第六十五話 応問の間
これにて第四章は完結です。
謁見の間は、沈黙に満ちていた。
秦王・嬴政の前に、呂明は平伏し、従えていた廉頗もまた、静かに頭を垂れる。左右には李斯と王綰、やや離れて王翦が控え、各々の目が、呂明に注がれていた。
嬴政が視線を落とす。
「――廉頗を、どうするつもりだ?」
その声に、室内の空気が引き締まった。まるで刀の刃が、呂明の首筋をなぞるようだった。
呂明は答えず、ただ静かに天秤を思い浮かべた。目に見えぬ天秤が、心の奥で揺れる。秤皿の一方には、「廉頗という重し」。もう一方には、「秦の猜疑と政の安寧」。答えを誤れば、両方を失う。
だが、彼は決して目を逸らさなかった。
「廉頗将軍は、秦に仇なす者ではありません。かつては敵でしたが、今は――この国のために剣を振るう覚悟を持った武人です」
言葉を発した瞬間、ざわめきが起こる。王綰が、目を細めて進み出た。
「その言葉、信用せよと? 呂明――貴様の父、呂不韋がかつて王族を傀儡とした罪を思えば、そなたが異国の将を引き連れ戻ってきた意味は、謀反に等しかろう!」
鋭い非難が突き刺さる。呂不韋の影は、未だ咸陽に濃い。王綰の言葉に、幾人かがうなずく。李斯は黙したまま、唇の端だけをわずかに上げていた。
呂明は再び、天秤の中に問いを置く。「抗うか、受け流すか」。そして、静かに頭を下げる。
「私は、父の過ちを知っております。そして、それを繰り返すつもりはございません。私は、秦を富ませ、この国に利益をもたらすことで、己の道を極めたい。それが、商の道です」
言葉は嘘ではなかった。王道とは口にしない。ただ、秦に従う商人として、自らの価値を示す。
そのとき、廉頗が前に出た。周囲が息を呑む中、老人ははっきりと嬴政に向き直る。
「俺が呂明に従ったのは、老骨を葬る場所を探していたからじゃねぇ。こやつの眼が、本物だったからだ。戦を避け、民を生かし、勝たずに利を取る――そんな馬鹿げた話を真顔で語る奴に、もう一度賭けてみたくなったのさ」
嗄れた声が、堂内に響いた。
「秦とて、いつまでも剣ばかりではなかろう。力で勝ち、力で滅ぶ時代を終わらせたいなら――こういう商人を一人、信じてみる価値はある」
嬴政が、わずかに眉を動かす。その眼差しは、廉頗を通して呂明を測っていた。
沈黙が戻る。
そして、嬴政が再び口を開く。
「では、もう一つ問う。馬と廉頗――それだけのものを得て、そなたは、何を始めるつもりか?」
今度は、真っ向から試す問いだった。
呂明は目を閉じ、また天秤に問う。
馬と武。安定と警戒。力を見せれば、敵を呼ぶ。黙して隠せば、信を失う。――ならば、答えは一つ。
「争いを遅らせる時間を稼ぎ、民を富ませる術を整えることです」
視線を嬴政に向け、呂明は続けた。
「この力は、誰かを討つためではなく、守るために使います。やがて必要となるときまで、ただ準備をする。それが、私の戦い方です」
李斯が目を細め、王翦は無言でその言葉を聞いていた。嬴政は長い間、呂明を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「……ならば、見せてみよ。お前の言う“商の道”とやらを。そして、その果てに何を築くのかを」
その言葉は、許しではない。だが、試す意思だった。
呂明は深く頭を垂れる。
「はっ。必ず、お見せいたします」
こうして、秦の中枢で動き始めた、新たな局面。天秤は静かに、未来を量り続けていた――。
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