前編
「ソフィー•クレス!貴様との婚約はこの場をもって破棄する!」
魔法によって作られた花があちこちで舞い落ちる学園内のパーティー会場に響く怒鳴り声に、名前を呼ばれた赤毛の令嬢は目を丸くした。
「……あら、まぁ」
どこかおっとりとした反応の令嬢に舌打ちをし、睨みつけるのはこの国の王太子であるローガン•フィージュランド。絶世の美男子と名高い国王の血を引き継いだと一目でわかる上品な亜麻色髪と紫水晶のような瞳を持つ容姿端麗な王太子の姿を、ソフィーと呼ばれた令嬢はただ静かに焦げ茶色の瞳に映していた。
「貴様の家はおそらく不正で王家との……私との婚約を結び、甘い蜜を啜っているな!加えて貴様は醜い嫉妬から、か弱い男爵令嬢のメアリーを陰湿に虐めていた!!」
令嬢はブラウンの瞳でローガンの腕に甘えるかのように擦り寄る少女を見つめる。柔らかな栗色の髪と大きな緑の瞳で此方をちらりと見ては愛らしい口元に笑みを浮かべたが、すぐに悲しげな表情を作ると此方を見つめてくる。
「わ、私……ソフィー様にドレスを破かれたり叩かれたり……この間も魔法で階段から落とされたりしてすごく怖かったです!」
涙声で語る男爵令嬢、もといメアリー•レーベルに周囲は同情の眼差しを向け、同時に糾弾されている令嬢には軽蔑の眼差しが投げかけられる。
前者は貴族の通う学園で男性に人気のある生徒である。持ち前の愛らしい容姿と庇護欲を駆り立てる振る舞いに魅了された者は多い。何より類稀な回復魔法の使い手として有名である。
対して、もう一人の彼女は地味な容姿。平民に多い赤毛とそばかすが目立ち、魔力も学園の成績も平凡だ。立ち振舞は地味で目立たないはずなのに、不思議と浮世離れした雰囲気は親しみすら沸かない。何より……彼女の実家である伯爵家は大した功績もない。王太子の言うとおり、何故彼女が婚約者なのか?と訝しむ者も多かった。
「――そのような事実はございませんが」
ようやく口を開いた伯爵令嬢はとても静かな声でそう言った。その表情には驚きはあるが、どこか他人事のような雰囲気すらある。
まるで、自分の知らないスキャンダルを聞いたかのようなもの。周囲は益々彼女に対して不信感を募らせた。
「ふん!父上もおっしゃっていたさ!何故貴様の家と婚約を結んだのかわからないとな!今日中に貴様の一族を拘束し、徹底的に調べ上げるから覚悟しろ!何よりメアリーはこんなに怖がっているじゃないか!」
「何故私が彼女を害する真似を?」
「何度も言わせるな!そんなの、貴様の嫉妬に決まっているだろう。なんの取り柄もないくせに努力もしない貴様が愛らしく私の寵愛を受けているメアリーに嫉妬したんだ!」
「なるほど、そういう事にしたいのね」
呟いたその言葉は皮肉じみてはいるものの、その表情は寧ろ難問を理解したかのようにすっきりとしている。
そのアンバランスさが周囲の空気を尖らせた。
「最後に、殿下。これは陛下も容認していることなのですね?」
「当然だ。……全く、ふてぶてしい女だ。おい、衛兵!こいつを拘束しろ!」
王太子の命令に武装した屈強な衛兵が彼女を取り囲む。
暴れはしないが早くこの場から連れて行こうとしたのだろう。断りもなく彼女の腕に手を伸ばした、その時。
「――わかりました、では契約はこれにて破棄いたします」
はっきりとした宣言の言葉に男爵令嬢の頭を撫でながら指示した王太子も泣いていた男爵令嬢も、そして捕物の見物を楽しんでいた周囲の人間も、一様に息を呑んだ。
伯爵令嬢の身体が白く光り輝く。そしてその顔へ、身体へと硝子にできた罅のようなものが徐々に増えていき――パリン、と高い音を立てて彼女の身体は砕け散った。
それは、そう。蛹が蝶になるその瞬間に似ている。
ソフィー•クレスという伯爵令嬢はそこにはいなかった。
月を溶かしたかのような白銀の髪。眩い金色の瞳を持ち、白い衣を身に纏うその女性に、ソフィー•クレスに侮蔑と嘲笑を向けていたその場の全員が両膝をつき手を固く組んで頭を下げていた。
自分たちは――自分たち人間は、彼女を【知っている】。
それは脳ではなく、魂に深く刻まれた記憶なのだ。
彼女はこの国……否、この世界が誕生する前から存在している。自分達が深く思考し、魔法を使えるようになったのは彼女から知恵と力を賜ったものだからと伝承さえある、その名は――。
「め……女神、ソフィーリア様」
時と知恵を司り、圧倒的な美を誇る女神の名を、震えた声で呼んだのは一体誰だろう。