第六十二話 馬塩貿易の駆け引き
西涼の草原は、どこまでも青かった。乾いた風が呂明の頬を撫で、遠くで小さく馬がいななく。
草原の中央、数本の槍が地面に突き立ち、円陣のように人と馬が集まっていた。
その中心に、呂明、ナイガル、廉頗がいた。三人の目の前には、異民族の一団——族長らしき壮年の男が、鋭い目で呂明を睨んでいた。
口を開いたのは、ナイガルだった。慎重な声音で、草原の言葉に訳す。
「……彼は、秦より来た商人だ。塩を持ってきた。馬との交換を望んでいる」
沈黙が落ちる。族長はナイガルにちらりと目をやり、すぐに呂明へと戻す。
その眼光は、まるで獲物を値踏みする鷹のようだった。
呂明は汗ばむ手を袖の中で握り締めた。言葉は通じずとも、敵意も警戒も痛いほど伝わる。彼にとって初めての、生の草原での交渉だった。
間を埋めたのは、贈り物だった。
白布に包まれた塩の塊をひとつ、呂明がそっと差し出す。ひと呼吸おいて、ナイガルが言う。
「これは……海の底から採れる白い石。人も馬も、この味を欲する。彼は言う、これは『生きるための石』だと」
族長の眉が僅かに動いた。後ろの男たちも、ざわりと視線を交わす。ひとりが前へ進み、塩を手に取った。舌先で舐め、わずかに目を見開く。
族長がようやく口を開いた。ナイガルがその言葉を訳す。
「見知らぬ地の者が、なぜ我らと取引を? 罠か、騙しではないか?」
その問いに、呂明は深く頭を下げ、堂々と答える。
「我らも生きるために来た。西涼には馬がある。秦には塩がある。共に得をすれば、敵になる理由はない」
ナイガルがそれを噛み砕いて訳す。慎重に、だが自信を持って。
族長はなおも眉を寄せていた。だが沈黙は先ほどよりも短く、やがて短く頷いた。
「ならば……どれほどの馬が欲しい?」
「百は必要だ。献上用、売買用、護衛用……用途は分けてある。中でも三頭は、特に優れた馬を求めている」
族長の顔に、露骨な警戒が浮かんだ。彼の後ろで、数人の部族が不満げに声を漏らす。百頭など、一つの部族では出せぬ。これは略奪に近いのではないか——そんな思いが見て取れた。
呂明はあえて間を置いた。
そして、族長の横にいる少年に視線を移す。目が合った瞬間、少年はびくりと肩を震わせた。呂明の視線は、すぐにナイガル、そして背後の廉頗へと移る。
全てを理解している。
この場は、単なる商取引ではない。文化の違い、信頼の有無、生き死にすら分かつ境界線の上に立っている。
その時だった。
背後に立つ廉頗が、わざと音を立てて草を踏み鳴らした。
すべての視線が、白髪混じりの壮漢に集まる。
廉頗は口を開かない。ただ、視線だけで威圧する。緩やかに、だが確実に圧をかけるその佇まいに、部族の若者たちは気圧されたように沈黙した。
族長が苦々しげに目を細める。そして呟く。
「……その白髪の男は、兵か」
ナイガルが訳すと、呂明はゆっくりと頷いた。
「兵であり、友でもある。ここに争いの意志はない。だが、この取引に命をかけている」
沈黙。
長い、長い沈黙の後、族長が息を吐いた。
「この数では足りぬ。だが、隣の部族に声をかければ……集められぬ数ではない」
呂明は、わずかに目を見開く。だがすぐにその瞳を細め、深く頭を下げた。
「借りを作るのは、お前のほうだ。我らに恥をかかせるな」
最後にそう釘を刺すと、族長は背を向けた。部族の男たちが従うように離れていく。
残された呂明は、しばらくその背を見つめたまま、動かなかった。
「……成功、ですね?」
ナイガルが言った。声が、どこか安堵に滲んでいた。
呂明はふと笑みを漏らす。
「まだ始まったばかりさ」
その視線の先には、草原の果て。これから届けられる馬の群れと、それを越えて待つ、秦の政と将たちの姿が見えていた。