第一編 第七章 その1 第一の殺人
◯僕=ラスコーリニコフ
極貧の元大学生。学費が払えず除籍された。選民思想に取り憑かれている。婆さんに金を借りている。
◯婆さん=アリョーナ・イヴァーノヴナ
強欲な高利貸し。質屋のババア。社会の敵として『僕』の標的に選ばれた。
相変わらず、狭き扉は開かれた。パンくず程度の隙間だが。
やはりまた、真っ暗闇から突き刺すような瞳が二つ。
不信感まみれのその瞳に。僕は、釘刺しにされちまった。
その刹那、僕は取り返しのつかない過ちを犯してしまい、我を失いました。
僕は怖かった。婆さんと二人きりで彼女がビビって騒ぎ出すとしたら。僕のこんな形じゃあ婆さんは安心しないから、ドアを僕自身の方に引っ張った。婆さんに鍵をしめられちゃ困るから。
婆さんはノブを握ったままだった。そのせいで危うく、婆さんをドアもろとも階段に引きずり出すところだった。
婆さんは通せんぼして僕を通すつもりなど毛頭なかった。
だから、僕は突き進んだ。
婆さんは戦慄いて口をモゴモゴさせたが、言葉にならず、僕を凝視した。
僕はとりあえず、口を動かした。図々しくて馴れ馴れしくてぶっきらぼうな口調になってしまった。
「こんにちは、アリョーナ・イヴァーノヴナ」
でも、これ以上口が動かない。震えがとまらない。
「これ、例のものです……あ、いや、その……こっちへ…………行きませんか?そっちのほうが明るいとおもうので……」
そして、招かれざる客である僕は婆さんを尻目にずかずか進んでいった。
必死に息を荒げて着いてきた婆さんはやっと呂律が回ったらしい。
「ちょっと、あんた何やってんの? そもそも誰なのあんたは。一体何しに来たんや?」
「すみません、アリョーナ・イヴァーノヴナ。以前もここに来た……ラスコーリニコフですよ。こないだの例のもの……ほらあ、質草ですよ……」
僕は質草をそっと差し出した。婆さんは一瞬ちらりと覗いただけで、脇目を振った。
けど、またすぐに質草に瞳をロックオンした。
1分ほどが過ぎた頃だった。
僕の目には『婆さんの瞳の奥底に嘲笑のようなものが住んでいる』ように思えました。
全てお見通しだとせせら笑うように。
僕は狂った、ような気がした。頭の中が真っ白に漂白されて、自我が吹き飛んでしまいそうだ。
怖い、怖い。そう。怖くて僕は30秒後にはスタコラサッサと逃げ出していたであろう。
「……覚えてますか?」
…………僕の中で、何かが壊れる音がした…………
「…………受け取れよ。僕は暇じゃないんだ」
口が勝手に暴れ出した。すると婆さんはハッと正気を取り戻した。僕の傲慢さが彼女を納得させたらしい。
婆さんは質草を見つめながら尋ねた。
「なんだい急に怒鳴り散らして。何を受け取ればいいんだい?」
「ほら……前言ったでしょう? 銀のシガレットケースですよ」
「それにしても、何だってお前さん、そんなに震えてんのかい?顔も真っ青じゃないか。溺れたりでもしたんかい?」
「……ちょっと熱がありましてね…………飯がないんで、嫌でもこうなるんすよ……」
僕はだんだんと力が抜けていった。
「なんだいこれは?全然銀っぽくないじゃないかい。やたら頑丈にぐるぐる巻きにしちゃって」
僕は紐をほどこうとヤケクソだから、結び目に苦戦しちまった。
明かりの方を向いた僕は、ここが完全な密室であることを確かめた。
婆さんが僕に背中を向けた刹那だった。
僕は斧を引き抜いて、懐に隠した。
力が入らねえ。血の気が引いていく。
頭がグッチャグッチャ、視界がグッラングッラン。
「いったいなんだってこんな、ぐるぐる巻きなんだい?」
婆さんが僕を観た。
やるしかねえ。
斧を振り上げた。僕が僕じゃないみたいだ。
婆さんの脳天めがけて一撃。
斧を振り下ろした瞬間、ふつふつふつと湧き上がる得体のしれない化物。
婆さんの白髪交じりの貧相な髪は相変わらず油でベッタベタに塗り固められてて、ちっと『ネズミの尻尾』みてえだ。
やはり、斧は脳天にどストライク。婆さんの背が低くて助かった。悲鳴はあんまり聞こえなかった。
床に崩れ落ちた婆さんは片手に質草を握りしめたままだった。
俺の斧は言うことを聞きゃしねえ。脳天を2、3発はぶん殴った。
血がドバアアアアァァァァ……
死骸は仰向けにひっくり返った。僕は一歩下がり、その顔ににじり寄った。
完全に、事切れてる。
目ん玉は深海魚みたく飛び出してきそうだ。
婆さんは全部がグッシャグッシャに歪んでて、もうとっくに死後硬直が始まっていた。




