医者
ニーナに鳥居へ連れて行ってくれと頼まれたカイとタケル。彼女の望みを叶える報酬として、女神やゲリラに関する情報を話すよう取引した。ルカが目を光らせる中、どうにかしてニーナを鳥居まで連れて行こうとするのだが……。
24 医者
ルカの患者たちに女神について聞いて回った四人だったが、有益な情報はやはり少なかった。異様な静けさに沈む地下の廊下で、両脇を病室に挟まれながらレイとカイが声を潜める。
「まともに話ができる奴は居たか?」
談話スペースで本を読むルカがこちらへ来ていない事を確認しながら、レイは声だけをカイに落とした。
「あのニーナって言う女だけだ。女神の他にも司教やゲリラ共の事を全部話すと言って来た」
「ここで話さねえって事は、条件付きか。要求はここから逃がす事だろ」
「……フスモリエにある鳥居まで連れてってくれだってよ」
「は? 鳥居?」
「そこで話すそうだ」
レイは面倒臭そうに髪をかき上げて肩を落とす。
「外に連れ出して吐かせられるだろ。大真面目に言う事聞いてやる必要があんのかよ」
緑の瞳に冷たく睨まれても、カイはただ廊下の奥だけを見つめてぼんやり返すだけだった。
「いや、ああ言う手合いは簡単に吐かねえよ。あいつはきっと……死ぬ気なんだ。死にたい奴は、てこでも動かない」
カイの遠い目に、レイは小さく口角を上げる。
「良いのか? そう言う奴が死ぬと後悔するんだろ? 死にに行かせて良いのかよ」
カイは何も返さずに、ただレイを睨み返していた。そこへタケルがやって来て言う。
「本人が死にたがってんだ。他人に止められねえだろ。けど……」
タケルはニーナの部屋を振り返る。彼女は格子戸に背をもたれてまだ何やら呟いていた。
「あいつに生きていて欲しいと思う奴が一人でも居れば、死なずに済むかも」
「そんな人いるのかな」
何食わぬ顔でタケルのぼやきを斬ったのはアオイだ。
「だって、そう思う人が居ないから捨てられたんだろ? 考えてみれば気の毒な話だよな。利用価値でも何でも良い、必要としてくれる人が居るだけで張り合いがあるのに」
そう言ってレイを見るアオイだったが、その視線はあっさりとかわされた。
そこへ、ついさっきまで椅子に座って本を読んでいたルカがやって来た。
「話は済んだか? 済んだなら畑仕事をやってもらおうか」
ルカの申し出にカイが答える。
「分かった。ただ、俺達もまだ先が長い上に、それほど有用な情報も無かった。だからせいぜい一時間程度の仕事だけだぞ」
「それで十分だ。健康な若い野郎四人がそれぞれ一時間ずつなら、俺とニーナの何倍も仕事が片付く」
満足そうに頷くと、ルカはまっすぐニーナの部屋へ向かう。
「おい、ニーナ。仕事だ。今度こそちゃんと仕事しろよ」
「……分かった」
地上に上がり外へ出ると、昼過ぎの柔らかい日差しが一面の畑を照らしている。改めて眺めてみると、ルカの畑は食材になる作物と、治療に使うのであろう薬草とがしっかり分けて栽培されている。雑草は一本も生えておらず、あのくたびれた医者からは想像できないほど手入れが行き届いていた。
「じゃあ、デカい二人は俺について来てくれ。向こうで力仕事をやってもらう」
「待て、デカい二人はロシア語が分からねえんだ」
カイが言うと、ルカはタケルとアオイを見上げて肩をすくめる。
「たぶん問題ねえだろ。見てれば分かる」
そして薬草畑を示しながらニーナに言った。
「ニーナ、そっちの二人と一緒に花の摘み取りと、干すところまでやっとけ」
「うん」
ルカがタケルとアオイを連れて小屋の裏側へ向かうと、ニーナもカイとレイに薬草畑を示す。
「こっちがハーブの畑なの。ここのハーブはルカが仕事や料理、お茶に使ってる。今からそれを摘んで、紐で縛って干すよ」
「ここの手入れはお前がやってるのか」
小屋の横にある棚から籠を取り出すニーナ。その手を一瞬止めて、カイを見た。
「だいたいね。ルカもやるけど、ルカは患者を診ないといけないから」
ニーナの茶色い目は、カイの背後に広がる畑を泳いだ。夕方前の柔らかい日の光が降り注ぐ畑。そこには雑草の一つもなく、作物は皆青々と生気に満ちている。
「それに……、畑は嫌いじゃないの。銃を持っていた時より楽しい」
「ふうん」
ニーナは二人に籠を渡して畑へ向かった。その後に続くと、広い畑の一角、白い花びらの菊のような花が咲く場所へ来た。爽やかな風に乗って甘酸っぱい香りが三人を包み込む。
「この花を摘んで」
「これは、カモミールってやつか」
白い花を摘んで手に取り、匂いを嗅ぐレイ。この花は北海道でも見た事がある。母親がよくハーブティーにして飲んでいた。
「そう。この花はリラックスする効果があるの。良い香りだよね」
花を摘んで籠に入れて行くニーナは、心なしか楽しそうな顔をしている。ここでの仕事も嫌いではなさそうだ。カイはカモミールの香りを吸い込んで、ふとニーナに言った。
「お前、ここの仕事が気に入ってるのに何で逃げ出そうと思うんだ?」
興味が無さそうに黙々と花を摘んでいくレイの向こうで、ニーナは白い花の中に足を止める。その眼は一面の白を、行く当てもなく泳いでいた。
「……意味ないなって思ったの」
風に消えそうな声だったが、カイには鮮明に聞こえた。
「意味ない?」
「私が生きてる意味なんて、何もないなって。生きるために戦ったけど、そこでも私は不用品だった。ここの仕事は好きだけど、私じゃなくても……誰でも良いでしょ」
「それでここから逃げてどこに行くんだよ」
ニーナは甘酸っぱい香りの籠を抱えて、カイに微笑む。
「神様が居る場所。そこなら私も、意味のある存在になれるかもしれないから」
「……鳥居か」
「うん」
すると、そこへ籠いっぱいに花を摘み終えたレイがやって来た。
「その話が先決だ。とっとと花摘みを終わらせろ」
「もう終わったのかよ」
「兵は神速を貴ぶって言うだろ。仕事は早く終わらせろ」
「……はいはい」
「はいを二回言う暇があったら一本でも多く摘め。お前もだ」
レイの緑の瞳に睨まれ、ニーナは慌てて花を摘んでいく。
「で、どうやってここから出るか計画はあんのかよ、指揮官殿」
花を摘みながら、カイは横目にレイを見た。レイは当然と言わんばかりに腕を組んで小屋の方を一瞥する。
「三十分程度で隙を見て車両へ来いと飯沼に指示した。隙が無ければ勝手に作るだろうから、そろそろ向かってる頃だ。あの医者には今後面倒な動きをされても困るから、仕事だけはそれなりにやれと言ってある」
「……それを俺にも早く言えよ」
「だからさっき言っただろ。ほら、急げよ」
「…………」
そう言うと、レイは素早く花を摘み取ってニーナの籠に入れて行く。
「ありがとう」
「お前が来ないと意味が無い。仕事が遅えぞ」
「う、うん」
全ての籠がカモミールでいっぱいになったところで、小屋の方へは戻らずに三人はそのまま畑の外れに停めてある深緑の車両へ向かった。ルカがどうしているのか分からなかったが、姿は見えなかったのでこちらの動きには気付いていないはずだ。
車の傍には既にタケルとアオイの姿があった。鍵を持っているのがカイなので、二人は車体の影に隠れて待っていたようだ。
「レイ、待ってましたよ!」
満面に笑みを浮かべるアオイをすんなりかわして、レイは鍵が開いた途端に助手席へ乗り込む。タケルは自分が乗り込んだ後、ニーナに手を伸ばした。
「こっちだ」
ニーナの華奢な手が、タケルの大きな手をしっかり掴む。
「全員乗ったな」
バックミラーで後部座席を確認し、カイはエンジンをかけるなり素早くハンドルを切って来た道を戻った。ここまで順調でも、この大きさの車が立てるエンジン音でどのみちルカには気付かれるだろう。それでも一見したところこの小屋周辺に自動車は無い。何かしらで追って来るにしても、すぐには追いつかないはずだ。
五人を乗せた車は木々に飲み込まれそうな細い脇道を進み、海岸沿いの広い道へ出た。そこも緑が浸食しているが、まだ道として機能している。
ニーナは後部座席の窓から外の景色を眺めていた。その眼は希望に満ちて輝いている。日が傾きかけた東の海岸はどこかもの悲しく、これから暗闇がやって来ると言うのに。
「この道をもう少し行けばフスモリエだ。鳥居の場所は分かってんだろうな」
運転席から投げられた声に、ニーナは力強く頷いた。
「大丈夫。海岸に一つあるから、ここを行けば見えるはず」
ニーナのその言葉を信じてカイはアクセルを踏む。時々ミラーを確認するが、まだ追っては来ていないようだ。あの執念深い医者の事だ。地獄の果てまで追いかけると言っていたあの言葉は、嘘ではないだろう。
それから暫く走った時、薄暗くなり始めた海岸に線の細い何かが見えて来た。
「あれよ……、あれが鳥居!」
後部座席ではニーナがタケルを乗り越えて窓に食いつく。タケルは嬉々として鳥居を指さすニーナをなだめて座らせた。
「危ねえぞ」
「やっと、やっとここに来れた……」
涙ながらに笑みを見せるニーナ。彼女が何を言っているのかは分からなかったが、タケルはそんなニーナの頭に手を置いた。
「良かったな」
「…………」
ニーナは聞き慣れない言葉を話す青年を見上げて、小さく頷く。
カイは海岸沿いの道に車を停め、ニーナに言った。
「約束通りここまで連れて来てやった。情報を寄越せ」
だが、ニーナは一刻も早く鳥居に駆け寄りたいようで、既にドアノブへ手を伸ばしている。
「あそこで話すから、早く降ろして!」
興奮してドアノブを引きちぎらんばかりのニーナに、カイは仕方なくドアロックを外した。その途端、ニーナはタケルを乗り越えて外へ飛び出す。あの痩せぎすな体からは想像もできないほどの瞬発力だ。
「あ! 出てったぞ!」
タケルも慌ててその後を追う。
「くそ、やっぱイカレてんのか」
カイは悪態をつきながらタケルを追って運転席から飛び出した。レイとアオイもそれを追うが、ニーナは既に鳥居を潜って海に踏み込んでいた。その勢いは常軌を逸していて、夏とはいえ冷たいはずの海に、すっかり胸まで浸かっている。ニーナはそれでも足を止めず、ただひたすらに何も無い東の海へ突き進んでいた。
「戻って来い!」
カイの声など届いていないようで、ニーナはみるみる海に沈んでいく。
「タケル、引っ張って来い!」
「はいよ」
タケルは鉄パイプをカイに放って海に飛び込んだ。まさかこんな場所でずぶ濡れになるとは思いもしなかったが、貴重な情報ごと死なれては困る。
「いい加減にしろ!」
顔の半分まで水に浸かったニーナの腕を、タケルは思い切り掴んだ。タケルはまだ胸までも浸かっていなかったが、ニーナは呼吸も苦しそうなのにそれでも足を止めようとしない。
「死ぬなら約束を守ってから死ね!」
必死に進もうとするニーナだが、タケルの力に敵うはずもなく引き戻される。
「止めないで! 私は神様の国へ行くの! もう、こんな場所に居たくないの!」
「情報を吐いた後なら止めねえよ! 好きに死ね!」
お互いに言葉は通じていないものの、言わんとする事は何となく分かっていた。
その時、海岸沿いの道に高いエンジン音が鳴り響いくのが聞こえた。タケルとニーナの取っ組み合いを眺めていたレイが振り返ると、ルカが小型バイクに跨ってこちらに向かっているのが見える。
「医者が来たぞ……面倒な事になるな」
「タケルの奴、あんな痩せぎす女くらいさっさと引っ張って来れねえのかよ」
見かねたアオイも鳥居の方へ向かい、暴れるニーナをやっと引っ張って来るタケルに加勢した。タケルが腕を抑え、アオイが足をまとめ上げ、大の男二人でやっと鳥居の下まで連れ戻す。
そこにカイが駆け寄るが、バイクを放り出して飛び込んできたルカに弾き飛ばされた。ルカは怒りの形相でずぶ濡れのニーナを見下ろしていたかと思うと、男二人をそっちのけで彼女の胸倉を掴み上げる。
「このバカ! 死ぬんじゃねえ!」
海岸に横たわっていたニーナは、ルカに掴まれているせいで上半身だけ浮き上がって首をぶらぶらと揺らしている。だが、ルカはそんな事など気にもかけずに烈火のごとく怒り散らした。
「死ぬんじゃねえって、何度言ったら分かるんだ!」
「……ルカ」
目を覚ましたニーナは虚ろな目でルカを見た。無精ひげを生やした男は、いつものやる気のない様子ではなく、目には爛々と怒りを燃やしている。ここまで怒るルカは見た事が無かった。
「……もう、嫌なの……私は……生きていても……仕方ないの」
涙を流すニーナ。ルカに弾き飛ばされたカイは立ち上がり、今にもニーナを絞め殺しそうな勢いのルカへ歩み寄る。
「そいつ、死にたいんだろ」
カイがそう言うと、ルカは底冷えのする目でカイを睨み上げた。
「だったら何だ。俺の患者を殺す権利は誰にもねえ」
そして泣きじゃくるニーナの頬を引っ叩く。
「死ぬな! なんでこんな簡単な事ができねえんだ! 俺が助けてやっただろ! お前は、俺の医者としての腕と、知識と、技術の証明なんだよ! 俺の許可なく死ぬんじゃねえ!」
ニーナは泣くのを止め、黙ってルカを見上げる。薄暗い中でも、目の前の男に滾る力は強烈に感じられた。
「お前は俺の患者だ。俺が優秀な医者だって事の証明なんだよ! お前が生きてなきゃ意味ねえんだよ! 大バカが!」
するとニーナが細々と声を絞る。
「……生きてる意味……あるの?」
「あるって言ってんだろ! 同じ事何度も言わせんじゃねえ!」
「……うん」
「くそ、手間かけさせやがって」
ニーナを掴み上げていた手を放し、ルカは徐に立ち上がった。そしてカイをじっとり睨む。
「よくも騙したな」
だがカイも負けじと睨み返す。
「騙してねえよ。仕事はしただろ」
「俺は薬草を干すところまで頼んだはずだ。終わってねえよ」
「お前から得られた情報だったらあれで充分だ。この女から有用な情報を得られれば、最後までやってやる」
「開き直りやがって。そんなにニーナから情報を得たいなら、死に物狂いで止めろ! 死なせたくねえなら、必死に止めてみろよ!」
海岸に響くルカの声に、カイは何故か反論できなかった。
「仕事は最後までやってもらう。俺はきっちり仕事しねえ奴は地獄の果てまで追いかける性分だからな。情報が欲しければ戻って来い」
そう言ってルカはニーナを引っ張って立たせ、自分が乗って来たバイクの後ろに乗せて走り去る。
海岸に残された四人は、その後ろ姿を見て肩を落とす。そしてアオイが深々と溜息を吐いて言った。
「俺達、何のためにここまで来たんだろうな」
「海水浴じゃん?」
ティーシャツの水を絞りながら、タケルが笑う。その隣で、カイはただじっとルカとニーナが乗るバイクが小さくなるのを見つめていた。
海岸沿いを走るバイク。ニーナは前でハンドルを握るルカの背中にしがみ付いていた。水に濡れたせいか、ルカの背中が温かい。
「ルカ……ごめん」
エンジン音に消えそうな声だったが、ルカからはしっかり返事が返って来た。
「謝るくらいなら最初からやるんじゃねえよ」
「そうだよね……。ねえ、ルカはどうして医者になったの? ランド・ウォーカーが医者になるなんて、普通は無いよ」
この医者に助けられて随分経つが、こんな話をするのは初めてだ。
「俺はな、人一倍諦めが悪いんだよ。医者ほど諦めが悪い仕事はねえだろ。だから医者になった」
「そう、なんだ」
あまりに単純な理由で何を返せばいいのかも分からない。
「諦めるのは簡単だ。けどな、それは負けるって意味だ。だから俺は諦めるのが嫌いなんだよ」
「でも……」
ニーナは恐る恐る声を絞った。
「諦めなきゃいけない時も、あるでしょ?」
ルカからの返事はすぐには来ない。それでも少しして、白衣の向こうから力強い声が言った。
「だからこそ、諦めずに済むことは絶対に諦めねえ」
ニーナはルカの背中に頬を寄せ、そっと腕を回す。
「そっか……」
カイ達は再びあの小屋に来ていた。タケルとアオイが濡れただけで、あの鳥居まで行ったのが馬鹿々々しくも感じたが、カイにはあのルカと言う医者の気迫が今でも焼き付いている。
死なせたくなければ、必死に止めろ。
「おい、ぼうっとしてんじゃねえよ」
そう言ってカイの頭を小突いたのはレイだった。
「痛えな……」
「あの花、さっさと干すぞ。クソ医者の野郎、あれを終わらせない限り女に話をさせないだろ。これでろくな情報じゃなかったら、あの女をもう一回鳥居まで連れて行って気が済むまで海に沈めてやる」
「……止めとけ、地獄の果てまで追っかけられるぞ」
カイ達がしぶしぶカモミールを干している間、タケルとアオイもやり残した仕事に戻る。ルカに頼まれていたのは薪割りと石炭運びだった。タケルからしたら朝飯前だったので、アオイと協力してさっさと終わらせる。
「あの子、そうとう死にたかったんだね」
仕事を終えて切り株に腰かけるアオイ。その隣に同じく腰を下ろし、タケルは薪割り用の小さな斧を近くにある切り株に振り下ろして刺した。
「死にたかったのか、逃げる方法が死ぬしかなかったのか。まあ、俺にはその気持ち、分かんねえけど」
「俺も分からないなあ。死ぬ気になれば何でもできると思うけどね」
その時、タケルの腹から空腹の音が盛大に響いた。
「……腹減った。思えば、ドリンスクを出てから何も食ってねえじゃん。このままじゃ死ぬ」
腹をさするタケルに微笑み、アオイは切り株から立ち上がって満面に笑みを広げる。
「よし! 俺が飯を作るぞ! ドリンスクで教えてもらったボルシチを! 材料も畑にありそうだし!」
「え? でもあのおっさんに許可もらわねえと、また怒り狂って追っかけられるぞ」
「許可もらえば良いんだろ? 行って来る!」
「いや、行って来るって、言葉通じねえだろ!」
「ジェスチャーとかで何とかなるだろ」
思い立ったら行動のアオイが駆け出し、残されたタケルは空腹に腹を抱えながら、きれいに積み上がった薪の山を眺めていた。すると、背後から小さな足音がするのに気付いた。
先ほど切り株に突き刺した斧にさりげなく手を伸ばし、立ち上がると同時に素早く引き抜いて背後に向かって振り上げる。
「うわ!」
タケルが斧を振り上げると、意外にも女の声が短く上がっただけだった。
「お前……」
斧を下ろしたタケルの前には、濡れた服を着替えたニーナが立っている。すっかり落ち着いたようで、海岸で見た狂気じみた様子はない。
「あの時は、止めてくれて……ありがとう」
ニーナが何を言っているのか全ては分からなかったが、ドリンスクでアオイがカイにロシア語で「ありがとう」は何と言うのか訊いていたので、どうやら礼を言っているのは分かった。きっと海で引き上げた時の事だろう。
「ああ、別に。お前、こんなに痩せてんのに案外力あんのな。あれが火事場の馬鹿力ってやつ? って言っても通じねえか」
案の定、ニーナは不思議そうにタケルを見上げている。タケルはどうすれば良いか考えてみたが、とりあえず彼女の頭に手を置いて言った。
「気にすんな」
すると何かしら通じたのか、ニーナは小さく微笑んでタケルを見上げる。そしてタケルの手をそっと掴んで、一言告げる。
「来て」
「え?」
意味は分からないが、ニーナはタケルを森の方へ引き込んでいった。
ルカは困惑していた。あの手の焼ける若者たちがやっと依頼した仕事を真面目にこなし始めたかと思うと、その中の一人が突然やって来て、台所から鍋を持ち出してしきりに何かを言っている。腹をさすったりしているので、どうやら腹が減ったのだろう。鍋を見せたり畑を指で示したりしているので、何か作ると言っているのかもしれない。
「お前、料理ができんのか」
ルカも包丁でものを切るジェスチャーをしながら言う。するとアオイは笑みと共に大きく頷いた。
「しょうがねえな。ただし、畑の物を使うなら俺達の分も作れ」
自分と地下を示して何か言っているルカ。アオイはきっと自分や患者の分も作れと言っているのだろうと解釈し、胸を張って頷いた。するとルカが指で丸印を作ったため、早速畑へ飛び出していく。
外へ出ると、カモミールの仕事を終えたカイとレイが小屋へ戻って来たところだった。
「飯沼、何してんだ。仕事終わったのか」
「勿論ですよ、レイ! 医者に許可もらったんで、今から夕飯にボルシチを作りますよ!」
「話通じたのかよ」
呆れるレイに、アオイはカモミールの残り香を嗅ぎながら近付く。
「だいたいニュアンスで伝わりますよ」
レイは咄嗟に飛び退いてカイの後ろに引き下がった。
「分かったから、さっさと作れ」
「はーい!」
アオイが駆けて行くのを視界の隅に見届けて、二人は小屋に戻る。入ってすぐのテーブルには、一人静かに紅茶を飲んでいるルカが居た。
「今度こそ最後までやったんだろうな」
そう言うルカに頷き、カイは同じく椅子に腰かける。
「やった。あの女はどこだ?」
するとルカは肩をすくめる。
「ウサギの罠を見て来ると言ってた。その内戻ってくんだろ。それより、デカい奴が鍋持って何か言ってやがったが、飯を作るって意味で合ってんのか?」
その問いに溜め息交じりに答えたのはレイだ。
「ああ、合ってる」
「変な野郎だな」
「……ああ、その通りだ」
レイの返答を受けて小さく首を傾げたルカだったが、すぐに紅茶を口に運んで手元の本を広げた。だがそこにカイが割り込む。
「なあ」
ルカは本から視線を上げてカイを見た。カイは眼鏡の向こうの疲れた目を、まっすぐ見つめている。
「あんたの患者に死んだ奴はいねえのか」
「何人かいた」
「そう言う奴らに……何かを託されているような気がする時ってないのか?」
「……どう言う意味だ?」
「目の前で人が死ぬ時、そいつが何かを託していっているような……何かを預けられたような……そんな感じがしないか?」
本を閉じ、ルカはカイの黒い瞳を見返した。
「俺に託してるかどうかは知らねえが、そいつが諦めちまったもんがあったんだと感じる事はある」
「諦めたもの……」
カイの脳裏にいつかのリョウヘイの言葉が浮かぶ。
そんなにやりたい事なら、諦めずに自分でやれば良いだろ。
「諦めざるを得ない時も、確かにあるけどな。お前がそう感じたなら、もしかしたら何か託してるのかも知れねえが。何にせよ、死人に口なしだ」
ルカはそう言って再び紅茶を口に運んだ。
そんな話をしていると、籠に野菜を載せたアオイが戻って来て、鼻歌混じりに台所へ入って行った。そこで初めてカイはタケルが居ない事に気が付く。
「そう言えば、タケルの野郎が居ねえな」
部屋を見回すカイに、レイは目を細めて言った。
「まさか、女を襲ってねえだろうな」
「いや、あいつは馬鹿だが面倒を起こしそうな事はしねえ」
するとそこに噂の男が戻って来た。手には罠で仕留めたウサギを三羽持ち、後ろにニーナを連れている。
「あ、お前らも仕事終わったのか」
ニーナにウサギを渡し、タケルはカイの隣に腰を下ろした。
「とっくにな。お前、何してたんだよ」
カイがニーナとタケルを交互に見て眉を寄せる。一方のタケルは満足そうに笑みを浮かべて椅子にもたれた。
「ウサギを絞める手伝いだよ。おかげでスッキリした」
「は? 何でウサギ絞めてスッキリすんだよ。お前にストレスがあるとは思えねえ」
「あるよ? 俺にだってストレス」
「…………」
怪訝そうにタケルを睨んで黙るカイ。その向こうでレイは頬杖をついて口角を上げた。
「うまくやったな」
タケルもそんなレイに笑顔を返す。
「俺も女から寄って来るみてえだ」
「はは、そうかよ」
二人のやり取りの間に挟まれ、カイは呆れて盛大な溜息を吐いた。
アオイが作ったウサギ肉を使ったボルシチと、ニーナが作ったマカロニが食卓に並んだ。マカロニはひき肉と玉ねぎを炒めたソースが絡んでいて、空腹の四人には充分過ぎるほど食欲をそそる。
「いただきます!」
アオイの軽快な掛け声を合図に、四人はほぼ同時に料理を食べ始めた。ルカとニーナは日本人が作ったボルシチに興味があるのか、最初に赤いスープを口にする。
「うん、なかなか美味いな」
ルカは無精ひげを撫でてしみじみと頷いていた。その様子を見て、アオイも嬉しそうに頷く。言葉は分からなくても通じ合う能力が、この男にはあるようだ。
一先ずいったんの空腹を埋めたカイが、一度フォークを置いてニーナに声をかけた。
「ニーナ、約束通り鳥居に連れて行ったんだ。お前が持ってる情報を出してもらおうか」
ニーナも食器を置き、四人を見て一度頷く。その眼にはどこか固い決心があった。
「分かった」
そう言って一口紅茶を飲み、落ち着いて話し始める。
「私はサハリンの北部出身なの。そこで女神について聞いた事があるわ。女神は……父親が正教会サハリン管区の幹部だった。サハリンでは昔から正教会の力が強くて、大陸とのやり取りが希薄になってからは更に強まったそうよ」
「じゃあ、父親の権力を利用してのし上がったわけか」
カイに頷き、ニーナは神妙な面持ちで続ける。
「私は一回だけ女神を見た事がある。まだ若くて、見た事も無いほど綺麗な人よ。でも、凄く冷酷な性格だって」
冷酷と言う言葉にレイは納得した。ドリンスクで司教から情報を引き出そうとした時のうろたえ様からして、恐らく拷問や懲罰などそうとう苛烈なのだろう。
「女神の目的は何なんだ? まさか、本当にサハリンを日本人から取り返すとか、愛国心だとかじゃねえだろうな?」
「たぶん、本当に取り返したいってだけだと思う。元はと言えば正教会の権力者だったわけだから」
カイの疑問に答え、ニーナはいったんボルシチを口にした。このボルシチは本当によくできている。
「ゲリラ共は? 奴らの弱点を教えろ」
そう言ったのはレイだった。ニーナはレイの事をロシア人だと思っていたので、この男がどうしてゲリラ達を壊滅させたいのか見当もつかなかった。だが、彼らが居なくなれば地上が平和に近付く気がしたので、ありのままに答える。
「弱点かどうかは分からないけど……薬の事なら少しは知ってる」
ニーナは自分の腕をさすりながら話した。
「北部には女神が作った物凄く大きなケシ畑があるんだけど、最近はもっと簡単に作れて依存性も高い薬が中国から渡って来るって。西側の港で受け取ってるって言ってた。一度そこに盗みに入ろうとした人が居て、見付かって酷い死に方をしたそうよ」
「なるほど、そこを潰せばランド・ウォーカー達に支払う報酬が大幅に減るわけか」
「そうだと思う」
中国と言う単語に、カイの頭にはシャンの顔が浮かんだ。あの時のシャンの口ぶりだと、サハリンのゲリラに薬物を渡しているのが中国人だとは知らない様子だった。恐らく中国国内で既に力を失っている共産党は、足元で薬物が売買されている現状を感知できていないのだろう。
「情報収集はもう充分か? 飯が不味くなる話はこれで終わりだ」
黙々とマカロニを食べていたルカが、いかにも嫌そうな顔で言う。だがそこにカイが大事な事を付け加えた。
「いや、最後にこれだけ訊かせてくれ。お前、北部出身だと言ったな。サハリンからロシア本土へ行く方法は何が残ってる?」
するとニーナは表情を曇らせて首を振った。
「知らない。行こうと思った事が無いし、行く人もまず居ないから。でも、中国からは船が来るから、きっと船で行けるんじゃないかな」
「中国方面は戦闘状態で荒れてるって聞いた。できれば東側へ直接向かいたい」
「東ってカムチャッカのこと? 昔は飛行機があったって言うけど、今はそんなもの飛んでないし、船も聞いた事ない。直接は難しいと思うけど」
「そうか……」
カイが溜め息と共に視線を落とした時、ボルシチを飲み終えたルカがスプーンを置いて言う。
「いや、夏だけ船を出す奴が居る。俺はそれでカムチャッカからここへ来たんだ」
微塵も希望を託していなかった男から突然出された情報に、カイとレイは同時にくたびれた医者を見た。確かに、この男は五年ほど前に本土からサハリンへやって来たと言っていた。
「あの馬鹿野郎がまだ女神に殺されてなけりゃ、乗せてくれるかも知れねえな」
「どこに居る何て奴だ?」
食い付くカイに、ルカは平然と答えていく。
「オハに居るキールって奴だ。こいつも俺が助けてやった野郎だから、渋られたら俺の名前を出してみろ。まあ、ランド・ウォーカーに恩を売ったところで無駄だろうが、気が向けば協力するだろ」
「オハ……最北端か」
難しい顔のカイに対して、レイはその緑の瞳の奥に復讐の光を滲ませていた。
「どのみち北へ行くんだ。オハを目指すぞ」
その日の夜、結局四人はルカの小屋に泊めてもらう事になった。地上の小屋にある部屋で一部屋に二人ずつが寝袋を使って休む。カイは暗闇の中、ふと同じ部屋で休んでいるレイを呼んでみた。本当ならタケルと同じ部屋になるはずだったが、レイがアオイと同じ部屋は絶対に嫌だと言って聞かないのでこの組み合わせになったのだ。
「レイ」
「……何だ」
どうやらレイもまだ起きていたようだ。
「お前の親父がカムチャッカへ渡ったかは分からねえんだ。それでもカムチャッカ直行で良いのか。オハまで行くなら東へ行かずに北上する手もある」
「その方が移動距離は圧倒的に短いから難破の危険は減るだろうな。俺もあのクソ野郎がどこへ行ったか定かじゃねえが、思うに、霧が濃い西には戻らねえだろ」
「まあ、メリットは少ねえな。お前の親父ってどんな奴なんだ?」
暗闇の中でレイが寝返りを打つ音がした。
「さあ、俺もあいつの本当の顔は知らねえ。確実に言えるのは自分の利益しか考えねえって事だ」
「……俺たち全員そうだろ」
「だから、強いて言うなら俺たちが行こうとする方向に奴も居ると思う。国のために戦うなんて言う崇高な信念も、同朋に加勢する仲間意識も無い。ただ面倒な争いを避けて何事もなく暮らせる場所を望む」
その思考を辿った時、カイには一つ思い当たる可能性があった。
「まさか……」
「そのまさかも有り得る。奴は職業柄、外国の情報も得ていたはずだ。この地球上で、最も豊かな生活を送っているとされる場所……」
「……アメリカ」
「奴が日本を出たのは十年前だ。とっくにアメリカへ渡っているか、どこかで道草を食ってるかも知れねえ。とにかく、目指すべきは西じゃなく東だ」
「そうだな。どちらにせよ、東へ行かなきゃなんねえんだ」
カイはゆっくり目を閉じた。
目を閉じると、朝日の中で眠りについた海の笑顔が浮かんできた。




