ep.35 『 』
ヒュッ!とまるで鞭を振るったような、空を掻き切る音が、背後から聞こえた。
振り返るよりも早く、ずっと強い力で腕を引っ張られた。倒れると思えば、入れ違うように漆のような艶やかな黒髪が目の端を横切る。
硬く冷たい地面に尻餅をついた瞬間、クラウンの目に映ったのは、盾のように大きく両腕を広げた、ハインの後ろ姿だ。
流れる時が、その瞬間、ゆっくりと重く過ぎていく。
名を呼び、叫ぶ間もなく、手の平が彼女に伸びた。
全てが、遅かった。
彼女の背中から、花が開くように鮮やかな血が広がる。
『風の刃』がハインの心臓を穿った、と分かるまでに数コンマ。
噴き出た彼女の返り血が、白ウサギの頬を叩く。
ごぽ、と彼女の薄い桃色の唇からベリーを煮詰めたような赤い血が吐き出された。
灰色がかった青い瞳から、光が消えて、がくりと両膝が折れていく。
「はっ、は」
満身創痍のヴィドーから、乾いた笑い声が聞こえた。随分と満足した様子だ。
安堵するには、まだ早いだろ。
ヴィドーの瞼が、糸で引っ張られたように見開かれていく。
その眼前に黄金の弾丸が迫り、遅れて時鐘のような銃声が轟いた。常闇のように暗い銃口から、狼煙のように硝煙が立ち上る。
ハインの膝が地面につく手前のその脇から、見慣れない顔を見たはずだ。
それは、死に行く女の顔ではない。手向けに、素顔を見せてやってもいい。
澄んだ殺意で開いた瞳孔と能面のようなその顔は、一矢報いたヴィドーの目論見をぶち壊す。
亡霊を見た子供のように恐怖する彼は、悲鳴を漏らす間もなく、視界を真っ黒に塗り潰された。
※ ※ ※
クラウンがいる倉庫建屋より、南に二〜三km離れた上空――。
アタッシュケース強奪犯の一味を片したフーランとアートベルトは、合流していた。
「フーラン、もっと早く飛べないのか?」
「っるせぇな。オレも魔力使い切ったんだ、この速度がギリギリなんだよ」
自身の背中に乗っているアートベルトに急かされ、思わず舌打ちを打つ。
アートベルトの下に駆けつければ、中々に苦境に立たされていた。助太刀したはいいものの、共に行動をしていたハインは、途中でどこかへと走り去ってしまった。
彼女と別行動になってから、かなり時間が経過している。
後を追いたかったが、アートベルトを放置するわけにもいかない。
(無事なら、良いけどよ)
心の中に、嫌な胸騒ぎが巣食い始めていた。きっとこの感覚は、アートベルトも感じているはずだ。普段冷静な彼が、珍しく焦燥している。
ひたすら、北上している時だ。
「「!!」」
ぶわっと、突然毛並みが逆立った。思わず、フーランは上空で急停止する。
まるで、嵐を告げ、地を覆い隠す巨大な積乱雲の塊――。
それが、眼前からやってきた。澄み切った『黒い気配』だ。
その気配に、フーランとアートベルトは意図せず息を飲んだ。
そして、明白なまでに覚えがある。
「クラ坊」
憔悴したアートベルトが、思わぬ形で遭遇したその名を呟いた。






