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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第四章 興軍開商編
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第六十二話 馬塩貿易の駆け引き

 西涼の草原は、どこまでも青かった。乾いた風が呂明の頬を撫で、遠くで小さく馬がいななく。


 草原の中央、数本の槍が地面に突き立ち、円陣のように人と馬が集まっていた。


 その中心に、呂明、ナイガル、廉頗がいた。三人の目の前には、異民族の一団——族長らしき壮年の男が、鋭い目で呂明を睨んでいた。


 口を開いたのは、ナイガルだった。慎重な声音で、草原の言葉に訳す。


「……彼は、秦より来た商人だ。塩を持ってきた。馬との交換を望んでいる」


 沈黙が落ちる。族長はナイガルにちらりと目をやり、すぐに呂明へと戻す。


 その眼光は、まるで獲物を値踏みする鷹のようだった。


 呂明は汗ばむ手を袖の中で握り締めた。言葉は通じずとも、敵意も警戒も痛いほど伝わる。彼にとって初めての、生の草原での交渉だった。


 間を埋めたのは、贈り物だった。


 白布に包まれた塩の塊をひとつ、呂明がそっと差し出す。ひと呼吸おいて、ナイガルが言う。


「これは……海の底から採れる白い石。人も馬も、この味を欲する。彼は言う、これは『生きるための石』だと」


 族長の眉が僅かに動いた。後ろの男たちも、ざわりと視線を交わす。ひとりが前へ進み、塩を手に取った。舌先で舐め、わずかに目を見開く。


 族長がようやく口を開いた。ナイガルがその言葉を訳す。


「見知らぬ地の者が、なぜ我らと取引を? 罠か、騙しではないか?」


 その問いに、呂明は深く頭を下げ、堂々と答える。


「我らも生きるために来た。西涼には馬がある。秦には塩がある。共に得をすれば、敵になる理由はない」


 ナイガルがそれを噛み砕いて訳す。慎重に、だが自信を持って。


 族長はなおも眉を寄せていた。だが沈黙は先ほどよりも短く、やがて短く頷いた。


「ならば……どれほどの馬が欲しい?」


「百は必要だ。献上用、売買用、護衛用……用途は分けてある。中でも三頭は、特に優れた馬を求めている」


 族長の顔に、露骨な警戒が浮かんだ。彼の後ろで、数人の部族が不満げに声を漏らす。百頭など、一つの部族では出せぬ。これは略奪に近いのではないか——そんな思いが見て取れた。


 呂明はあえて間を置いた。


 そして、族長の横にいる少年に視線を移す。目が合った瞬間、少年はびくりと肩を震わせた。呂明の視線は、すぐにナイガル、そして背後の廉頗へと移る。


 全てを理解している。


 この場は、単なる商取引ではない。文化の違い、信頼の有無、生き死にすら分かつ境界線の上に立っている。


 その時だった。


 背後に立つ廉頗が、わざと音を立てて草を踏み鳴らした。


 すべての視線が、白髪混じりの壮漢に集まる。


 廉頗は口を開かない。ただ、視線だけで威圧する。緩やかに、だが確実に圧をかけるその佇まいに、部族の若者たちは気圧されたように沈黙した。


 族長が苦々しげに目を細める。そして呟く。


「……その白髪の男は、兵か」


 ナイガルが訳すと、呂明はゆっくりと頷いた。


「兵であり、友でもある。ここに争いの意志はない。だが、この取引に命をかけている」


 沈黙。


 長い、長い沈黙の後、族長が息を吐いた。


「この数では足りぬ。だが、隣の部族に声をかければ……集められぬ数ではない」


 呂明は、わずかに目を見開く。だがすぐにその瞳を細め、深く頭を下げた。


「借りを作るのは、お前のほうだ。我らに恥をかかせるな」


 最後にそう釘を刺すと、族長は背を向けた。部族の男たちが従うように離れていく。


 残された呂明は、しばらくその背を見つめたまま、動かなかった。


「……成功、ですね?」


 ナイガルが言った。声が、どこか安堵に滲んでいた。


 呂明はふと笑みを漏らす。


「まだ始まったばかりさ」


 その視線の先には、草原の果て。これから届けられる馬の群れと、それを越えて待つ、秦の政と将たちの姿が見えていた。


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