第六十七話 風前の燈
咸陽の冬は、容赦なく静かに冷えていく。
洛陽から届いた火災の報せは、呂不韋の死を含んでいた。
「――まことか、それは」
呂明は、手にした文書を見つめたまま呟いた。
その場には杜青と白玲、そして陳咸が控えていたが、誰も言葉を挟まなかった。
「遺体は焼け爛れ、身元は帯の装飾と邸内の状況から推定されたとのこと……」
白玲が報告する声には、どこか硬さがあった。
「他殺ではなく、自焼であると?」
「火元は書斎。扉も内側から閉ざされていたと。だが……」
「……だが、信じがたい、か」
呂明の声は、ふと遠くを見つめるような響きを帯びていた。
手にした書簡の端が、かすかに震えていた。
「最後まで、会おうとはなさらなかった。いや……会えなかったのだろうな」
呂明は目を閉じた。
「父上は、すべてを見ていた。李斯も、王綰も、そして嬴政も。趙や燕がどれほど巧みに言葉を弄しても、父上がその誘いに乗ることはなかったはずだ。だが……それでも、許されなかった」
誰も、言葉を継げなかった。
焔に包まれた呂不韋の邸――その報せは咸陽を駆け巡り、朝堂では哀悼の声と、安堵の吐息が交錯した。
だが、呂明にとっては、それが一つの終焉だった。
(……終わった、のだな。呂不韋という、男の物語が)
それでも、どこかで――彼は確信していた。
燃え落ちたものの中に、決して焼き尽くされぬ意志があったと。
やがて、呂明は机の奥から一束の書を取り出す。
呂不韋の手による、未完の草稿だった。
焦げの匂いが微かに残るそれは、洛陽で焼け残った唯一の形見だ。
その束に指を滑らせたとき、呂明の脳裏に、ひとつの光景が浮かんだ。
まだ幼い頃、咸陽の広間で、ひと夜の宴が終わったあとのことだった。
酒の残る香りと、燭台の揺らぎの中で、呂不韋は膝を折り、幼子の呂明と向き合っていた。
「政など、つまらぬものだと思うか?」
少年の呂明は、困惑の面持ちで首を傾げた。
父は笑いもせず、盃を傾けることなく、ただ真っすぐに彼を見つめていた。
「つまらぬ。だが、守らねばならぬ者ができたとき、それは価値を持つ。お前もいつか、そう思う日が来る」
そのときの呂不韋は、少し疲れた顔をしていた。だが、瞳の奥には火が灯っていた。
昭王の時代——
秦がまだ西の一強に過ぎなかったあの頃。
中華の大勢を睨みつつも、夢と野望を掲げ、己の才と胆力で国を押し上げていたあの時代。
呂不韋は、きっとあのときこそが、自らの「最盛」を信じていたのだ。
卓上には古い書簡と、筆録された『呂氏春秋』がある。
呂不韋が残した言葉。思想。理。
それらが彼の中で、静かに新たな輪郭を描き始めていた。
父が守ろうとしたもの。
父が託そうとしたもの。
それらを、自分が受け継がねばならない。
商人として。政治家として。そして、王道を支える者として。
呂明はそっと、書の束を胸に抱いた。
風が、帳のすき間から吹き込んで、灯の揺らぎをさらう。
遠く、あの声が聞こえた気がした。
「……父上」
小さく、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
そして――。
西の果て。流民と異民族が交錯する、西涼の山地。
旅姿の一団が、小さな集落へと足を踏み入れていた。
その中のひとり、深く頭巾をかぶった男が、ふと立ち止まり、空を見上げる。
その瞳には、焦げた傷跡とともに、微かに笑みが宿っていた。
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