終章 ep.2 翌日
――耳元のすぐ近くで、誰が囁いた。
『オキテ、』
その言葉と共に、はっきりと瞼が開く。
一度見た天井、慣れない上質な木の香りがする部屋の匂い。
背中越しに伝わる二度目の柔らかさ。ふんわりとかけられたシーツ。
ああ、ここは……。
「天、国…?」
それにしては、どうにも見慣れている。
むくりと体が起こして、視線を下ろした。着ているオフホワイトの長袖は、新品のようだ。
体に掛けられたシーツを剥がせば、所々砂埃で白く薄汚れた黒のボトムス。
細長い指先で首元の襟を引っ張る。
下着はそのままに、地肌には見慣れない果物ナイフで突き立てられたような傷跡。
すでに傷口は塞がっているようで、出血はしていない。
夢でも幻でも、天国でもない、その事実に。
キュルヴィ協会の運び屋、ハイン・リッヒは、引っ張った襟元から指を下ろして、吐息のような軽い溜息を吐いた。
※※※
心地のいい朝日が差し込む客間の、猫脚ソファーにはクラウンが座っていた。
その手には、普段ジャケットの下に隠れているが、革紐で首から下げているコンパクトな単眼鏡を持っていた。
一見、コンパスにも見える。折り畳み式で、蝶番の間に接眼レンズがあり、開くと対物レンズが立ち上がる仕組みだ。
クラウンは、その単眼鏡を片目で接眼レンズを覗き込んでいた。
部屋の中に注がれる陽射しが、対物レンズを通してキラキラと彼の瞼の上に光を落とす。
対照的にクラウンの表情は、どこか虚ろだ。
しばらくそうしていると。
がらっと、寝室のスライドドアが開いた。
物音に気づいたクラウンは単眼鏡を畳んで、首だけをそちらに向ける。
出てきたのは、ハインだ。
「………、」
「………、」
視線はかち合うものの、互いに言葉をかけることはしなかった。
会話が起こりそうもない沈黙の中で、クラウンは先に視線を逸らす。
対して、ハインは、どこか気まずそうな表情を浮かべながらも、
「お、おはよう」
無難に挨拶をしてみた。
一拍、間を空けてから「おはようございます」とクラウンから返事が返ってくる。
だが、それ以上話が弾むことはない。
ハインは、何か話題はないかと目を泳がせていると、ふとある事に気づいた。
部屋にも寝室にも、昨夜まで共に戦っていた『猫』達の存在がないことに。
「そ、そういえば…。オズおばあちゃんも、フーランとアートベルトさんも見かけないけど、どこかに出かけてたりするのかしら?」
「ああ…、精霊界に帰っただけですよ。ちょっとばかし、こちらに召喚し続ける魔力が減ったもんで」
たどたどしくも話を続けたい一心でハインは、質問してみたが、クラウンの対応はいつにも増して冷淡だ。
ハインは、その態度に内心萎縮してしまい、「そ、そう…」と小さく返す。
ぷっつり、とまた会話が切れると途端に居た堪れない気持ちになって再び視線は遊泳し始めた。
やがて、あるものを見つける。
クラウンが座っている猫脚ソファーの向かいにある同様のソファーに乱雑に掛けられた衣類。
オフホワイトの長袖が二着、どちらも乾いた血でどす黒く染まっていた。
ハインの視線が、そこに向けられたことを何となく気づいたクラウンは、
「服、」
「え?」
「僕が、着替えさせました。わざわざ申告するのもなんですが、伝えた方が良いかなと」
淡々と事後報告する彼に、ハインは「あぁ…」と納得したように呟いた。
クラウンは、長く息を吐きながらソファーに凭れかかると、
「それから、もう一つ、伝えないといけないことがあって」
「な、なに?」
突然始まった話に、ハインはいつもより遠慮がちな声で聞き返した。
クラウンは、視線だけを彼女に向けると、
「ある魔術を使った代償の話、です」
「…………、」
深刻な面持ちのクラウンを見て、無意識にハインは手の平を握り締めた。
このタイミングで話し始めるとは、予想していなかった彼女の体に、緊張が走る。
この先の話は、きっとハインの現状を知らしめる何よりの事実だろう。
身構えるハインに、構わずクラウンは話を進める。
「簡単に状況を説明すると、今、僕とハインさんは魂同士を繋ぎ止めて互いに共有しています。……なんでこうなったのか、この際、もう話さなくても良いでしょう。ハインさんが、一番分かっていると思うので」
棘のある物言いだったが、ハインには反論の言葉も出なかった。
服の下に隠れた丁度心臓あたりの胸部にあった傷跡――。
それだけで、ハインの記憶は鮮明に蘇るのだ。
死にかけていた、という事実がゆるりと告げられる。
クラウンは、視線だけを緩やかに落とす彼女から目を逸らし、天井を見上げた。
「……死にかけていた魂を健全な魂とくっつけて延命できるのが、今僕が使用している魔術です。
その魂を共有し続けるために、僕の魔力がエネルギーになってるんですが、予想以上に持って行かれてる。
要は、僕の使える魔力量が大幅に減少し、本来の魔術によって齎される規模や効力が制限されています。それで、オズやフーラン、アートベルトは魔術発動直後に、僕の意志に関係なく精霊界に強制帰還されました。
三体同時に《精霊猫》を召喚することも、今では難しい状態のようです。詳しいことは、これから検証していくつもりですけど……ともかく、これが術者の代償のようです」
「そ、そう……」
話に一区切りをつけると、クラウンは、自身の体を見るように視線を下ろしていく。
「……本当は、何か。身体的な影響を覚悟していたんですけど…、運良くそれはなかったようですね」
クラウンの言う通り、彼の体に目立った欠損や損傷は見受けられなかった。唯一あるとするならば、昨夜の戦闘で負傷した左肩だけだろう。
だが、それは果たして安心して良いものなのか。
ハインは素直にクラウンに「良かった」と安堵したことを言えなかった。
ただ下唇を軽く噛んで、その言葉を飲み込んだ。
クラウンは、続けて、
「……それとハインさんにも、代償が設けられています」
「っ……、」
何となく話の流れで、ハインは察していた。
肩がびくりと反応し、恐怖にも似た胸騒ぎが走る。
ばくばく、と鼓膜を揺さぶる自身の鼓動が、この先の話に耳を塞いでいるようにも思えた。
クラウンは、凭れていた背もたれから上体を起こして、ハインを見る。
「易々と安心してくださいとは言えませんが…。そう、緊張しなくても平気です。話を戻すと、ハインさんの代償というのは、行動範囲の制限です」
「行動…範囲…?」
「……言いにくいんですけど。さっきも言った通り、僕の魂とハインの魂はくっついてるので、言わば僕らは共同体になったわけです」
「う、うん…」
「なので、僕らのどちらかが片方でも離れると……」
「うん…、」
「死ぬ」
「うん…、うん…?」
一度は納得しかけた言葉だったが、二度確かめるとより不可思議さが増してハインは小首を傾げる。
クラウンは、がくりと首を下げて、それから何かむしゃくしゃしたように頭を掻き毟ると、
「だから…、体は別々でも今の僕らの魂は二つで一つなんです。魂と肉体は離別することが出来ません。それは死を意味するからです。
瀕死状態の人間を延命させることができる《入れ違う猫》という魔術は、魂を繋留させたが最後。術者とそれを受けた被術者は、どちらかが半径十五m以上離れると死ぬんです」
「つ、つまり……、」
ハインは、クラウンから言われた事の重大性に今になって顔を青ざめさせた。
ようやく理解したハインの様子を見て、クラウンは溜息を一つ吐くと、
「そうです…。僕らは何をするにしてもどこに行くにしても、十五m以上離れたら一発アウト。離れられなくなったんですよ」
「ち、ちょっと待って!」
ハインは、慌てた様子で、膝から崩れ落ちるようにクラウンの座るソファーの肘掛けにしがみついた。
「私たち、十五m以上離れたら死ぬのよね!?」
「は、はい。そうです」
体と顔を乗り出して改めて言うハインに、クラウンはたじたじになって答える。
続けて、ハインは、
「仕事はどうなるのよ?」
「え、」
「あんたに付いてかなきゃいけないの?」
真剣で、どこか不安が滲んだ眼差しにクラウンは、反射的に「それは…、そうなると思います…」と答えた。
その返答にがっくりと肩を落として、ハインは前のめりになっていた体を徐々に後退させて、床にへたり込む。
「あ、あんたの配達に?私が…?」
「ハインさんの仕事の時は、僕も同行します」
まざまざと落ち込んだ彼女の姿を見て、クラウンは取り繕うようにフォローを入れる。
だが、効力はいまいちのようで。
ハインは、愕然とした気持ちの中である疑問を浮かべた。
「…お風呂、…お風呂はどうなるのよ?…トイレは!?」
「は?!えっ、いやっ!それは十五mもあれば、むしろ余裕だと思いますし何とかなるでしょう!というか、何とかしますし!」
予想外の質問に、思わず一瞬でも想像してしまったクラウンは赤面するも、すかさず答えた。
それでも尚、ハインの疑問と不安は一向に収まらない。再び、ぐっと体を前のめりにして、
「それじゃあ、寝る時は…?仕事してる時の宿先は?どうするのよ?」
「協会長に報告して、宿舎の部屋は隣同士にしてもらえるように取り計らうつもりです。仕事先では、部屋は一緒にするしか……ないですね」
クラウンが対策法を言う中、ハインはへなへなとその体を脱力させてまた座り込む。
肩は落とされ、普段の彼女からは想像もできない程、か弱く見えた。
すると顔を伏せて、徐々にその肩が小刻みに震える。
どことなく、今にも泣き出すような雰囲気を感じ取って、クラウンはおろおろとしながら、
「は、ハインさん…?」
ハインを様子を窺うように声をかけた瞬間。
ばっ、と勢いよくハインが立ち上がった。
それを目で追っていたクラウンは、驚きながらも彼女を見る。
ハインは悔しそうな悲しそうな表情を浮かべて、びしっ!とクラウンを指さした。
思わず、眼前に迫った指先にクラウンの首が仰け反る。
「な、なんですか?急に……」
「わ……し…よ……」
「え?」
「私と!勝負しなさいよ!クラウン=ラウス!」
唐突に持ちかけられた勝負。
目の前の女からの宣戦布告に、クラウンが、
「は、?」
という素っ頓狂な声を上げるのは、その直後のことだった。






