ep.20 《オズ》
暗い意識の底から、徐々に浮上していく。
何か、『さわさわとした毛のような感触と、むにむにとした肉』が、爪先を撫でていることに気づいた。
擽ったさを感じたが、それよりも酩酊したような倦怠感が思考を鈍らせる。
そういえば、とふと思い出す。
意識を失う寸前、目蓋の裏にしっかりと焼きついた『それ』を、声に出した。
「ねこ……の耳?」
ゆっくりと目を開くと、見慣れない天井があった。沈み過ぎないふかふかとした上質なベッドマットの感触が、体に伝わる。
ハインは、クラウンにここへ運ばれ、治療を行う為に『何者』かに意識を奪われたことを、また思い出す。
胸焼けを起こしたような不快な感覚に、ハインは「んー…」と軽く唸ってから、腕で顔を覆い隠した。
「アイツ……。魔法かけるなら、一言言いなさいよ……」
「おや、起きたのかい?」
「っ!」
恨み節を吐いたところへ、突然、老婆のような嗄れた声がかかった。
驚いて起き上がり、声が聞こえた足元に目を向けると、そこにいたのは。
「ね、こ…?」
そう言ってみたは良いものの、ハインの知っている『それ』とは大きく違っていた。
濃い茶の毛並みは、少しパサついて年老いていると分かる。垂れた目尻は貫禄もあったが、どこか暖かみを感じた。宝玉のような緑色の瞳が美しく、童話に出てくる老婆のような白いナイトキャップと丸襟の薄い桜色のワンピースに前掛けエプロンをして、鼻先には丸レンズの老眼鏡をかけていた。
その身丈は150cmもあり、何と後ろ足で立って二足歩行しているのだ。
摩訶不思議な生き物を前にしたハインは、その現実に絶句し、目を見開く。
「猫ではないかもしれないねぇ。こんな大きさで二本の脚で立って……おまけに、言葉も流暢ときた。お嬢さんが知っている猫とは、少し違うかもしれないね。驚くのも無理はないさ」
ハインの疑問に答える『猫のような生物』は、やんわりと微笑んだ。
それから負傷した右足首に、猫と変わらない前足とおぼしき手を添えられたが、思わず足を引っ込めてしまいそうになった。
「…なに、心配しなくても大丈夫さね。怪我の具合を見ていたんだよ」
不思議と安心してしまう心地の良い語り口に、ハインは無意識に抱いた警戒心を解く。
むに、むに、と一般的な猫よりも大きい肉球が一定の間隔で右足首を押し込む。
温かい体温に、しっとりとした柔肉の感触が、とても気持ち良い。だが、なぜかむず痒く照れくさいような複雑な感情が入り交じる。
ふと紅潮したハインを見て、『猫』は首を傾げる。
「ん?どこか、痛かったかい?」
「い、いえ……。痛くないです。ただ、」
「ただ?」
「そ、その…。おばあちゃんの手が、気持ち良くて。肉球が……」
こんなことを言って良いのか分からないが、とにかくハインはその肉球の感触が気に入ってしまった。
そんな心情を吐露すれば、聞いていた『猫』は少し笑う。
「気に入ってもらえて、何よりだよ。……私は、オズ。おばあちゃんでも、猫でも好きに呼んでおくれ」
「ハイン・リッヒです。怪我、治してくれてありがとう。オズおばあちゃん」
ハインが改めて感謝すると、オズは「どういたしまして」とふんわりと笑みを浮かべた。
それから、ハインの右足首から手を離す。
「ハインさん、少し立ってみてくれないかい?歩行に問題がないか、見てみたくてねぇ」
それに頷いて、言われた通り、立ち上がろうとベッドから足を投げる。
「?」
足に肌寒さを覚えて、思わず自らの下半身に目を向ける。
しかし、ボトムスは脱がされたのか、いつの間にか下着姿だった。
「ぅわっ!」
恥ずかしさのあまり、咄嗟に両手で下着を隠して足を閉じる。
上半身は服を着ていたこともあって、気づかなかった。
オズは思い出したように、「ああ…、」と声を上げる。
「すまないね。治療するのに着てたものは、剥いでしまったんだよ。下の服は、そこにあるよ」
オズが指さした先には、木製の椅子の上に丁寧に畳まれたボトムスと、その傍に普段履いているブーツも揃えられていた。
「あ、ありがとう……」
オズが同性だということに気づいて、ほっと安堵する。
気を取り直してベッドから立ち上がると、がら、と寝室を仕切っていたスライドドアが開いた。
「どうかしました……か?」
現れたのは、クラウンだった。
一拍だけ、彼が間抜けな声になったのは、言わずもがな。
ボトムスを穿いてない生足を晒した状態を、見られた。
その事実が、延々と反復して思考が追いつかない。
何食わぬ顔で入ってきた男も、頭の中は混乱しているようで顔を青ざめて頬を引きつらせている。
「…あの……、見なかったことにするので…、どうか穏便に。怒らないでくだ――」
「んなこと出来るかぁああああ!」
苦し紛れの懇願に、怒鳴り声と枕を豪速球で投げ飛ばしてクラウンの顔面にぶち当てた。
その衝撃で、彼が仰け反って吹き飛ばされたのは、言うまでもない。
オズは、「ん、問題なさそうだね」と無事怪我が完治したことを確認して、やり切ったように頷いた。






