第十話 諦める気はないのです
世界史に残る戦いの中で、勝敗を決する時というのは強さはもちろん、その戦法が重要な鍵を握るとされている。
囮誘導を巧みに使った後ろからの攻め落とし。数に物言わせた囲い込み。
時に相手の油断をつき、山岳地帯の崖を騎馬で駆け下りたなんて話もあるくらいだ。
つまり何が言いたいかというと、戦いで勝負がつく時というのは、大抵気がついたときには逃げ道がなくなっている場合が多い。
ー…逃げ出したいわ。
それが紛れもない、ミランダの今の本音であった。
別に先ほど挙げられたように周りを囲い込まれたわけでも、背後を取られたわけでもないのだ。だが、ブライアンという存在を目の前にすると、たとえ逃げ出したくても逃げ出せない、そんな気分にミランダはさせられるのだ。
別にブライアンが殺気を出してるわけでも、ミランダを睨んでいるわけでもない。
しかし、ブライアンの意識がミランダに向いているだけで、ミランダはいとも簡単にヘビに睨まれたカエルよろしく、その場から動けなくなってしまっている、それが事実だ。
ーあ〜もぉ〜、お父様のばかぁ〜
全く当てにならないどころか、こんな窮地を作り出した張本人であるアルフレッドを、ミランダは心の中で情けない声で罵倒する。
小さく瞳を揺らしながら金縛りのように固まってしまっているミランダを、じっと見つめていたブライアン。彼は瞬きをいくつか落としたのち、ようやくその口を動かした。
「茶は…用意しないのか?」
ー 茶…紅茶?おかわりということ?寄越せってこと?いや、まだ入ってるわよね?もしかして冷めてしまったの?
バッと視線を上げ、ブライアンの顔、彼のカップ、ブライアンの顔、扉の方と、忙しく視線を彷徨わせるミランダに、ブライアンはちょっと困ったように眉を下げる。
「違う。君の分だ」
「あ、いえ…私は………お構いなく」
改めて付け加えられた言葉でようやく意味を理解したミランダは、動揺の末になんとかそれだけを声にした。
ー正直、この状況で飲み物も食べ物も喉を通る気がしないわ。
膝の上で拳を握り、ダラダラと冷や汗をその背に流すミランダの様子を、ブライアンは静かに眉を下げたままで観察する。
そうなると応接室に訪れるのは声なき静寂。
特に気にしてなさそうなブライアンとは違い、とてつもない気まずさを感じているミランダは、何か話題はないかとに必死に頭を巡らせた。
ー政治の話?いや、政治の中心にいる人にそれはダメね。剣、武術…わからないわ。ダンス?いや、この間の夜会、ひいてはあの求婚に繋がってしまう。なしだわ。では無難に茶菓子の…私、お茶もお菓子も口にしてない!こんなの無理よっ!!
そんなフリーズ状態のミランダに何を思ったか。
ブライアンは徐に咳払いをした。それに何かを察して扉の向こうから現れたのはハンナ。彼女に向かって手をあげて呼び、ブライアンはそのまま自分の紅茶のお代わりとミランダの分のお茶を用意するように言いつけた。
綺麗にお辞儀をしてハンナが去っていくと、ミランダへと視線を戻したブライアン。その一連の出来事をどこか茫然と見つめていたミランダは、気を遣われたことに気がつき、恥ずかしくなって俯いた。
ーあぁ、何してるのかしら…
「…落ち着いてくれ」
「…すみません」
そうして、再び戻ってきたハンナによって目の前に置かれたミランダ愛用のマグカップには、程よい温度を示すようなやんわりとした湯気が立っていた。
いつもの癖で両手で包み込むようにそれをそっと口元に持っていけば、ミランダの好きなアールグレイの香りと風味が、凍えた身体にすっと染み渡っていく。
身体の芯から広がっていく優しい感覚。
ようやく表情が解れ始めたミランダのことを、ブライアンはホッとした顔を見せた。
「落ち着いたか?」
「…はい。失礼しました」
「いや、大抵怖がられるから慣れている」
そう言って少し瞳を翳らせるブライアンを見つめながら、ミランダは首を傾げた。
ー怖い…とも違うような。
そこまで考え、改めて目があったブルーグレーの瞳に、知らず知らずミランダの背筋がスッと伸びる。
「君はあのとき、身の丈に合った者と政略結婚がしたいと言った」
「…はい」
ブライアンが持ち出した唐突の話題に、ミランダは思わず体をビクッと震わせながらも、すぐにその動揺から立ち直り、そうはっきりと肯定の意を示す。
「その…私との婚約のどこが身の丈に合っていないのか教えてくれないか?」
じっとミランダから逸らされないブライアンの真剣な眼差し。
ーどこってそれは…
「…身分です」
「…それだけか?」
「それだけと言いますが、重要なことでは?」
貴族の階級は絶対だ。
なぜなら上位貴族とは長い間その血を、貴族として繋いできたからこそ尊いのであって、下位貴族のように平民上がりが新しく爵位を持ち、そう年月を経ていない者たちとは違うのだ。
そして、ミランダの家であるメルロー子爵家はまだ4代ほどの、このブルフェン国建国からしばらくしてできた新参の下級貴族だ。
そして、このブルフェンは騎士の気質を色濃く残した国なので、地位や年齢などの上下の関係にとても厳格なのだ。
さらに、
「確かに、私の母ヴァレンティナは今は亡き小さな国の王族ですが、実質は庶子です。私に流れている半分以上は高貴な貴族様のものとは違う、平民に程近いものです」
ヴァレンティナのことを出されるだろうと思っていたミランダは、先手を打つようにそう発言した。
それを聞き、ブライアンが少し驚いたように目を見張った様子に、流石にそこまでは知らなかったのだろうとミランダはほくそ笑む。
しかし、
「…そこまでして血筋は大事か?」
そう言って首を傾げたブライアン。
その言葉に、どうしたものかとミランダは視線を右斜め上に逸らす。そうして視線を向けた先には、アルフレッドが繊細なタッチで描いたメルロー領の長閑な森の風景画が飾られている。
正直いうのであれば、ミランダはブライアンが言うように、人間は血筋云々ではないと思っている。それでも、貴族というものがそれに拘ると言うことを、貴族の世界に生きる者なら嫌でも知っている。
「…全てではないにしろ、尊ぶべきものなのでは、」
感情が出ないよう気をつけながら、ミランダは努めて、まるでそれが自身の冷静な意見のようにブライアン向かって述べた。真意を奥底まで探られてしまいそうな真っ直ぐなブライアンの瞳では、こんな悪あがきは簡単にわかってしまうと理解していても。
「では、それは一旦置いておこう」
仕切り直すようにブライアンがそっと瞳を伏せ、そして、視線を戻す。
「君は、ミランダ嬢は王妃になれる器だと思う」
「…それはどういった観点からでしょう?」
「所作、立ち振る舞い、言葉選びの美しさ、そして博識さ、賢さ、」
「最初の3つは貴族令嬢なら皆、差はあれど洗煉されてるのでは?そして、博識、賢いと称されますけどそれは勉強が出来るだけ、私は王妃として必要な教育も受けておりませんし、今まで学んできた知識がそれに通ずるか確かではありません」
ミランダは詳しいところまでは知らないが、上位貴族の令嬢は、王族に嫁ぐ可能性を鑑みてそれ相応の特別な教育を受けると友人から聞いたことがある。そしてそれは、結構厄介なものなとだともその子は言っていた。
「…その教育内容は?」
知っているのか、と言外にブライアンに訊ねられ、ミランダは緩く首を振る。
「王宮マナー、社交界マナー、外国語最低3ヶ国語、ブルフェン国史、世界史、それから世界各国と国内の地理学、そして刺繍、詩読などの手習い」
「………………それだけなのですか?」
「あぁ、」
思わず呆気にとられてしまったミランダに、ブライアンが片眉を上げ、小さく笑う。
ーそれなら、誰でもできてしまうのでは?
「女性が政に関わるのを嫌がるのは多い…」
「そうですね…ブルフェンは特に女は家を守り、夫の帰りを待つものという風習が強いですからね。でもそれなら…」
ー私じゃなくてもいいのでは?
そんな思いが顔に出ていたのか、ミランダを見ていたブライアンは困ったように眉をほんのりと下げた。
「…普通、それだけでも苦労する」
「しかし、出来る方はいるのでしょう?」
「だが、私はブルフェンを変えたい」
ーだから、私が妃に欲しいと?
「…建前だ」
ミランダの表情を読み、そう続けたブライアン。そして彼は困った表情のまま、でも愛おしそうに目を細めた。
「純粋に、貴方が欲しかった」
そう言って照れ臭そうに、でもはっきりとした笑みを浮かべたブライアンに、ミランダはヒュッと喉を鳴らした。
カァーっと駆け登る熱。きっと鏡があるのなら、ミランダは自身の全身が茹で蛸のように真っ赤に染まっていることが確認できたことだろう。
「………見た目の、好みでしょうか」
ー実際、そう言って言い寄ってくる方もいらっしゃったし…
「見た目も、中身も…いや全部か」
視線を床に逃し、小さくボソボソとした声で抵抗するように確認したミランダに、ブライアンは迷いなくそう言い切った。ほのかにはにかむブライアンとは違い、ミランダの脳内と心臓は大パニックである。
ー中身って…なに?内臓??そんな訳ないわよね?でででで、でも、わたし、殿下とこの間きちんと話しただけよね?なのに?全部?可笑しくないかしら?ただ納得させようと嘘をおっしゃってたりしない??
再びフリーズ状態になってしまったミランダを困ったような、でも嬉しそうな複雑な瞳で眺めながらも、ブライアンは手首の時計をチラリと見て、「時間か…」と少し悔しそうに呟いた。
そして、
「ミランダ嬢、」
ブライアンははっきりと、言い聞かせるような声色でミランダを呼んだ。その自身の奥底まで響いてくるようなブライアンの呼びかけに、ミランダはハッと反射的に瞳を合わせた。ブルーグレーの瞳はミランダがきちんと自身を見たことを確認すると、また宣言するようにはっきりと言葉を続ける。
「たぶん、まだ君がわたしを受け入れてくれないことはわかっている。だから、君に好いてもらえるよう努力することにする」
「…………へっ?」
「…時間がない。また来る」
それ簡潔な挨拶で言葉を締めると、ブライアンはまだ少し反応の鈍いミランダの手を取り、その指先にチュッと音を立てて口付けると、そのまま颯爽と帰っていってしまった。
その一連の流れにまた体温が急上昇し、動けなくなったミランダは、ブライアンを見送ることもできなかった。
そんなミランダの脳内では、
ー意外と長文も喋れるのですね…
衝撃のあまり思考が変な方向へと飛んでいっていた。
詩読
数多くある有名な詩集の内容を覚え、披露すること。綺麗な声で抑揚をつけ、歌うように暗唱することが優れてるとされる。
なお、社交界においては女性たちは多くの詩集の内容から擬えた言葉選びを好み、使う風習が今もなお残っている。




