第六十三話 草原の約定
翌朝、まだ陽も昇り切らぬうちから、草原の空に馬の嘶きが響いていた。
呂明たちのもとへ、次々と部族の代表が集まってくる。族長の顔を立ててか、あるいは塩の魅力に惹かれてか、彼らは揃って馬を引き連れてきた。
「これは……全部で四十か、いや……五十はあるかもしれぬな」
ナイガルが息を呑んだように呟く。
立派な鬣を持つ駿馬に、筋骨たくましい戦馬、毛並みの美しい若馬。見渡せば壮観だった。呂明はそのひとつひとつを自らの目で確かめ、用途ごとに分類していく。
「この馬は、献上用だな」
彼の前にいたのは、漆黒の体躯に流れるような肢体、鼻面には淡い星のような白が入った若い牡馬。
その馬の前にいた部族の男が誇らしげに言う。
「『黒風』と呼んでいる。我らの部族に代々伝わる名馬の子だ。売るつもりはなかったが……お前が“王”に贈るというのならば、悪くはない」
呂明は目を細め、丁重に頭を下げた。
「黒風、感謝する。秦の王に、必ずこの名を伝えよう」
ナイガルがその言葉を訳すと、男はにやりと笑って引き下がった。
献上馬として呂明が選んだのは、他にも赤毛の大柄ながら俊敏な駿馬「焔」、白銀に近い毛並みの牝馬「雪霞」など三頭。いずれも目利きの商人としての経験と、軍馬の知識を活かした選抜だった。
一方で、交易用・警護用の馬も着々と集められていく。
「馬はすでに七十頭を超えた。まだいくつかの部族が向かっているとの報もある。目標の百、あるいはそれ以上が望めるだろう」
そう報告したのは、ナイガルの従兄と名乗る若者だった。草原の民の間にも、塩の魅力が急速に広がりつつあるようだ。
呂明はひとつ頷くと、周囲を見回した。
忙しなく動く商隊の仲間たち、鞍を整える陳咸と白玲、見張りに立つ杜青の姿。そして遠くから群れを監視するように佇む廉頗——その全てが、この“草原の約定”の担い手だった。
「……李斯は、これを見て何を思うか」
呟くように言うと、ナイガルが首を傾げた。
「李斯って誰?」
「秦王の側近だ。彼を動かせば、西涼での交易は正式に認められる。これは始まりにすぎない」
「その始まりのために、随分と大きな賭けをしましたね」
ナイガルが微笑む。彼の目には、少年のような憧れと、同じ交渉人としての敬意が入り混じっていた。
呂明もまた微笑み返す。
「王へ贈るに足る馬をそろえる。秦の利益を示す。そして、その裏で“交渉の条件”も整えておく」
「交渉の条件……?」
「献上の礼として、李斯のもとにひとつ願いを伝えるつもりだ。西涼の地に、秦と異民族の“共の市”を設ける許しを乞う」
ナイガルは瞠目する。
「塩と馬の往来を……今後も?」
「ああ。ここから先は、“一度きりの交易”では意味がない。――制度を創る。仕組みを築く。血を流すより、物と利を流すほうがいい」
その声には、確かな熱がこもっていた。
ナイガルはしばらく沈黙し、やがて短くうなずいた。
「それなら……俺もついていく。共の市の通訳として、“最初の仲介者”になってやる」
「頼もしいな」
呂明は笑った。
広がる草原に、馬たちの嘶きが重なっていく。彼らの背には、秦と西涼を結ぶ希望が乗せられていた。
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