最終章 救国の聖女と真実の愛
リベカは、ウィリアムの寝顔を見つめていた。
回復魔法を施してから、すでに一時間ほどが経っている。先ほどまで苦しげに上下していた胸は穏やかな呼吸を繰り返し、眉間に寄っていた皺も消えていた。額に触れて熱が下がっていることを確かめると、リベカは乱れた前髪を指先で整えた。
寝台の脇には、飲みかけの水が置かれている。その隣には、侍医が用意した治療薬の小瓶があった。
リベカは瓶を手に取り、残された薬液を窓から差し込む月明かりに透かした。薄く色づいた液体は、以前と変わらない透明度を保っている。
これが完成したと聞いたとき、彼女は心から喜んだ。
灰蝕病によって苦しむ人々が救われる。浄化の力だけでは治せなかった病が、ようやく治るのだ。聖女として、それを喜ばない理由などなかった。
実際、各地から届く回復の報告を聞くたびに、リベカは安堵していた。病床に伏していた者が家族のもとへ戻り、仕事を再開し、以前の生活を取り戻していく。自分の力では救いきれなかった人々を、フランシスカたちが完成させた治療薬が救ってくれた。
ただ一人、ウィリアムだけは違った。リベカは小瓶を元の場所へ戻し、彼の手に触れた。
「……殿下」
呼びかけても返事はない。眠りを妨げないように声を落とし、彼女はその手を両手で包んだ。
ウィリアムが病に倒れてから、二人で過ごす時間は増えた。
以前は王太子としての公務に追われ、会えるのは限られた時間だけだった。リベカにも聖女としての務めがあり、互いの予定が合わず、顔を合わせられない日も珍しくなかった。
それでも、彼はいつも彼女を気遣ってくれた。忙しい合間を縫って会いに来てくれることもあれば、彼女が神殿での務めを終えるまで待っていてくれる。ウィリアムは穏やかで、誠実で、誰に対しても分け隔てなく接する人だった。
リベカは、そんな彼を愛していた。自分のために王太子妃となるはずだった女性との婚約を解消し、周囲の反対や戸惑いを受け止めながら、それでも自分を選んでくれた。あのときの喜びは、今でも鮮明に覚えている。
だからこそ、彼が病に倒れたときは恐ろしかった。
何度回復魔法を施しても、灰蝕病によって変化した身体は元に戻らない。熱を下げ、痛みを和らげることはできても、しばらくすれば再び症状が現れる。自分には聖女の力があるというのに、愛する人を治すことができない。治療薬の完成は、その恐怖から彼女を解放するはずだった。
けれど、王宮に届けられた薬を前にしたとき、リベカの胸に浮かんだのは、喜びだけではなかった。
治療薬を飲めば、ウィリアムは回復する。やがて寝台を離れ、再び公務へ戻るだろう。王太子としての仕事に追われ、以前のように忙しい日々を送ることになる。
それは、彼が望んでいた生活であり、リベカも、そのことをよく知っていた。
彼がどれほど国を大切に思い、王太子としての責任を果たそうとしてきたか。自分の体調よりも民の暮らしを案じ、療養中でさえ政務の報告を求めていたことも知っている。
リベカは、眠るウィリアムの指をそっと撫でた。
病に倒れてからの彼は、いつも自分を待っていてくれた。神殿から戻れば安堵したように微笑み、回復魔法を施せば感謝の言葉を口にする。体調の良い日には他愛のない話をし、苦しい日には彼女の手を求めた。
彼にとって、リベカは必要な存在だった。
聖女としてではなく、愛する人の苦痛を和らげられる、ただ一人の存在として。
そのことが、嬉しかった。
最初に治療薬を手にした日のことを、リベカは思い出した。
侍医が薬の説明を終え、ウィリアムが服用する直前だった。彼女は小瓶を受け取り、祈りを捧げたいと申し出た。
誰も疑わなかった。聖女が病人の回復を祈ることは、ごく自然なことだったからだ。
リベカは薬液を両手で包み、静かに目を閉じた。皆の前では祈りを捧げるだけにとどめ、誰の目も届かなくなってから、掌に淡い光を灯した。
浄化の力は、瘴気を祓うためのものだった。彼女はその性質を誰よりもよく理解していたし、治療薬が瘴気に由来する成分を利用していることも知っていた。薬の保管場所や取り扱いについて、フランシスカたちが細心の注意を払っていたことも覚えている。
だから、ほんのわずかに力を込めた。
薬液に含まれる成分を、すべて祓ってしまわないように。
治療薬としての働きを残しながら、その効果だけを弱めるように。
掌の中に淡い光が生まれ、すぐに消えた。ウィリアムは彼女の祈りに感謝し、何の疑いもなく薬を飲んだ。
リベカはその姿を見守りながら、胸の奥で何かが静かに落ち着いていくのを感じていた。
彼はきっと、少しずつ良くなる。熱が下がる日もあれば、身体が軽く感じられる日もあるだろう。けれど、以前のように政務へ戻れるほどには回復しない。
苦しい日には、自分が癒やしてあげればいい。
彼が望むなら、何度でも。
リベカはその日から、治療薬が用意されるたびに祈りを捧げた。薬液に触れる機会があれば、誰にも気づかれないほどの力で浄化を施した。量を誤れば治療薬としての効果が失われ、不審に思われるかもしれない。何より、ウィリアムを必要以上に苦しめることは望んでいなかった。
彼には生きていてほしかった。痛みのない時間を過ごし、食事を楽しみ、穏やかに笑っていてほしかった。
ただ、そのために自分を必要としていてほしかった。
ふと、廊下に立っていたアルベルトの姿が脳裏をよぎった。
あの日、祈りを終えて顔を上げたとき、柱の陰からこちらを見つめる彼と目が合った。アルベルトはわずかに口角を上げ、目を伏せたあと、小さく手を振って立ち去った。
その後、ウィリアムの回復が思うように進まない原因について調査が行われた際、アルベルトは自ら進んで、特に不審な点は見当たらなかったと証言した。さらに、兄には静かな環境で療養してもらうべきだとして、リベカと二人で過ごす時間を増やすよう進言した。
兄が回復しなければ、王太子の地位はいずれ自分に移る。アルベルトにとって、ウィリアムの療養が続くことは決して不都合ではない。あの日、彼が何を見たのかは分からない。ただ、リベカには、彼が真実を確かめるつもりなどないように思えた。
アルベルトが王太子となった今も、あの日のことが二人の間で話題に上ることはなかった。彼は顔を合わせれば以前と変わらず礼儀正しく接し、兄をよろしく頼むと穏やかに微笑んだ。
リベカもまた、何も知らないふりをして微笑み返していた。
リベカは寝台のそばに置かれた椅子へ座り直した。
ウィリアムが王太子の地位を退いたとき、彼女は胸が痛んだ。彼がどれほど悩み、どれほど責任を感じていたか、すぐそばで見てきたからだ。弟に役目を譲ると決めたあとも、彼は何度も政務のことを口にしていた。
そのたびに、リベカは彼を慰めた。
十分に務めを果たしてきたのだから、今は身体を休めてほしい。アルベルト殿下がきっと立派に務めてくださる。焦らず、ゆっくり回復を待ちましょう。
それは、彼を安心させるための言葉だった。そして、リベカ自身が望んでいることでもあった。
王太子でなくなったウィリアムには、以前のように多くの人々が面会を求めることもなくなった。政務の報告は減り、寝室を訪れる者も限られるようになった。
彼の一日は、静かになった。
リベカが神殿での務めを終えて戻ると、彼はいつも顔を上げた。
「お帰り、リベカ」
その声を聞くたびに、彼女は満たされた。
自分が帰る場所には、必ず彼がいる。
彼が待っているのは、自分なのだ。
それでも、ウィリアムが幸せそうにしている日ばかりではなかった。
体調の良い日には窓の外を眺め、庭園の木々や季節の移ろいについて話すこともあった。
けれど、翌日には胸の痛みや息苦しさで起き上がれなくなることもある。治療薬を飲んで少し落ち着いても、思うように身体が動かず、彼は疲れたように目を閉じた。
リベカが回復魔法を施すと、彼はいつも礼を言った。
その言葉が、以前よりも小さくなっていることには気づいていた。
ある夜、ウィリアムは彼女に尋ねた。
「君は、疲れないのかい」
リベカは微笑んで首を振った。
「私が望んでしていることです」
「私は、いつまでこうしているのだろう」
その問いに、彼女は答えられなかった。
治療薬が完成したとき、彼は再び歩けるようになることを信じていた。二人で庭園を散歩する約束を、何度も口にしていた。
リベカも、その約束を覚えている。
彼と手をつないで庭園を歩くことを想像したことは、何度もあった。陽の当たる小道をゆっくりと進み、花の名前を尋ねられたら答える。彼が疲れたら、木陰の椅子で休めばいい。
そんな時間が訪れたら、どれほど幸せだろう。
けれど、その先を考えると、胸が締めつけられた。
庭園を歩けるようになれば、次は王宮の外へ出たいと言うかもしれない。もっと身体が良くなれば、何か仕事をしたいと考えるかもしれない。
彼は、誰かの役に立つことを喜ぶ人だった。
たとえ王太子でなくなっても、その性質は変わらないだろう。
リベカは彼のそういうところを愛していた。
だから、恐ろしかった。
彼が再び自分の足で歩き始めたとき、自分は今と同じように必要とされるのだろうか。
もちろん、ウィリアムが彼女を愛していないと思ったことはない。彼は何度も愛を伝えてくれたし、彼女の手を取り、将来をともにしたいと願ってくれた。
けれど、愛していることと、必要としていることは違う。リベカは、その違いを知ってしまった。
病床の彼は、彼女がいなければ苦痛を和らげることができない。ほかの誰にも代わることのできない力を、自分だけが持っている。
それは、どんな愛の言葉よりも確かなものに思えた。
「……リベカ」
小さな声がして、彼女は顔を上げた。
ウィリアムが目を覚ましていた。
「起こしてしまいましたか」
「いや……少し、喉が渇いて」
「すぐにお持ちしますね」
リベカは水差しから杯へ水を注ぎ、彼の背に手を添えて身体を起こした。ウィリアムはゆっくりと水を飲み、息を整えてから寝台へ戻った。
「ありがとう」
「お加減はいかがですか」
「今は、ずいぶん楽だよ」
彼は微笑んだが、すぐに視線を落とした。
「今日は、何もできなかったな」
「そんなことはありません。お食事も召し上がれましたし、こうしてお話もできています」
「そうだね」
ウィリアムはしばらく黙っていた。
「明日は、もう少し調子が良いといいのだけれど」
「きっと大丈夫です」
「君には、いつもそう言ってもらっているね」
彼は困ったように笑った。
「少し良くなって、また苦しくなって。その繰り返しにも、疲れてしまったよ」
リベカは寝台の端に腰を下ろし、彼の手を取った。
「殿下は、何も心配なさらなくてよいのです」
「でも、君にばかり負担をかけている」
「負担だなんて、思ったことはありません」
「そう言ってくれるのは嬉しいけれど……私は、君にも自分の人生を大切にしてほしいんだ」
リベカの指が、わずかに止まった。
「私の人生、ですか」
「ああ。君には聖女としての務めもある。私のために、何もかも犠牲にする必要はないんだよ」
ウィリアムは彼女の手を握り返した。
「私がもっと元気になれば、君の負担も減るのにね」
リベカは答えず、彼の顔を見つめた。
ウィリアムは本当に優しい人だった。自分が苦しいときでさえ、彼女のことを案じている。その優しさを知っているからこそ、リベカは彼を愛していた。
彼は、何も知らない。
自分が治療薬に何をしたのかも、なぜ思うように回復しないのかも。
侍医たちは原因を探し続けた。しかし、治療薬の効果には個人差がある。すべての患者が完全に回復するわけではない。そう説明されるたびに、彼女は静かに胸を痛めた。
そして、次の薬が用意されれば、また祈りを捧げた。
ウィリアムの身体がこれ以上苦しまないように。けれど、自分を必要としなくなるほどには回復しないように。
その二つの願いは、彼女の中で少しも矛盾していなかった。
「リベカ?」
ウィリアムが不思議そうに彼女を見た。
「どうしたんだい」
「いいえ。殿下がお優しいので、少し嬉しくなってしまいました」
「そんなことを言うのは、君くらいだよ」
彼は小さく笑った。
リベカも微笑み、彼の額に手を添えた。
「少し、お疲れのようですね。もう一度、回復魔法を使いましょうか」
「いや、今は大丈夫だよ。君も休んでほしい」
「私は大丈夫です」
リベカはそう答えたが、ウィリアムは首を振った。
「いつも私のために無理をしているだろう。少しは自分のことも考えてくれ」
その言葉に、リベカは目を伏せた。
自分の幸せのことなら、ずっと考えている。彼が病に倒れてから、毎日、何度も。
神殿で祈りを捧げているときも、人々に回復魔法を施しているときも、王宮へ戻る馬車の中でも、考えているのは彼のことばかりだった。
今日の体調はどうだろう。苦しんではいないだろうか。自分が戻るまで、待っていてくれるだろうか。
そして、これから先も。
リベカは彼の手を持ち上げ、そっと頬に当てた。
「殿下。私は、殿下のおそばにいられることが何よりも幸せなのです」
「リベカ……」
「ですから、どうかお気になさらないでください」
ウィリアムはしばらく彼女を見つめていたが、やがて諦めたように微笑んだ。
「ありがとう。君がいてくれて、本当によかった」
その言葉に、リベカは満足そうに目を細めた。
窓の外では、夜の庭園が月明かりに照らされていた。二人で歩くと約束した小道も、今は静まり返っている。
いつか、彼とあそこを歩く日が来るかもしれない。その日が来なくても、構わなかった。
彼がここで穏やかに過ごし、自分の帰りを待っていてくれるのなら、それだけで十分だった。
リベカはウィリアムを寝台へ横たえ、掛布を整えた。彼が眠りにつくまでそばに座り、指先に残る温もりを確かめるように、その手を握り続けた。
やがて呼吸が落ち着いたのを見届けると、彼女は寝台の脇に置かれた治療薬へ視線を向けた。
明日の朝も、侍医が新しい薬を持ってくるだろう。
リベカは小瓶にそっと手を伸ばし、掌の中に包んだ。
淡い光が、ほんの一瞬だけ指の隙間から漏れた。
光が消えると、彼女は何事もなかったように小瓶を元の場所へ戻した。薬液の色も量も、先ほどと変わらない。
リベカは再びウィリアムのそばへ戻り、その寝顔を見つめた。
「おやすみなさい、殿下」
彼の頬に触れ、静かに微笑んだ。
「殿下は、私だけのものですから」




