第五章 ~『グランツ家との決別』~
その足が止まったのは、廊下の突き当たりにある重厚な扉の前だった。
グランツ家の応接室。かつてアリアが、婚約者として何度も通された部屋である。
使用人が扉を叩く。
「アリア・フォード様をお連れいたしました」
「お通ししなさい」
返ってきたのは、カイルの父の声だった。開かれた扉の先には、カイルと、その両親が待っていた。
カイルの父は絵に描いたような厳格な男性だ。かつてアリアを迎える時には穏やかに細められていた瞳も、今は深い後悔を隠しきれていない。
その隣のカイルの母は、柔らかな雰囲気の女性だ。だが、今日の彼女はいつものように微笑んではいない。アリアを見る瞳は、申し訳なさが滲んでいた。
テーブルには、アリアが以前好んでいた紅茶と焼き菓子が用意されている。まだ湯気の残るカップを見た瞬間、アリアの胸の奥が僅かに痛んだ。婚約が白紙になっても、彼らが自分の好みを覚えてくれていたことに罪悪感を覚えたからだ。
「アリア嬢。よく来てくれた」
カイルの父が立ち上がる。隣にいた母も同じように席を立ち、二人はアリアへ深く頭を下げた。
「まずは、息子がしたことを謝らせてほしい」
「頭をお上げください」
カイルの父は顔を上げたが、視線は床へ落としたままだった。隣の母も、手にしたハンカチを握りしめている。
「あの日、約束を破ったなら婚約を白紙にして構わないと認めたのは、私たちだ。それほど、カイルがアリア嬢の優しさに甘えていたことは分かっていた。それなのに、最後まで正せなかった。本当にすまない」
重く沈んだ声が、応接室に響く。
カイルは何か言いたげに唇を開いたが、父の横顔を見ると、結局何も言えずに視線を伏せた。自分の代わりに両親が頭を下げている。その事実を前にして、ようやく言葉を失ったのかもしれない。
「私たちは、あなたを本当の娘のように思っていたの」
「お母様……」
「だからこそ、もっと早く止めるべきでした。カイルがあなたの優しさに甘え、何度も待たせていたことを、見て見ぬふりにしてしまったのです」
夫妻が自分を大切に扱ってくれていた日々は、紛れもない真実だ。だからこそ、その謝罪は胸の奥に痛みを残した。
「お二人には、これまで本当に良くしていただきました。そのご厚意まで、なかったことにするつもりはありません」
その一言で、カイルの瞳に希望が灯る。まだ可能性があると思ったのだろう。縋るようにアリアを見つめた。
「なら、どうかもう一度。僕との復縁を考えてはもらえないかな?」
「お気持ちは、ありがたく受け止めます。ですが、婚約を戻すことはできません」
「アリア、僕は本気なんだ。今度こそ、絶対に君を優先する。セレーネに振り回されていた僕が間違っていたと反省もしている。君とやり直せるなら、僕は――」
アリアは彼の言葉を最後まで聞きながら、先ほど廊下で聞いたセレーネの言葉を思い出していた。
カイルの謝罪に混じっていた焦りと、王宮の面会室で感じた違和感が一つの線に繋がっていく。
「カイル様……私と復縁したいのは、本当に、あなたの希望ですか?」
「ど、どういう意味だい?」
「神殿から勧められたのではありませんか?」
アリアの問いに、カイルの肩が揺れる。
「ち、違う。僕の意思だ」
「では神殿からは何も言われていないと?」
「確かに、神殿は、君とやり直せれば、騎士としての復帰に口添えしてくれると約束してくれた。でも、復縁を望んだのは――」
カイルが言い終える前に、応接室の空気が冷たくなる。カイル自身も、自分が何を口にしたのか気づいたのだろう。青ざめた顔で唇を閉ざした。
「神殿……カイル、お前は……」
「今の話は本当なの?」
「ち、違います。父上、母上、これは……」
カイルは取り繕おうとしたが、言葉を重ねるほど、かえって言い訳にしか聞こえない。彼自身もそれが分かっているのか、やがて唇を引き結んだ。
「カイル様が本心から望んだのは、騎士として復帰したご自身の未来でしたね」
カイルは何も答えられない。その沈黙だけで、十分だった。
「……もうよい、カイル」
「父上……」
「これ以上、アリア嬢を傷つけるな」
カイルは弾かれたように父を見たが、返ってきたのは申し訳なさそうな表情だけだった。母もまた、涙を堪えるように口元を押さえている。
もう夫妻からアリアを引き止める言葉は出てこない。
その時、扉の外でかすかな物音がした。
使用人が慌てて扉の方へ向かおうとするより早く、応接室の扉が開く。そこに立っていたのは、セレーネだった。
「セレーネ、今はお前が入ってくる場ではない」
カイルの父が咎めるが、セレーネはその命令に従わない。彼女はカイルを見て、唇の端を歪める。
「お兄様も失敗したのですね」
「セレーネ……」
「結局、アリア様には勝てないのですね。お兄様も、私も……」
カイルは何も言い返せなかった。
セレーネは次にアリアを見る。廊下で見せた敵意はまだ消えていないが、その瞳の奥には、別の感情も混じっていた。そのおかげで、アリアもセレーネの真意に気づく。
「セレーネ様……カイル様が神殿と繋がっていると仄めかしたのは、わざとですか?」
アリアが尋ねると、セレーネはすぐには答えなかった。視線を逸らし、けれど逃げることもせず、その場で自分の腕を抱く。
「さあ、どうでしょう。少なくとも、アリア様さえいなければと思ったのは本心ですわ……でも、神殿に都合よく使われ続けるのも癪でしたから。失敗してしまえばいい。そう願ったのも、本心ですわ」
投げ捨てるような声だった。その言葉を聞いていたカイルの父は額に手を当てる。
「神殿は、いったい我が家を何だと思っているのだ……」
「利用しやすい駒でしょうね」
セレーネが吐き捨てるように答える。
「私も、お兄様も。使えるうちは持ち上げられて、使えなくなれば捨てられる。ただ、それだけの存在だったのです……」
カイルは顔を歪め、拳を震わせる。
哀れだと思わないわけではない。二人とも、神殿に利用された事実はあるのだろう。だが、セレーネとカイルがやったことは、なかったことにはならない。
アリアはカイルの両親へ向き直り、背筋を伸ばして深く礼をした。
「これまで、本当にありがとうございました」
「アリア嬢……」
「お二人にいただいた優しさは、生涯、忘れません」
カイルの母は目元にハンカチを当てる。カイルの父は何かを言おうとして唇を開いたが、結局、言葉にはせず、深く頭を下げた。
もう、誰もアリアを引き止めなかった。
アリアは応接室を出る。
かつて婚約者として何度も歩いた廊下を進み、玄関を抜けて、門へ向かう。迎えられるために通った道を、今度は別れのために歩いているのだと、足音を重ねるたびに実感するのだった。




