第一章 真実の愛と婚約解消
「君との婚約を解消しようと思っている」
ウィリアム・フォン・エーレンフェルト王太子の言葉に、フランシスカ・アルテンベルクは、やはりそう来たかと思った。
王太子から正式に話があると告げられ、王宮の一室へ呼ばれたのは、つい先ほどのことだった。室内にはウィリアムのほか、婚約に関する手続きを担当する王宮の役人が控えている。その顔ぶれを見た時点で、フランシスカは話の内容をおおよそ察していた。
二人の婚約は王家とアルテンベルク家の間で取り決められたものだった。長年の付き合いによって一定の信頼関係は築かれていたが、そこに熱烈な恋愛感情があったかと問われれば、フランシスカには肯定できなかった。
婚約とは、将来の王と王妃が協力して国を治めるための約束である。少なくとも彼女は、そのように理解していた。しかし、ウィリアムは違ったらしい。そのことに気づいたのは、新たな聖女が王国に現れてからだった。
王国において、聖女とは特別な存在だった。
古くからこの国では、土地や大気に瘴気が発生することがあり、その影響を受けた土地では作物が育たなくなり、人々の健康にも害が及ぶとされていた。
瘴気の浄化は神殿に属する神官たちの重要な職務だったが、その力には限界があり、広範囲に発生した瘴気や、長く土地に留まった濃い瘴気を完全に祓うことは難しかった。
そんな問題に、一筋の光をもたらす存在が、聖女だった。
聖女は一つの時代に一人しか現れず、その浄化能力は通常の神官とは比較にならない。神官が数人がかりで何日も費やす浄化を、短時間で終えられることもある。
そのため王国では、聖女が現れると神殿と王宮が協力し、各地の瘴気の状況に応じて派遣先を決定する仕組みが整えられていた。
「北部の浄化要請が、また増えていますね」
フランシスカは、机の上に広げられた報告書へ目を落とした。王宮の執務室には各地の神殿から届けられた記録がまとめられており、瘴気の発生場所や浄化に要した日数などが細かく記されている。
向かい側に座るウィリアムは、別の報告書を確認しながら頷いた。
「神官の数が足りないそうだ。南部でも同じような報告が上がっている」
「浄化能力のある神官を増やすことは難しいのでしょうか」
「神殿も育成を進めているが、誰にでも習得できる力ではないからな。適性のある者を見つけるだけでも時間がかかる」
「……そうですか。でしたら、現状では派遣の優先順位を見直す必要がありますね。被害の大きさだけでなく、周辺地域への影響も考慮した方がよろしいかと」
「その件は神殿とも協議している。次の会議で君の意見も聞かせてもらえるかな」
「承知いたしました」
フランシスカは報告書の該当箇所に印をつけた。
彼女は将来の王妃となることを前提に、幼い頃から政治や行政、外交、貴族社会の慣習について教育を受けてきた。王太子妃教育の一環として一部の実務にも触れており、こうしてウィリアムと資料を確認する機会も少なくなかった。
そんな、ある日のことだった。
「新しい聖女の認定が正式に決まったよ」
ウィリアムが報告書を見ながら言った。
「神殿からの報告ですか」
「ああ。リベカ・グラナートという男爵令嬢だ。すでに浄化能力の確認も終わっている。来週には王宮へ挨拶に来る予定だ」
「それは喜ばしいことですね」
フランシスカは素直にそう答えた。先代の聖女が職務を退いてから、神官たちの負担は増えていた。新たな聖女の出現は、王国全体にとって大きな朗報である。
「神殿では、早速いくつかの地域への派遣を検討しているそうだ」
「能力の確認が済んだばかりなのでしょう。最初から無理な日程にならなければよいのですが」
「その点は私からも伝えておくよ」
ウィリアムはそう答えると、次の資料へ手を伸ばした。フランシスカも作業に戻った。
このときの彼女にとって、リベカ・グラナートという名前は、王国に新たな聖女が現れたという報告の一部にすぎなかった。
リベカが王宮へ姿を現したのは、それから数日後のことだった。
神殿の関係者に伴われて謁見の場に現れた彼女は、華美な装いをしているわけではなかった。清潔に整えられた衣服を身につけ、周囲の指示に従って礼を取る姿には、慣れない場所へ招かれた者らしい緊張が見て取れた。
しかし、国王から聖女としての職務について問われると、リベカは顔を上げ、落ち着いた声で答えた。
「私にどこまでのことができるのか、まだ分からない部分もございます。ですが、神官の皆様に教えていただきながら、できる限りのお務めを果たしたいと思っております」
その言葉に大げさな決意の表明はなく、自分の力を誇示する様子もない。
聖女は本人が望むかどうかにかかわらず、周囲から特別な扱いを受ける立場である。しかし、少なくとも目の前の女性は、その立場に浮かれているようには見えなかった。
謁見が終わった後、ウィリアムは神殿の関係者とともにリベカへ声をかけていた。今後の浄化活動について確認しているらしく、リベカは時折頷きながら、手元の資料を指して何かを尋ねている。
フランシスカはその様子を見届けると、予定されていた王太子妃教育のためにその場を離れた。
新たな聖女の活動は、ほどなくして各地から報告されるようになった。
歴代の聖女は平民出身者が多く、教会の方針に従って務めを果たすことがほとんどだった。
一方、貴族の家に生まれ、幼い頃か教育を受けていたリベカは、教会の方針にただ従うだけでなく、自ら意見を述べることもあった。
リベカは神官たちとともに瘴気の発生地域へ赴き、経験を重ねるにつれて現場の状況を理解し、自ら必要な作業を判断できるようになったという。
ある地域では、浄化を急ぐ神官に対し、住民の避難状況を確認してから作業を始めるよう提案し、また別の地域では、浄化後も体調を崩している住民が必要な手当てを受けられるようにしたと報告されていた。
いずれも特別に目立つ功績ではない。しかし、現場で働く者として重要な判断だった。
「聖女様は、随分とよく働いていらっしゃるのですね」
フランシスカがそう言うと、ウィリアムは嬉しそうに顔を上げた。
「ああ。本人はまだ学ぶことばかりだと言っているが、神官たちからの評判も良い。自分にできることを探して、休む間も惜しんでいるそうだ」
「休息も職務のうちです。聖女様が無理を重ねてお身体を壊されないか心配ですわ。それに、倒れられては、かえって神殿の負担も増えてしまいます」
「私もそう言ったのだが、なかなか聞いてくれなくてね」
ウィリアムは困ったように笑った。その表情を見て、フランシスカは少し意外に思った。公務に誠実な人物ではあったが、誰かの働きについてこれほど楽しそうに話すことは珍しかった。
「殿下は、聖女様とよくお話しになるのですね」
「ああ。浄化活動の報告を受ける機会が多いからな。彼女は現場のことを詳しく話してくれる。報告書だけでは分からないことも多い」
「それは有意義なことです」
フランシスカはそう答えるしかなかった。
王太子が聖女と交流を持つこと自体に問題はない。ただ、その後もウィリアムがリベカについて語る機会は増えていった。
浄化活動で疲れているにもかかわらず、王宮での報告を丁寧に行っていたこと。初めて訪れた土地で、住民たちから感謝されて戸惑っていたこと。神官から教わったことを忘れないよう、細かくまとめていること。
話題は次第に、聖女としての実績だけでなく、リベカという女性自身へ移っていった。フランシスカは、その変化を見逃してはいなかった。
ある日の午後、フランシスカは王宮の廊下でウィリアムとリベカが話しているところに行き会った。
二人は窓際に立ち、何かの書類を見ながら言葉を交わしていた。
「ですから、神官の方々にも同じ説明をしていただけると助かります。私だけでは、どうしても伝えきれないことがあるので」
「分かった。神殿側にも確認しておこう」
「ありがとうございます、殿下」
リベカが礼を述べると、ウィリアムは穏やかに微笑んだ。
「君はいつも、自分のことより周囲のことを考えているな」
「そんなことはありません。私一人では何もできませんから、皆様に助けていただいているだけです」
「そういうところを尊敬しているんだ」
リベカは少し驚いたように顔を上げ、それから照れたように微笑んだ。
仕事の話をしていることは間違いない。しかし、二人の間にある親しさは、単なる公務上の関係とは異なって見えた。
その時、フランシスカに気づいたリベカが、慌てて姿勢を正した。
「フランシスカ様。ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません」
「いいえ。お仕事のお話をされていたのでしょう。お気になさらないでください」
フランシスカは礼を返し、ウィリアムへ視線を移した。
「殿下、先日ご相談した件について、後ほどお時間をいただけますか」
「ああ。夕刻なら時間が取れるよ」
「承知いたしました。それでは失礼いたします」
その場を離れながら、フランシスカは先ほどの二人の様子を思い返した。
ウィリアムがリベカに好意を抱いていることは、おそらく間違いない。リベカの方も、彼に対して特別な感情を持っているように見えた。
しかし、王太子にはすでに婚約者がいる。仮に二人が愛し合っていたとしても、婚約の解消には両家の合意が必要であり、教育や人事、貴族社会との調整にも影響が及ぶ。
フランシスカが気にかけていたのは、ウィリアムが王太子として、その問題をどこまで理解しているかということだった。
そして今、その答えが示されようとしていた。
「私はリベカを愛している。彼女も私の気持ちに応えてくれた。だから、彼女を正式な伴侶として迎えたいと思っている」
ウィリアムはフランシスカを正面から見つめ、そう告げた。フランシスカはすぐには返事をしなかった。
「聖女様を、ですか」
「ああ」
「その場合、王家とアルテンベルク家の婚約を解消するだけでは済みません。王太子妃としての教育や、これまでの両家の取り決めについても見直す必要があります」
「分かっている」
「聖女様が王太子妃となられるのであれば、神殿との関係も改めて整理しなければなりません。聖女としての職務と王太子妃としての役割を、どのように両立させるおつもりですか」
「神殿とも協議を始めている。リベカには王太子妃としての教育を受けてもらうつもりだ。もちろん、聖女としての仕事を辞めさせるつもりはない」
ウィリアムは迷いなく答えた。少なくとも、衝動的に婚約を破棄しようとしているわけではないらしい。
「アルテンベルク家への説明は、すでにお済みでしょうか」
「父上から正式に話を通していただくことになっている。君の家に不利益が生じないよう、できる限りの配慮をするつもりだ」
「そうですか」
フランシスカは膝の上で手を重ねた。
婚約が決まって以来、彼女は王太子妃となるために多くの時間を費やしてきた。それらが突然不要になることに、何も感じないわけではない。
しかし、ウィリアムの気持ちを変えるために何かをしようと思うほど、彼との婚約に情熱を持っていたわけでもなかった。
「殿下のお考えは分かりました」
「……すまない、フランシスカ」
「謝罪はお受けいたします。ただ、婚約は殿下と私だけの約束ではございません。正式な解消については、両家の協議を経て決定していただく必要があります」
「ああ。そのつもりだ」
「でしたら……私から申し上げることはありません」
ウィリアムはわずかに眉を寄せた。
「君は、怒っていないのか」
「驚いてはおります」
フランシスカは正直に答えた。
「ですが、殿下がご自身の意思で決められたのであれば、私が感情的に反対しても解決にはならないでしょう」
「君には、本当に申し訳ないことをしたと思っている」
「殿下がそうお考えなら、今後の手続きを誠実に進めてください。それが私とアルテンベルク家に対して、殿下がなさるべきことだと思います」
ウィリアムはしばらく彼女を見つめ、それから静かに頷いた。
「分かった。約束する」
フランシスカは席を立ち、正式な礼を取った。
それまで何度も顔を合わせてきた婚約者に対して、改めて王太子への礼を取ることに、フランシスカはどこかぎこちなさを感じた。
婚約解消に向けた協議が進む間、フランシスカは王太子妃教育の予定を整理し、これまで担当していた資料や記録の引き継ぎを進めていた。
王家とアルテンベルク家の間で調整しなければならない事柄は多く、彼女自身も必要な説明を求められることがあった。
そのような折、リベカから面会の申し出があった。
フランシスカは少し考えた末、応じることにした。リベカが案内された部屋へ入ってくると、フランシスカは立ち上がって迎えた。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
「どうぞ、お掛けになってください」
リベカは勧められた椅子に腰を下ろしたものの、落ち着かない様子で両手を重ねていた。
「今日は、フランシスカ様に直接お詫びを申し上げたくて参りました」
フランシスカは黙って続きを待った。
「私と殿下のことで、フランシスカ様に大変なご迷惑をおかけしました。殿下に婚約者がいらっしゃることは、最初から存じておりました。それなのに、殿下のお気持ちを受け入れてしまいました」
リベカは深く頭を下げた。
「本当に、申し訳ございません」
フランシスカは彼女を見つめた。言い訳をする様子はなかった。聖女としての立場を持ち出すことも、自分たちの恋愛が特別なものであると主張することもない。
「お顔を上げてください、リベカ様」
リベカはゆっくりと顔を上げた。
「謝罪のお気持ちは受け取りました」
「ありがとうございます」
「ただ、婚約の解消は殿下ご自身が決断されたことです。王家とアルテンベルク家の問題については、両家の間で整理することになります。リベカ様がすべての責任を負う必要はありません」
「ですが、私にも責任はあります」
「ええ。それは否定いたしません」
リベカは一瞬、言葉に詰まったようだった。フランシスカは声を荒らげることなく続けた。
「だからこそ、今後は殿下とともに、その責任を果たしていただきたいのです。王太子妃という立場には、多くの務めがございます。聖女としてのお仕事も続けられるのでしょう?」
「はい。神殿の皆様とも相談しております。王太子妃としての教育も、これから受けることになりました」
「慣れないことも多いと思います」
「そうですね。正直に申し上げると、不安はあります。これまで学んできたこととは、まったく違うことばかりですから」
リベカは困ったように微笑んだ。
「ですが、殿下にご迷惑をおかけしないよう、できる限り努力するつもりです」
「殿下のためだけではありませんわ」
フランシスカは静かに言った。
「王太子妃は、王国のために務める立場でもあります」
リベカは背筋を伸ばした。
「はい。おっしゃるとおりです。申し訳ございません」
「謝る必要はありません。これから学んでいただければよいことです」
フランシスカは少し表情を和らげた。
「聖女としてのご活動については、以前から報告を拝見しております。各地の神官の方々も、リベカ様の働きを高く評価していらっしゃるようですね」
「それは、皆様に助けていただいているだけです」
「それでも、実際に現地へ赴き、浄化を行っていらっしゃるのはリベカ様です。その功績まで遠慮なさる必要はありません」
リベカは驚いたようにフランシスカを見た。
「……ありがとうございます。フランシスカ様にそう言っていただけるとは、思っておりませんでした」
「私とリベカ様の間にあった問題と、聖女としてのお働きは別のことですから」
フランシスカはそう答えた。リベカはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「私、これからも聖女としての務めを果たしてまいります。王太子妃としても、少しずつ学んでいきたいと思います」
「ええ。そうなさってください」
二人はそれ以上、婚約破棄について話さなかった。
面会を終えたリベカが退出すると、フランシスカは机の上に置かれていた資料へ視線を戻した。
リベカ・グラナートは、少なくとも自分が想像していたような、王太子の寵愛を当然のものとして振る舞う女性ではなかった。彼女は自分の立場を理解しようと努めており、聖女としての仕事にも真面目に取り組んでいる。王太子妃として十分な能力を身につけられるかどうかは、今後の教育次第だろうが、それは本人の誠実さとは別の問題である。
それでも、フランシスカは少し安心したように息を吐いた。
やがて、王家とアルテンベルク家の協議がまとまり、婚約の解消が正式に決定した。フランシスカは王太子妃候補としての立場を離れ、それまで受けていた教育も終了することになった。
最後の引き継ぎを終えた日、彼女は長く使用してきた王宮の執務室を見渡した。机の上には、整理を終えた資料が積まれている。
王太子妃となるために学んできた知識が、すべて無駄になったとは思わない。政治や行政についての理解は、王宮を離れたからといって失われるものではない。
「フランシスカ様、準備が整いました」
侍女が扉の向こうから声をかけた。
「ありがとう。今参ります」
フランシスカは最後に室内を確認し、机の上に置かれていた書類の端を揃え、静かに扉を閉めた。
王宮では、ウィリアムとリベカの新たな生活に向けた準備が進められていた。リベカは王太子妃教育と神殿での浄化活動を両立させ、ウィリアムも彼女を正式な伴侶として迎えるための調整を続けているという。
フランシスカはアルテンベルク家へ戻ると、以前から気にかけていた各地の瘴気に関する資料を改めて読み返した。
王太子妃となる道は閉ざされたが、王国に暮らす一人の貴族として、考えるべき問題はいくらでも残されていた。




