ep.16 二日目
早朝。
地平線から顔を出した太陽が、102番地に柔らかな光を注ぐ。
「…ですか…―、」
「うん…――、て言ってた…―」
「む…、ん…」
ハインは、小声の話し声で目が覚めた。
ゆっくりと体を起こして、眠たそうな目を擦る。大きな欠伸を一つしてから、仕切りのブランケットに目を向けた。
その向こうでは、人影がちらちらと動いているのが分かる。
「クラウン…?起きてんの?」
ベッドから立ち上がり、ブランケットをカーテンのように開く。
そこには、
「あ、おはようございます。ハインさん」
ベッドに腰かけたまま、クラウンは彼女に挨拶する。
彼の傍には、灰色の長い髪に頭頂部には獣の耳―猫の耳がある少女がいた。
少女は、ゴシックな黒のワンピースを着て厚底の靴を履き、裾からは蠱惑的に上下に動く尻尾がある。尻尾の先には、愛らしい菫色のリボンが括り付けられていた。
「お、はよう…」
突然見慣れない人物を見て、ハインはたどたどしく挨拶を返す。
それだけではなく、何となくハインがクラウンと対面した時から少女の眼差しは不機嫌そうに据わった。
妙な静けさを感じたクラウンは、猫の耳と尻尾を持つ少女を見上げて、
「紹介します。彼女は、精霊猫のミミ。ミミ、この人は、」
「知ってる。ハイン・リッヒでしょ?」
不愛想な声で、ミミは答えた。感情を表す尻尾が、左右に揺れている。
ハインは少し気が引けたが、答えないわけにも行かず、自己紹介を始めた。
「キュルヴィ協会で運び屋をやってるハインよ。よろしく」
「ええ、あなたのことはよく知ってる。…挨拶は結構」
握手をしようとしたが、ハインの手は握り返されることなく空に放り出されたままだ。
人見知りと呼ぶには、あまりにも敵意が強い。ハインは、行き場を失った手を渋々引っ込める。
見かねたクラウンは、溜息を零した。
「ミミ、失礼ですよ」
「クラウン、私は別に他所の女と仲良くするために来たんじゃないの。あなたの様子を見に来たついでに、ゾックからの差し入れを持ってきただけなんだから」
ミミはクラウンを見て、ニコニコと笑顔を浮かべる。同一人物かと疑いたくなるし、会話の内容も刺々しい。
ハインは、思わず苦笑してしまう。
そういえば、とふとミミの言葉を思い返した。
(私のこと、よく知ってるって……)
どこかで会ったことがあるのだろうか、とハインは考え込む。
記憶の引き出しを漁っていると、少し思い当たる箇所が一場面あった。
それは、195番地での騒動のことだ。アタッシュケースの強奪犯と初めて接敵し、惨敗した時だ。
怪我を治療を行う際に、ハインは突然意識を失った。
その時、薄れゆく意識の中で捉えた人影――。
逆光でよく見えなかったが、ハインはその記憶とミミを照らし合わせる。
「もしかして…、195番地で私を眠らせた子…?」
独り言のように呟いたハインに、ミミの猫耳がぴくりと動く。
さっと快活な顔を引っ込めて、今度は傲慢そうに顔をしゃくり上げると、
「なんだ、覚えていたの。目敏い『泥棒猫』ね」
そう呼ばれて、ハインは確信した。あの時と同じ人物だ、と。
しかし、なぜか煙たがれている。取り繕うわけでもなく分かりやすいくらい全面的に態度に表れている。思わず、ハインは押し黙った。
あまりに険悪な対応を続けるミミに、クラウンはとうとう痺れを切らした。ベッドから立ち上がると、
「ミミ、届けてくれてありがとうございます。仕事があるから、あまり魔力を消費したくない。今日のところは、引き上げてく――」
「え…!」
思わず、ハインは声を上げた。
クラウンが引き返すように促した瞬間。
ミミは、クラウンの腕を掴んで引き寄せると、彼の頬に軽く口づけたからだ。
クラウンは、無理に引きはがすでもなく、ただミミが離れるのを待った。
それから、
「何してるんですか、ミミ」
「えー。つれないなー。見せつけてるんじゃん、分かんない?」
冷静なクラウンとは、対照的にミミは大げさに残念そうに言った。
クラウンが呆れたような顔を浮かべる。
ミミは、そのままハインを流し目で見やった。
「あたしとクラウンは、とっても仲が良いの。アナタが入る隙は一mmもないってこと。分かった?」
「え…と…、」
「だから、ジャマ、しないでね。ハインさん」
呆気に取られたハインは、ミミの言葉をどう捉えていいか分からず、視線を泳がせた。
クラウンは、ミミの手を腕から引き剥がす。
「ミミ、余計なことまで言わなくて良い」
「ええー!余計なことじゃないのに。ちゃんと言わなきゃだめでしょー?そうしないと、横取りされちゃうんだもん。ねー?」
どこか勝気な視線をハインに向ける。同意を求めているようで、その実、威圧していた。
その様子に、ハインは大きく動揺したような表情を見せる。敵意を剥き出しにしなくとも、自身とクラウンの間には何も無い……。何を言えば正解かひたすら考えたが、言葉が上手く見つからなかった。
迷っている内に、ミミはクラウンから距離を置くと、
「それじゃ、あたし、帰るねー」
「ゾックによろしく伝えて」
「はいはーい」
軽い調子でそう言って、ミミはふわっと光と共に瞬時に消えた。
朝から、まるで嵐のような展開についていけず、残ったハインとクラウンの間には沈黙が流れる。
気まずさだけが、空気中に沈殿しているようだった。
ともかく、この空気を入れ替えるためにハインは会話の糸口を投げる。
「なんか…、積極的な子なのね」
「はい…まあ…、多感な猫なんで」
「それは、大変ね」
動じる様子もないクラウンに、ハインは焦燥する気持ちを隠すように適当なことを言う。
再び互いに黙り込めば、クラウンは冷静な面持ちをそのままに、
「準備します。先に洗面台、使わせてもらいますね」
「あ、うん。どうぞ」
ユニットバスの方へと向かう、入れ違ったクラウンの背中を見送った。
この空間に一人取り残されたハインは、拭いきれないハラハラとした気持ちを抱えて、息をつく。






