後編
「まぁ、何も今すぐこの世界から全人類を消滅させると言っているわけでもないのだからあまり気を落とすな」
「私はそれでも良いと思い始めていたのだけれど」
最早絶望で何も語れなくなっている王太子に、流石に哀れに思ったのかディアールが慰めの言葉をかけるが、その横でミケイラが鼻を鳴らす。
「お待ちくだされ!」
会場の扉が勢い良く開き、そちらを見ればこの国の国王夫妻とそれに付き従う貴族が青い顔をして並んでいた。そして全員が跪いて頭を深く下げ、懇願を始める。
「此度は誠に申し訳ありませんでした!今一度、今一度チャンスを我々に!」
「本当に面の皮が厚いな……信仰心が一番あるのは人間だ。だから今しばらく贔屓しろと主張したのは貴様らだ。そしてそれが証明できなかった今、チャンスなぞあるはずがない」
ケイベルが国王を軽蔑した目で見下ろすが、なりふり構わない人間側は声を上げ主張を続けた。
「この度は我々の自覚が足りなかったのです!加えて息子を騙し、あろうことかソフィーリア様を陥れようとした女が悪いのです!すぐさま極刑……否!ご希望とあらば拷問をいたしますから!」
涙や汗に加えて涎まで撒き散らし頭を床にこすりつけるその姿を哀れみつつ、ソフィーリアは首を傾げる。
はて、いつ自分は陥れられたのか?たしかに身に覚えのない事を責め立てられたが、目の前の人間たちが自分を追い詰めることなどできただろうか?
その疑問が顔に出ていたようで、苦笑した姉に頭を撫でられた。
「とんでもない勘違いよね」と、妹に囁いたその瞬間。
「私は騙してなどいません!」
会場に響く甲高い声に、誰もが目を丸くさせた。
そこにいたのは件の男爵令嬢だ。
先程記憶を強引に戻された際に涙と汗を滝のように流して化粧は崩れ落ち、ぎらぎらとした目で周囲を威嚇する。
「私は本当にソフィー様……いえ、ソフィーリア様に虐められていたの!」
「メアリー、黙るんだ!」
「どうして!?殿下もそれには納得してくださったでしょう!?」
髪を振り乱し、その手を掴んで止めに入った王太子の手を力いっぱい振り払う。
「私に嫉妬したんです!人間の私に負けたことが悔しかったんですよね?!」
狂ったように笑いながら女神を挑発する姿に、人間達は悲鳴を上げて彼女に掴みかかる。それでも彼女は今まで如何に自分が被害にあってきたかを叫び続ける。
誰かあの小娘を黙らせろ!と国王の怒号が飛ぶが、それを静かな声が止めさせた。
「静かに。……一つ聞かせてちょうだいな」
それはソフィーリアの声だ。
慈悲深い女神と言っても限度がある。たかが一人の性根の腐った人間にここまでコケにされたのだから、この場で全員が惨たらしく殺されるのかもしれない。
そう全員が覚悟した。
「どうして貴女に嫉妬しなければならないの?」
こてり、と首を傾げた彼女はその圧倒的な清廉とした美しさとは裏腹に、どこかあどけなく可愛らしい。それまで男爵令嬢の暴挙を止めに入ろうとしていた衛兵や王太子がその姿に見惚れて力が抜ける。性別、年齢、好みの問題を打ち破る美しさにいっそ怯えながらも、男爵令嬢は噛み付くように吐き捨てた。
「ど、どうしてって……だって貴女様は負けたわ!殿下の愛を得られなかった!」
「負けた……ああ、なるほど。でも、そんな戦いはしていないわ」
「そんな負け惜しみを……!」
「ねえ、どうして私があの姿をしていたかわかるかしら?」
そうして女神の姿が変わる。そこにいるのはソフィー•クレス。赤毛でそばかすのついた顔の、地味で目立たない伯爵令嬢の姿だ。
「本当の姿をしていたら、人間はすぐに私を愛するでしょう。……ああ、誤解しないでちょうだいね、神と人間というのはどうしてもそうなるものなの。お姉様方だってあっという間にその魅力で全ての人間を跪かせるでしょう」
「人間にされても何とも思わないけれどね」
肩を竦める姉が言葉を付け加える。
「そうですわね……それにこの人間の娘の姿のまま少しでも深い関係を築いていたならば、そこでも魅了していたでしょう。――容姿なんて些細な問題よ。神としての魂に気付かぬ程、貴方達は鈍くない」
そこで全員がソフィー•クレスについて思い出した。
特筆した特技もなく、容姿も地味。そして実家も功績もない上にどことなく素っ気ない。
しかし、周囲がソフィー•クレスを不快に思っていた理由はそんなことではない。
それは彼女の特殊な雰囲気だった。何もかも平凡なはずなのに人間離れしたその空気は何となく落ち着かず、気味が悪い。
その他の理由など明瞭化出来ない不快感を正当化するために過ぎない。
「そんな事をしたらディアールお兄様の言う賭けにならないわ」
「っでも!でも!悔しかったんじゃないですか!?殿下みたいに素敵な人に選んで貰えなかったんですよ!?」
「素敵……素敵?うーん……」
再び女神としての姿に戻り、ちらり、と王太子を見る。場違いにも頬を赤らめている彼を数秒見つめてから再び男爵令嬢に視線を戻した。
「貴女達人間の美って数百年……下手をすれば数十年で価値が変わるのね」
数十年前は目が細く色黒な男性が美しいとされていた。更に百年前は贅肉の乗った男性が美しいとされていたのを思い出し、その難解さと移ろい易さにため息を吐く。
「そうね……例えば、貴女が猿の毛皮をかぶって群れの中に入るとして、そして群れでリーダーとされる猿が自分では無く違う雌の猿に求愛していたとして、それを負けたと思うかしら?」
ソフィーリアとしてはわかりやすい例え話をしたつもりであったが、それを聞いた男爵令嬢と王太子はプライドが傷ついたと言わんばかりに両手を口に当てて小刻みに震え出す。
たしかに、神々は自分たち人間が決して手が届かない美しさであると自覚している。
だからこそ男爵令嬢は悔し紛れに、少しでもプライドを傷付けたいと女としての勝負を仕掛けたのだが……まさか、そのように見えていただなんて。
しかし、そんな二人をよそに、女神は無邪気なままとどめの一言を口にする。
「さ、猿……」
「ええ、そうよ。私達から見たら同じようなものだわ。だから貴女の言う勝負なんてそもそもなかったのよ。――それで、それは横に置いておくとして。私が嫉妬する要素が貴女にあると、本当にそう思っているの?」
「なっ、なっ、なっ……!」
「ああ、別に貴女を侮辱したいわけじゃないの。ただ、そんなふうに見えているのは本当に驚きで……だって他の生物が私達に勝負したがる事自体何百年以来だっていうのに、まさか嫉妬する程勝っている要素があると本気で思っているとは思わなくて……もしかして、今の主張はもっと本能的な行動かしら?お気に入りの雄を奪われると思ったの?それなら威嚇するのも納得だわ」
そうして不思議そうに聞いてくる彼女に、今度こそ男爵令嬢は絶句した。あまりの男爵令嬢の恐れ知らずな愚行に、怒りを通り越して興味を抱いてやりとりを見物していた神々も、ついに耐えきれなくなったのか笑い始める。
ソフィーリアはたしかに慈悲深い。が、神らしく傲慢な態度も持ち合わせている。しかも彼女自身にはその自覚がない。だからこうして無邪気に傷付けるのだ。質が悪いと思わなくもないが、妹を可愛がっている兄弟からしてみればそんなところも愛らしい点の一つだった。
「さて、そろそろお開きの時間だ。……しかし、何だかんだで予想のつかない愚行を犯してくれたのは楽しかったぞ」
「それは兄上だけだが……」
ぼそり、と呟いて兄を睨むケイベルに、まぁよいではないか!と笑って誤魔化すディアールは、言葉を続ける。
「よってだ!今回取り上げるのは魔力だけとしよう!知恵はそのままで構わん、好きなようにつかうが良い!!」
主神の宣言に人間達はざわめく。魔力が取り上げられることは勿論変わらず問題だが、知恵はそのまま。ともなれば、少なくとも人類が滅亡することはないのではないか?
何人かの人間に安堵の色が見えたその瞬間、扉から流れ込むようにして衛兵が押し寄せる。
「大変です!陛下!!他国から魔力が一切使えなくなった責任をどう取るのかと苦情が!」
それを聞いて国王の顔が青白くなる。
今まで自分たちの命の危機で忘れていたが、たしかにそうだ。
今や魔法は世界で使われており、それがなくては生活もままならない程である。
それが唐突に消え去ったとなれば、責められるのは当然神を蔑ろにした自分達だ。
「ディアール様!ソフィーリア様!ミケイラ様にケイベル様!今一度お考え直しくださ……!」
しかし、慈悲を乞うにもそこには誰もいない。神々の国へと帰ったのだと悟り、魂が抜かれたかのような表情で力なく項垂れた。
体から力が抜け、宙に浮いていた花は小石のような物と化して床に落ちていき、魔力で光の灯っていたシャンデリアの明かりが消えていくことで辺りは暗闇に包まれた。
人類が魔法を喪った瞬間であった。
あれから数千年の時が経過した。
生活水準の著しい低下は混乱を極め、一時は絶滅の危機であった人類だが、元々築き上げていた建物を利用し雨風を防ぎ、何とか生存競争に勝ち続けている。
加えて、彼らの残された知恵を活用し、魔法に近いエネルギーを開発した結果、魔法が栄えていた文明に近付いていたのだから驚きだ。
「最初から知恵だけを贈っていれば余計な混乱もなかったかもしれません」
地上を見下ろしながら反省した表情の妹に、ミケイラは微笑んで頭を撫でる。
「一つの贈り物より二つの贈り物の方が喜ぶ、って思っちゃうのは仕方ないわ。……それより、知ってる?貴女が嫁入りしようとしていたあの国、最近は遺跡として発見されたんですって」
暇潰しにと人に化けてミケイラが地上に降り立った際、嘗てディアールの遊びで賭けをしたあの国は、最近になって見つかった巨大遺跡として賑わっていた。
壁には『神を忘れるな』という文字、そしてソフィーリアに対する謝罪と祈りの言葉が数多に見つかっている。
「何故このような大国が滅亡したのか、とか言われていたけれど……まさか国王が大きい口を叩いた上に王太子が女神を蔑ろにしたから、なんて……知ったら面白そうだけれど」
「誰も信じませんよ」
「それもそうね」
そうして彼女らは地上に目をやる。
魔法を喪い、代わりの力で逞しく生きる人間が頂点に立つ地上を。