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ハインリッヒの旅枕  作者: えくぼ えみ
第一部 相容れない運び屋
39/141

行間 今際

 




 寒い――、冷たい――。




 最初は、手と足の先が、まるで大雨で泥濘(ぬかる)んだ地面を歩き続けたように冷えていたのだ。


 それが着実にゆっくりと、上へ上へと、体温を奪い、侵食していった。


 今では、氷水を張ったバスタブに全身を浸かったように、感覚が麻痺していた。


(すごい、血の量……)


 脳に回る筈だった大量の(なま)(あたた)かい血潮を、背中全体で感じ取る。


 流れ出る血は、春の小川のようなせせらぎに聞こえた。


 視界の端の方から、黒い(もや)が広がっていく。


 頭に血が回らないのに、思考は普段とはかけ離れて冷静だ。残酷なまでに客観的で短絡、しかし(くつが)りそうにない現実を告げる。


(わたし…、しぬの…?)


 その瞬間。


 ドンッ!と魔輪で()ねられたように、体に大きな衝撃が走った。


 それと同時に、バチッ、と(まばゆ)い火花が散る。


(なに…?)


 視界は、まるで磨りガラス越しに見る景色のようだ。はっきりとしないその眼前に、誰かの微笑みが見えた。


 印象は柔らげで、だが、その口から(つむ)がれる言葉が、小憎たらしくて――。


 バチ、バチ、と(やすり)(こす)りつけて中々火がつかないマッチのように、立て続けに火花が散る。



『――お姫様みたいだ』




 バチバチッ、とけたたましい火花の音の後ろで、黄金色の綿毛のような髪と、色鮮やかな香り高い花々が見えた。



 穏やかに肌を()でる風が、また新たな情景へと彼女を連れていく。



 真っ白なキャンバスに塗料を振り撒いたような、澄んだ青空。



 空高く、見下ろすように飛ぶ鳥の声は、遠い。



 火花の音は、更に大きくなって、



『――る、君を――、つ――る』



 強く握り締めた手は、大きく、どこか懐かしい。


 そして、水の中へ潜水する時のように口から漏れ出す(あぶく)のように、湧き上がるのは……。



『―…テ、』



(だ、れ…?)



 それまでと違い、誰かが己に何かを語りかける。


 雲を掴むように曖昧で、耳打ち際で喋るように、




   『オキテ、』




 小さな囁き声は、もっと、深い深いところで彼女に手を伸ばしていた。



 春日の朝に降り注ぐような柔らかな光の中に包まれて、ハインは意識を手放す――。



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