逃亡とシスターと琥珀と③
しん、と食堂が静まり返った。
皆の視線が、顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせているシスターナナミへと集まる。
その視線に気づいたナナミは、
「あ、え、いや、さ、さすがにそれは難しいっていうか……あぇっ……。」
そう口ごもりながら、せわしなく視線を泳がせた。
「うるさいなぁ。ナナミは今、シシュンキってやつなんだろ? そんな大きな声出さなくても――。」
「うるさいうるさいうるさい!!」
シンの言葉をかき消そうと、ナナミはさらに大声を張り上げた。
周囲の生温かい眼差しと、スコルの困惑した視線が、ナナミをますます追い詰める。
「そ、そんな目で見ないで! もういや!」
ナナミは半泣きになりながら、どたどたと足音を立てて食堂を飛び出した。
その後を追いかけるように、アンナも「待ってよ!」と駆けていく。
廊下の奥から、「えーん」という泣き声が聞こえてきた。
「……。」
「シスターナナミは年頃なので……あまりお気になさらずに。」
無言のスコルに、リリィが声をかける。
気遣うようなその言葉を聞いて、スコルは思った。
(面倒くせぇ……。)
・・・
深夜。
先ほどまでの興奮はどこへやら。子供たちは眠気に勝てず、すっかり夢の中へ。
結局、スコルは子供たちに巻き込まれ、川の字になって雑魚寝する羽目になっていた。
しかし、周囲に人の気配があると、どうにも眠れない。
スコルは白い天井をじっと見つめていた。
遠い記憶のどこかにも、似たような騒がしさがあった気がする。
騒がしいこの教会は、スコルにとって面倒くさくも、どこか否定しきれない場所だった。
スコルは大きく息を吸った。
知らない匂い。子供特有のミルクのような匂いが、部屋いっぱいに漂っている。
……ずっとここにいると、なんだか堕落しそうな気がした。
スコルは身体にまとわりつく子供たちを、起こさないよう慎重に離し、そっと起き上がった。
子供たちの寝息しか聞こえないこの部屋から、外に出たくなった。
スコルは窓から差し込む月明かりに誘われるまま、部屋を抜け出した。
・・・
スコルは教会の外にあるベンチに腰掛けていた。
外は肌寒い。しかし、日中にはない澄んだ空気が、スコルの甘ったるく濁った感覚をそっと洗い流していく。
空には無数の星々。
魔獣除けの大結界が張られている王都では、これほどの星空を望むことはできなかった。
風が吹き、さらりと髪を撫ぜる。
草木も揺れ、葉の擦れ合う音がさらさらと響く。
スコルはようやく、肺に溜めていた息を吐き出した。
リセットされた気がした。
この孤児院にいると、自分が鈍るような危機感が芽生える。
微かな魔獣の気配。
木々から立ち昇る魔素の波動。
それらすべてが、スコルを現実へと引き戻していった。
やることがない。
教会の中に入って祈るのは、ガラじゃない。
そもそも、スコルは今まで祈ったことなどなかった。
無神論者、とまではいかないが、祈るほどの信仰心は持ち合わせていない。
王国を中心に広く信仰されている、創造の女神ルミナーレ。
この小さな教会もまた、ルミナーレを信仰する教会だった。
(……魔術が存在している限り、神は存在しているんだろうが、祈る気にはなれねぇよ。)
神の言葉である聖句を、聖人が翻訳・解釈し、神の奇跡の一部を人間にも扱える技術へと落とし込んだもの。それが魔術だ。
魔術が事実として存在していることは、ルミナーレ信仰を支える根拠の一つとなっていた。
アーサーは、この教会にいて、祈るのだろうか。
ふと頭をよぎった疑問を、メモのようにくしゃくしゃに丸め、脳の奥へと放り捨てた。
神の恩恵を受けられない彼が、魔力を持たない彼が、何を思って祈るかなんて、知る必要などない。
だが。
スコルの脳裏に、共に生活するシスターや子供たちを、どこか誇らしげに紹介していたアーサーの顔が蘇る。
(……わからねぇ。)
なぜ、あんなにも誇らしげなのか。
なぜ、あんなにも自分を犠牲にできるのか。
なぜ、あいつを《《消えそうだ》》と感じてしまうのか。
はっとして、俯いていた顔を上げた。
「……こんばんは。」
アーサーが、目の前に立っていた。
右手を背に回し、少し身を屈めて、覗き込むように挨拶をした。
スコルは目を見開いたまま硬直し、やがて小さく舌打ちをした。
まったく気配を感じなかった。
どれだけ考え込んでいたのか。それも、この目の前の男のことを。
気に食わない、優男。
自分の限界を知っておきながら、進むことをやめない。
篝火のような男だと、そう思った。
アーサーは、何も言わないスコルの隣に腰を下ろした。
「眠れないのかい?」
囁くような、風にさらわれそうな優しい声。
無性に腹が立つ。
「ガキどもの体温が高くて、出てきただけだ。」
「それを眠れないと言うんじゃないのかな。」
はは、と小さく笑うアーサーを横目で見て、スコルはそっぽを向いた。
足を組み、頬杖をつく。
関わるな、と全身で伝えても、アーサーには効かないようだ。
「僕は、眠れないんだ。」
ぽつり、と零れ落ちる言葉。
「時々あるんだ。そんなときは、いつもここで夜風に当たっていたんだけど……今日は先客がいたね。」
「……。」
アーサーは、笑う。
「僕は教会で祈ってから戻るよ。……君は、もう少しいるかい?」
「……いや……。」
アーサーの問いかけに、短く返答する。
祈り――アーサーは、祈るのか。
脳裏によみがえった疑問を振り払って、スコルは立ち上がった。
「俺は、戻る。もう、冷えた。」
少しの沈黙。
「……そう。」
アーサーの小さな返事を受けて、スコルは踵を返した。
背中に視線を感じながら、スコルは孤児院へと歩いていった。
・・・




