第六十六話 落日余光
謁見の間が静まり返ると、呂明らが退出した扉の向こうに、しばし誰も口を開かなかった。
沈黙を破ったのは李斯だった。
「――廉頗を従えた、か。呂不韋の子が、楚の宿将を味方に引き入れるとは、さすがと言うべきか。あるいは……」
言葉の続きを嬴政が受ける。
「叛意あり、と疑う者もあろう。王綰」
名を呼ばれた王綰が一歩進み、深く一礼する。
「臣もまた、危うさを覚えます。洛陽にはいまだ呂不韋の旧臣が潜み、各地の商や門閥と密かに交わりを保っております。燕や趙の使節も、近ごろは呂不韋邸を幾度も訪れ――その礼訪の裏で、何やら登用の誘いを囁いているとの報もございます。かつての主君を慕う者たちの動きが、かえって火種となりましょう」
「ふん……趙と燕ごときが、秦の元丞相を買う気か」
嬴政の声音には侮蔑よりも苛立ちが混じっていた。
「……李斯。もし、呂不韋が再び中央に影響を及ぼすことがあれば、そなたはどうする」
「断じて容れません」
李斯は即答した。
「彼はこの国に益をもたらしましたが、もはや時代は変わりました。いまは、あの男を許す余地はございません」
嬴政は目を細めた。そのまま長い沈黙ののち、ひとつ息を吐く。
「――ならば、放逐する。今のうちに、その芽を摘め。洛陽の者に命じよ。過剰な礼訪を続ける者どもを摘発し、呂不韋の居所にも監視をつけよ」
王綰と李斯が一礼する。
誰も、今の判断に異を唱える者はいなかった。
――洛陽。
冬の冷気が深まる黄昏、呂不韋邸の門前にはふたたび燕と趙の使節の姿があった。
彼らは礼節を守りながらも、幾度となく同じ言葉を繰り返す。
「貴殿の知略と才覚を、今こそ我が国にて――」
「中華の未来を、共に築こうではありませんか」
応接の間で、呂不韋は苦笑した。言葉にはせずとも、その瞳にはすでに諦観があった。
(このままでは、嬴政は我を許さぬ。いや、李斯が許すはずもない。呂明に累が及ぶ……それだけは避けねば)
その夜――。
洛陽の夜空を、突如として朱が染めた。
呂不韋邸から上がる火の手に、近隣の者たちが騒然とする。瓦が爆ぜ、屋根が崩れ落ちる。炎の中、悲鳴と怒号が交錯する。
「中からは誰も出てこないぞ!」
「ご老公が……!」
火勢は瞬く間に屋敷を呑み込んだ。
かつての呂氏邸は、真っ黒に焼け落ちていた。
炭と化した柱、焦げた壁、崩れた瓦。
その中心、書斎の奥から発見された焼死体の傍には、玉の帯飾りが転がっていた。
「……これが、呂不韋様……?」
声を漏らしたのは、調査にあたった若い役人だった。
老いた使用人が、何も言わず、ただ頷く。
「顔は……焼けていて……」
「火元は書斎、逃げ場もない構造……おそらく、最後まで動けなかったのかと……」
誰かが小声で言った。
だが、その場にいた誰もが心のどこかで、言い知れぬ違和感を抱いていた。
なぜ、このような終わりを、あの呂不韋が選んだのか――
焼け跡に残された死体。
だが、その右手の小指だけは、奇妙なほど綺麗に残っていた。
焼け損なったのか、それとも――
「小指の……?」
「いや、なんでもない。記録には……加えずともよいだろう」
誰かがそう言って、夜の静寂にその言葉は沈んだ。
洛陽の郊外、小さな庵。
月明かりも届かぬ、山間の木立の中に、ひっそりと建つ草庵があった。
戸口の灯火が、ふと揺れる。
中には一人の旅装の男。
顔の半分は包帯に覆われ、皮膚の焦げ跡が覗いている。
男は静かに火鉢に薪を足し、やがて書を一冊取り出した。
――『呂氏春秋』
表紙の端には、焦げ跡がわずかに残っていた。
その最終篇、雑論の項の末尾。彼は一行に指をなぞらせる。
「……蘊、か。管子蘊――」
誰に語るでもなく、男は呟いた。
その瞳に浮かんだのは、誇りでも後悔でもない。
ただ、わずかな火光に照らされた、決意のような光だった。
庵の戸が、そっと閉じられる。
夜空に雲が流れ、月が静かに差し込む。
誰も知らぬ場所で、ひとつの時代が確かに終わった。
そして、新たな仮面が、静かにこの国に息を吹き返そうとしていた。
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