9 ニートとねずみと静寂なる夜
真っ暗な夜道。
シンは黙々と歩いていた。
それこそ10分以上、一言も発していない。
厚底眼鏡をつけているので、目元から彼の心情をうかがう事はできない。さっきまでの興奮を未だ引きずっているのだろうか。無理もないだろう。戦闘の素人が即興であれだけのことをやってのけたのだから。
その間、ねずみはシンに話しかけている。
「ちゅー(シン、さっきはカッコよかったぞ! 正直、驚いたぜ! お前、やるときはやるんだな。見直したぞ!)」
何も言わず足早に進んでいたシンだったが、ピタッと足を止めた。
「ちゅー(おい、どうした、シン?)」
「……あのね。お兄さん」
「ちゅー?(??)」
「うんこ漏らしちゃった」
「ちぅっ!?(はぁ?)」
「だって怖かったんだもん。仕方ないじゃん! どうしよぅ? リーザに怒られる」
シンはなんとも情けない顔で、ねずみに視線を落とす。
「ちゅー(川で洗ったらいいんじゃね?)」
「ズボンがびしょびしょに濡れていたら、おねしょしたとか思われない?」
「ちゅー(知るか!? 適当に乾かしたらいいだろ?)」
「乾くかな?」
「ちゅー(乾く、乾く)」(適当)
川べりまで行ってズボンとパンツをおろすと、バシャバシャと洗った。
ねずみはシンの後ろで枯れ葉を集めている。
「ちゅー(シン、火は熾せるか?)」
「無理だよ。そんな技術、俺にはないよ」
「ちゅー(お前、シャドーマスターなんだろ? 念じるだけで指先から蒼白い火とか呼び起せそうじゃん?)」
「あれは俺が昔描きかけた妄想漫画の主人公。ネームを3ページ描いたところで力尽きたけどね」
「ちゅー(そ、そうか……)」
ねずみはカチカチと石をぶつけて、なんとか火を熾した。
「ちゅー(洗ったらその辺においとけ。そのうち乾く)」
「ありがとう。お兄さん。これでリーザに怒られずに済みそうだよ」とシンは歯を見せて笑った。
ねずみでも、溜息を吐きたくなることもあるようだ。
一人と一匹は座り込んだまま、しばらくの間、月を眺めていた。
「ちゅー(ところで少しだけ疑問があるんだが、聞いてもいいか?)」
「うん? 何、お兄さん?」
「ちゅー(あいつらは勘違いしていたようだが、なんであの時お前は止めたんだ?)」
「え? えーと……??」
「ちゅー(手を伸ばして、やめろと心の中で叫んだだろ? あれはどうしてなんだ?)」
それはシンがアーガスに手のひらを向けた所為を指していた。
シンとお兄さんは、やみくもに相手を脅していたのではない。
連携しながら一定の場所におびき寄せていたのだ。
その場所は、男達が尻もちをついて怯えていた宿屋の中央である。
お兄さんは仲間を使って、シャンデリアを落とす準備をしていた。
その先に、台所からかっさらった鋭利な刃物をぶら下げて。
そして期は熟した。
シンの合図でフィニッシュだ。
だが、シンが手のひらを向けた本当の意味は『やめて、お兄さん!』だったのだ。
やめたらまずいだろ? 攻撃を中止したら、今度はシンが危ないではないか。シンはアーガスの間合いに入っているのだ。敵の剣先は真っ直ぐシンを向いている。慌てたお兄さんは、シンの元へ向かった。無我夢中で走ったため、結果としてウィスキーの瓶を落としてしまったという経緯があった。
「……あの人たちが可哀そうだなって思って」
「ちゅー(何を言っているんだ? そもそもあいつらが悪いんじゃないか。ムカついたからギャフンと言わそうと思ったんだろ?)」
「うん。リーザに酷いことをしたあいつらのことを、無茶苦茶憎いと思っていた……」
「ちゅー(だったら、なんで?)」
「憎いけど、すごく憎いんだけど……、でも、ふと思ったんだ。あの人たちは、悪いことをしても叱ってくれる人がいないのかなって。俺には叱ってくれる人がいた。妹にリーザ、そしてお兄さんも……。頑張らないと将来困るとか、悪いことをしたら回りまわって自分に返ってくるとか。それは耳が痛いことばかりだけど……。
でも、だから俺は、悪いことが悪いと分かる。だけどあの人たちは、悪いことをすることを自慢げに話していた。だから思ったんだ。彼らを叱ってあげる人が誰一人いないんだって。可哀そうだなって思った」
「ちゅー(だから咄嗟に、悪いことをした分、跳ね返ってくるとかいう設定の呪いを思いついたのか?)」
「うん」
「ちゅー(でもあいつら、呪いが怖いから謝っただけだろ? 本当に改心した訳じゃないじゃん)」
「それでも良いと思うよ。俺だって、いつも怒られるのが怖いから嫌々やっていただけだし」
いつの間にかズボンは乾いていた。
それを履くとシンは立ちあがり、夜空を見上げた。
雲は姿を消し、どこまでも広がる黒いキャンバスに幾奥の点が刻まれていく。
シンはなんとも清々しい顔で、星々を見つめていた。
そしてぽつり呟く。
「でも、こうして頑張ってみて思ったんだ。やってみて良かったって」