第16話
「ヒュー、ヒュー」
弱々しい呼吸のする者の正体は獣人の少女だった。横向きに倒れていて、辺りには割れたガラスの破片が散らばっている。所々血で汚れており、首から血が大量に流れて止まらない。すっかり血の気が失せた肌は白くなっている。床も少女の血で真っ赤な血だまりができている。
「ジェリダ様! 治療を!!」
ルベルはバットと飛び出して、少女の首を抑える。だが、抑えたその指の隙間から血はドクドクと流れていく。ジェリダも少女の元に膝を付くとすぐに回復魔法を使う。すると少女の体が柔らかく光り、ルベルが抑えていた首の出血や他の傷も全て無くなる。
その時ジェリダは少女の体に拘束されていたような縛った痕があったのを見逃さなかった。その後は回復魔法で綺麗に消える。そして、蝋のように白かった少女の肌は次第に赤みを取り戻す。
「良かった。失くした分の血も戻せるみたい。ルベル、この子を何処かに寝かせたいんだけど、先に血を拭ってあげよう」
「はい」
すぐ近くにあった風呂場からタオルを取ると水で軽く濡らし、少女に付いた血を拭う。そしてルベルがそっと少女を抱き上げると、ジェリダは適当に廊下の左にあった奥のドアを開ける。
そこは居間と食事室が一緒になっているようで、部屋には食事を摂るためのテーブルに椅子が四脚とくつろぐためのソファがあった。そこに少女をルベルはゆっくりとのせ、横にして寝かせる。念のため喉に血などが溜まっていた時、上にしたままだと窒息するかもしれないというルベルの配慮だった。
「はぁ、家に入って早々こんなことが起きるなんて。それにしてもルベルは何だか手慣れてたね」
ルベルは少女を一目見た時もジェリダよりも早く反応し、動きもぎこちないものではなかった。何処かで経験でもしてきたかのような動きだった。
「あ……いえ、その。奴隷時代に何度か他の所で使われてた時があるんです。その時、奴隷の扱いが酷い人がいて、他の奴隷の仲間が鞭で叩かれて酷いけがをしたりしたことがあって。自分も怪我をしたりしたので、その手当をぼろ布でやったりしてて。だから手際がいいように見えるんだと思います」
何度か口ごもったルベルだったが、もう過去のことだと割り切ってジェリダに話してくれた。すると、ジェリダは無言でルベルの頭に手を伸ばして、優しく撫でる。
「そっか」
ただその一言だけ。
辛かったね、痛かったね。そんな言葉は一切なく、ただありのままを受け入れる。もうルベルも過去と割り切り、今を生きている。あの時のような酷い主人はもういない。同情をするのは、ルベルを惨めにすることだと、ジェリダは思ったのだ。
「よし、じゃあこの話はここまで。さっきの部屋の血を綺麗にしようか。あのままじゃ跡が残っちゃうから。あとガラスも飛び散ってたから、どこかに箒がないか探さないとね」
「はい」
この家には家財道具が元から備わっているため家具を買う必要はなかった。もともと荷物は魔法鞄に入れてジェリダが常に持ち歩いていたので、ギルドの部屋を出ればあとは何もない。
最初に泊まるときに支払った二人分の宿泊料金は明日まで入っている。今日でホロルに来て六日目と思うと濃い毎日を送って来たなと感慨深くなるジェリダだが、今日はこの家にそのまま泊まるしかない。何せ獣人の少女がいつ目を覚ますか分からないからだ。
二人は協力して血やガラスを綺麗に片付けることにした。どこに何があるのか全く分からないので、とりあえず手分けして家の中を冒険することにした。ジェリダは少女を寝かせた部屋の隣を確認する。そこはキッチンだった。一段下がった場所に薪をくべて火を起こす調理場がある。そこには箒は見当たらない。
ルベルが向かった方には少女が倒れていた場所の左二部屋に、同じ家具を配置された客室がある。少女が飛び込んで来ていたのは本がたくさんある部屋なので書斎だろうと思われた。その隣、一番右には浴室と洗面所があったらしい。
「一階で残るのはここだけだね」
階段の下のスペースを利用する形で引き違い戸がある。ここに無ければ二階にも捜索範囲を広げなくてはいけない。ジェリダはその戸を右にスライドさせる。
「あ、あった。ここ物置か」
階段下のスペースは物置のようで、大体の掃除道具が揃っている。雑巾も見つかったのでそれで血を拭くことにした。バケツに水を汲み、何度か血を拭って水に入れるとすぐに赤く汚れた。
「こうしてると何だか殺人現場の処理をしてるみたいだね」
「そんな明るく言わないでください……」
血を見るのは平気だが、あまりにもジェリダが不謹慎なことを言うのでルベルはげんなりとする。なんどか水を変えて拭い、箒で飛び散ったガラスを集めて物置にあった紙袋に入れる。
窓は本来外開きなのだが、外から飛び込んで来た少女のせいで金具が壊れて内側に窓の枠が入って来ていた。少し触れば落ちてしまいそうだ。
「うーん、これは窓を新しくするしかないよね。ノエズさんとかできないかな?」
「武器や防具と違いますからね……。ガラスは武器に使わないでしょうし。リリィさんにでも売っている所を聞いて、新しいものに替えましょう」
「そうだね。私ちょっとあの子の様子を見に行ってみるよ」
「分かりました。俺はこの道具を片付けておきますね」
ジェリダはまだ少女が目を覚ましていないか気になって居間へ向かう。ドアを開けるとまだ少女はソファの上で目を閉じて眠っている。ジェリダは少女の側で膝を折って様子を見る。すると、時折耳がぴくっと反応しているのが分かった。
獣人の耳は人と違い頭の上にあり、ふさふさとした毛に覆われている。たれ耳の者のいるというが、この少女はピンとしているのでそうではないようだ。顔は人と何も変わらない。ただ、口をそっとジェリダが明けると犬歯が見えた。爪も鋭く尖っている。
そして、人と最大の違いは尻尾だろう。髪の色と同じで尻尾は青のような黒のような綺麗な色をしている。尻尾の先だけ少し白い。ふわふわと膨らんだ大きな尻尾は素敵な魅惑を含んでいる。
「狐、かな。いや、狼? どっちだろ」
少女の長い髪を首からそっと除けてやると、ビクリと体が跳ねた。ジェリダが少女の顔の方へ視線をやるとバチリと目が合った。
「うわああああああああ」
少女は大きな声で叫ぶと横になっていた体勢から一気に飛び上がり、ソファの後ろへ飛び退く。
「何があったんですか!?」
少女の声を聞き付けたルベルが飛んでくる。そしてソファの後ろで毛を逆立て、牙と爪で威嚇する姿を見てすぐに剣を抜いた。
「ジェリダ様! 離れてください!」
ルベルはジェリダにそう言うがジェリダは全く離れようとしない。それどころか立ち上がって近づこうとした。
「ヴゥ――――!!」
少女は更に毛を逆立てて威嚇をする。ジェリダはそこでピタリと止まると、少女を見て威嚇スキルを使った。
「落ち着きなさい」
「ヒュッ――!」
立ったその一言に少女はサッと委縮した。威圧は言葉や声に相手をひるませるプレッシャーを掛けるスキルだ。動物の場合は最初の威嚇の声が、人の場合は最初に発せられる声にプレッシャーが掛かる。互いに威圧スキルを持っていれば相殺や免疫でそこまでひるまないが、少女はすっかり委縮し、へなへなとその場に崩れ落ちた。
ジェリダはそれを見て近寄り、頭を撫でてやる。
「いいこね。あなたを助けたのは私たちよ。あなたに何があったのか分からないけど、話をしましょう?」
優しく、落ち着かせるようにゆっくりとジェリダは言葉を紡ぐ。少女は茫然として、それからこくりと頷いた。
「はぁ」
安心したルベルは剣を納める。ジェリダの手を借りて少女は立ち上がる。そしてさっきまで横になっていたソファに腰かける。こいこいとジェリダに手招きされてテーブルを挟んだ向かいのソファに二人は腰掛ける。少女は大人しく座り、耳を垂れて俯いている。そんな少女にジェリダは問いかける。
「首から出血しててすごいことになってたから回復魔法で傷を治したんだけど、痛みはない」
「は、はい。どこも痛くはない……」
初めて聞いたその声は凛としていて少女にしては少し低い印象だった。喋り方もどこか男のような物言いだ。それにまだ、ジェリダのことを警戒しているのかぎこちない。そんな少女のパラメーターを見てみる。
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名前 アオイ
職業 武士
種族 狐獣人
年齢 14歳
称号 なし
LV 21
HP 565
MP 246
《スキル》
抜刀術 LV 4
体術 LV 2
夜目 LV 3
回避 LV 3
察知 LV 2
縮地 LV 2
《固有スキル》
なし
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「名前を訊いてもいい?」
「アオイ、だ」
「私はジェリダ、こっちはルベルね」
ジェリダはまだ警戒心が残る彼女のパラメーターから名前を視てはいたが、突然名前を言えば余計に警戒すると考えて、あえて自分から尋ねた。アオイという名前はこの辺りでは珍しい。
「珍しい名前なんだね。どうしてあなたはここに血塗れで倒れてたの?」
その質問をするとアオイは自分の体を抱き締めるようにして俯いた。少し、体も震えている。いくらか逡巡したのち、アオイはようやく声を出した。
「私はワ国出身の狐獣人だが、そこでは獣人が人口のほとんどを占めている国なんだ。ある日私が剣の稽古に行く途中、背中にちくりとした痛みがしたと思ったら気絶させられていた」
ワ国はここよりも遥か東に位置する国で、独自の文化を持っている国だ。他の国よりも技術面では優れた所が多い国で、その規模は王都にも劣らないという。そして、ワ国は昔から追いやられて来た獣人族を受け入れた国であり、アオイが言うように獣人族が人口の半分以上を占める。
「ワ国……。私は知識が無いから分からないけど、ここよりかなり遠い所なの?」
「ああ。私はそこから、いつの間にかこのフィルム大国に連れて来られていて……薄暗くて、じめじめした場所で目が覚めたんだ。そこから私は縄で拘束されていたのを抜け出して、何とか逃げようとした。そしたら多分、私を攫った男と出くわしてしまって、その男が操る虫に首を噛まれて。無我夢中で走って逃げたら、ここにいた……」
(嘘を吐いているという様には思えないんだけど……)
ジェリダは何か聞きたいことはないかとルベルに視線を投げる。その意味を正確に読み取ったルベルは口を開く。
「あなたが捕まっていた場所は思い出せますか」
「いや、本当に必死だったから分からない。ただ、森の中を長く走っていたのは覚えている」
「そうですか」
ルベルはそれだけ聞くと他に質問はなかった。恐らく、アオイが場所を覚えているなら警備兵を向かわせようと思ったのだろう。
「じゃああなたへの質問はこれぐらいにして、ご飯でも作ろうか。ルベルは買い物に行ってもらっていい? お金は銀貨五枚で足りると思うから、渡しておくね。私はアオイちゃんといっしょにいるから」
「分かりました」
ルベルに銀貨を手渡し、ルベルは西門の近くでいつも開かれている市場へと向かった。ジェリダはまだアオイを着け狙う者が現れるかもしれないというのと、まだ信用できないアオイの監視を兼ねて家に残ることにした。
その様子はある男が操る虫の目を通して観察されていた。
◆◇◆
「あははぁ、見つけましたよぉ。私の元から逃げる者は初めてで興奮しますねぇ。しかも例の少女の元に逃げ込むとは……。一気に捕まえるには好都合でいいですねぇ」
薄気味悪い声が辺りに響く。そこは男が一時の潜伏場所として選んだ所で、ろうそく一本だけが灯されているだけだった。そこからアオイは逃げ出したのだ。辺りはカサカサと無数の虫たちが蠢く足音やブンブンと大きな羽音がしている。通常の者ならばあまりの気持ちの悪さに気絶している所だろう。だが、男はこれを心地いいと思っているのだ。
「そろそろ私が出向きましょうかねぇ。フフフフフ……」
眼鏡が蝋燭の火で鈍く反射する。ゆらりと、蝋燭の火が揺れた。
次は4月6日21時更新です。