第15章『終わりなきワガママ』そして奴隷の絶叫
あの大熱狂の『イケメンオーディション』最終決戦から、数日後。
日本中を巻き込んだ騒動の余韻もようやく落ち着きを見せ始め、ネットのタイムラインも新しいトレンドへと移り変わりつつあった。
一ノ瀬財閥の本邸。その広大な敷地の一角にある、最高級のイタリア製家具で統一された葵の私室には、贅沢なクラシック音楽が静かに流れていた。
一ノ瀬葵は、窓際の豪奢なカウチソファに深く腰掛け、最高級の紅茶を優雅に口に運んでいた。その表情は、いつもの高飛車な女王のそれでありながら、どこか物憂げに遠くの空を見つめている。
(……イケメンオーディションとは、一体何だったのかしら)
葵は、手元のタブレットに表示された、オーディションの最終報告書をスクロールしながら自問自答していた。
十億円という私財を勝手に投じ、一万人もの男たちを品定めした日々。皇類の醜い本性を暴き、如月涼の純粋な歌声に驚かされ、黒崎駆の命懸けの執念に一億円を支払った。
あの嵐のような時間を通じて、自分は確かに「もっとまともな女になる」と誓い、精神的に一回り成長したはずだった。
けれど。
「……退屈だわ。退屈すぎて、死んでしまいそうだわ」
葵は、手にしたプラチナのティースプーンを、ソーサーの上にカチンと乱暴に置いた。
そうなのだ。オーディションが終わり、ファイナリストたちがそれぞれの日常へと戻っていった数日後の今、葵を襲っていたのは、耐え難いほどの「寂しさ」と「退屈」だった。
あの地獄のような書類審査の徹夜作業。理不尽な命令を出すたびに、すぐ後ろから飛んできた、冴えない幼馴染の小気味いいツッコミ。命の危険に晒されたとき、ボロボロになりながら自分を抱きすくめてくれた、あの男の背中。
それらが綺麗に消え去り、静寂だけが戻ってきた部屋は、大財閥の令嬢である自分にとって、まるで行き止まりの退屈な檻のように感じられてならなかった。
「やっぱり……寂しいじゃないのよ……!」
葵はカウチソファのクッションをバシバシと叩き、顔を真っ赤にして身悶えした。
もっとまともな女になってから迎えに行ってあげる、と大見得を切ったのは事実だ。だが、一ノ瀬葵という人間は、そんな殊勝な態度のまま何ヶ月も大人しく待てるような、お淑やかなタマでは到底なかったのである。
「決めたわ。こうしちゃいられないわ。……おい、蓮!!」
葵が部屋の呼び出しボタンを思い切り叩きつけると、ほぼ同時に、部屋の重厚なマホガニーの扉が、ガチャンと勢いよく開いた。
「はいはい、お呼びですかお嬢様。呼び出しベルをそんな親の仇みたいに連打しなくたって、奴隷はすぐに駆けつけますよ」
現れたのは、右手の包帯もすっかり取れ、いつものように長すぎる前髪で目を隠した神城蓮だった。彼は手元に分厚いバインダーを抱え、新調した不格好な作業用メガネを指で押し上げながら、いつもと変わらない呆れたようなトーンでため息を吐いた。
「遅いわよ、蓮! 万死に値するわ!」
「いや、ベルが鳴ってからコンマ5秒で入室したんですけど。僕に瞬間移動の超能力でも求めてるんですか? それとも何ですか、また部屋の温度がコンマ2度気に入らないとかそういうワガママですか?」
「うるさいわね! そんな細かいことはどうでもいいのよ!」
葵はカウチソファから勢いよく立ち上がると、ドレスの裾を翻して蓮の目の前へと突進し、彼の胸元をビシッと指さした。
「蓮、あんたたち、私の新しい企画に付き合いなさい!!」
「……は?」
蓮の小気味いいツッコミが、一瞬にして停止した。メガネの奥の目が、点になっているのが前髪の隙間からでもよく分かる。
「お嬢様……今、なんて言いました? 新しい、企画……?」
「そうよ! 新しい企画よ! 前回のイケメンオーディションは、確かに私の美意識を満たす素晴らしいエンターテインメントだったわ。でも、あれはまだ、日本国内という狭い世界の中での縮図にすぎなかったのよ。一ノ瀬財閥の総帥令嬢である私が、そんな小さな規模で満足して終わるわけがないでしょう!」
葵は贅沢な扇子をパッと広げ、高飛車な笑みを満面に浮かべて、恐るべき宣言を口にした。
「次は世界よ! 題して、――『一ノ瀬葵の為の世界丸ごと超絶ハイパーイケメンコロシアム・オーディション』を開催いたしますわ!!!」
「スケールアップの仕方がバカのそれ!!!」
スタジオに負けないほどの蓮の鋭い大音量のツッコミが、葵の部屋に響き渡った。
「何ですか世界丸ごとって! コロシアムって何ですか! 前回の十億円の予算でも一ノ瀬財閥の監査室から大目玉食らって、僕が始末書を20枚も書かされたの忘れたんですか!?」
「そんなはした金、どうでもいいわよ! 今回の予算は、私の個人資産から一気に『百億円』を投入しますわ!!」
「予算が十倍になってんじゃねえか!!」
蓮は頭を抱えてのけ反った。だが、葵の暴走は、もう誰にも止められなかった。
「すでに前回のファイナリストたちにも、一ノ瀬の特権を使って強制招集のレターを送っておいたわ! ほら、如月涼なんて『また一ノ瀬さんの面白い企画に参加できるの? 僕、今度は世界に向けて歌っちゃうよ!』って、大喜びで快諾のメッセージが届いたわよ!」
「あのピュアな天才歌ウマ少年、ノリが良すぎるだろ! 危険を察知しろよ!」
「黒崎駆だって、『一億円の追加報酬が出るなら、今度は世界中のどんな暴漢の壁にでもなってやる』って、すでにやる気満々よ!」
「あいつは妹の治療費が完治したあとの生活費まで稼ぐつもりかよ! 守銭奴の狼になってんじゃねえか!」
「皇類だけは『もうあんな泥臭い野蛮な島は御免だ!』って泣いて拒否してきたから、一ノ瀬の力で所属事務所ごと買い取って、強制参加の書類にサインさせておいたわ」
「やってることが完全に大財閥の横暴!!! コンプライアンスが消滅してる!!」
蓮はバインダーを床に落とさんばかりに激しくツッコミを入れ続けるが、葵はどこまでも楽しそうに、そして気高き女王の笑みを浮かべて蓮を至近距離で見つめた。
「さあ、蓮。今回の『強制運営総統(奴隷マスター)』の任命書よ。世界五大都市に特設ステージを作り、ハリウッドの映画監督を雇って、世界中のイケメンたちを書類審査から叩き落とすのよ! もちろん、今回も私の隣で、すべての雑務とシステム管理を寝ずにこなしてもらうわよ、私の完璧な裏方さん」
葵は、蓮の作業用メガネのブリッジを、いたずらっぽく指先でツンと小突いた。
もっとまともな女になってから迎えに行く、という誓いは嘘ではない。だが、葵にとって「まともな女になるための修行」とは、大人しく花嫁修業をすることではなく、この愛すべき幼馴染を巻き込んで、さらに大きな世界の中心で、自分のワガママを貫き通すことそのものだったのだ。
蓮は、目の前で爛漫たる最悪の笑顔を浮かべる少女を、前髪の隙間からじっと見つめた。
一回り成長したツンデレの誓いの果てが、このさらなるスケールアップした大迷惑。
蓮は、深いため息を一つ吐くと、割れたメガネを新調したばかりの己の運命を呪うように、天を仰いで、全霊の力で絶叫した。
「――結局、何も変わってねぇーーー!!!!!」
奴隷の悲鳴のような絶叫が、一ノ瀬邸の広大な庭園へと木霊していく。
終わりなきワガママと、それを支え続ける最強の裏方。二人の新章という名の、世界を巻き込む大騒動の幕が、今、再び派手に切って落とされるのだった。




