep.35 因果応報
男は、名を忘れた。痛覚も、五感も失った。
肌を撫でるそよ風も、それに乗った花の香りも、舌の上に転がる血の味も、何も感じなかった。捻れた足と抉れた片耳の痛みも薄れた。
耳元では、絶えず何者かの囁き声が聞こえる。
男は、ただ『呪術』の容れ物として覚束ない足取りで歩き続けた。
だが、それに惑わされることなく手放さなかったものがある。両腕の中で大事に抱えた木製の六面体。何が入っているのかは、もう忘れてしまった。
だが、それがとても大切であることだけははっきりとしている。
街の現状を今だ知らない102番地の別区画にやってきた。
番地の玄関口とも呼べる場所だ。商店から食堂、グレードは下がるが簡易的な宿屋まである。
小太りの男が、とある食堂の前を通り過ぎる。
一瞬、黒い塵のようなものが見えた。それから間もなくして、
「ぅわっ!?」
店内の調理場で、急に炎が天井まで立ち上り、軽いボヤが起こった。
小太りの男から、再び黒い塵が舞う。
「きゃっ!」
ある民家ではティーカップの取っ手が突然取れて、中身の紅茶が零れた。
かさかさ、と枯葉が風に流れるような音を上げて黒い塵が広がる。
「おぉわっ!」
今度は店先で木箱を運び出していた男の足が縺れて、転んだ。
木箱の中に収めていた皿が割れて、男はがっかりしたように溜息を零す。
そこかしこで小さな不運が起こり、人々は憂鬱な息を吐く。
不吉だ、運が悪かった、そんな感情が渦巻く。その度に、黒い塵はまるで嘲笑うように小刻みに震えた。
その元凶となった小太りの男は、ようやく102番地の駐車場に到着した。
どこへ行こう、どこへ逃げよう。そんな思考力さえ、彼にはもう残されていない。
数ある荷馬車の中から、二匹の馬で牽引するある帆馬車を男は選んだ。鼻腔をつく腐った肉の匂いがする。帆馬車には、黒い死体袋が積まれていた。
微かに記憶があるのだろうか。確かにその帆馬車は、彼が率いていた部隊が乗っていたものだ。
足を引きずりながら、男は乗り込む。二匹の馬は一瞬だけ首を振ったが、特に嫌がりはしなかった。
足元や耳から血を流しながらも手綱を掴むと、ぱしっと拍子抜けしてしまうほど二匹の馬の体を優しく叩く。
馬たちは、ゆっくりと歩き始めた。不思議なことに方向転換や切り替えすら、自然と彼らが行う。
ようやく男を乗せた帆馬車は、一方通行の道を進む。
それが通過した後、他の馬車の車輪が軋み音を上げて割れて行った。
102番地の駐輪場から出ると、程よく整備された長閑な道が続いた。
左側には青々とした野原と、右側には鬱蒼とした森林がある。
男は、手綱を掴みながら項垂れていた。その瞳は、とても人のものとは思えない。
黒目も白目もない丸い目になって、濁った赤い眼光だけがあった。
だが、唐突に男の意識が蘇る。
「ァ…?」
ふと目先を見ると、そこには道を塞ぐような人影があった。
白銀の髪の少女と、その後ろに顔が見えないようにぐるぐるに包帯を巻いた燕尾服の者が立っている。
小気味の良い足音で進んでいた馬が、鼻を震わせて二人の眼前に立ち止まる。
「どこへいくの?」
ヨハネスは、静かに問いかけた。
小太りの男は、何も答えずに手元に視線を落としている。
彼女は、続けた。
「どこへもいけない。行かせない」
機械的な声から告げられた言葉に、男は肩をぴくりと震わせる。
僅かに残った執念とプライドが許さなかった。血肉を削ったにも関わらず、また誰かが歯止めをかける。
そう感じると男の中で、強烈な憎悪が生まれた。
許せない、許さない。同等の償いと贄を寄越さない限り、邪魔はさせない。ギリギリと奥歯が軋んだ。
食いしばり過ぎたせいで、口の中の肉を噛み千切った。
血を吐きながら、ブクタスは喉奥から咆哮する。黒い霧のような波動が、空気を震わせた。
ヘルはヨハネスの両肩に手を置いて、か弱な彼女の体を支える。
その瞬間、伸びっぱなしになった木の枝が折れて、馬の傍に落ちた。驚いた馬が嘶き前脚を掲げ、蹄鉄がヨハネスの脳天に振り下ろされる。だが、すかさず前に出たヘルが片手で二匹の馬の上体胸付近を抑える。馬たちは、体を反ったまま身動きが出来なくなった。
帆馬車を取り囲むように、どこからともなく『光芒炉』が現れる。
球体部分を震わせて、ビー、と耳障りな高周波を上げながら光線を出す。地面の砂を焦がしながら、そのまま飛び交い、馬車を焼き切っていく。
ガラガラッ、と荷台部分が破壊され崩れた。その弾みで、ブクタスの体は馬車から路肩へと投げ出される。
睨みつけるように顔を上げると、そこにはヘルが立っていた。
「ほんとは、呪術の発動源だけを食べるはずだった。でも、それがあなたの肉体に乗り移った。あなた自身が、呪術のそのものになってしまった。だから、こうするしかない」
その場から動くことなく、ヨハネスが言葉を紡ぐ。
ヘルは、紳士のようにブクタスの前で跪いた。
「目の前にいるそれは、人に多幸を齎す代償にその者をいずれ喰らう魔物。けど、それ以外にも人の不幸を好物として餌にしている」
ヘルは、ブクタスの肉厚な両肩をしっかりと掴んだ。
先まで包帯で巻かれた指が、強く食い込んでいく。
「因果応報ってしってる?あなたがこれから体験すること」
ヨハネスの通告を受けたブクタスの眼前は、影ではない暗闇が覆い始めた。
鋸のような乱雑な牙と蛇のように口を大きく開けたその奥には、闇が広がっている。
ブクタスが目を見開いた瞬間、その頭を、ヘルがばっくりと丸呑みにする。
綺麗な噛み跡だけを肉に残して、首なしとなったブクタスの体。
ヘルは、だらっと脱力した肉体にもかぶりつく。グチャグチャと肉を咀嚼し、バギボギと骨を噛み砕いた。
ヘルがごくりと喉を鳴らした頃、そこには肉片どころか血の跡すら残っていなかった。
「おいしかった?」
食事を終えたヘルにヨハネスが聞くと、ヘルは首を少し振り向かせて人差し指から光の文字を浮かべる。
『マズイ』
感想を綴った後、ヘルは口周りの血を腕で拭う。
会話が終わった後、ぽつんと残された六面体がガタガタと震える。持ち主がいなくなったことで、その効力が失われたのだ。
眩い光を放ち、それがまた吸い込まれるように消えていく。光と入れ違いで現れたのは、多くの『献上品』の木箱だ。
不安定な場所で召喚された為か、道の上でひっくり返ったり、馬車の残骸の傍で傾いている。
ヘルは立ち上がって周囲を見渡した。一方で顔色一つ変えないヨハネスは、導かれるように歩き始める。
周囲にある献上品には見向きとせず、ただ一つ、中身も飛び出すことなく召喚された木箱に歩み寄った。
その中にある宝石や金の延べ棒を掻き分けて、底の方を手探る。
「みつけた」
埋もれていたのは、手の平に収まるサイズの古びた木製のケースだ。
ヨハネスは、それを手に取ると蓋を開けた。中に入っていたのは、上質なクッションの中敷の上に、ぽつんと置かれたきらきらと微光する白い木片だ。
ヨハネスはほっとしたように息をつくと、再び蓋をしてそれをポケットの中に大切に仕舞った。






