第六十四話 開かれし局面
咸陽の空は晴れわたり、乾いた風が白い城壁をなぞっていた。
呂明はその城門の前で、一瞬足を止めた。
かつて、ここは天下を狙う者たちの思惑が渦巻く場所だった。今も変わらず、政の中心にして、野望の交差点だ。
しかし今日、この門を越えるのは、一つの答えを示すためである。
西涼から連れてきた三頭の馬――漆黒の「黒風」、紅のたてがみを燃やす「焔」、雪のように白く透き通る「雪霞」が、ゆったりと並ぶ。どの馬も人々の目を奪い、群衆が次第に集まってきた。
「なんだあの馬……まさか、献上品か?」
「いや、あの男……あの連れの大男……いやまさか、あれは――」
ざわつきが広がる。呂明の後ろ、朽ちかけた鎧を羽織る一人の老将――廉頗が、民衆の視線を一身に浴びていた。
低く交わされる声、押し殺した驚きと、わずかに震えるような敬意。それらを全て黙って受け止め、廉頗は静かに前を見つめている。
「やはり反応があるな」
呂明は小声で呟いた。
「……当然だ。俺は秦と刃を交えた者だからな」
と、廉頗が低く笑った。
「だが今はおまえに付き従う。“意味”があるのだろう?」
呂明はその言葉に小さく頷き、城門をくぐる。
中へ入ると、使者が一行を迎え、宮城への通行を告げた。
咸陽宮の正殿へ通される前、彼らはまず、政務館の一室へ案内された。
そこには、冷徹な眼差しを湛えた一人の男が待っていた。李斯――法を統べる者にして、秦王政の腹心。
「久しいな、呂明」
「こちらこそ、李斯様。西涼の風は気に入りましたか?」
李斯は微かに笑う。しかしその目は笑っていなかった。
「風は変わらぬが、送ってくる者が変わったようだ」
応接の席についた二人の間に、空気が張り詰める。
呂明は一歩も引かず、まっすぐに言う。
「馬を三頭。献上したく、持参しました。秦と西域を結ぶ“道”の始まりです」
李斯の目がわずかに動いた。
「その“道”の先に、何を見る?」
「利と秩序です。血を流すより、塩と馬を流したほうが早い。争いを制する交易です」
李斯は黙したまま、隣の襖を指先で弾く。すぐに、別の人物が入ってきた。
軍装に身を包んだ、痩身で影のような男。薄い笑みも威圧もなく、ただ淡々と呂明を観察している。
王翦――秦軍の将にして、掴みどころのない名将。
「よい馬がいると聞いて来た。呂明殿、これがその三頭か?」
「はい。西涼と匈奴の交わりより得た名馬です。戦場であれば、将軍ほどの方ならその価値を理解いただけるかと」
王翦は一頭ずつ近寄り、足の筋肉、瞳の澄み、耳の動きまで観察した。そして小さく呟いた。
「……馬が語るものは、時に兵より雄弁だ」
「ご慧眼、恐れ入ります」
「いや。“慧眼”など」
王翦はそこで呂明を振り返り、意味深に目を細めた。
「あなたは、秦に何をもたらすのか?」
それは問いであり、牽制でもあった。答えを誤れば、この男は敵に回るかもしれない。
呂明は口元をわずかに引き締めてから言った。
「争いを終わらせる方法と、民を富ませる術を。……それが私の戦です」
王翦はそれ以上言わず、すっと背を向けた。
李斯は言った。
「王翦将軍は、自らの戦に必要な者しか信じぬ。だが、今はまだ判断を保留したようだな。私も同じだ」
呂明は頷いた。
「それで充分です」
やがて謁見の間への呼び出しが届いた。呂明は黒風、焔、雪霞を引き連れ、咸陽宮の深奥へと向かう。
そして、廉頗もまた、静かにその後を歩いていた。
この国の王が、何を思い、何を選ぶか――それを確かめるために。




