王国と教会とギルドと
痛い。
喉が干からびたように貼り付き、呼吸をするたびに、残された水分さえ奪われていく。
痛い。
どれほどの血を失ったのだろう。
ここまで魔獣に出くわさなかったのは、せめてもの幸運だった。
痛い。
だが、もう限界だった。
アーサー・ウィートリーは、引きずるように足を踏み出した。
鉛のように重い身体。膝は意思に反して笑い、まともに力が入らない。
それでも、進むしかない。
……何で、進むんだっけ。
痛い。
塞がりきっていない傷口には虫が集り、もはや振り払う力すら残っていなかった。
やっと、やっとの思いで獣道を抜け、整備された街道へ辿り着いたというのに、視界は暗く霞んでいる。
アーサーはもう一歩、泥沼に沈むような重い足を踏み出した。
――が、その足は地面を捉えなかった。
ドサリ、と鈍い音がした。
頬に硬い感触が伝わる。
埃と砂、そして僅かに湿った土の生々しい匂い。
どうやら、倒れたらしい。
(……もう、いいや。)
地面に伏したまま、アーサーは呆然とそう思った。
自分の行く末が見えない。
戦争に敗れ、逃げ延び、果たすべき役目を失った。
何のために生きているのか。そもそも、自分が何者だったのかさえ、分からなくなっていた。
霞む視界に映るのは、硬く乾いた地面と砂利。
そして、餌をせっせと解体する蟻たち。
何百とも思える蟻の大群が、一匹の蝶に群がっていた。
羽を引き千切り、胴を解体し、欠片を巣穴へと運んでいく。
その光景には、覚えがあった。
自分にも。
群がる蟻に。
(……嫌なものを、見たな。)
目の前の光景が、徐々に輪郭を失っていく。
暗転していく意識の片隅で、アーサーは甲高い"音"を微かに捉えた。
それを最後に、意識は途絶えた。
・・・
教会の朝は早い。
オルデリオン王国の王都から離れた郊外に、その教会はあった。
小さな教会には孤児院が併設されており、昨今の情勢悪化によって親を亡くした戦争孤児たちを引き取り、共同生活を送っている。
しかし、その暮らしは決して楽なものではなかった。
戦争によって孤児や捨て子が溢れかえる王都では、すべての子供を保護することなど到底できない。行き場を失った子供たちは郊外へと流れ、この小さな教会もまた、そうした子供たちを受け入れていた。
乳児が二人、幼児が三人、児童が三人。
合わせて八人の子供たちを、五人のシスターと一人の神父が、どうにか養っている。
そんな孤児院の傍らに建つ、小さな物置小屋。
その一室で、アーサーは窓から差し込む柔らかな朝日に目を覚ました。
少し硬いベッドの上。
糊の落ちた柔らかなシーツを払いのけ、ゆっくりと上体を起こす。
アーサーがこの教会にやって来たのは、二年前の一月のことだった。
街道で力尽き、倒れていた彼を見つけたのは、偶然そこを通りかかった教会のシスターだったという。
満身創痍のアーサーを目にしたシスターは、自分一人ではどうすることもできず、教会へ助けを求めに戻った。
そして、唯一の男手であるヨハン神父と共に農具運搬用の荷車を引いて戻り、アーサーを教会まで運び込んだのだそうだ。
当時のアーサーは、左腕と左目を失っていた。
左腕は肘から先がなく、体中にある傷には乱雑な処置が施されていた。そのせいか細菌が入り込み、ひどい感染症を患っていたらしい。
シスターたちが医者を呼び、懸命な治療を施したことで、どうにか一命を取り留めた。
それから紆余曲折を経て、アーサーはこの教会に居着くこととなった。
対価は、男手。
女性が大半を占めるこの教会では、力仕事を任せられる人間が一人増えるだけでも、随分と助かるらしい。
シスターたち曰く、女性だけでは何かと苦労が絶えないのだそうだ。
ぼう、と寝ぼけ眼を瞬かせる。
まだ眠気の残る頭を振り、アーサーは窓の外へ目を向けた。
すっかり日は昇っている。
シスターたちは、とうに起きて仕事を始めている頃だろう。
完全に寝坊した。
早く支度をしなければ。
教会の仕事は多い。それはもう、嫌になるほどに。
朝食の準備に洗濯、掃除、その他諸々。シスターたちが家事に追われている間、子供たちの面倒を見るのがアーサーの日課となっていた。
「……まずい、絶対怒っているだろうなぁ。」
慣れた手つきで着替えを済ませ、片手でも装着できる眼帯を着ける。
黄金の髪は少し跳ねているが、直している暇はない。
アーサーは転げ出るように扉から出た。
薄暗い部屋から出たアーサーが、太陽の光に目を細めたその時、
「あー!アーサーお寝坊さん!」
爽やかな朝風が芝生を揺らす中、子供の無邪気な声が響いた。
外に出るや否や、下腹部にぼす、という柔らかい衝撃を受けた。
アーサーの太もも辺りに栗色の小さい頭が見え、その頭はゆっくりと顔を上げる。
「アーサー、おはよ!」
にかっと笑顔で挨拶するのは、アンナという女の子であった。
肩までの髪をおさげにしてもらったのか、ご機嫌な様子でアーサーを抱きしめる。
「おはよう、アンナ。朝から元気だね。」
お転婆で、無邪気なアンナの頭を思わず撫でて、優しい声で挨拶をする。
「アーサーだ!」
「アーサー!起きたよ!」
駆け寄ってくるのは黒髪の男の子シン、くすんだ金髪の男の子レン。
この二人は兄弟で、この教会に引き取られた子供達だった。
「アーサーさん!おはようございます。」
そんな二人の後ろから、修道服の裾を踏まないよう、少し持ち上げながら駆け寄ってくるのは、シスターメアリー。
このシスターメアリーが、アーサーの第一発見者だった。
シンとレンが、アンナに続いて、アーサーへ抱きつくのと同時に、メアリーはアーサーの元へ辿り着いた。
「シン、レン、そしてメアリー、おはよう。ごめんね、寝坊しちゃった。」
シンとレンの頭を順番に撫でながら、アーサーは申し訳なさそうにメアリーに向けて言った。
メアリーは、少し頬を膨らませてジトっとした視線をアーサーへ送り、
「まったくです。今日は炊き出しの準備もあるので、朝から大変だったのですよ?なのに、寝坊して。」
「ははは……ごめんね、本当に。夜眠れなくて……。」
頬を掻きながら、困ったようにメアリーへそう答えた。
メアリーは、その言葉を聞いてふと表情を曇らせた。
「……幻肢痛、というのでしたっけ。それで眠れなかったのですか?」
幻肢痛。
片腕をなくしたアーサーは時折、その症状に悩む時があった。
しかし。
「いや、昨日はただ単に、本が面白くて……その、少し夜更かしを……。」
「……アーサーさん?」
何かを察した子供達が無言で教会へと去っていく。
は、速い。危機管理がちゃんとしている。
「アーサーさーん?」
「……ごめんなさい。」
メアリーの背後から、ズモモ……と得体の知れない威圧感が漂ってくる。
アーサーはすっかり縮こまってしまった。
戦場から命からがら生き延びた戦士も今はすっかりシスター達の尻に敷かれている。




