ラウンド3
ホセ・ガルシアを2ラウンドKOで沈めた小原健太は、その圧倒的な勝利から翌々日には日本へと帰国した。
成田空港に到着するやいなや、彼の前に立ちはだかったのは、凄まじい数の報道陣だった。一斉にフラッシュが焚かれ、マイクが突き出される。その熱狂ぶりは、まるで新時代のスーパースターの凱旋そのものだった。
「小原選手! 世界初戦での快勝、今の心境は?」
「次戦のマイク・スペンサー戦に向けて意気込みを!」
健太は、リング上での冷静さとは裏腹に、私生活では極度の緊張と人見知りを発揮する。苦手な取材を避けたい一心で、彼はただ一言、二言を繰り返すのみだった。
「...あの、次も頑張ります」
「...応援ありがとうございました。次も頑張ります」
報道陣の質問には、全て「頑張ります」の一辺倒で応じ、宮田聡とジムのスタッフに守られるようにして、なんとか空港を後にした。
世界トーナメント準決勝、マイク・スペンサーとの試合は3か月後に予定されていた。ガルシア戦での消耗は少なかったが、宮田は健太の心身の疲労を考慮していた。
「健太、ダメージはほとんどないが、過度な緊張状態が続いていた。次の合宿に入る前に、一旦リセットが必要だ」
宮田はそう言って、健太に10日間は完全な休みにすると告げた。この突然のオフは、ストイックなボクシング漬けの生活を送ってきた健太にとっては、戸惑いのあるものだった。
そんな健太に声をかけたのが、高校時代の同級生だった。
「健太、お疲れ! すごい試合だったな。ちょっと息抜きに、みんなで集まって飲み会やるんだけど、来ないか?」
健太は一瞬ためらったが、宮田に休息を命じられた今、気分転換にはなるかもしれないと静かに頷き、その誘いに乗ることを決めた。
居酒屋の個室に集まった同級生たちは、健太の世界戦の話題で持ちきりだった。健太たちはまだ未成年(18歳)だったため、飲み会の席にはアルコールはなく、ほとんどのグラスにはソフトドリンクが注がれていた。騒がしい熱狂の輪の中で、健太は少し離れた席に座っている、一人の女性に目を留めた。
それが、心菜だった。
彼女は、周りの華やかな女子たちの中でも一際目を引く存在だった。すらっと背の高い(165センチ)体躯に、アイドルのような整った見た目。艶のある黒髪は肩にかかる程度の長さで、その下に覗く白い肌と、繊細な顔立ちが印象的だった。
健太は、ボクシングのリングの上では、相手のジャブやフック、コンビネーションの距離感を完璧に測り、瞬時に対応できる抜群の感覚を持つ。しかし、女性との距離感はまるでダメだった。
心菜が時折、健太の方をちらりと見て、すぐに視線を逸らすのを見て、健太の頭は混乱した。「これはパンチのフェイントか? いや、カウンターを狙っているわけではない...」彼の思考は、無意識のうちにボクシングの戦術に置き換わってしまう。
健太は、心菜が座っているテーブルに近づきたいと思いながらも、最適な「間合い」が全く掴めない。一歩前に出れば踏み込み過ぎか? それとも、ここで踏み込まなければチャンスを逃すのか? リング上の対戦相手であれば、その癖や呼吸で次の行動が読めるのに、心菜の穏やかな表情からは何も読み取れなかった。
結局、彼は「ジャブで牽制」するように、遠巻きに心菜の姿を目で追うことしかできなかった。心菜のテーブルの近くに座っていた同級生が、健太に話しかけてきた。
「健太、さっきからあっち見てどうした? 心菜に話しかけてみろよ。高校の時、同じクラスだっただろ?」
「あ...いや...」
健太は、顔を赤らめて言葉に詰まった。手に持ったオレンジジュースのグラスが、冷たく感じられた。
「何をためらってんだよ! 健太なら一撃KOだろ!」
同級生はそう笑ったが、健太にとって、心菜とのコミュニケーションは、世界戦よりも難解なリングに感じられた。彼は、彼の人生に加わったこの新たな「強敵」を、どう攻略すべきか全く見当がつかないまま、その夜の飲み会は幕を閉じた。
飲み会がお開きになり、未成年である健太を含めた数人の同級生が駅に向かって歩いているときだった。健太は、心菜との距離を保ったまま、俯き加減で歩いていた。彼の頭の中は、先ほどの飲み会で心菜に話しかけられなかった後悔でいっぱいだった。
突然、すぐ隣に人が並んだ気配がした。
「健太君」
透き通るような、それでいて芯のある声。心菜だった。
健太は不意を突かれ、一瞬体が硬直した。ボクシングのリング上であれば、この「間合い」に踏み込まれたら即座にガードを固めるかカウンターを放つところだが、相手は心菜だ。彼は顔に熱が集まるのを感じ、真っ赤になった。
「え、あ...」
彼はしどろもどろになり、まともに心菜の顔を見ることができない。
心菜は少し微笑んだ。その表情は、リング上の相手にはない、優しさを含んでいた。
「あんまり健太君とは高校では話したことなかったね。テレビで見て、すごいなって思ってたよ。おめでとう」
「あ、ありがとう…」
健太は蚊の鳴くような声で答えるのが精一杯だった。
心菜は歩調を緩め、健太の方を向いた。
「よかったら、連絡先を教えてくれる? またゆっくり話してみたいんだ」
その一言は、健太にとってまさにノーガードの顎への右ストレートだった。彼の卓越したディフェンス能力も、ここで発揮されることはない。彼は思考停止に陥った。リング上の強敵であれば、その攻撃の意図を分析し、最適な行動を選べる。だが、心菜のこの**「インファイト」**は、彼にとって全く経験のない領域だった。
健太は頭が真っ白になりながら、スマートフォンを取り出し、言われるがままに心菜の画面に自分の番号を入力した。その手つきは、世界チャンピオンをKOしたときの鋭さとは程遠く、ぎこちなかった。
「ありがとう。じゃあ、また連絡するね」
心菜はそう言って、健太に小さく手を振ると、別方向へ歩いていった。その背中は、まるで勝利のゴングを聞いた後のように清々しかった。
健太は、その場に立ち尽くしたまま動けなかった。ボクシングの距離感は完璧だが、女性との距離感はまるでダメな彼は、心菜のインファイトに完全に翻弄され、自らの土俵に引き込まれたことにすら気づいていなかった。
(今、俺...何をされたんだ...?)
彼の顔に残るのは、火照った熱と、初めて味わう敗北感のような、しかし心地よい高揚感だけだった。世界トーナメント準決勝を控える「怪物」は、リング外で、最も厄介な「強敵」と、そして新たな感情と対峙することになったのだった。
10日間の束の間の休息が終わり、小原健太は再びボクサーとしての日常に戻った。心菜との予期せぬ出会いは、健太の心に小さな波紋を残したが、リングに上がれば、彼の思考はただ勝利へと集中する。
宮田聡との次なる合宿が始まった。準決勝の相手、WBOチャンピオンのマイク・スペンサーは、特定の弱点がない「器用な完成形」のボクサーだ。ガルシアのようなインファイターとは対極にあるスペンサーに対応するため、宮田が組んだのは、対応力を極限まで引き上げることが目的の、実践的なトレーニングプログラムだった。
今回の合宿で最も重要視されたのは、様々なタイプのスパーリングパートナーとの実戦形式の練習だった。サウスポーの技巧派、フットワークの速いアウトボクサー、そしてスペンサーと同じく予測不能なリズムを持つスイッチヒッター。健太は毎日、異なるスタイルの強敵と拳を交え、その対応力を磨き上げていった。
そして、そのスパーリングパートナーの中には、驚くべきビッグネームがいた。
WBC世界フェザー級チャンピオン、武田信彦。
武田の戦績は25戦24勝1敗(15KO)。彼の所属ジムは、都会の華やかさとは無縁の田舎にある村田ジムだった。彼は移籍することなく、地道に努力を積み重ねて世界の頂点まで上り詰めた、叩き上げのチャンピオンだ。そのボクシングには派手さはないが、正確な間合い、圧倒的なスピード、そして緻密に計算されたコンビネーションが光る、非常に完成度の高いボクサーとして知られていた。
この豪華なスパーリングが実現した背景には、武田側の事情もあった。武田は、次期防衛戦の相手が、強打を誇るハードパンチャーであることから、その対策として、健太の**「怪物級のパンチ力」**を肌で感じておきたいと宮田に直々に申し出ていたのだ。
ジムのリングに、世界チャンピオン同士のスパーリングという豪華な様相が展開された。
ゴングが鳴る。武田は鋭いスピードで動き回り、健太のパンチが届かない完璧な間合いの外から、正確なジャブと、多彩な角度からのコンビネーションを打ち込んでくる。健太がパンチを放とうと踏み込む一瞬前には、武田はすでに次の位置へと移動している。
健太は、これまでの相手とは比べ物にならない武田の「間合い」と「スピード」に、序盤は戸惑いを隠せなかった。しかし、数ラウンドを重ねるうちに、宮田から教わった「相手の動きを見抜く」能力が覚醒する。健太は、武田の動きの微細な癖や呼吸を読み取り始め、武田がパンチの打ち終わりに体勢を整える一瞬の隙を捉えた。
一発、武田の脇腹に健太の全身の連動から生まれる重いボディブローがクリーンヒットした瞬間、武田の動きがわずかに止まった。彼はすぐに体制を立て直したが、その表情には、健太のパンチの異様な重さに対する驚愕の色が浮かんでいた。
武田信彦とのスパーリングセッションが終了した。グローブを外し、ヘッドギアを脱いだ健太は、激しい疲労の中に、これまでにない充実感を覚えていた。武田の技術とスピードは、健太のボクシングに新たな課題と進化のヒントを与えてくれた。
シャワーを浴びて着替えた後、健太と武田はジムの一角で、スポーツドリンクを飲みながら雑談を始めた。
武田は現在28歳。18歳の健太から見れば、年の離れたベテランの世界王者だ。しかし、彼はその風貌や話し方とは裏腹に、全く偉ぶったところがなく、非常に話しやすかった。田舎のジムから地道に這い上がってきた武田の性格は、派手さとは無縁で、健太の緊張を自然と解きほぐした。
「小原くんのパンチは、本当に規格外だね。あのボディ、ガードの上からでも内臓が揺れる感覚があったよ」と、武田は正直な感想を述べた。
健太は顔を赤らめながら、「ありがとうございます。武田さんのスピードと間合いは、全然掴めなくて...。特にあのジャブからのコンビネーションは、見切れませんでした」と、素直に打ち明けた。
「あれはね、ちょっとした癖の読み合いだよ。君のパンチが来る『一瞬』を、どれだけ早く潰せるか、ってだけさ。でも、君の読みの速さはすごい。後半は何度かヒヤリとさせられたよ」
武田は、健太の質問一つ一つに丁寧に答え、技術的なアドバイスも惜しまなかった。
年の差や実績の差を感じさせないフランクな会話の中で、健太は武田に対して強い親近感を覚えた。リング上では互いに力をぶつけ合った二人だったが、リングを降りれば、同じ頂点を目指す者同士として、すぐに意気投合し、仲良くなった。
武田との出会いは、健太にとって、マイク・スペンサーという難敵を前に、心技体すべての面で大きなプラスとなった。技術を磨く目標となるだけでなく、精神的な支えとなる新たな友を得た瞬間だった。
スパーリングの熱気が冷めやらぬまま、武田と健太の雑談は、互いの未来のキャリアへと移っていった。
「そういえば、小原くんはもしこのトーナメントを勝ち抜いて、スーパーバンタム級の統一王者になったら、その次はどうするつもりなんだい?」武田はスポーツドリンクを飲み干しながら、ふと尋ねた。
健太は、その質問に少し考え込む表情を見せた。健太の身長は178cmと、スーパーバンタム級(リミット55.3kg)では非常に恵まれているが、同時に、これ以上の減量が肉体に大きな負担をかけることも自覚していた。
「実は、トレーナーの宮田さんとも話しているんですが...、スーパーバンタム級はあと2戦程度が、体力的にも体重の限界になるだろうと思っています」
健太の言葉に、武田は納得したように頷いた。「だろうね。あのタフネスとパンチ力を維持したまま、178cmで55.3kgはまさに怪物だよ。普通はとっくにフェザーに上げてる」
そして、武田は面白そうな表情で健太を見た。
「じゃあさ、俺がこのままフェザー級チャンピオンでいられたら、小原君と戦えるのかい?」
健太は、武田の言葉に一瞬戸惑ったが、すぐにその提案に胸が高鳴るのを感じた。
「...もし、僕がスーパーバンタムを獲って、武田さんがフェザーにいたら、それは、僕にとって最高の挑戦になると思います」健太の言葉には、リング上で見せる真剣さが宿っていた。
武田は楽しそうに笑いながら、健太を茶化すように言った。
「ただ、そうなったら、俺が持っているこのWBCの1本のベルトじゃ、統一王者後の小原君には物足りないよねぇ」
そして、フェザー級の現状に言及した。フェザー級には、WBOとIBFのベルトを持つメキシコのリカルド・メンドーサという強敵がいる。武田は、そのメンドーサを意識するように、目を細めて言った。
「よし、決めた。俺も一本じゃ物足りないから、WBAのベルトを獲りに行くよ」
武田は立ち上がり、健太の肩を叩いた。
「小原君がスーパーバンタム級を制覇してフェザーに上がってくる頃には、俺はWBCとWBAの2本を持って待ってる。どうだ、二冠王との対決なら、挑戦しがいがあるだろ?」
その言葉には、武田の真剣な決意と、健太という稀有な才能への期待が込められていた。健太は、その壮大な提案に、顔の緊張が解け、力強く頷いた。
「はい! その時は、ぜひお願いします!」
話は自然と、武田のキャリアの中で唯一の黒星へと移った。
「俺のキャリアで唯一負けた相手の話をしていいかい?」武田は少し遠い目をして話し始めた。
その相手の名は、長谷川伊織。
戦績は22戦22勝(21KO)という驚異的なKO率を誇る、文字通りの怪物だ。長谷川は元々フェザー級で、WBC、IBF、WBAの3団体統一チャンピオンという輝かしい実績を持ち、現在は階級を上げ、スーパーフェザー級のWBC、WBA統一チャンピオンとして君臨している。その年齢はまだ26歳。間違いなく、日本ボクシング界の至宝と呼べる存在だった。
「僕が負けたのは、フェザー級でベルトを獲る前、彼がまだフェザーにいた頃だ。結果は判定負けだったけどね...」
武田は苦笑いしながら続けた。
「判定とはいえ、俺はあの試合で2度ダウンを取られた。力の差は明白で、あれは完敗だったよ。」
武田の言葉には、怪物的な強さを持つ長谷川への尊敬と、自身が味わった屈辱が滲んでいた。
武田は再び顔を上げて笑った。その目は、新たな夢を見据えているようだった。
「だからね、小原くん」
武田は健太の目を見て言った。
「君がスーパーバンタム級で統一王者になって、僕を倒してフェザー級の二冠を獲ったら...、その次はぜひ長谷川との戦いが見たいなー」
武田は、まるでファンの一員であるかのように興奮気味に続けた。
「階級が一つ違うとはいえ、現役の世界チャンピオン二人が、無敗の怪物と対決する。それは、この国のファンが何十年も待ち望んだ日本ボクシング界の最大のビッグマッチになるんじゃないかな? 小原君なら、あの長谷川のKO記録を止められるかもしれない」
健太は、その壮大すぎる未来図に、顔を赤らめてしまった。
「...いえ、僕なんかが、長谷川さんと戦うなんて、今はまだ考えられないです。武田さんの言う通り、まずは目の前のトーナメントを勝ち抜いて、その後に武田さんとの試合が組めるくらいに実力をつけないと...」
彼は、世界チャンピオンを倒した直後にもかかわらず、自分の実力を冷静に分析し、謙遜した。しかし、その目の奥には、長谷川という名の絶対的な頂点に対する、隠しきれない闘志が宿っていた。
武田はそんな健太を見て、豪快に笑いながら、未来の対決について壮大に語った。
「俺だって、小原君と戦うときはもちろん勝ちに行くよ。階級の壁を破って上がってきた挑戦者を正々堂々打ち負かす。そして、その試合に勝ったほうが、日本ボクシング界の至宝、長谷川と戦える。どうだい、最高のシナリオだろ?」
健太は、その言葉の裏にある武田の真剣な決意と、自身への期待を感じ取り、力強く頷いた。この瞬間、健太のボクシングの視野は、目の前のマイク・スペンサー戦のはるか先、そして武田信彦との「未来の頂上決戦」へと広がったのだった。




