160 いかに準備をしても、本番を前にしたら思うところがある。
秘境という言葉があるが、それはまさにこんな場所を指すのではないかと思う。
ムイルさんに先導され、ダークエルフの長老衆が集う建物のさらに奥に進んだ先に洞穴が存在した。
そしてその洞穴を超えた先に案内された。
「ここが精霊郷、ワシたちダークエルフが契約した精霊が住まう世界」
「……すげぇ」
魔石を使ったランタンが照らした洞穴の先にあった霧を越えた世界。
外の夜の世界も異世界と呼ぶにふさわしい世界であったが、ここは更に違う別世界。
七色に輝く空を飛び交う無数の精霊たち。
宝石のような樹木を登る動物のような形をした精霊たち。
一見して人の住む世界とは違うと断言できる、絵本の中に出てきそうな世界。
「初めて見る者は婿殿のような反応をよく見せる。今回の計画でテスターたちが精霊と契約に向かった森は表向きは精霊の森と名を打っているが、実際はほかの森と大して変わらぬ。ただほかの森と違って精霊の姿を見つけやすいのはこことは別の小さな出入り口があるからじゃよ。そこから出入りしている精霊たちが外界を散歩しに行くように森をさまよっている。こここそが精霊たちの真の世界といったところかの」
「はぁ」
そんな景色を見て、ムイルさんの説明を聞いてもあまりの光景に感嘆の声しか出てこない。
まさに精霊の理想郷がそこに存在していた。
その景色に俺はありきたりな感想しか抱けなかった。
ダンジョン内でも感じたことのない濃密な魔力。
それが空気に溶け込み自然な感じで調和している。
大自然が生み出した見たことのない生態系が目の前に存在するのだ、驚くほかリアクションを取るのは難しい。
「さて、長々とこの場にいても仕方ない。婿殿こっちじゃよ」
ここは精霊の世界、必要以上によそ者が入っていけないことから同道するのはムイルさんのみ。
唖然としている俺に声をかけ、ゆっくりとその歩みは始まる。
上京してきたおのぼりさんみたいに周囲を見渡したい衝動に駆られるも我慢し、黙ってついていき歩くこと十分ほど。
「ここは?」
着いた先は精霊郷の中でもなんの変哲もなさそうな小さな泉だった。
小さなといっても十人くらいなら余裕で水浴びができそうだと思える程度には広い。
「婿殿が契約する精霊は特殊でのう。住んでいる場所も遠くてここから馬で移動するとなると大分時間がかかってしまう。なので移動する方法も特殊なんじゃ」
着いた先にあったのは綺麗な泉、水面を覗き込めば泉の底まで見通せそうなほど透き通った泉だ。
ここにその件の精霊がいるのかと思ったが、そういうわけではなく、ムイルさんはリズムに乗せた口笛を吹く。
その音色に魔力を乗せ何かを呼び寄せているのはなんとなくではあるがわかった。
「……きよったぞ」
「いや、だから何が?」
この老人に見えない老人はなにかとサプライズをしないと気がすまないのか、この場所が何かとか、これから何が来るのかというのを一切説明しない。
口笛を吹いたあと数秒耳をすませたムイルさんは何かを感じ取ったのか、悪戯心が透けて見える笑みをこちらに向けてくる。
何かが起きるとわかり、質問をしている間にも何かが来る気配がしているが、憶測や推測の領域から出ない答えしか思いつかない。
唯一、膨大な魔力を持った精霊としか状況証拠的にありえないと思える程度か。
「なに、婿殿の世界で言う、たくしー?なるものと一緒よ。頼めば好きなところに連れてってくれる便利なやつじゃよ」
やつということはこれから現れるのはやはり馬のような移動用の精霊なのだろうか。
そしてここは水場なのでその精霊の給水も兼ねているのだろうか?
心配そうな俺の表情をみて心配するなというが、悪戯心満載な笑みで安心させようとする気遣いがかけらも見えないのをムイルさんは自覚してほしい。
タクシーというからには乗り物なのだろうが、水中から出てくる乗り物?
潜水艦かと思うが、こっちの世界にそんなものがあるはずないと思いつつ、ムイルさんが警戒しないでも大丈夫だと言うが何が出るのか警戒しているとそれは現れた。
「たく、しー?」
そして潜水艦と一瞬考えた俺の頭は今日はなかなか鋭いようだった。
「うむ、精霊郷を自由に行き来する精霊、ホーレイじゃ」
「いや、鯨だろう。黄色いけど」
見上げるようにその巨体を眺めながら俺はただ目の前の現実を言い表すしかなかった。
一体全体、小さな泉からどうやって出てきたとツッコミを入れたくなる巨体がそこから現れた。
水しぶきを上げて姿を現したせいで水浸しになるかと思ったが、そこは精霊の世界。
飛散した水はそのまま魔力となり、虹色の発光は幻想的な景色を見せるだけで被害はゼロだ。
それよりも、クオーンと鳴く全長が三十メートルを超える鯨の出現に俺はどういう反応を示せばいいのだろうか。
「これに、乗るんですか?」
「うむ、そうじゃ」
宙に浮いていることから空路で向かうということだろうか?
異世界なのだから空飛ぶ鯨くらいいてもおかしくはないか。
そしてゆっくりとこちらに顔を向けて降りてくるホーレイと呼ばれた黄色い鯨。
そして見えてくるでっかい口の中。
「■■■-―‐―‐―では乗ろうか婿殿」
「いや、どこに?」
「? 目の前に空いてるじゃろう」
「世間一般的に、それは乗り込むと言わず、飲み込まれるって言うんですよ」
「何を言っているんじゃ? ほれ、早くいかんと日が暮れるぞ」
むしろこの場合、正確には口に飛び込むと言ったほうがいいのだろうか?
俺には理解できない言語で鯨に話しかけ、その後迷いなくムイルさんは鯨に乗り込もうとしている。
おそらくこの鯨のような精霊、ホーレイに行き先を告げたのだろう。
だが、どこに乗ればいいかわからない俺は嫌な予感を感じその一歩を理性が止めていた。
ムイルさんにどこに乗るのかと尋ねるも、その嫌な予感を裏付けるようにムイルさんが指差した方向は大きく開かれた鯨の口内だった。
食べられることに率先して行動を起こす行為に待ったをかけるのは生物としておかしくはない。
だが、そんな俺に対して何おかしなことを聞いているのか? という表情を見せるムイルさんの言葉にひょっとしたら俺の方が間違っているのかと心配になる。
それくらいスムーズにムイルさんはなんの迷いもなく鯨の口の中に入ろうとしている。
世間一般的に見れば異常な光景だろうが、ここは異世界。郷に入っては郷に従えとも言う。
黙って鯨の口の中に入っていくと、そっと口は閉じられる。
生き物の口の中というのはもっとジメッとしているものかと思ったが、俺の予想に反してそういった感触はなく、むしろ気温や湿度的には快適で、口内とは思えないほど明るい。
ズンと僅かに浮く感覚こそあったが、動き出してからはなにも感じず、窓がないから移動しているのか確認できない。
そして。
「理不尽だ。生き物の中だというのにタクシーよりも快適だった」
過去に体験した食虫植物よりも快適な旅に、多少の理不尽を感じていた。
「そうじゃろ、そうじゃろ。あの場からここに馬で来るとなるとどんなに急いでも半月はかかるからの」
体感で五分。
目的地には本当にすぐについた。
だが、ムイルさん曰く移動距離は想像しているよりもかなり長いらしい。
「どういう原理で?」
その距離を一瞬とは言わずとも現代からすればありえないと言えるくらいの速さでの移動となると、短縮方法が気になるのは当然だといえる。
「詳しい原理はわしらもわからん。ホーレイは水のある場所ならどこにでも行けるのでの、泉から泉、海から泉、綺麗な水がある場所ならどこにでも現れられる。一説では水辺と水辺を特殊な空間でつなげて移動しているという」
「なんともファンタジーらしい生き物ですね」
「精霊じゃからの」
そんな疑問もファンタジーの一言で終わるのは、最早なれたやりとりだ。
そのファンタジー常識を見せてくれた鯨をザブンと尾ひれを翻し潜る姿を見送る形で、ホーレイが湖に消える姿を見送りながら抱いた感想は、チートじみた何かであった。
地球にいたらまず間違いなく運輸会社や交通関連の企業がこぞって利用したがるに違いないな。
「さて、ここから先は歩くしかないからの。婿殿覚悟はいいか?」
「無ければここに来ませんよ」
そんな幻想的な空間を眺めている方向から一転、背後を振り返る。
「なんでこっちだけがモノクロなんですかねぇ?」
「それが時空の精霊ヴァルスの力よ。ここより先は時間の止まった世界、ワシもこの先はどうなっているか知らんからの」
「どうやって契約するんですか、それ」
おとぎ話に出てきそうな景色から、ホラーゲームに出てきそうな世界が目の前に広がっている。
時間が止まり、色素が抜け、昭和初期に出てきた白黒テレビのような光景が目の前に広がっていた。
そしてこの付近には精霊がいない。
あまりの強大な力のせいで中級以下の精霊は近づかず、上級以上になると縄張りの関係で近づかないということらしい。
なのでこの場は非常に静かだ。
生物がおらず、ただ自然のみが存在する空間。
不思議とそれに対して嫌悪感は抱かない。
「何、安心せい。悪意なく領域に入れば自然と精霊はこちらに語りかけてくれる。その時に受け答えをしっかりとすればいいのじゃからな」
「知覚領域も規格外ときたか」
こりゃ戦闘で契約を取るのは無謀だなと内心で思いつつ、ゆっくりとモノクロの世界に向けて足を踏み出す。
「それじゃムイルさん行ってきます」
「うむ、気をつけての。ワシはここで婿殿の帰りを待つ。吉報を期待してるぞ」
「努力します。結果は、帰ってきてからのお楽しみで」
ここから先はムイルさんは入らない。
試練を受けに来たものは一人で挑まなければならないというわけではないが、複数で受けるよりも一人で受けたほうが精霊側の心証がいいとのこと。
それがムイルさんの話であった。
白黒の世界と色の付いた世界の境界線をまたぐ時に一瞬ためらうも、すぐに足を踏み込む。
木々が生い茂るも、獣道は残っており、黙って突き進む。
時間感覚がだんだんと引き延ばされているような感覚を味わいつつ進む。
川の流れも、落ちる木の葉も、吹き抜ける風も存在せず。
ただ止まった世界が続く。
『あら珍しいわね。人間がこの地に来るなんて』
そんな空間に突如として声が響く。
「っ」
周囲を見渡すも、姿どころか魔力も感じない。
気のせいかとも思ったが、さっきの力強い声が幻聴だとも思えない。
『あなた迷子? ってわけじゃなさそうね』
どことなく親しみを含んだ声質に体は思ったよりも力まず、すっと息を吸い込むことができた。
「あなたが、時空の精霊ヴァルス様でしょうか!」
『あら、私のこと知っているのね? といってもここに来るのなら目的は一つしかないわよねぇ。知っていて当然。となると、あなたまさか私の試練を受けに来たの?』
びっくりしたと言うよりは、意外という雰囲気に比重をおいた声だった。
精霊との契約は、魔王軍ではダークエルフの専売特許。
そんな中で人間が契約に来るのは精霊からしても珍しいことなのだろうか。
「そうです! この度、あなた様の試練に挑みに参りました!」
『あら、真っ直ぐな声、気合が入っていていいわね』
精霊というのはもっと荘厳なイメージがあったが、声質からして近所の主婦たちと会話をしているような感覚になってきた。
まるで元気な子供が背伸びをして微笑ましいと言われているようだった。
事実、かの精霊からしたら俺は子供のようなものなのかもしれない。
『人間が私との契約を望むのなんていつ以来かしら、千年以上なのは間違いないわね。そんな人間さん。あなたはなぜ私との契約を望むのかしら? この質問の答えによって試練の内容を決めるわよ』
楽しそうに昔を思いだし、話を進めてくるヴァルスは契約自体を嫌がる素振りは見せない。
そんな存在からの質問にどう答えるか、一瞬考えるも、建前よりも素直に答えたほうがいいと思い大きく息を吸い込み。
「長き時を生きる愛すべき人たちと共に生きるため、あなたの力を貸してほしい!」
思いとともに吐き出した。
『……』
「……」
我ながら普段なら恥ずかしくて絶対に言わないようなくさいセリフを言ったと思う。
だが、精霊との契約が将軍位を求めてとか、もっと強くなりたいからという理由ではないのだから仕方がない。
自分だけ朽ちていき、彼女たちを残したくないからこそ精霊との契約を望んだのだ。
その気持ちを偽ってしまったらダメなような気がして吐き出した言葉だ。
多少の照れはあるも後悔はしていない。
一瞬の沈黙。
精霊の答えを待つ。
『愛ゆえね。いいでしょう。その答えに嘘はないと見たわ! ええ、愛! 素晴らしいわ!』
そして返ってきた答えは歓喜の色を含ませた答えだった。
『さぁ! 人間さん名乗ってくださいな! 時空の精霊、ヴァルスの名のもとに試練を始めましょう!』
「田中次郎! ただのしがない人間だ!」
今日の一言
さて、どんな試練が出されることやら。
今回は以上となります。
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