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生成りの神子や観月に舞いにけり 後編

 山を下っている。

 この地がどこであるのか、ようには全く見当もつかなかった。

 ただ勘のみで移動している。

 おおよその時間帯と月の傾き角度を加味して考えるに、北へ向かっているのは間違いないだろう。

 この地が、渡向山の日野川源流域辺りである事をようは知るよしもない。

 やがて、川のせせらぎらしい水音が聞こえてきた。

 水音を頼りに進んだようは、生い茂った草の間に、一尺ほどの窪みを見つけた。

 小さな流れではあるが、今のようにとっては何物にも代えがたい喜びであった。

 人ひとりが水を浴びるには、何ら不自由のない流れだったからである。

 ようは手で水を掬い、何度も飲み干した。

 その都度。辺りの気配に気を配り、天の邪鬼の存在を確認する事は忘れない。

 大丈夫。

 確信したようは流れに両足を浸すと、上流に背を向けて尻を下ろした。

 水の冷たさに身体を震わせながらも、仰向けになったようは、全身を水に沈めた。

 身体の八割ほどが沈むくらいの浅い流れであるが、全身に負った無数の擦り傷が染み入るようだった。

 水流によって乱れた髪が、顔に纏わり付く。それを手で撫で付けながら後頭部に回した後、顔の汚れを洗いながす。

 気持ちいい。

 天の邪鬼との死闘による疲れが、洗い流されていくような爽快感を覚える。  

「あっ」

 ようは懐を探ってみた。

「ない」

 争いの最中、金子の入った巾着も落としてしまったらしい。

 悔やんでも悔やみきれない。

 何という一日なのだろう。

 考えても仕方ない。ようは溜め息を吐いて、瞼を閉じた。

 冷たい水流に耐え続けたが、不意に上半身を起こし腕を上げて脇の下に鼻を近付けた。

「自分の匂いなんて、自分じゃ気付かないもんね。奴が異常なだけよ」

 立ち上がったようは、頭を左右に振った。元結の紐を無くした長い髪が揺れ、飛沫を撒き散らせる。頭のてっぺんに手を当て、髪を撫で付けるように下ろしながら水滴を絞った。

 また、辺りを確認する。

「大丈夫」

 自らに言い聞かせると、帯を解いて小袖を脱いだ。薄めに巻いた晒しの中、小振りではあるが張りのある乳房が確りと貼り付いていた。

 小袖を水に浸し、そっとではあるが確りとした手付きで汚れと匂いを洗い落とした。

 確認の為に匂いを嗅いで小首を傾げたが、納得したように頷いて水を絞り、そのまま袖を通した。

 濡れたままの着用は気持ち悪いが、そんな事は言っていられない。しかし間もなく身震いがして、鼻水も垂れてきた。

 気合いを入れ直して、小川を後にするようであった。

 急いで逃げるために、短刀も風呂敷さえも探さずに置いてきてしまった。悔やんでも後の祭りである。それに、いつの間にか大切な金子まで無くしていたとは。まさに踏んだり蹴ったりである。

 無力感に苛まれる。

「負けるもんか」

 まだ、知恵と勇気が残っているじゃない。

 ようは歩き続けた。

 少しでも天の邪鬼から遠くへと逃れなければならない。

 何しろ相手は、妖怪天の邪鬼なのだ。市蔵に戻ってほしい気持ちは山々だが、叶うとも思えない。深手を負わせたとはいえ、どこまで効果があるものやら。何時かは追い付かれてしまうのではないだろうか?。

 下手に御鏡神社に辿り着いてしまうと、本当の両親に会えたとしても、迷惑を掛けてしまうのではないだろうか?。

 その事に、漸く気付いた。

 倒さなければ駄目なのだ。しかし、その方法が思い付かない。

 あんな化け物。どうしたら倒せるというのだろう?。

 思考に集中しながら歩いていると、強烈な睡魔が襲ってきた。

 水を浴びた後の体温低下による寒さもあるだろうが、やはり心身の疲労によるところが大きいのだろう。

 最悪の初体験ばかりが身に振りかかる、密度の濃い長い夜はまだ続いているのだ。

 足取りが重くなってきた。

 どこかで休息を取ったほうがいいのではないか。身体が限界を訴えている。

 やがて、右土手の上に建つ掘っ立て小屋が目に入った。

 ここで休もう。

 ようは決断した。

 建て付けの悪い戸を無理矢理にこじ開け、中に飛び込んだ。

 猟師小屋のようであった。

 土間に焚き火をした形跡があった。どす黒く染まった土は、おそらく何某かの獣を捌いた血の痕だろうと思われる。

 奧は一畳の板の間で、厚めに藁が敷き詰められていた。

 ようは躊躇わずに藁の上に身を横たえ、寄せ集めた藁を上から覆った。

 朽ち欠けた板壁の隙間から月光が漏れ入って来る。

 こうして横になっていると、当然の如くに瞼が閉じそうになってくる。

 休むために入った小屋ではあるが、油断すれば天の邪鬼の襲撃を防ぎきれない。

 いっそこのまま眠ってしまったらどんなに楽になるだろう。そんな弱気な心が頭をもたげたりもする。

「駄目。弱気になっては…」

 ようは起き上がって、頬を叩いた。

「天の邪鬼を喜ばせてどうするのよ」

 何気無く辺りを見回すと、壁にぶら下がっていた、ある物に目が止まった。

 縄が束になっていたのである。

 暫しの間。ボンヤリと眺めていたようであったが、突然閃いた。

 いけるかもしれない。いや、是が非にでもやらなければならないのだ。

 これはわたしが生きる為に、神様がくれたご褒美なのかもしれない。

 眠気も寒さも吹き飛んだようは、もっと無いのだろうかと、手当たり次第に探してみた。

「あった」

 もしやと思って押し退けた藁敷きの中に隠してあったのだ。ぶら下がっていた縄よりも新しく、しかも大分長い。きっと盗まれないように隠して置いた物だろう。

 ようは縄の端を手にして、左肩に巻いて和を作った。何度も何度も回す。

 その回数は三十数回にも及んだ。

 長さにすれば、十丈以上はあるのではないだろうか?。

 更にようは、板の間の藁を二尺ほどに折り曲げ、自分の胴体と同じくらいの大きさの束を作り上げた。

 最後に、余った藁を一尺程度の長さに切り解いて髪の毛を結わえた。

「勝手に使って、ごめんなさい」

 猟師に対して、申し訳ない気がした。

 小粒でもあれば置いていくのだが、巾着を無くしているのである。

 ようは戸を僅かに開いて、天の邪鬼がいないか確認してから外に出た。

 夜が明けるまで、まだ時間はある。

 天の邪鬼の気配に注意しながらも、縄と藁束を持つようは、心強い気持ちになっていた。

 目を皿のようにして四方に向けながら歩いているのは、考え付いた罠を仕掛けるのに最適な木を探しているのからである。

 天の邪鬼は、必ず追ってくるだろう。

 対峙するのは、正直言って怖い。

 今までは天の邪鬼自身の油断もあったろう。だからこうして生きていられるのだ。次は気を引き締めて襲って来るに違いない。しかし今度は違う。わたし主導の戦いなのだ。だからこそ完全決着を付けなければならない。いつまでも逃げ続けるのは不可能なのだから。

 倒すか倒されるか。ふたつにひとつである。

 最悪の事態を迎えたとしても、わたしは父親殺しなのだ。相応しい最後ではないだろうか。運が良ければ、あの世で市蔵に会えるかもしれない。そんな否定的な考えさえも浮かんでくるようであった。

 ようの瞳が輝いた。

 条件に見合う木々が生い茂る平地を発見したのでる。

 急いで駆け寄り、木々を仰ぎ見たようは、これだと感じた一本の木によじ登った。

 人ひとりが身を隠すには、最適の枝振りである。その場に藁束を置いたようは、次に風向きを確認した。北東から吹いている。

「あの木で決まりね」

 この木から風下にある、同じくらいの高さの木に目を向けた。距離にして十間ないだろう。

 多少細身の木ではあるが何ら問題はない。何よりこの二本の木を直線に結んだ中間点から、二三間ほど外れた場所に立つ木。これが一番重要なのである。二等辺三角形の構図を成した理想の配置であった。

「よし。やろう」

 ようは、早速実行に移した。

 時間は限られているのだから。

 先ず。二等辺三角形の頂点ともいうべき木に登り、てっぺん近くの幹に、ふたり分の重さを考慮して二重にした縄の端を確りと結わえて、下に垂らした。そしてこの頂点から底辺となる二本の木に面した側の枝を払うのだ。勿論。刃物など無いので、その辺りに落ちていた太い枝を見つけ、それ使って叩き折る事にした。それでも枝にも限界は来る。折れたえた枝を投げ捨て、探すのも面倒になったようは、自らの手や足を使って折る事にした。

 腕が疲れ、足が傷付き血が滲んできても、決して挫けなかった。

 枝折り作業が終ると、結わえた縄にぶら下がり、強度を確かめながら地に降り立った。

「大丈夫そうね」

 ひと息付くと、落ちた枝をかき集めて目立たない場所に隠した。見つかって警戒されては、折角考えた罠も水泡に帰すおそれがあるのだ。

 片付けを終えたようは安堵の息を漏らした。しかし折角洗い流した身体も衣類も、再び汗にまみれている事に苦笑を漏らすのであった。 

 まだ仕掛けが終わったわけではない。

 ようは、風上にある大木に向かうと掛け登った。すると小袖を脱ぎ、藁束に着せるように覆い被せ、帯で縛り付けた。

 ようの身代わりである。

 たっぷりと汗が染み込んでいるとはいえ、奴が引っ掛かるかはまだ不安であった。

 わたし以上に、わたしらしくしなければ。

 暫し悩んだ末に、その場にしゃがみこんだようは、藁が置かれた幹に放尿を始めた。

 誰も見てはいないだろうが、羞恥心に顔が紅らんでいた。

「お願い。どうか上手くいきますように」

 ようは祈る気持ちで、木を降りた。

 最後の仕上げである

 垂れた縄を手に持つと、隠れ場所に決めた木に登り、縄先に輪を作った。縄に荷重が掛かると輪が締まるように仕掛けをする。

 ようは、全ての作業を半刻余りでやってのけたのであった。

 後は運を天に任せるしかない。

 今が一番暗い時間帯であろうか。夜明けが近いのかもしれない。

 天の邪鬼は、まだ現れない。

 ようの心臓は小刻みに、やや強い鼓動を刻んでいた。

 偽りのない恐怖の波が押し寄せている。

 縄を握りしめる拳には、想像以上の力が入っていた。

「落ち着くのよ」

 瞼を閉じて、何度も自分に言い聞かせた。

 落ち着きを取り戻すために、脳内で天の邪鬼が現れた時の模擬行動を思い描いた。

 作戦はこうだ。

 小袖を着せ掛けた藁で天の邪鬼を誘い込み、その木に登った瞬間を狙い、縄にぶら下がったようが空中から忍び寄り、輪にした縄を天の邪鬼の首に絡めて宙に飛び出すのだ。狙うのは窒息死である。

 一番大事なのは、宙に飛び出してからだ。

 それが成功したとして、天の邪鬼が為すがままでいるわけがない。ようが確りと抱き付いて両腕の自由を奪うしかないのだ。天の邪鬼に比べて非力なように、それが可能かどうかに係っている。

 何度も繰り返す模擬行動によって成功体験は出来ていた。とはいえ、ようにとって安心出来るものではない。あくまでも現実世界の事ではないのだから。

 その時であった。

「おおい、およう。そこにいたのか」

 静寂を打ち破って、天の邪鬼の声が響いたのである。

 然程、遠くない距離であった。

「来た」

 一気に緊張感が、ようの神経内を走り抜けて行く。

 来ると覚悟はしていても、実際にそうなるとやはり怖い。

 斜面を下っているようだ。踏みしめた足が、朽ちて落ちた枝を折る音がしている。

 危惧していたが、幸運にも風上から現れた。

「匂うぞ。辺り一面おようの匂いで一杯だ。こんな処でおれを待っていたとはなあ」

 風上にいても、わたしの匂いがわかるんだ。

 ようは驚愕していた。

 やがて平地に降り立ったらしく、足音が安定してきたように思える。

「嬉しいか。旦那様のお着きだよ」

 ようは幹の陰に踞り、息を潜めながら足音のする闇間を窺った。

 ゆらゆらと、夜陰に溶け込むように天の邪鬼が近付いて来る。

 ようは固唾を飲んで見詰めていたが、直ぐに目を剃らした。余りに視線を送り続けると、気付かれてしまうのではと考えたからである。

 やがて天の邪鬼は、藁束を置いた木の下まで来ると立ち止まった。

「ケケケ」

 鼻を引きつかせながら四方を窺うと、そこにいたのかという風に笑い、木を見上げた。

「見いつけた。随分と小便臭いなあ。ああ分かるぜ。子犬がご主人様に甘えて、興奮の余りお漏らしする時と同じ気持ちなんだろう。可愛いなあ。今行くからな。ケケケ」

 言い終ると、天の邪鬼は後ろ向きに走り出した。ようがいる方向にである。

「えっ?」

 ようは愕然とした。どうして?。

 走りながら反転する天の邪鬼。その目は、明らかにようを見ている。そして地を蹴り、空中に飛び上がった。

 ようは目を剥いた。

 心臓の鼓動が警鐘を打ち鳴らす。

 腰が抜ける寸前まで来ていた。

 僅かな暇もなく、天の邪鬼はようの傍に立った。

 逃げようと思えば逃げられたかもしれない。

しかしまだ終わってはいない。機会はまだあるかもしれないのだ。そう思ってようは堪えた。 

 所詮。逃げても無駄だろうし。

「おれ様の目を、いやこの鼻の嗅覚を欺けるとでも思っていたのか。相変わらず初で可愛い奴たなあ」

 天の邪鬼はようの首根を掴んだ。

 ようの心は、恐怖に支配されていた。縄を握る手が震えている。

「その縄で、何をするつもりだったんだ?」

 気付いた?。

 ようは唇を噛んで、睨み付けた。

 天の邪鬼は目を吊り上げて、ようの首に鋭い爪を食い込ませた。

 痛い。苦しい。

「痛い。苦しいって思ったな」

 ようは目を剥いた。どうして分かるの?。「どうして分かるの、だろ」

 天の邪鬼は笑った。

「知らなかったのか?。おれは人の心が読めるんだぜ。みんなお見通しさ」

 そうだったの?。

「そうなんだよ。おれの特技だ。それにな…」

 勝ち誇った顔で、天の邪鬼はようから縄を奪い取った。

「こいつで、おれの首を締め付ける腹だったんだろうが。残念。無駄に終わったな」

 ようは首を掴まれたまま幹に押しやられ、縄の輪を首に掛けられた。だが少し手間取ったように感じる。

 ようは笑った。

「ん。何が可笑しい?」

 縄を掛けた右手の指先はようが斬っているので、血こそ止まってはいるが紫色に膨らんでいたのである。

 ようは、その指先を思い切り叩いた。

「痛え」

 声を上げた瞬間。ようの首を掴んでいた手の力が緩んだのだ。

 ようはそれを見逃さず。首を掴んでいた手の甲に自らの左手を覆い被せて捻ったのである。

 手首を極められた天の邪鬼は、俯いてように半身を向ける格好となった。

「あっ」

 天の邪鬼が小さく声をだす。

 ようは右手で縄の途中を掴むと、天の邪鬼の首に引っ掛けて回した。合計三回である。

 天の邪鬼が心を読める事は知らなかったが、咄嗟に思い付いた行動である。

 ようは片手に縄を握ったまま天の邪鬼に抱き付くと、思い切り幹を蹴った。

 ふたりは空中に飛び出していった。

「神様お願い」

 ようは願うしかなかった。

 縄がピンと張ると同時に、天の邪鬼の目が大きく見開かれていく。

「ぐえっ」

 踠き苦しむ天の邪鬼の両腕を、確りと抱え込んだようは、目一杯の力で締め付けながらぶら下がる。

 縄は飛び出した勢いで、回転しながらも藁束を置いた木の方向に振れて行く。

 回転の勢いを受けて、縄目は天の邪鬼の首を更に締め付けていた。

 ようは確り抱きついていた。下手に手を離してしまうと、天の邪鬼の縄が解けてしまい、逆にように掛かっている縄が締まる事態にならないとも限らないのである。

 縄は藁束のある木まで届く手前で、徐々に左側に逸れて行った。三角形の頂点となる、縄の結わえてある木の方向である。

 ようは目を見張った。

 ふたりは回転しているのだから、このままでは木に追突するのはようかもしれないのだ。

 天の邪鬼の身体を拘束している限り、ようにはどうする事も出来ない。

 木は目前に迫っていた。しかし幸運にも、慣性の法則を無視して速度が弱まったのである。

 弱まったというよりも、振れを押し留める何かが発動したからであった。縄は途中で折れ、振り子のように斜めになると、勢いのまま木にぶつかったのは天の邪鬼の臀部であった。

 木から離れた瞬間。天の邪鬼は断末魔のような声を上げた。

 その後も反動を受けた縄は、ぶらぶらと揺れを繰り返していたが、やがて動きが止まった。

 何だったのだろうと、ようは上を見上げた。

 縄を結わえた木の下から伸びていた枝先の分岐部分に縄が引っ掛かかっていたのだった。

 奇しくも、大丈夫と思って見逃した枝であった。

 安堵したようの腕の力は限界に来ていた。

 あっ。と思った時には腕の力が抜け、ようは落下していた。だが運良く、忍者刀の柄に手が掛かり、何とか抜く事が出来た。

 縄が延びて首が締まりかけた時、縄を切断する事に成功したのである。

 ようは落下していった。

 一間ほどの高さがあった。

 辛うじて足から着地したが、そのまま仰向けに倒れ込んだ。

 シュルシュルと音がする。

 押さえを失った縄が解放され、天の邪鬼が落下していた。

 驚いたようは咄嗟に転がっていた。

 ドスンと音を立てて、天の邪鬼が落ちた。

 精も根も尽き果てて、もう動けない。

 胸が大きく上下している。

 本の僅かの間瞼を閉じていたが、直ぐに開いて横を見た。

 天の邪鬼は目を剥いていた。口は半開きとなり、舌がだらりと伸びきって、大量の涎が零れ落ちていた。

 ようの瞳から涙が溢れてきた。倒したという安心感もあるが、それ以上に胸を締め付けられるものがある。

「市蔵。ごめんね」

 何度目の落涙であろう。

 流しても流しても。涙は枯れないんだ。

 こんなにも市蔵の事が好きだったんだと、改めて実感するようであった。

 泣くな。

 市蔵の声が聞こえたような気がして、ようは重い身体を押し上げるように、上半身を起こした。

「行けというのね」

 立ち上がったようは、ふらふらと歩きだしたが、晒し姿の身形に気付いて溜め息を吐いた。

 小袖は木の上にある。

 木登りがこれほど億劫で苦痛に感じたのは、初めてではないだろうか。

 小袖を身に付けたようは、改めて振り返り、妖怪へと変わり果てた市蔵を見上げた。

「お別れだよ。市蔵」

 ようは、歩きだした。

 何時しか、空は白んでいた。

 ようがその場を去って、暫くの事である。

 横たわる天の邪鬼の上空に、黒球が出現したのである。

 その黒球は、天の邪鬼の周りを三度回転すると、鳩尾の中に溶け込んでいった。


 四つの頃合いであろうか。

 お日様は燦々と降り注ぎ、日差しがキツいと感じる程の陽気である。

 それもその筈。

 ようは、精神的にも肉体的にも疲労の極みにあった。昨日から胃の腑には、水以外何も入れてはいないのだから。

 湧き水を浴びるように飲んだのが半刻くらい前である。既に喉も渇ききっていた。

 それでも汗は止めどなく流れる。

 目が眩み、今にも倒れそうだ。

 竜ヶ岳の麓辺りを歩いていた。

 野良仕事に勤しむ村人や、すれ違う人々に話を聞いてみるが、誰ひとりとして、鏡山という山も御鏡神社という名の社を知る者はいなかったのである。

 また。ようの余りに悲惨で痛々しい格好を見て、不審者か乞食ではないかと眉根を寄せて警戒したり、関り合いを持ちたくないといわんばかりの態度を見せる者もあった。

 その中にもやはり案じてくれる者もいて、無理をせずに、家で休んでいきなさいと言ってくれる者もいたのだが、一刻も早く生家に辿り着きたいようは、先を急ぐ事にした。

 誰も御鏡神社を知らない。

 どういう事なのだろう?。

 母が嘘など付く筈もない。

 疑う気持ちは全くなかった。

「まだ、遠いのかな?」

 ようは諦めずに歩き続けた。

 やがて、鏡山を知る人物にやっとのことで出会えたのである。

 人里が途絶え、気力も体力も尽きかけた時であった。

 不意に藪を掻き分けて、ようの前に猟師が現れたのである。

 その猟師が言うには、鏡山は正式な名称ではなく、御鏡神社があるので、一部の者たちが親しみを込めてそう呼んでいることらしいのだ。

 一山越えなければならないが、一刻とかからないだろうという事でだった。

 ようの瞳が輝いた。

 御鏡神社は存在したんだ。

 本当の両親に会えるんだ。

 希望に胸が膨らみ、疲れなど一気に吹き飛んだ気がした。

 峠を下り左右に林立する薄暗い杉並木を抜けると、一気に風が通り抜ける平原が出現した。

 数件の百姓家が点在しているのが見える。

 右側に小さな畑があった。大根畑の中で草むしりをしている老婆の姿が目に付いた。

 ようは聞いてみようと思い、畑の傍まで近づいた。

「あの。御鏡神社をご存じありませんか?」

 ようは不審者に思われないよう、努めて明るく振る舞った。

「はい?」

 老婆は腰が痛いのか、顔を少し歪めながら曲げていた腰を伸ばして振り返った。

 六十歳くらいであろうか。白髪で顔には長年の苦労を表す濃い皺が目立つ。それでも顔立ちは穏やかで優しげである。

 老婆の顔色が一瞬で変わった。

「おっ、おまえ」

 目を見開いた老婆の声が震えている。

「?」

「きょう。きょうだろう」

「えっ?」

 老婆は腰の痛みも、大根を踏みつけていることにさえも気付かずによろよろと走り寄ってきた。今にも抱き付きそうな勢いである。

「間違いなんかじゃない。戻って来たんだね、きょう。だっておりょうに、母親に瓜二つなんじゃもの。わたしはね、おまえの婆じゃ」

 会えた。血の繋がった人に会えた。ようは震えた。

「お祖母ちゃん?」

 確かめるように呼び掛ける。夢じゃない。

「そうじゃ。おまえの婆じゃ」

 一気に力が抜け落ちていきそうなのを耐え、ようは祖母に縋り付いた。

 祖母も腰の痛みを感じさせない態度で、ようの身体を確りと抱き締めていた。

「どんなに会いたいと思ったことか」

「わたしも…」

 ふたりは咽び泣いた。

 凡そ十五年ぶりの再会である。

 わたしは本当に、この場所で生まれたんだ。

 御鏡神社の娘だったんだ。

 慈しんで育ててくれた養母への恩と、育った伊賀の地を忘れたわけではないけれど、やはり生まれた場所に戻って来れたという事実は、実に感慨深いものがある。

 騒がしい声が聞こえたのだろう。離れた所にいた老爺が駆けよってきた。何事だろうという顔付きをしている。

「どうした、婆さん?」

 祖母は名残惜しそうに身体を離すと、老爺の方に向きを変えた。

「爺さん。おきょうじゃ」

 涙まみれの笑みを浮かべながら、老爺にようを介した。

 老爺は余り目が良くはないようだ。焦点を合わせる為に目をしばたたかせていたが、やがて笑顔なのか泣き顔なのか判断の付かない顔になった。

「おきょうなのか?」

「お祖父ちゃん」

 ようは祖父にも縋り付いた。優しく抱き締められた腕には、深い愛情が感じられる。

「きょうだ。きょうが帰ってきた」

 祖父が喜びの声を上げる。

 ようは、ふたりが自分の事をきょうと呼ぶ事に確信した。わたしの名前はきょうなんだ。

 きょう。何て素敵な名前だろう。

 きょうは、ふたりに挟まれて屋敷へと向かった。祖母とは手を繋いでいる。

 屋敷に入ると、祖母は腹は減ってないかと気遣ってくれた。だが空腹感を越えすぎた故か、生家に帰って来れた幸福感の所為か食欲がわかなかった為に、饅頭ひとつをお茶で無理矢理に流し込んだだけのきょうであった。

 直ぐにでも話をしたい気分ではあったが、汚れを落としなさいという祖父の言葉に促され、湯浴みをする事にした。

 井戸水を頭から被ったきょうは、木で作った低い椅子に腰掛けながら瞼を閉じていた。

 何という一日だったのだろう。そして辛い一日だったのだろう。

 振り返ってみると、どうしても市蔵の事を思い出さずにはいられない。

 また、涙が溢れてきた。

 きょうは、手で顔を覆った。

「きょうや。入ってもいいかい?」

 湯殿の外から、祖母の声が聞こえる。

 きょうは慌てて、涙を拭った。

「うん。いいよ」

 引戸を開けて入ってきた祖母は、襷掛けをしたうえに着物の裾を端折っていた。そして、沸かした湯が入っている釜を置いた。

「婆に背中を流させておくれ」

 きょうは恥ずかし気に顔を赤らめながらも、笑顔で頷いた。

 祖母は大きめの湯桶に釜の湯を注いでから水で薄め、手でかき混ぜた。

「髪の汚れを落そうな」

 手桶で掬ったお湯を静かに頭の上から掛けながら、丁寧に髪に入り込んだ汚れを洗い流す。それを二度繰り返し。最後に櫛で髪の毛を優しく梳かしてくれた。

「細くて滑らかな髪じゃ。この櫛はのう、りょうが、おまえの母が使っていた櫛じゃ。これからはおまえが使えばいい…」

「母の…」

 きょうが母の事を訪ねようとした途端、祖母はそれを遮るように言葉を続けた。

「どうして、こんな傷だらけになったんだい」

「お祖母ちゃん。わたしね、忍者に育てられたんだよ」

 言わなければならない事実だ。

「忍者じゃと」

 祖母は驚きの余り、手拭いで背中を擦っていた手を止めた。

「そう。小さい頃から野山を駆け回り、刀を振り回してたの。だからこんな傷だらけの身体になっちゃった。痛みなんてへっちゃらだよ」

「この新しい傷もかい?」

 きょうは心配かけまいと、天の邪鬼との事を言うべきか迷っていた。

「まさか、逃げてきたのかい。その時の傷なのかい?」

「うん。逃げてきたのは事実だけど、お婆ちゃん信じるかな?」

「何じゃな?。おまえのいう事なら信じるよ」

 きょうは養父を殺した事は省いて、これ迄に起こった事実を手短に話して聞かせた。

 祖母は手を動かしながらも黙って聞いていたが、鬼という言葉を耳にした途端、手を止める反応を示した。

 話が一段落すると、祖母は背中からきょうを抱き締めたのだった。

「お祖母ちゃん?」

「辛かったじゃろうな。よう頑張った」

 祖母は泣いていた。

 きょうはただ単に、自分の苦労を思いやっての涙だと思った。しかし、それだけではない深い事情を後で知る事になるのだ。

 祖母は一旦外に出ると、行李を手に再び入ってきた。

「さぁ。あとは自分で。ここに湯帷子と着替えがあるから、終わったら居間においで」

「有り難う。お祖母ちゃん」

 頷いたきょうに、祖母は頷きを返して出ていった。些か背中が悲しげである。

 身体を洗い終えたきょうは、濡れた髪を手拭いで拭ってから櫛巻にすると、行李から取り出した、藍色に花が描かれた浴衣に袖を通した。

 肌に心地好い、とても艶やかな浴衣である。

 きょうには生地の素材が何であるのか想像も付かなかったが、高価であることは何となく分かった。

 こんな上等な物が着れるなど、忍のままであったなら、一生叶わない事であったろう。

 居間の戸は開いたままであった。

 きょうは恥じらいながら顔を覗かせた。

 艶やかな浴衣を着た自分が、自分のように思えない。

 祖父と祖母のふたりは、囲炉裏を挟んで座っていた。

「よう似合っておる。りょうに生き写しだ。まるで生き返ったようだ。のう婆さん」

 祖父は神妙な顔付きをしながら、思ったままを口にした。

「えっ」

 きょうは吃驚して立ち竦んだ。

 祖母の態度から、何かあると薄々は感じてはいたし、まだ姿さえ見ていないのだから…。

 祖母は項垂れていた。

「まだ、話していなかったのだな」

 祖母は頷いた。

「きょう。来なさい」

 祖父は立ち上がって、隣の部屋とを仕切る襖を開いた。

 祖霊舎の間である。

 檜の板で作られた神棚が配置され、霊璽が中央に祭られている。

 一段下がった両端には榊と燭台が置かれ、一段下がって中央には御米が、左には御水、右には御塩が共さている。

 霊号が記された白木を見て、嘘であってほしいという思いは、完全に打ち砕かれた。

 きょうは、立ち尽くすしかなかった。

 祖父は燈明に火を灯すと、二拝二拍手一礼をして手を合わせた。

「さあ。両親に帰宅の挨拶をしなさい」

 えっ、父も…。

 きょうは俯いたまま、神棚の前に移動した。

 哀しみはどこまで続くのだろう。

 やっと帰ってくる事が出来たのに、両親ふたりとも既にこの世の人ではなかった。

 祖父がした通りに、ようは拝礼した。

「お父さん。お母さん。きょうはやっと生まれた家に帰ってくる事ができたよ。悲しいかな、会う事は叶わなかったけど、優しい養母のお陰で、こんなに大きくなれたんだよ。見える?。色々心配かけてごめんね。これからも見守っていてね…」

 きょうは泣き崩れた。

 暫くの間見守っていた祖母が、手拭いできょうの涙を拭い、肩を抱いて居間に連れていく。

 三人は囲炉裏を囲んで座った。

 きょうは手拭いで目頭を押さえている。

「きょう。気を確り持って聞いておくれ」

 祖父はそう言って、祖母の顔を見た。

「婆さん」

 祖父が目で促すと、頷いた祖母はきょうに顔を向けて語り始めた。

「先ず先に。辛い事を言うようじゃが、涙を流すのはこれで仕舞いにしなされ。おまえには大事な使命があるのじゃから。よいな」

 祖母は真剣な顔をしていた。

 大事な使命?。

 きょうは何だろうと思いながらも、祖母を見詰めた。

「御鏡神社と知って訪ねてきたのじゃから、両親が何者であるかは気付いておろう」

 きょうは確りと頷いた。

「この御鏡神社の者は加賀見という姓を名乗っておる」

 祖母は人差し指で空間に、加・賀・見と書いてみせた。

「加賀見」

「父親の名は庄助。おまえが拐われた三年後に病を得て亡くなっておる。神官を名乗ってはいるが、事実上は神子であるりょうの立場が上なのじゃ。何故ならこの家系は不思議な事に代々女しか生まれないのじゃから。この爺さんも勿論婿じゃ。今は力を失くしたが、わしも神子じゃった。御神鏡である映世身。それを自在に扱える者、それがわしらの由緒正しき血筋なのじゃ。映世身を通して占う事と祓う事が出来るのじゃ…」

「あっ」

 きょうは理解した。

 未来が見える力の原因には、こういう理由があったのだ。

「心当たりがあるようじゃな」

「わたし、占いを生業にしてた」

 祖母は嬉しそうに頷いた。

「紛れもくわしの孫じゃ。これでご先祖様にも顔向けが出来るわい」

 祖父と祖母は互いに見合って頷きを交わしていた。

「凡そ五百年もの昔。この地に神様が御降臨なされた。名を天陰観魅羅月明命。我が社の御神体であらせられる。わしらは親しみを込めて魅羅様と呼んでおる。その魅羅様がある人物と契りを結ばれ、女の子をご出産なされた。しかし数年後。天の勅命により、幼子を残したままこの地を去って仕舞われたのじゃ。残された神子様は、幼き頃より未来を見る力と妖しを鎮める力に長けておった。そして、魅羅様が残した御神鏡・映世身と御神刀・斬魔刀を駆使して、人に憑依した妖しや、土地に因縁もたらす邪な物の怪などを調伏なされた。それが御鏡神社の創建の謂れなのじゃよ」

 祖母は冷めた茶で喉を潤す。

「小さな社であるから近隣でもそれほど知られてはおらんが、妖異を鎮めてくれる神社があると人から人へと噂が広まり、方々から救いを求めて人々がやってくるようになったのじゃ。しかしな、長い年月もの間受け継がれてきた血筋ではあっても、中には全く力を持たない娘が生まれてくる事もあったらしい。廃社の憂き目にあった時代も二度や三度ではなかったとも聞いている。それでも、この時代まで御神体が守られてきたのは、代々の神子様の努力の賜物なのじゃ。わたしの知る中でも、おまえの母りょうは最強の神力の持ち主じゃった。おまえが拐わかされても、決して取り乱すような事はなかった。憂いてもおらんかった。ただ寂しさだけは隠せんようじゃったがの。それでも耐えておった。来るべき未来の為に、どうしてもこの試練は必要なのだと言っておった。おまえが拐かされる事も見えておったのじゃろう。そして、その行く末もな」

 きょうの瞼に、また涙が溢れてきた。

 母とは最初から会えない運命だったんだ。   

 それを知りながらも、母は敢えて運命に従ったんだ。

「そして、遂にその日がやってきた。ひと月前の夕。わしらふたりを前にりょうは言った」

 悲し気に俯いた祖母は、指先を絡めた。


 きょうに良く似た母りょうが、祖父母を前に座っている。

 まだ十代後半にしか見えない、美しい人であった。

「今宵。わたしを亡き者とし、御鏡様をうち壊す為に妖しの物がやって参ります。わたしには太刀打ち出来る術がありません。これよりわたしは御鏡様を守るべく御社に籠ります。何が起ころうとも、おふたりは屋敷から一歩なりとも外に出てはなりません。全ては未来のため。わたしの愛しい娘きょうが戻ってくる時まで、それを信じてお待ち下さい」

 瞳には、死をも恐れぬ強固な意識と確たる未来を待ち受ける希望の輝きが滲んでいるようであった。

「きょうの事、お願い致します」

 りょうはふたりに向かって柔らかな笑みを見せ、頭を垂れるのだった。

 闇の中。

 屋敷から離れた、小高い丘にある御鏡神社。

 御社内の畳の上には、高さ三尺の燭台が十数本並べられ、蝋燭の炎が揺らめいていた。

 燭台は、りょうを遠巻きに取り囲むように円形に置かれているのである。

 りょうはその中央に、御神前に向かって座していた。 

 膝前には、長さ二尺余りの布袋に包まれた御神刀らしき物が、横向きに置かれてあった。

 りょうは手を合わせ、一心不乱に祝詞を唱えている。

 フッ、と全ての蝋燭の炎が激しく揺らいだ。

 戸は隙間なく閉じているが、何処からか風が巻き起こったのであった。

 りょうは妖気を感じとり、ゆっくりと瞼を開いた。

 来た。

 恐れなど一切なかった。

 迷いもない。

 あるのはただひとつ。希望だけ。

 それは確信である。

 りょうの背後に位置している、廊下を挟んだ二枚の障子戸の外に何者かが立つ気配がした。

 強烈な妖気を放っている。

 覚悟を決めたりょうは、立ち上がり振り返った。瞳が爛々と輝いている。

「きょう。あとはお願い」

 一瞬目を閉じたりょうはであったが、直ぐに開くと表情を一変させ、片っ端から燭台を蹴倒した。

 忽ちのうちに畳に火が燃え移り、炎が舞い上がった。

 二枚の障子戸が、左右に開かれた。

 鬼が仁王立ちしていた。

 りょうを殺しにやって来た鬼。

 青い褐色の肌を有した鬼である。

 全く予想だにしなかった光景を目の当たりにした鬼であったが、炎の海と化した状況を見ても、眉ひとつ動かす事はなかった。

「往生際がよいな。少しでも抵抗するかと思ったが、いったい何を考えておる?」

「おまえごとき穢らわしい輩に、大切な御神体を指一本たりとも触れさせるわけにはいきません。わたしに出来るのは、命を掛けてでも天にお返しすること」

 既に炎はりょう周辺のみを残し、畳全体に燃え広がり、壁をかけ上っていた。

 入り口の炎は、無理をすれば飛び込む余地はあるかもしれないが、鬼は敢えて中に入る事はしなかった。

 りょうは大粒の汗を流しながら、炎の熱量に耐えている。それでいて微笑みを絶やす事もなく、その美貌をも崩そうとはしなかった。

「何が可笑しい」

 りょうの笑みに不信感を抱き、鬼は問うた。

「おまえの最後が見えたので、憐れんだだけ」

 業火の中。りょうは満足したかのような笑みを残し、畳に置かれた刀の上に覆い被さっていった。

 それを見た鬼は唇を吊り上げると、何事もなかったかのように、その場を後にした。

 りょうを取り囲む炎は、何かに恐れているかの如く、強く舞い上がりこそすれ、決してりょうには近付こうとともしなかった。


「気付いた時には、御社は炎に包まれておってな。出るなとは言われておったが愛する娘の事じゃもん、心配するのは当たり前じゃろう」

 固唾を飲んで、きょうは話しに聞き入っていた。涙が次々と溢れてくる。

「世にも恐ろしい物が、御社の方からやって来たのじゃ。とてつもなく大きな鬼じゃった」

「鬼?」

 まさか天の邪鬼?。でもひと月前なら違う。それに天の邪鬼は、祖母が言うほど大きくはないのだ。まだ他にも鬼がいるというの?。

「わしらはその場で腰を抜かしてしまい動けんかった。喰われるかと観念したんじゃが、その鬼はわしらなど歯牙にもかけん様子でそのまま姿を消してしまった。殺すまでもない、取るに足らん年寄りと思ったのじゃろうな」

 そこで言葉が途切れた。

 どれほど怖かったか、想像に難くない。

 きょうでさえ、天の邪鬼程度の妖怪で悲鳴を上げたのだから。

「抜けた腰に、なんとか力をいれて御社に向かったが、燃え盛る炎を前にしてはどうする事も出来なんだ。りょうはどうなったのか、声を限りに叫んではみても、応えなどあろうはずもない。出来るのは指を咥えて鎮火を待つ事だけじゃった。やがて火事に気付いた村の衆が集まって来てくれたが何が出来よう。境内は広く風もなかったから山林への延焼は免れた。幸いな事に間もなく雨が降って来てな、直ぐにどしゃ降りとなったのじゃ」

 話しの途中。祖父が気を利かせて、茶を入れ直してくれた。

 程よい飲みごろの茶である。

「じゃがのう、既に御社は影も形もなくなっておってな。雨の中、ただ立ち尽くすしかなかった。有り難い事に誰も帰ろうとせず、りょうの亡骸を焼け跡の中から探しだすのを手伝ってくれたのじゃ。亡骸は焼け残りの下敷きになっておったが、不思議な事にりょうを取り囲んだ畳や土台はあれだけの炎の中でも燃えずに残っておっての。きっと神様が護って下さったのじゃろう。りょうはまるで生きているようで。わしは目を覚ますかと思って声をかけ、身体を揺すってみた。だが何も応えてはくれん。分かってはいても悲しゅうて悲しゅうて。何でわしらより先に逝ってしまうのか。世の不条理を感じずにはおられんかった」

 祖母は、目頭を手拭いで覆った。

「御鏡様とりょうの執念じゃろうか。亡骸を持ち上げると、身体の下から御神刀が、そして懐からは映世身が出てきたのじゃ。りょうは命を賭して御神体を護り抜いたんじゃ」

 祖母は横に置いてあった桐の箱をきょうの元へ滑らせた。

「開けて見なされ」

 きょうはその箱を一見してから、祖母を見やった。

 祖母は涙を湛えて頷いた。

 長さ二尺五寸。幅一尺五寸。高さ五寸の大きさの桐の箱。 

 きょうが蓋を持ち上げると、上質な和紙に覆われており。それを左右に拡げていく。

 視界に入ったのは、御神鏡と白鞘に収められた御神刀のようである。

 御神鏡は、漆で塗り固められた木製の枠に嵌め込まれ、持ち手があり手鏡のようになっていた。

 幅は六寸ほどか。

「手に取ってみなされ。母がきょうの為に残してくれた御神鏡なのじゃから」

 きょうは左手で持ち手を握り、右手は枠に添えてそっと持ち上げた。

 鏡面を覗くと、きょうの顔が映っている。

 綺麗。きょうは素直にそう思った。

 別に、きょう自身の顔が綺麗だと思ったわけでは勿論ない。磨き上げられた鏡面の美しさに感動したのである。

 こんなに素晴らしい鏡など、お目にかかった事など未だ曾てないのだから。

 確かに火事の後、枠を新しく作り直したのは事実ではあるが、鏡面は違う。造り自体も銅などではない。いつの時代に誰の手によって造られ、どれだけの使用期間を経て今にあるのかが理解が出来ないほどの真新しい輝きを湛えているのだ。

 それが、神様の神様による神様の為の器物という事であろう。

 きょうの顔は綻んでいた。

 笑顔の自分が映っている。が突然に鏡面が揺らぎだしたのである。

 上から下へと漣が押し寄せるような鏡面。だが直ぐに止まった。

 えっ?

 気が付くと鏡に映っているのは、きょうに良く似た鬼であった。微笑んだ鬼がきょうをじっと見詰めている。

 見間違いなどではない。髪は銀色で角が生えており、笑った口からは鋭い犬歯が覗いているのだから。

 きょうの顔が引き吊っていた。

「見事な物じゃろう。それこそが紛れもなき、天陰観魅羅月明命の御神鏡。映世身なのじゃ」

 祖母には、きょうの顔と映世身が重なっていたが為に表情が見えなかった。

 時を同じくして。

 魅羅が閉じ込められている洞窟空間。

 長い責め苦から解放されはしたが、孤独に支配されている事実には変わらない。

 待つのはほんの僅かな時間と言っていたが、意識が真っ当な分、とても長く感じてしまう。

 何をする事もない魅羅は、仰臥したままじっと目を閉じていた。

 それでも眠気さえ催してはこない。三百年もの間眠る事さえ許されず、悲鳴を上げ続けてきたのにである。

 閻羅の言うとおり、わたしは再生したというのだろうか?。

 それにしても奴は本当に閻魔大王なのだろうか?。そして奴が言うその時とは、いったいいつの事なのだろう。

 一時も早くここを脱け出し、宇宙鬼様の手懸かりを見つけ出さなければならない。自分が何者かも知らず、何の力も持たない状態にあり、有らぬ事態にでも捲き込まれてしまったとしたら取り返しのつかぬ事になってしまうではないか。そこで身羅は大事な事に気付いた。

「あっ。鬼の遺骨はどこ?」

 辺りに目を配るがある筈もない。

 転生した宇宙鬼様を蘇えさせる大切な遺骨であるのだ。

 どこかに落としたか、それとも誰かに奪われたのか?。

 気ばかりが焦り、苛立ちが胸を圧迫する。

 だが、宇宙鬼童子が最後に言った言葉を思い出す。

「おまえなら、必ずおれを見付けてくれると信じてる」

 そうだ。わたしが見付けて守ってやらねば。

 兎に角。ここを脱け出す事。

 唯一の機会。それは依り代に乗り移った時しかないのだ。

 肉体を乗っ取り、我が物とする。

 訳もない事だろう。その機会は直ぐそこまで来ているのだ。

 まだか?。

 その時であった。

 空間に浮かぶ漆黒の闇から、仄かな光りが漏れた。

 映世身からである。

 その映世身が、魅羅の顔に光りの焦点を向けているのであった。

 一瞬。目映さに目が眩んだが、慌てて身体を起こした。

「来た」

 魅羅は上半身を起こした。映世身は顔に焦点を合わせてくる。

 魅羅は期待に胸を膨らませて、片足立ちとなった。いつでも脱け出せる姿勢である。

 現世で、映世身を眺めるきょう。

 この時初めて魅羅ときょうは、映世身を通じて対面したのである。

 魅羅にとってきょうが依り代である事も、きょうにとって相対した人物が魅羅であるという事も、お互い知る由もない。

 ほんの束の間の対面であった。

 映世身は光りを失い、元の漆黒の闇に戻ったのである。

「えっ。今のは何?。時が来た分けではなかったの?。それに今映ったのは誰よ?」

 考えられるのはひとつしかない。

「閻羅。もしかしてあの娘が依り代なの?」

 閻羅から、応えが返る事はなかった。

「いったい何なのよ、返事くらいしなさいよ」

 怒りは頂点に達していた。

 石台を降りた魅羅は、転がる丸石を拾って、力任せに壁に投げつけた。八つ当たりである。

 投げられた石は壁に当たった反動で、カン、カン、カンと何度も跳ね返る。丸石は意思を持ったかのように跳ね返る角度を無視して魅羅を狙って飛来するのである。その都度身を避けるのに必死になった。

「ごめんなさい」

 身を竦めた魅羅が叫ぶと、丸石は制動を失って落下したのである。

 魅羅は澄まし顔で、何事も無かったかのように石台に上がるのだった。

 きょうは唖然としていた。映世身に映っていた顔は自分ではない。何故なら自分は驚いた顔をしている筈なのに、その表情は微笑んでいたのだ。

 今は普通にきょうが映っている。

 何だったのだろう?。

「どうしたのじゃ」

「ううん。何でもない」

「鏡を見るのが好きなようじゃな」

「うん。好き。小さい頃から母の…、育ての母の鏡を飽きもせずじっと眺めてたって。そしてね、いつまでも手離さないわたしに根負けした母は、仕方なく鏡をわたしにくれたの」

 きょうははにかんだ。

「そうかそうか。きょうという名前は間違ってなかったな」

「あ、そうか。わたしの名前は鏡から来ているのね」

「そうじゃ。りょうはな、娘の名前はきょうしかないと言って譲らんかった。おまえは御神鏡に選ばれて生まれて来たのかもしれんのう」

 祖母は相好を崩した。

 釣られて祖父も頷く。

 もしかして、さっき映ったのは魅羅様?…、な分けないか。どう見ても、あれは鬼だったもの。ならばいったい何者だろう?。

 まさか。わたしの未来の姿なの?。

 件に言われた言葉が頭の中を駆け巡る。

 恐怖を感じたきょうは、その考えを追い払う為に頭を振るった。

 息を吐いたきょうは、映世身を桐箱に戻し、今度は御神刀を手にした。

 ずっしりとくる重厚感に手が震える。

「抜いてみなされ」

 きょうは刃側を上にした鞘を左手で持ち、右手で柄を握り、ゆっくりと鞘を滑らせた。

 銀色に煌めく月光を思わせる、凍り付くような表情を浮かべた刀身が現れた。

 刃は雲が流れるような紋様である。

 太刀よりも広い身幅であり、切断に重きを置いた武器のようである。

「斬魔刀といってな。魅羅様の守護刀で、魔を祓う刀なのじゃ」

「斬魔刀」

「実態が在ろうが、無かろうが。狐狸妖怪や悪鬼羅刹を斬って捨てるのじゃよ」

「今まで見てきた刀とは全然違う。何ていったらいいか判らないけど、刃筋から放たれる輝きに圧倒される空気感というか、でもそれは怖いとかいう感じではなくて、わたしにはとても優しく、落ち着く感じがするの」

「認めてもらったのじゃろうな。おまえが必ず戻ってくる事を見越し、りょうが護り抜いた神器。おまえは禍う事なき、御鏡神社の後継者なのじゃ」

 祖母は、りょうを失った悲しみときょうが戻って来た喜びとが綯交ぜになった涙を浮かべていた。

「りょうはもしかしたら、きょうが忍びの者に拐かされる事もお見透しだったのやもしれんのう。そしてこれから始まる事、いや既に始まっておるのか。全ては魅羅様の思し召し。きょうはその為に生まれて来たんじゃろう」

 母を殺しに来た謎の鬼。

 市蔵に取り憑き、わたしを襲った天の邪鬼。

 試練はまだ始まったばかりなの?。

 この先。どんな試練がわたしに降りかかるというのだろう?。

 先ほど鏡に映った鬼の顔とも合わせ、きょうの心は不安でいっぱいだった。

「きょう。自信を持ちなさい。魅羅様に選ばれたという自覚を持つのです」

 突然にのし掛かる過度の重圧である。

「わたしに出来るかな?」

「大丈夫じゃ。わしが何もかも一から指導してやるからのう。ほれ…」

 祖母は、もうひとつの桐箱に折り畳まれていた白無垢の着物を指差した。

 神子装束である。

 祖父は、話が佳境に入ったとみて席を立っていった。

「これはりょうがな、神事の際に着ていた神子の装束じゃ。背丈も体格も変わらんから似合うじゃろう」

「わたしも占いをする時には巫女さんの衣装を着てたんだよ。正式の物じゃなかったかもしれないけど。手鏡を持ってね」

 きょうは衣装を手に取った。

 母の想い…。

 わたしが神子になる事がそうなの?。

 違う。きっとそれだけじゃない。

 あの、牛の化け物は言った。

 好むと好まざるとに係わらずと。

 まさか。鬼を成敗しろとでもいうの?。

 だとしても、わたしに何が出来るというのだろうか?。

 いや。わたしが今直ぐにやらなければならないは、一刻も早く神子として一人前になる事。母を凌ぐ力を身に付ける事しかないんだ。そしていつか、母の仇を討とう。

 きょうの顔付きが変わった。

「決意が漲っておる。いい表情じゃ」

「どこまで出来るか判らないけど。頑張るよ。お婆ちゃん」

「よしよし。色々あって疲れたじゃろう。作法や力の開発訓練は明日からするとして、夕餉にはまだ時間があるから少し横になるといい。おっ母さんの寝間に布団を敷いてあげよう」

「有り難う。でも今日は婆ちゃんたちとの部屋で寝たい」

「そうかい」

 祖母は相好を崩した。嬉しくて堪らないのであった。

 祖母が立ち上がったのを見て、きょうも立ち上がろうとした時だった。

「婆さんや」

 祖父の声がした。湯殿の方からである。

「何だね」

「ちょっと来ておくれ」

 別に焦った様子の声ではない。

「近頃。爺さんは目が不自由になってきたようでな。何か探し物でも見つからんのじゃろう。少し待ってなさい」

 言いながら、居間を出て行った。

 残されたきょうは、再び御神鏡を手に取ろうとした途端、ある物が目に入った。

 透明色の勾玉である。

 さっきは気付かなかった。

 勾玉には穴が開いていて、細い紐が通してあった。首に掛ける為の紐である。

「これは勾玉ね。お婆ちゃん何も言わなかったけど」

 実際の話。祖母でさえも勾玉の存在は知らないのだ。

 これは閻羅が月読命から受け取った勾玉であり。魅羅ときょうとを繋ぐ為に特別な細工が施された物であり、空間を超越して出現させたのである。

 きょうは何の意識も躊躇いもなく、勾玉を首に掛けたのである。

 勾玉が首に触れた瞬間であった。きょうの身体中に電流が走ったような衝撃を感じたのであった。

「何?」

 驚いて右手を勾玉に添えてみるが、もう何も感じなくなっていた。

 これによって閻羅が画策した、魅羅の依り代としての、きょうに対する事前準備が整ったのである。

 きょうは何事もなかったかのように、改めて映世身を手に取って、その美しさに見惚れていた。

 結構な時が過ぎていた。

 不気味なほど、物音ひとつしない。

「大分手間取っているみたいね。行ってみようかな」

 立ち上がろうとしたところへ足音がした。祖母が戻ってきたようである。

「おようや。待たせたね」

 ん。およう?。

 きょうは戸惑った。わたしがようと呼ばれていた事を話したっけ?。でも何故にきょうではなくようと呼ぶのだろう?。

 祖母は廊下に立ったまま、満面の笑みを浮かべながらきょうを見詰めていた。

 きょうは違和感を覚えていた。

 どこと無く笑顔がぎこちない。

 きょうは息を止めたまま、祖母を凝視した、

 次第に胸の鼓動が激しくなっていく。

「どうしたんだい。そんなに見詰めて」

「お爺ちゃんは?」

「ああ。まだやる事があるって言ってたよ」

 きょうの心に不安が過る。

 表情を変えずに、何気なく視線を祖母の手元に向けてみた。

 帯前で重ねた祖母の右手の指先に、視線が釘付けとなった。

 数本の指が、明らかに紫色に変わっているのである。

 最早。考えるまでもなかった。

 答えはひとつである。

 顔が強張っているのが自分でも分かる。恐らく、祖母の姿をした者を見詰める瞳は恐怖に戦いているのだろう。

「天の邪鬼…」

 きょうは立ち上がった。

「生きていたのね」

「ケケケ。よく気が付いたなあ。よほど愛しい夫が来るのを待ち望んでいたらしい。首を括られた瞬間は苦しかったが、直ぐに気持ち良くなってさ。もうこのまま死んでもいいと思ったんだよ。だがな、おまえに会いたい想いが強かったんだろうなあ」

 祖母の形りをした輩は身を震わせた。

「朦朧とした意識の中で暗い穴蔵を歩いているとな、何でか知らんが急に背中が熱くなったんだ。おれは振り返った。気が付いたら、土の上に仰向けになっていたんだよ。だから…」

 天の邪鬼は両手で顔を覆うい、直ぐに離す。

 祖母の顔が天の邪鬼に変わっていた。

「お爺ちゃんとお婆ちゃんをどうした?」

 きょうは叫んだ。怒りに声が震えている。

 天の邪鬼は笑いながら祖母の着物を脱ぎ捨てて、背中に隠していた忍者刀を腰に差した。

「年寄りは旨くないから、喰ってはいないよ。もう息はしてないけどな。ケケケ」

「何という事を…」

 きょうの怒りは頂点に達していた。

 たったふたりの身内を。出会ったばかりのお爺ちゃんとお婆ちゃんを…。

 二度と泣くまいと誓ったきょうであったが、瞬く間に涙が溢れて来た。だがこれは弱さから来る涙ではない。

 きょうは心を奮い立たせた。

「わたしの大切な人たちを、許さない」

 しかし、きょうは大変な事に気付いた。

 武器を持っていないのである。

 偶々手にしていたのが御神鏡であったとはいえ、最悪の状況である。焦りが表情に溢れている。今更ながら目端で斬魔刀のある箱の位置を確認した。

「忍びが表情を顔に出したら駄目だって、市蔵が言ってるぞ」

 きょうはその言葉を無視した。それよりもこのままでは不利になると考えたきょうは、斬魔刀を取ろうと身を屈めた。

 天の邪鬼は読んでいた。

 抜刀された忍者刀が、きょうの身を分断する勢いで振り下ろされたのである。

 一切手加減のない、両断目的の手捌きであった。

 きょうは思い切り畳を蹴って、後方に飛び退去るのが精一杯だった。

 目の前を切っ先が、空気を裂く勢いで通過していく。

 紙一重の差であった。

 きょうは体勢を崩したが、辛うじて片膝立ちとなった。

 冷や汗が零れ落ちる。

「今のは見事だった。手加減した積りはなかったんだが、動きに躊躇いが出たようだ。間違いなく彼奴が止めようとしたんだろうな」

「市蔵。意識があるなら、わたしを助けて」

 きょうは、望みを掛けて叫んだ。

「無駄だ。今のが最後の抵抗だったろう。もう彼奴の意識は感じない」

 きょうは唇を噛んで、天井を見上げた。

 涙がこれ以上出ないように押し留める為と、心を立て直す為の作業であった。

 冷静になるのよ。

 武器に頼る事は出来ない。ならばどこまで逃げおおせるか、きっと勝機はどこかにある。

 きょうは、回避行動が可能な空間かどうか、周りを見回した。幼少の頃住んでいた家とはいえ、記憶などあろう筈もない。

 天の邪鬼は勝ち誇った笑みを浮かべ、忍者刀を鞘に収めた。

「今までは、可愛いおまえを傷付けずに犯して喰らいたかったから刃物など使わずにいたが、もう遠慮はしない。こっちは腸が煮えくり返っているんだ。随分痛め付けてもらったからな」

 天の邪鬼は、左右の手首に嵌めた忍び籠手に収められた棒手裏剣を両手に一本ずつ掴むと、まず右手を上げて、きょうに狙いを定めた。

 きょうは息を飲んだ。目は棒手裏剣に釘付けとなっている。

 右手が動くと、棒手裏剣は真っ直ぐにきょう目掛けて飛んで行った。

 右側に転がって回避したきょうの背後で、トンと音立てて壁に突き刺さったようである。

 体勢を整えたきょうであったが、目の前には既に放たれた二本目の棒手裏剣が迫っていた。

 きょうはそれを見たわけではない。直感でそれを悟り、身体が勝手に反応していたのだ。後方左側に飛び退去っていた。だが…。

 鈍い音を響かせて、きょうの背中が板壁にぶち当たってしまったのである。

 痛いなどと言っている場合ではない。

 計算をした積りではあったのだが、狭い室内である。逃げ道は完全に閉ざされてしまった。

 きょうが天の邪鬼に目を向けた時には、既に次の武器が放たれていた。

 その武器は、一尺五寸程の長さの紐で、両先端に鏃のような刃が付いていた。それが回転して迫って来ていたのである。

 あっと思った時には、片方の鏃がきょうの右首脇の壁に突き刺さり、もう片方の鏃が左の首脇に突き刺さっていたのだ。

 きょうは首を拘束され、身動き出来なくなってしまった。

「市蔵はとんでもない武器を持っていたもんだな。おまえを助けるために持っていたんだろうが、結局はおまえを窮地に追いやったようだ。皮肉なもんだなあ。およう」

「おまえなんぞに辱しめを受けるくらいなら、死んだほうがましだ。一思いに殺せ」

 悲痛な叫びが、部屋中に響き渡る。

「いい覚悟だ」

 天の邪鬼は、更に忍び籠手から棒手裏剣を二本手にした。

 狙いを定めた天の邪鬼は、きょうの下半身を目掛けて投げ放つ。

 きょうの股下に、浴衣を貫いて棒手裏剣が突き刺さる。

 きょうの額から零れ落ちた冷や汗が、首筋を伝って胸元に流れていく。唇を噛んで睨み付ける事しか出来ない。

 逃げるとしても、容易な事ではなかった。

 首を拘束されたこの武器を引き抜いて逃れるには、どうしても動きが一拍は遅れてしまう。

 微かでも身体が動いた時点で、次の手裏剣が放たれるのは目に見えているのだ。

 もう、お仕舞いなのかしら?。

「泣けよ。泣いて許しを乞えよ」

 嘲りの言葉を吐きながら、天の邪鬼は忍び籠手から棒手裏剣を一本抜き取り、左手に持っていた一本と合わせて、同時に投げ放った。

 両腰を掠めるように、壁に突き刺さる。

 きょうは目を落として確認したいが、首が思うように動かない。少しだけ腰を動かして触れてみた。

「まだ殺さないの?」

「ああ。殺さない。気が変わった。やっぱり楽しませてもらう事にした」

 きょうは息を吐いて、天の邪鬼を見詰めた。

「どこまでも下衆な野郎ね」

「最高の褒め言葉だ。しかし、市蔵は手裏剣投げが上手かったんだなあ。見事にギリギリだったもんな」

 きょうの反応を見て楽しんでいる。

「そうね。わたしも市蔵だったら出きると思ってたもの」

 震える身体と恐怖心を悟られないように、言葉を紡いだ。

 強がりでもいい。負けたくはない。

「負け惜しみの強い女だ。彼奴の意識はもうないと言ったろう。ただ、この身体が覚えているだけの話だろうよ」

 話の隙を狙って、棒手裏剣が飛んでいた。

 あっと思う間もなく、頭頂部を掠めて突き刺さった。きょうが気付いて首を竦めたのは刺さった直後である。

「死んだと思ったか?。ケケケ。堪らねえ。興奮して来た。早く犯してえよ。さあ次で終わりだ。この手裏剣でおまえの乳房を貫き、その流れ出る血を啜りながら犯しまくってやる。さあ、泣き叫べ。残念ながら、おまえの生き残る道はもうないぞ」

 最後の最後まで諦める積りはなく、油断するのを待っていたきょうであったが、今の言葉を聞いてはそれも最早望みは無いようである。

 天の邪鬼の目が狂気を帯びている。

 愈々最後の時がきたの?。

 下卑た笑いを浮かべたまま、天の邪鬼は遂に六本目の棒手裏剣を投げ付けた。

 諦めるるもんか。

 きょうは咄嗟に、左手に持っていた大切な映世身を、棒手裏剣を防ぐ楯にした。

 母から託された御神鏡ではあるが、自分が死んでしまったら何もかもが終わりなのだ。

 生きていれば奇跡は起こるかもしれない。

 そこまで考えたわけではないが…。

 母が命を懸けて護り抜いた御神鏡。

 きょうは瞳を閉じた。

 許しを乞いながら。

 御神鏡が衝撃を受け、割れる音がした時が全ての終わり。それを受け入れるしかなかった。

 だが、何も起こらない。

 御神鏡に衝撃はおろか、的を外して壁に突き刺さる音さえもしない。

 況してや、自分自身の身体に痛みはおろか衝撃さえも感じないのだ。

 恐る恐るきょうは、御神鏡を裏返して鏡面を自分に向けた。

 天の邪鬼でさえ、口を大きく開けている。何が起きたのか理解出来ていないようである。

「鏡に、手裏剣が吸い込まれた」

 驚いて意味の分からない事を口走っていた。

「えっ?」

 勿論。きょうにも理解は出来ない。

 言われるままに、鏡面を見詰めたきょうは、指先で触れてみた。

 傷ひとつない、滑らかな鏡面である。

「この中に手裏剣が吸い込まれたの?」

 そんな事があるのだろうか?。そう思いながら、鏡面を三本の指の腹で撫で擦ってみた。

 どういう事?。

 きょうは天の邪鬼に目を向けた。襲撃を警戒しての事である。

 突然。身体が震えだした。

 驚いたきょうは、右手で身体のあちこちに触れてみた。

 やはり棒手裏剣は刺さっていて、今になって痛みを感じてきたと思ったからである。

 だか、どこにも棒手裏剣は刺さっていなし、痛みすらもない。

 そもそも事実が違っていた。

 何故なら。震えていたのは、映世身と勾玉であったのだから。

 きょうは勾玉を右手で包み込みながら、映世身を覗き込んだ。

 映世身はきょうの顔を映してはいたが、まるで湖面に投じられた一石の波紋が、中央から幾つもの輪を描くように広がっていた。それはやがて強い波動へと変化して、一気に閃光を伴いながら鏡外へと拡散したのである。

 きょうはその眩しさに目を閉じてしまったのであるが、降り掛かる波光からは柔らかな安らぎのようなものが感じられた。それはまるで、亡き母りょうに抱き締められているような幸福感のようにも思える。

 天の邪鬼は何が起こっているのか理解もつかず、ただ唖然として見詰めるだけであった。

 閃光が消え去り、温もりも感じなくなったきょうは瞼を開いた。だが直ぐに驚愕の表情を浮かべる事になる。

 何故なら、驚いた顔をしている筈なのにその顔は笑っているのだから。

 牙か生えてる。

 角もある。

 きょうの背筋が凍り付いた。

「わたしは鬼になってしまったの?」

 鏡の中で見詰める鬼の唇が動く。

 刹那。きょうの意識は飛んでいた。

 暗示に掛けられたみたいに、きょうは鬼が動かした口を真似て声に出していた。

「む・し・け・わ・い(無私化粧)」

 映世身の中の顔が、ぬ~っと隆起するように鏡面から抜け出すと、一糸纏わぬ肉体も続く。

 抜け出た肉体は、陽炎のように揺れながらきょうの全身に纏わり付くと、きょうの身体に覆い被さり、形を調えていった。

 瞬く間に、きょうの細身の身体は、肉感的な女へと変貌していた。

 妖艶な生成りへとである。

 天陰観魅羅月明命であった。

 着衣はそのままだか。化粧を施して別人に成り代わるように、きょうの身体を上書きさせたといえば理解しやすいだろうか。

 透明色だった勾玉は、翡翠色変わっていた。しかし何故か魅羅に刻印された勾玉形と、身に付けていた勾玉は、磁石の南極と北極が反発する如くに浮いているのだった。

 魅羅の内部では、放心状態になっていたきょうが全身の筋肉を外に引っ張られるような感覚と頭重に悩まされていた。

 魅羅自身も例外ではない。

 筋肉が弛緩しているというか、気怠いというか、妙にしっくりと来ないのである。

 これは人間の身体を依り代にしているからなのか?。

 まさかそんな事はあるまい。わたしは神なのだから。

『頭が重い。身体が痛い。わたしはどうなってしまったの?』

「どうして小娘の声が聞こえるの?」

 魅羅は驚愕した。自分の物となった筈の依り代の声が聞こえるなど、予想値にしなかったのだから。

『えっ、誰?』

 きょうはきょうで、依り代になるという事さえ知るよしもないから、困惑するのは当たり前である。

「閻羅。これはどういう事なの?。返事をしなさい」

 閻羅から応えが返る事はない。

 天の邪鬼さえも、形りが変わったきょうが、割りと大きな独り言を呟いているのに対し、呆然としていた。

『わたし変になっちゃったのかな?。誰かの声が聞こえるんだけど』

「五月蝿い、黙れ。わたしとて混乱しているんだ。何の事やら理解出来ないだろうけど、少しの間我慢してろ」

 語気が荒くなる。

『やっぱり声がする。誰?。我慢て何?』

 ぼんやりとした脳内に、魅羅の声が重く木霊する。

 何が起こっているのか、きょうには皆目検討も付かない。頭が混乱しそうであった。

「面倒くさい小娘だ。我慢しろと何度言わせるつもりだ。死にたくなかったら、黙って目を閉じてろ」

『ああ、確かに…』

 自分の今の状況は理解出来ないけど。目の前には天の邪鬼がいるのだ。

 尋常ではない事態に、きょうは声の言うとおりに目を閉じた。その仕草が、魅羅の身体の動きを左右するわけではなく、あくまできょうの心象である、が…。

 魅羅は首の戒めを右手で強引に引き抜くと、

張り付けられていた板壁から抜け出した。

 だが、足取りは何故か覚束ない。

 棒手裏剣によって射止められていた浴衣の一部が引き裂かれ、その切れ目は裾へと広がっていく。

『動いてる。わたしが勝手に動いてる。ああ浴衣が裂けた?』

 この時点で魅羅は、きょうの身体を支配した形になるのだが、そう容易く行かない事に身を以て体現する事になるのであった。

「ああ五月蝿い。何度も言わせるな。後で説明してやるから。わたしは今、久しぶりの下天の空気をゆっくりと味わいたいのだから」

 魅羅は立ち止まって、天の邪鬼に対し腕を伸ばして手の平を向けた。

「暫し待て」

 魅羅はそう言うと、天の邪鬼の動向を気にする素振りも見せず、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

 胸が大きく膨らむ。はち切れそうな谷間が胸の会わせ目から覗いた。

 天の邪鬼は、目を見張っていた。

『痛~い』

「何が?」

『胸がはち切れそうに痛いの』

「ふん。仕方なかろう。おまえの乳房は小振りのようだからな。わたしだって苦しい。窮屈すぎてな」

 魅羅は皮肉を言った。

 きょうは言葉も出ない。

 どうせ、わたしの胸は小さいですよ。

「おい、およう。その姿は何だ?。何だかんだ言いながら、おまえもおれと同族に取り憑かれていたんじゃないか。だがいいねえ。若いおようも良かったが、乳房は豊かになったし、何よりも色っぽいのが最高だ。小振りな角も愛嬌があって可愛いぞ」

 天の邪鬼は、きょうが天陰観魅羅月明命に変じている事など、当然気付くわけもない。そもそも存在自体を知らないのかもしれない。

「よく見れば小鬼ではないか。この程度の輩の為にわたしは呼び出されたのか?。まあ良い。あの場所から脱出できた事が何よりも一番大切なのだから。わたしは漸く自由を手に入れた」

 宇宙鬼様を探しに行けるのだ。

 魅羅は歓喜に浸っていた。が、忽ちの内に身体に衝撃が走った。

 全身が蕩けるような感覚に陥ったのである。

 魅羅は両腕で自らの身体を抱き抱えながら、その場に蹲った。

 これこそが魅羅に対して、閻羅が三百年もの歳月をかけて植え込んだ仕掛けであった。

 宇宙鬼童子の事を考えた時に、身体が疼いて身体機能が制御される仕掛けである。

 実際の処。閻羅にしても、妖怪が解き放たれ魅羅が解決の為に駆り出されるとは思ってもおらず。あくまでも、五百年にも及ぶ仕置きの道楽のひとつにしか過ぎなかったのだ。しかし結果的にこのような僥倖が訪れるとは思ってもみなかったのである。

「妙だな。何が起こってる?。ん?。あの表情はひょっとして…」

 天の邪鬼はニヤつきながら、小走りに魅羅に近付いていった。

 魅羅を知らず。元々遠慮などする性格でもなく、好き勝手に女を我が物にしてきた天の邪鬼である。

 怖じ気ひとつなく魅羅の前に立ち、笑った。

「何が可笑しい」

 瞳を潤ませ、身体の疼きに耐えながらも魅羅は立ち上がった。

 天の邪鬼は返事もせず、魅羅の身体を上から下まで舐めるように見た。いい女だ。

「ちょっと失礼」

 天の邪鬼が胸を触ろうと伸ばした右手を、咄嗟に魅羅は右手で押さえた。だが空かさず伸ばした左手が浴衣の襟へ滑り込み直に乳房を掴んでいた。

「あっ」

 魅羅の顔が歪む。

 天の邪鬼は満足な笑みを浮かべながら、魅羅の乳房を執拗に撫で擦った。

 魅羅は気怠げな表情を浮かべる。

 身体が疼き、快楽が押し寄せて来そうだ。

 正反対に内部のきょうは、気色悪さと嫌悪感に身震いがし、顔をしかめていたのであった。

「何を・して・いる。無礼者・めが…」

 魅羅が虚ろな瞳で言った。

「ケケケ。堪らねえ。柔らけえ」

 更に天の邪鬼は、左手を乳房に充てたままにしながらしゃがみ込むと、裾合わせから手を差し入れて秘所に手を当てた。

 助平心に遠慮も会釈もない天の邪鬼である。

 魅羅は虚ろな目をしながら天の邪鬼を見下ろした。

 秘所が無毛である事を知った天の邪鬼は歓喜の声を上げ、鼻の下を伸ばしながらその秘部を一撫でしたのである。

 魅羅は熱い吐息を漏らした。

『いや~っ』

 きょうの全身を怖じ気が貫いた。悲鳴を上げると同時に右足が動いていた。

 連動した魅羅の膝が、天の邪鬼の鼻柱を打ち抜いていたのである。

 一心同体という言葉がある。魅羅ときょうは今、同体として存在しているが、心と意識そのものはひとつではない。肉体が受ける感覚が心理に及ぼす影響には相違のものがあるようである。

 魅羅は夫のある身。男と女としての経験がある。更に閻羅の仕掛けに依って、淫らな欲情が敏感に芽を吹き出すようになっていた。

 それに引き換えきょうは末通女。正真正銘の生娘であったから、この反応に繋がったのである。

 天の邪鬼はひっくり返った。

「痛え」

 どうして小娘の意思で動いているのだ?。小娘の身体はわたしの物ではないのか?。

 魅羅はもどかしげに、怒りを顕にした。

 長年に渡って受け続けた責め苦により、身体に刻まれた性的反応は簡単には拭い去る事は出来ないのである。魅羅はその事に気付いてはいないし、先行きこの感覚は魅羅にとって最大の弱点になるかもしれない。

「汚らわしい。わたしの高貴な身体の奥まで触れたね。この代償は高く付くよ」

 天の邪鬼は鼻から零れる血を拭いながら、魅羅の目を注視していた。

 心を読もうとしているのである。

「高貴な?。確かに良い身体をしているなあ。いったいあんたは何という鬼姫様なんだい」

「わたしを知らない?」

「長い間。暗い場所に閉じ籠られていたもんだから、あんたのような鬼姫様にはお目にかかった覚えはないねえ。どうか名を教えてもらえますか。そして出来れば手下の一人にでも加えてもらえたなら幸いですな」

 天の邪鬼は下手に出た。

 子分などとは口先の事で、隙あらば凌辱しようという腹積もりなのである。

「耳の穴かっぽじって、よき聞くがいい。我が名は…」

『やっぱり。魅羅様なんですね』

 きょうの高らかな声が、魅羅の頭に響いた。

 何となく理解した。おそらく魅羅様はわたしの身体を利用しているのだろう。

 これこそが、わたしが選ばれた理由。

 でも、何故に鬼の姿をしているのだろう?。

「何度言わせる。黙れ」

 天の邪鬼は驚いた。よう(きょう)の言葉が聞こえたのである。

 この鬼姫の中のよう(きょう)の意識は独立しているのか?。何故取り込まないのだ?。

「独り言にしては、おかしな言いようですな」

 天の邪鬼は、惚けて聞いてみた。

 魅羅は溜め息を吐いた。

「暫し待て。こっちの問題を解決してから相手をしてやるから」

「おお。ほんとか。ほんとに相手をしてくれるんだな」

 天の邪鬼は勘違いをしていた。相手をしてやるという意味合いの違いに気付いてはいない。

 そんな戯れ言も、既に魅羅の耳には入っていなかった。

「小娘。名は」

『わたしはきょう。伊賀で育ったくノ一ですけど、御鏡神社の正当な後継者なんです』

 きょう?。ようではないのか?。

 会話を読んだ天の邪鬼は首を傾げた。

「なるほど、御鏡神社のな。これほど完璧な依り代はないな。納得だ。しかしきょうは何故にわたしの事を知っていたのだ?」

『知っていた分けではないんですけど。母が、わたしには大事な使命があると言って亡くなったらしいので、こういう事だったんだと納得したというか…。でも、こんな不思議な事ってあるんですね。あれ?。魅羅様がわたしを選んだんじゃ…』

「もういい。解ったから取り敢えずは少しの間黙っているように。今から言うことをよく聞いて、その通りにするのだ」

『は、はい』

「おまえの身体はあくまでも借り物だから、まだわたしにも馴染んではいない。このままでは容易に勝てないかもしれない。だから何が起ころうとも、おまえは何も考えるな。感じるな。そして行動を起こすな。良いな」

『それって、どういう意味なんですか?』

「この鬼の言動に一々反応するなという事だ」

『はあ』

 なるほど。鬼姫の正体は解らんが、ふたりの意識は独立しているから、動きがままならぬという事か。これなら幾らでも勝機がありそうだな。

 天の邪鬼はふたりのやり取りを聞いてほくそ笑んだ。そして知らぬふりを決め込み、食べ物をお預けにされた犬のように、従順に待つ素振りを見せていた。

「待たせたな」

「大分込み入った内容のようで。話しは尽きましたんで?」

「一応な。では名乗るが、聞いて震え上がるなよ。我名は天陰観魅羅月明命。嘗て魔化留牙(まかるが)を統べていた宇宙鬼童子様に愛された、ただひとりの女だ」

『えっ、まかるが?。まかるがってどこ?。高天原じゃないの?。だとしても、高天原を統べているのは天照大御神の筈だし…』

 きょうは魅羅を刺激しないように、小声で呟いた。

 魅羅は少しだけ苛つきを見せた。

 魔化留牙とは本来神であった者が、神の成すべき道を逸脱して外道と成り下がってしまったが為に墜とされる冥府魔界の地である。

「うつき童子?…」

 首を傾げた天の邪鬼であったが、突然に白目を剥くと身体の機能が全て停止して棒立ちとなっていた。

 ひと呼吸するくらいの後、天の邪鬼の唇が動き出した。顔は無表情である。

『魅羅様。お久しゅうございますな』

 天の邪鬼の声ではない。

「何者だ?」

『お忘れですか。火矢流(かやる)にございます』

「おのれ火矢流。よくもわたしの前に出て来れたものだな」

 魅羅の目が吊り上がった。怒りに顔が紅潮する。


 魔化留牙。

 そこは根の国(黄泉)とは違う空間である。

 血で色塗られたような空間であった。

 昼夜の区別をつける太陽や月や星が輝く空という概念が存在しない空間であるらしい。

 決して明るくはないが、極端に暗いわけでもない。しかし仮にこの空間に人間が放り込まれたとしたならば、数時間と持たずに錯乱常態に陥ってしまいそうな不気味な空間であった。

 大地は溶岩が細かく砕け散った砂のようで、足が潜り込む感じはない。

 槍先の如く切り立った岩が牙の様に立ち並んで、辺りには花も蕾も無い枯れ果てたような樹木や黒色の草らしき物が林立している。

 宇宙鬼童子は、背に魅羅を庇うように立ち尽くしていた。 

 背後からの攻撃を受けぬよう、背丈よりも高い槍先の牙に似た岩を背にしていた。

 宇宙鬼童子の背丈は六尺五寸ほどであろう。

 他の鬼と比べると、それほど高くはない。

 角は二本あるが、その間の少し上に瘤のような出っ張りがあった。三本目の角のようであるが、刃物で切断された形跡が見える。

 魅羅は五尺五寸ほどか。顔面は蒼白でありながらも必死となって小太刀を構えていた。

 ふたりと対峙しているのは、魅羅の父である月読命の命を受けた氷牙黄泉命(ひがよみのみこと)であった。

 一時は魔化留牙を支配していた宇宙鬼童子であったのだが、信頼を置いていた火矢流の裏切りにより、宇宙鬼童子を護衛する者は悉く倒され周辺に横たわっていた。

 今。宇宙鬼童子は絶体絶命の窮地に立たされているのだ。

「童子よ、観念せい。おまえの命運も最早尽きた。鬼の程もわきまえず、高天原を統べようなどと大それた考えを持つべきではなかった」

 氷牙黄泉命は言った。

「違います。夫は端からそのような考えなど一切ありませんでした。鬼に変えられてこの地に落とされたのも、何者かによる策略なのですから」

 魅羅は必死に弁明する。

「魅羅様。今更その様な事を申しても詮なき事です。反乱が起こったのは既成の事実。序でに申しますが。あなたは神としての尊厳をも無視し、人間と契りを結んだ日から道を誤っていたのです。御父上のお嘆きがお解りになりませんか?。既に証人となる者も捕らえてあります。あなたまで氷塊にしたくはありません。今なら慈悲もございます。大人しく降伏なさいませ」

「夫は罠に嵌められたのです。もう一度よく調べ直して下さい。御願いですから」

「魅羅。もういい。おまえを道連れにはしたくない」

「宇宙鬼様、悲しい事を言わないで。死なばもろとも、離れ離れなどわたしは嫌です」

 魅羅は宇宙鬼童子の背に縋り付いて、涙を流した。

 宇宙鬼童子は、対峙していた氷牙黄泉命らに背を向けて魅羅を抱き締めた。

「魅羅、心して聞け。おれは必ず生まれ変わってみせる。いつの時代になるかは判らぬが、おまえは生き抜いておれを見付けてくれ。頼む」

「宇宙鬼様」

「鬼の遺骨で反魂を為すのだ」

「はい」

 魅羅は頷いた。

「会えますね。きっと」

「ああ。おまえなら必ず、おれを見付けてくれると信じてる。それまで待ってる」

 そして宇宙鬼童子は、氷牙黄泉命によって命を絶たれ氷塊にされてしまったのである。

 一方の魅羅は月読命の慈悲もあり、命こそ奪われなかったが、閻羅の元へ送られて仕置きを受ける羽目に陥ったのである。


「まあ、落ち着きなさい。良い事を教えて差し上げましょう」

「おまえの言う事など、聞く耳持たぬわ」

「ははは。相変わらずで御座いますな。宜しいのですか?。宇宙鬼童子様の事なのですが…」

「何と申した」

「目の色が変わりましたな。今は仮の身に宿していますが、再開の記念に教えて差し上げましょう。どうやらこの現世に、彼の者が転生したらしい微弱な波動を確認出来ています」

「まっ、真か?」

 魅羅の瞳が輝いた。

 遂に宇宙鬼様が生まれ変わる事が出来た。

「宇宙鬼様」

 嬉しさの余り、涙が溢れてきたた。同時に、また全身に疼きの感覚が走る。膝が折れた。

 まただ。

 何故に宇宙鬼様の事を考えると、この様に身体が疼くのであろうか?。

 これは、最悪な事態ではないか。

「しかし残念ですな。あなた様は妖怪退治に忙しい。その間にわたしが見つけ出して引導を渡して差し上げましょう。二度と会えないようにね。では、ふふふ」

「待て」

 火矢流の存在は消えた。

 宇宙鬼様はいったいどこに?。

 聞いたところで答えてはくれないだろうが、少しでも情報が欲しかった。もし居場所を知っているのなら、もう間に合わないではないか。

 気持ちが焦る。直ぐにでも飛んで行きたい。

 魅羅は首を左右に振った。

 邪なる感覚を追いやろうとしたのである。

 全ての疼きが抜け去ったわけではないが、幾らかましな気がして、何とか立ち上がった。

「そうか。妖怪どもを解き放ったのは奴の仕業であったか。わたしを足留めするために。だが奴の考えではあるまい。おそらく陰で指図している者がいる筈。そ奴こそが全ての大元」

 陰で動いている者こそが、ふたりを冥府魔界の闇に陥れた張本人であるのだろう。

『魅羅様。妖怪どもを解き放ったとはどういう事なんです?』

「そんな事も知らなかったのか。百八つの妖怪がこの世に解き放たれたのだ。この鬼はそのひとつであろうな」

 そうなんだ。じゃあ市蔵は犠牲者なのね。でもどうして市蔵なの?。

「急がなければ…。この世がどうなろうと、今のわたしには関係ない」

『駄目です。そんな事』

「閻羅の手先が何を言う。おまえはもう、わたしの籠の中の鳥と一緒じや」

 閻羅の手先?。えんらって誰?。

 魅羅様はどうしてこんな風になってしまったの?。人々の味方ではないの?。あっ、もしかしたら鬼の姿になってしまった事と関係してるのかな?。それにうつきどうじって身羅様の旦那様なの?。童子だからきっと鬼よね。

 きょうは気が気ではなかった。何もかも分からない事だらけ。それに妖怪退治が二の次だなんて、いったいどうすればいいのだろう?。

「あれ。おれは何をしていたんだ?」

 天の邪鬼は正気を取り戻した。

「さあ掛かってまいれ。わたしは忙しいのだ」

『魅羅様、いけません。本来の使命を全うして下さい』

「使命など過去のもの。わたしはただの女になったのだ」

『おんな?。おんなって…?』

「おまえは本気で人を愛した事があるのか?」

『好きな人はいます』

「ふん」

 魅羅は映世身を帯に差し入れると、右手を拡げて霧の箱に向けて伸ばした。

 斬魔刀が空中を飛び、魅羅の手に収まった。

 素早く背腰に手挟んだ魅羅は、手馴れた仕草で鞘走らせた。

「ええっ。手下にはして頂けないので?」

「しないな。おまえは元いた場所に戻れ」

「くそっ。漸く自由になれた身なんだ。天の何様だかは知らんが、あんたを倒してこれからも女を犯し、喰らいまくってやる」

『魅羅様。奴の中には市蔵がいるの。御願いですから、せめて市蔵を救って下さい』

「おまえの好い人か。無理だな。妖かしの魂によって、そやつの血肉はもう穢されておるわ」

『そう、なんですか…』

 魅羅ときょうが話しているのを好機と捉えた天の邪鬼は、音も立てずに飛んで忍者刀を振り下ろした。

 魅羅は油断などしていない。

 鋭い衝撃を確りと受け止めた。

 鍔迫り合いとなったが、若干魅羅が押されているようだ。

 眉間に皺が寄り、瞳には戸惑いの色が浮かんでいた。

 そんな馬鹿な筈はない。小鬼程度の力で押されるとは。

 天の邪鬼の目が嘲笑っている。口程にもないと。

 何故に力が出ないのだ?。

 三百年に及ぶ仕置の所為で身体が鈍っているのか?。依り代にまだ慣れていない所為か?。それとも…。

 最後に頭を過った疑問だけは考えたくもなかった。

 もしかしたら身体の不調は、わたしと依り代の間に不備が生じているからなのか?。ならばどうしたらいい?。何が足りない?。まさか、この娘と心をひとつにしなければ本来の力を出せないとでもいうのか?。しかし…。

 そうなったとして。支配するのがわたしではなく、依り代のきょうであったなら。そしてそれこそが閻羅の最終的な思惑であったのなら。

 魅羅の心は恐怖に支配されそうであった。

「おのれ閻羅」

「何だよ、閻羅って」

 魅羅は完全に力負けしていた。

 身体は海老のように反り、引いた右足を踏ん張る事で辛うじて耐えていた。

「どうなさいました神様。さっき言ってた言葉は何でしたっけねえ」

 勝ち誇った天の邪鬼は、左手で魅羅の乳房を鷲掴みにした。 

『きゃあ』

 余りの痛さに、魅羅の反応を上回る速度で、きょうは反応していた。

 身体の均衡が崩れるのも厭わずに、引いていた右足を勢いよく前に出し、天の邪鬼の股間を蹴り上げた。

 身体の支えを失った魅羅と、股間を蹴られた天の邪鬼はほぼ同時に後方へ倒れていった。

 生娘であるきょうの本能がまたまた幸いし、難を脱れる事が出来たのである。

 立ち上がった魅羅は、唖然としている。

 今のも自分の行動ではない。

 取り込まれるのは、やはりわたしか?。

 天の邪鬼は痛む股間を押さえて転げ回っていたが、既に立ち上がって構えている魅羅に気付いた。

「参った。降参です」

 制止を促すように左手を前に出しながら、忍者刀を支えに起き上がると項垂れて見せた。

「誰がおまえのような奴の言葉など信用するものか」

「ほんとです。改心します」

 勿論。嘘である。あくまでも時間稼ぎだ。必死に頭を巡らせる。すると閃くものがあった。

「覚悟いたせ」

「待ってくれ。耳寄りな話を思い出した」

「耳寄りな話?」

「はい。鬼に関してなんですが…」

 必死を装いながら、視線を投げ掛ける。

「鬼だって」

 魅羅は斬魔刀を降ろして、警戒を解いてしまった。

 油断する機会を狙っていた天の邪鬼は、ここぞとばかりに魅羅を目掛けて忍者刀を投げつけたのである。

 忍者刀は真っ直ぐに魅羅に向かっている。

 魅羅は敢えて打ち払おうとはせず、身を傾けて回避した。

 時間稼ぎ。それが狙い目であった天の邪鬼は一目散に廊下を走り、外へと出て行った。

 しかし魅羅は動かない。

『魅羅様。追わないのですか?』

 魅羅は考えているのだった。

 身体に触れられただけでも、反応が過敏で動きが制御されてしまう。それに反しきょうの拒否反応は素早く、一時的ではあるがわたしの行動を奪うのだ。

 こんな事案がそうそう続くわけでもあるまいが、決して無いとは言い切れない。確かに救われてはいる。ひとつの身体をふたつの意志が共有し、お互いが勝手に動いていたのではいつまでもわたし本来の力は体現出来ないのだろう。調和か…。

 しかしである。

「閻羅の奴。なにが愉しくてこんな身体にしおったのかと思っていたが、やはり奴の策略であったか」

 魅羅は確信した。

『?』

「それ程までに、わたしに逃げられるのを恐れているのか?。面白い」

 魅羅は苦笑いをしながらも、ゆっくりと天の邪鬼の後を追った。

 夕刻が近付いて、闇が迫っていた。

 十六夜が顔を覗かせようとしている。

 天の邪鬼は藪の中に入って、必死に何かを探している様子である。

 魅羅は不審を抱きながらも、蹲る天の邪鬼の背中をじっと眺めていた。

「いた~っ」

 換気の声が上がる。

 何か目当ての物を手掴みにしたようだ。

「何をしておる。逃げる気が無いのなら、早く出て参れ」

 枝を掻き分けて出てきた天の邪鬼の口には、半分飲みかけの蛇の尾が、苦しそうに激しく暴れていた。

『気持ち悪い』

 きょうはしかめ面しているのだろう。

 魅羅も顔を歪める。

「この期に及んで、気でも狂ったか?」

「ケケケ。死にたくなかったら蛇を喰えって声がしたんだ」

「火矢流か。何か仕掛けをしおったか」

 蛇を喰えばどうなるというのか?。

「ケケ」

 天の邪鬼の目が反転して白目となり、身体の軸を失って前のめりに倒れ込んだ。

 苦し気に全身を震わせている。

『えっ。死ぬの?、中で噛まれたんじゃない』

「いや。そうではあるまい」

 魅羅には確信がある。火矢流が関わっているなら意味があるのだろう。何かは判らないが。

 油断を怠らずに、魅羅は注視した。

 案の定。天の邪鬼の身体に変化が起こった。

 口が大きく裂け、前へと突き出ていく。

 目は横に移動し、頭髪は全て抜け落ちていった。更に肌の色が暗い緑色へと変色しながら鱗を形成し、両の手足が胴体へと吸い込まれたのである。

 その姿は正しく蛇である。そしてその身体は膨れ上がり、着衣を引き裂きながら瞬く間に巨大化していったのでのである。

 魅羅は唖然として見上げていた。

『どうして。蛇を食べたから?』 

 きょうも驚きの声を上げる。

 もう市蔵の影も形もない。

 本来の姿を見る事は叶わないのではないのだろうか?。

 きょうは、完全に望みを失ってしまった。

 天の邪鬼は一角の大蛇へと変化していた。

 大蛇鬼と言うべきか。

 首を括られた後に現れた黒球は、大蛇の魂であったようだ。

 身の丈は優に十丈を超えるのではないか。

 魅羅を呑み込むのに充分過ぎる大きな口を開けて、赤く長い二股に別れた舌を揺らしながら見下ろしている。

「シャーッ」

 圧倒する大きさに、魅羅は怯んでいた。

『魅羅様どうするんです。こんな大きいの…』

「どういう意味だ?。わたしは天陰観魅羅月明命。大蛇ごとき何ほどの事もないわ。小娘は黙って見ておればよいのだ」

 とは言うものの借り物の身体。同調なくしてどこまで戦えるかは不安でいっぱいであった。

 魅羅は数歩前に進んで、大蛇鬼を睨み付け溜め息を吐いた。

 大蛇鬼は表情にこそ出せないが、内心笑っていた。魅羅ときょうとのやり取りが全て筒抜けとなっているのだから。

「小蛇よ。おまえはそんな形りをして話せるのか?」

「小蛇だと。面白い事を言う」

 地の底から響いて来るような、おどろおとろしい声である。

「小蛇にしか見えんわ。いや、火矢流のまやかしに踊らされ虚勢を張ってるだけの蚯蚓だな」

「蚯蚓と抜かしおったな。ならば試してみるがいい」

 大蛇鬼は魅羅を喰らおうと、大口を開けて身体を屈めた。

 大きな図体に似合わず、俊敏な動きである。

 魅羅は転回して難を逃れる。

 やはり身体は重い。

 思うように動けないのは仕方ない。落胆してる場合ではないのだ。

「案外。素早いねえ」

 魅羅は虚勢を張るしかなかった。

『魅羅様。負けないで』

 きょうは手を合わせたい気持ちを押さえ、願った。神様はここにいるのだが。

「ケケケ。見直したか」

「ふん。どれ程動きが素早かろうが、わたしの前では児戯に等しい。お日様に照らされ、干乾らびる寸前の蚯蚓が暴れているようにしか見えんな」

「後で吠え面かくなよ。と言っても生きていられればの話だが…。ケケケ」

 嘲りの笑い声を上げて、大蛇鬼は動いた。

 鋭い牙を剥き出しにし、魅羅に襲いかかる。 

 舌で絡めようとしたが、魅羅は辛うじて回避し後方に跳んだ。

 喰らい損なった大蛇鬼は、身体を反転させると、勢いを利用した尻尾で魅羅を薙ぎ払った。

 弾き飛ばされた魅羅は、地を十数間も転がって漸く止まった。

 魅羅の顔が歪んでいる。強烈な一撃である。

 それでも斬魔刀は離さない。

 魅羅はよろめきながらも立ち上がった。

 土煙を上げて、大蛇鬼が迫って来ていた。

 あと数間となった時、魅羅は跳んだ。

 頭部に狙いを定めたのである。

 この身体でどこまで跳べるのか、一か八かの賭けだった。

「そんな小刀で何が出来る」

 大蛇鬼は笑った。勝ち誇った笑みだ。

 宙に浮いた魅羅を尻目に、身体を反転しながら尻尾を振り抜いた。

 魅羅の跳躍は、大蛇鬼の顔までも届かない。

 中途で弾き跳ばされ、地面に強く叩き付けられた。反動で何度も何度も跳ね、漸く止まる。

 先ほどよりも、もっと強烈な撓りだった。

 痛む身体に鞭を打立つように上がり、魅羅は大きく息を吐いた。

 大蛇鬼は余裕を見せて、舌を出したり引っ込めたりしていた。

 やはり一筋縄ではいかないか。

「やはり一筋縄ではいかないか」

「なに?」

 魅羅は驚いた。

『天の邪鬼は人の心を読めるんですよ。知らないんですか』

「そのくらい知ってる。しかし、わたし神…。そうか」

「そうだよ。あんたの中にはおようがいるからな。おように届いた言葉を読めばいい」

「どこまでも足手纏いではないか。だから言ったのだ。何も考えるなと」

「おれの方が断然有利だな。もうあんたに勝ち目なんか無いだろう。それとも、何か奥の手でもあるのかな」

 魅羅は、ゆっくりと距離を詰めていく。

 大蛇鬼は腹を凹ましながら喉を鳴らすと、僅かに口を開いた。

 口中から、緑色の粘性液体が高速で飛び出していた。

 見てから動いたのでは反応出来ない速度である。魅羅はほとんど感覚だけで動いていた。

 何とか回避出来たと思ったのであるが、魅羅の左肩には、その粘性液体が僅かに付着していた。

「おれの胃酸は強力だ。例え神様でも直ぐに身体が溶けるぞ」

 確かに肩の布が燻り、煙が上がっている。

 火傷のような熱さも感じる。

「ちっ」

 魅羅は斬魔刀の切っ先を肩布に差し込み、切れ目を入れてから引き千切った。

 一寸程度の円形に、肌が変色していた。

 本来の魅羅であれば、容易に溶ける事はないのだろうが、未だ神には成りきれぬ依り代きょうの身体である。

「心配すんなって。狙い打ちなんかしねえからよ。あくまで動きを止めるだけ。溶かしちまったら、喰い応えなくなっちまうもんな」

 大蛇鬼は、わざと逃げ道を残すような言い方をした。

 魅羅も、その言葉が本心とは思えない。

 大蛇鬼が再び腹を凹まして喉を鳴らすと、身構える魅羅を見下ろして口を開けた。

 高速で粘性液体が飛び出す。

 転がって回避する魅羅に向け、二度三度と続け様に吐き出した。

 魅羅は転がりながらも、大蛇から目を離さなかった。だがこれ以上転がって回避するのは体力的にも不利になると感じた魅羅は、敢えて反撃する事にした。次の攻撃が来た瞬間を狙い横に移動した魅羅は、大蛇鬼の喉元を目掛けて思い切り跳躍したのである。

 罠に嵌まりやがった。

 目に笑みを湛えた大蛇鬼は、大口を開けて腹中内の空気を一気に押し出したのである。

 生温かい強風が魅羅の進路を阻み、一瞬空中に静止したかのように見える。その間に反転した大蛇鬼の尻尾が魅羅に向かっていた。

 しかしそれは打ち据える為ではなかった。尻尾は魅羅に触れた瞬間、クルリと身体に巻き付き、二回り三回りと絡み付いていった。

 巻き付かれた魅羅の顔が、強く締め付けられる痛みに歪んでいる。

 また。尾と尾の隙間から出ている斬魔刀を握った右手は痺れ、今にも手放してしまいそうであった。

『苦しい』

 きょうは痛みに声を上げる。

「くっ」

 魅羅は半ば気が遠くなりかけながらも、決して弱音は吐かなかった。神の自尊心によるものであろう。

「ケケケ。残念だったなあ。こうなったらもう逃げ道なんざありゃしねえ。ほい。ほい」

 大蛇鬼は、更に力を込めていた。

「うっ」

 魅羅は気絶寸前であった。

 やがて、力を失った手から離れた斬魔刀は大地に落下していったのでのである。

「神を喰らったら、どれだけ長生き出来るんだろう?」

 大蛇鬼は、尻尾を自分の頭上に上げ、開いた大口の中に魅羅を放り込んだ。

 ゴクリと喉を鳴らして魅羅を呑み込んだ大蛇鬼は、満足そうな笑みを目に浮かべた。

「しくじった。味わうのを忘れて一気に飲み込んじまった。まあいいか。神の血肉を吸収する事に変わりはないんだ。どれだけの恩恵が受けられるんだろう。楽しみだなあ」

 大蛇鬼は身体を伸ばして、大地に伏せた。

 落ち着いて消化させようというのだろう。

「消化し終わったら、元の姿に戻ろう」

 とは言うものの、大蛇鬼は首を傾げた。

「はて。どうすれば元の姿に戻れるんだ?」

 手を使えば何とかなるだろうと思ったのであるが、その手は疎か足さえも存在しないのだから。目玉を動かして本来ある筈の肩の辺りを見やるが、無いものは無いのだ。

 夜空を見上げ、途方に暮れるしかなかった。

 蛇が汗を流せたとすれば、きっと大量の冷や汗を流していたに違いない。

 諦めた大蛇鬼が、顎を大地に当てて吐息を漏らした時だった。

「ん?」

 口が勝手に開いていた。

 何だ?。

 嘔吐に似た症状が、大蛇鬼を襲った。

 意識する事もなしに胴体が持ち上がり、海老のように背中を丸めていた。

「おえっ。痛え」

 ピョンピョンと飛び上がりながら胴体をくねらせる大蛇鬼は、明らかに痛みにのたうち回っているようである。

「この痛みは何だ?」

 痛くても添える手のない大蛇鬼は、身体を揺すりながら仰向けになっても苦しみ続けた。

「おえっ。おえっ」

 二度ばかりえずいた大蛇鬼は、口中から吐瀉物を吐き出した。血飛沫である。

 えずきが止んで暫くするたと、大蛇鬼の下顎が上に大きく開かれていく。その下顎の歯の隙間から数本の指先が見えていた。

 やがて、全身に血飛沫を浴びた魅羅が姿を現したのである。

 右手には棒手裏剣が握られていた。

『気持ち悪~い』

 第一声を発したのはきょうであった。

 大蛇鬼の体内で、血飛沫を浴びた最悪の状態に身震いが止まらなかったのであろう。

「五月蝿い。この程度で泣き言を言うな」

『だって、蛇の血ですよ』

 それには答えず、魅羅は振り返った。

 大蛇鬼が鎌首をもたげたからである。

「痛えじゃねえか。何してくれるんだ。だいたい刃物も持ってないのに…ん?」

 大蛇は漸く、魅羅が持つ棒手裏剣に目を止めた。

「それは…」

「何でわたしが持ってるのか疑問だろう?。おまえがきょうに放った手裏剣だ。映世身の中に飛び込んで来たのを思い出してな。わたしの頬を掠めて飛んできた時は、驚きもしたし腹も立ったが、まさかこんな形で役に立とうとは考えもしなかったよ」

「くそ。頭に来た。もう手加減はしねえ」

「その言葉。そっくりそのまま返してやる」

 魅羅は大蛇鬼から目を離さぬままに、大地に突き刺さった斬魔刀に向けて手を差し向けた。

 斬魔刀は見えぬ手で引き抜かれ、宙を飛んで魅羅の手に収まった。

「シャーッ」

 大蛇鬼が鋭い声を上げる。

「よいな、きょう」

『はい』

 魅羅は目を閉じ、静かに深呼吸をはじめた。

「では参る。呼吸を整え心の臓の音に耳を傾けろ。ひとつになり、わたしに魂を渡せ」

 きょうも魅羅に合わせるように息を整え、耳を澄まして心の臓の音に耳を傾けていた。

 程なくふたりの呼吸が合致し、心の臓の鼓動も血流の脈動さえもがひとつとなっていた。

 神と人間。その心と身体が今、ひとつに溶け合い血脈が完全に繋がったのであった。

 首に掛けてある反発しあっていた翡翠色の勾玉が、魅羅の刻印にピタリと吸い付き、その色が紅に変わった。

 魅羅の目付きも変わっていた。

 何物も恐れない絶対の自信と、強い生命力に満ち溢れた顔付きになっていた。

 紛れもなき天陰観魅羅月明命の降臨である。

 魅羅は、刃を外に向けた斬魔刀を縦にして構え、左手を峰の鍔元に添えた。

「雷陣(らいじん)。光粒刃(こうりゅうば)」

 声を上げながら、魅羅は添えた左手を切っ先に向けて滑らせたのである。

 刃を覆うように、細かな光りが明滅する。

 光りは切っ先から、存在しない筈の所に明滅を増幅するように伸びていった。

 凡そ三尺の刃長になった斬魔刀の明滅は止まった。そこには斬魔刀の秘形体の姿があった。

 刃は闇の中を切り裂くほどの鋭利さと煌めきを放つ雷光のようにも見える。


 大蛇鬼の腹中。

 食べ物を胃に送る為に波打つ食道の途中で、魅羅は背と足を使い突っ張り棒のようにして胃袋に運ばれないよう踏ん張っていた。

 胃袋まで運ばれると、いかに神であろうが強力な酸によって溶かされてしまうのだろう。

『何とかならないのですか?』

 きょうは今にも泣き出しそうである。

 魅羅は躊躇っていた。

『魅羅様』

「黙れ。必死に考えておるわ」

 このままでは、例え生きてここを脱け出せたにせよ、大蛇鬼を倒すなど不可能に違いない。

 背に腹は代えられぬか。

 魅羅は決断せざるを得なかった。

「きょう」

『はい』

「ここから脱け出したら、わたしの合図で心を同調させるのだ」

『脱け出せるのですか。同調とはどうすればいいんです?』

「わたしにも正直よく分からない。だがおそらくは、ふたりの心をひとつにすることだと思うのだ。呼吸なのかそれとも心の臓が脈打つ鼓動なのか。ふたりのそれが合致した時に一心同体が完結出来るのだと思う。どうだ、試してみるか?」

『分かりました。魅羅様と本当に一心同体になるという事ですね』

「そうだ。しかしお互いにどのような弊害が起こるかも分からないから、こいつを葬ったならば、即刻に同調を解くのだ。良いな」

『はい。で、同調を解くには?』

「好き勝手に動けば解けるだろう」

『なるほど。そうします』

「約束だぞ」

 魅羅は保険を掛ける事を忘れない。

 魅羅の意識が、きょうに乗っ取られるという最悪の結果にならないように願うのみである。

 しかし神であるわたしは、いったい誰に願いを掛ければいいのだろうか?。

『どうやって出るのですか?』

「いい事を思い出したのだ」

 魅羅は徐に映世身を手にすると鏡面を指で触れた。すると、まるで水面に触れた時のように苦もなく手が埋没していった。程なくして、鏡の中から出てきた手には棒手裏剣が握られていたのであった。

「きょう。出れるぞ」

『あっ、あの時の。本当に入ってたんですね』

 魅羅は、食道の肉壁を滅多刺しにし始めたのである。


 魅羅はゆっくりと瞼を開いた。

 大蛇鬼は目を見張っている。

「何だそれは」

「些か、輝きに斑な処があるな。付け焼き刃の同調故か、それとも永き空白期間の影響であろうか。だが蚯蚓を斬り裂くくらい何の問題もなかろう」

「もうしくじりはしない。噛み砕き、喰らい尽くしてやる」

 魅羅の眼光が、更に険しくなった。

「天陰観魅羅月明命の名を脳裏に刻み付けて、永遠の眠りに就くがよい」

 その言葉を聞いたきょうは、市蔵との別れも近付いているのだと思うと、涙が溢れそうになっていた。

「どうした。何故泣く。心を乱すんじゃない。漸く本来の力を取り戻したのに…」

 涙が零れたら恥ずかしいではないか。

 実際。魅羅の瞼にも涙が溢れていた。完全に同調している証であろう。

「いくぞ」

 魅羅は宙に飛んだ。

 一旦。身体を反らせた大蛇鬼は、反動を利して魅羅に喰らい付こうと、大口を開けて前に屈み込んだ。

 寸前。魅羅は竜巻のように回転しながら、雷光の光りを放つ斬魔刀を水平に薙いだ。

 その瞬間。斬魔刀は目映いばかりの閃光を放ち雷音を轟かせた。

 大蛇鬼の右側の口が裂けていく。切り口は溶解しながら後頭部まで達していた。

 断末魔の声を上げ、大蛇鬼はうつ伏せに倒れていった。

 魅羅は地に降り立つと、残心の構えを取る。

 徐々に斬魔刀の光りが消え、元の大きさの刃へと戻っていく。

『終わったのですか?』

「いや、まだだ」

 魅羅は納刀すると、帯に挟んでいた映世身を手に取り、鏡面を大蛇鬼に向けた。

「封陣(ふうじん)。闇に帰れ」

 大蛇鬼の身体が黒い煙と化し、宙を舞って映世身に吸い込まれていった。

 大蛇鬼が消え去った後には、普通の大きさに戻った天の邪鬼が現れたが、その姿も黒い煙となり映世身へと吸い込まれていった。

 残ったのは、髪の毛を失った市蔵である。

 右側の口が大きく裂け、閉じた瞼からは涙が零れていた。死んでいるのは明らかである。

 魅羅の瞳からも、一筋涙が零れた。

 泣くな。

 口まで出かかった言葉を、魅羅は敢えて飲み込んだ。

 まあ、良いか。

 誰かの為に流す涙など、三百年振りであったのだから。

『市蔵』

 こうなるのだろと分かってはいても、やはり別れは悲しいものである。

 しかし。これがわたしの、御鏡神社の神子としての宿命なのだろう。

「きょう。妖怪退治はこれで仕舞いだ。同調を解きなさい」

『はい』

 魅羅は目を閉じると、乱暴に息を吐いたり、首を振りながら大声を上げてみた。

 同調が解かれたのかどうか、大した反応も無いので分からなかった。

 しかし、勾玉が翡翠色に戻っている事が分かり、解けたのだと理解出来た。

 安堵の息を吐くと、笑みを漏らした。

「きょう。ようやった」

『はい。魅羅様はお強いですね』

「誉めても無駄だ。おまえはもう用済み。わたしはこれから我が道を往く。その内に脳内に押し込めてやるからな」

『そっ、そんなあ。他の妖怪たちはどうするんですか?』

「知らぬ。わたしには関係の無い事だ」

『ええ~っ』

 その時。勾玉が振動しだした。

 肌に張り付いていた勾玉が刻印から外れて、浮き上がったと同時に透明色に変わったのである。

 魅羅は、今の今まで感じていた溢れるほどの高揚感を失い、気怠さを覚えた。

 映世身も振動していた。

 魅羅にはその気は無かったのであるが、気持ちとは裏腹に何故か鏡面を覗いてしまった。見えぬ手で強制的に向けさせられた感じである。

 呼ばれたのだ。

 漆黒の闇が映っていた。

『有私落化粧(うしらくけわい)』

 闇の中から声が聞こえた。

「あっ」

 魅羅の顔がうっすらと色を失い、身体が浮いていく。透き通った奧にきょうの顔が見える。

「おのれ閻羅。こんな仕掛けをして…」

 最後の言葉が聞き取れないうちに、魅羅は映世身の中に吸い込まれていった。

 きょうはその場に崩れ落ちた。

 体力的にも精神的にも、疲労は相当なものであったのだろう。

「いなくなった…。鏡の中に戻ったんだ」

 どうやら危惧した事態は避けられたようだ。

 だが何故。魅羅様は映世身の中に戻ったのだろうか?。間際に「えんら…」とか「仕掛けがどうの…」とか言ってたけど。

 考えても解るわけないか。兎に角。無事に元に戻れる事が出来たんだから。

「あっ」

 きょうは我に返って、横たわる市蔵の亡骸に歩み寄った。

「市蔵。ひとりで逝かせてごめんね。寂しいでしょうけど、わたしには大切な御用が出来てしまったの。あなたみたいに何の罪もない人が出ないようにしないといけないの。どうかあの世で見守っていてね」

 きょうは、溢れ出る涙をそのままに、市蔵の亡骸に凭れかかった。


  終章

 きょうは母りょうの着物に身を包み、笈を背負っていた。

 中には着替えや神子の衣装。そして何よりも大切な映世身と斬魔刀が納めてある。

 立っているのは、三つの真新しい神道塔婆と少しばかり色の褪せた母と父の神道塔婆の前である。

 市蔵もここで眠ってもらう事にした。

 近所の人びとの手を借りて埋葬したのだ。

 きょうは長い間手を合わせていた。

 祖父母には短い時間だったけど会えて嬉しかった事を、市蔵にはわたしの家族と一緒だから寂しくないでしょうと話しかけた。

 母には必ず使命を果たして戻って来る事。そして御鏡神社を再建する事を誓った。

 これから長い旅が始まるのだ。

 次にこの故郷に戻って来れるのはいったいいつの日になるのだろう?。もしかしたら道半ばにして命を落としてしまう危険性もある。

 もう後戻りは出来ない。

 心残りもない。

 今この時点でさえ、全国各地で妖怪が跋扈しているに違いないのだから。

 結局。神子の作法も能力の開発訓練も何ひとつ出来なかった。

 しかし、恐れはしない。

 何故ならわたしには。向いてる方向が違うから全幅の信頼は置けないのだけど、強い神様が憑いているのだから。

 わたしは天陰観魅羅月明命の、正真正銘の末裔なのだ。

 名は加賀見きょう。

 生業は神子である。

 

            第一話 完。


 





 



 






 




































 

 


 


 






 

 

 

 


 



















 








  

 




 

 





 



 





 

 















 

 















 













 











 念願のデビュー作が漸く書き終わりました。 

 書いて気付いたのは、書けば書くほど言葉が溢れ出て文章が繋がっていくものなのですね。しかしそれ以上に推敲の段になり感じたのが、文章の拙さと表現力の乏しさです。これは致命的です。今更どうしようもありません。

 しかし最終的に悟りました。

 わたしはただの素人なのです。

 誰にも期待されてませんし、失う物は何ひとつないのですから。

 兎に角。自己満足でいいから、楽しく書いていこうと思います。

 私事はさておき。

 この物語の方向性を決めるに当たって、主人公のきょうには不幸のどん底に落ちて貰いました。たくさん泣いて貰いました。

 そして魅羅には、ちょっぴり嫌な奴になって貰いました。でもそれも愛の為です。文中でも言ってますが、魅羅はただの女になったのです。

 ふたりは目的こそ違えど、己の信念を貫こうとする強い意志があります。

 この先。妖怪退治の旅路に於いて、ふたりの関係はどうなるのでしょうか?。

 真の一心同体になれる日は来るのでしょうか?。

 それは、神様にも解らない事なのです。



 



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