生成りの神子や観月に舞いにけり 前編
この作品を制作するに当たって、まず宇宙鬼童子という人物が前提にありました。
設定が鬼である意外何も決まっておらず、数十年もの間、頭の片隅で埋もれたままの常態にありました。
小説を読むのが大好きなわたしでしたが。自ら書こう。それも公の場に出そうなどと、大それた考えもありませんでした。
しかし年齢を重ねると羞恥心なんて無くなるものですね。そして代わりに欲望心というものが芽を出してきました。目立ちたいとかではありません。
生きた証が欲しくなったのです。
さて書くとなると、やはり舞台設定とヒロインは重要課題になります。在り来たりではいけません。どうせなら突拍子もない物にしよう。
鬼の存在を際立たせるのは、やはり神様しかいないのだろう。
そこで思い付いたのが月読命の娘。
月に照らされた夜は、妖怪たちが跋扈するに相応しい。娘に妖怪退治をさせればいいんだ。
名は天陰観魅羅月明命。
人でありながら神に恋をし、自らも神に成ろうとした男が鬼と化してしまう。その名は宇宙鬼童子。
ここに、ふたりの禁断の愛を軸にした、挫折と復活の物語が動き出します。
本来なら、ふたりの波乱万丈に満ちた物語を最初に書くべきなんでしょうが、突然。頭に閃いたのがきょうという娘なのです。
ああ、これは運命だ。
この娘こそ、わたしのデビュー作に相応しい。
複雑に絡み合った娘と神との関係性。そして妖怪たちとの戦いを楽しんで頂きたいと思います。
この物語は『類聚人鬼譚』シリーズの第二部になり、三部作で完結の予定です。
そういう次第です。
興奮しています。
面白いか面白くないかは、読者の方々の判断に委ねますが、最高の物語になると自負しています。
では、『生成り神子』前編の開幕です。
中秋である。
その中空に漂う曇天の狭間を、ゆっくりと泳ぐように、淡い光りを放つ十五夜が顔を覗かせている。
これといって代わり映えのない、美しく大きな蜜月であった。
夜が更けゆき、蜜月が真上に差し掛かった頃の事である。
月の表面が、透明な薄皮状のもので遮断されたような違和が生じた。
仰ぎ観ていた人々は大勢いたであろうが、いったいどれほどの人物がその違和に気付いたであろう。それほどの極短い時間の出来事であった。直ぐに蜜月は何事もなかったかのように、煌々たる明るさを取り戻したのであった。
しかしである。
月の中心から、黒い点のようなものが浮き出てきたのである。
それは時を重ねてゆく毎に色濃く、そして大きくなっていった。
やがて、月の一割ほどの大きさまで肥大すると、時計回りに螺旋を描きだしたのである。
人魂の如く短い尾を引きながら、更に大きさを増していった。
だが実際には、その物自体が大きくなっているのではなく、月から離脱しているために大きく見えているというのが正解のようである。
その黒球はゆっくりと螺旋を描いたまま、天空を泳ぎ続けた。
どうやら目指す場所は、月にとって母とも兄とも呼べる、付かず離れずに寄り添い続ける青い星であった。
やがて黒球は、天空に散らばるあらゆる物質に触れた影響によるものか、それとも己自身の物体質量に耐えきれなくなってしまった為であろうか、音こそ聞き取れないが、空間を揺るがすような勢いで弾け飛んでしまった。
いや、実際には弾け飛んだのではなかった。
宙に舞い上がった尺玉が、火花を夜空に撒き散らすように、無数の小さな黒球に分裂していたのである。
夥しい数の黒球であった。
その数、百と八つ。
煩悩の数と同じである。
それらは螺旋を描いて進むもの。
或いは、蛇行して進むもの。
一旦その場に留まってから進むもの。
脇目も振らず一直線に突っ走るものなど、各々の個性のままに、ある一点の場所を目指していたのである。
極東に位置する、小さな島国であった。
それは日の本と呼ばれている。
妙に生暖かい風が吹いていた。
大量の血臭を含んだ風。微風である。
微風であるが、そこここで渦を巻き、薄をそよがせている。
まるで、そこを取り巻く空間自体が、辺りに漂う血臭を一刻も早く上空へと消し去ってしまいたい光景のようであった。しかしそれが思うように出来ない。
もどかしく喘いでいるようにも見える。
早く消し去りたいのであれば、一気に強風を吹かせれば事足りるのであろうが、そうはいかない雰囲気があった。
それは、あるものの存在にあるらしい。
大きな男が立っていた。
相当量の血臭を放っている。
男から放出された匂いの粒子と、男を囲む真っ当な空気の粒子が、お互いに牽制し、絡み合い、火花を散らし合う。そんな雰囲気なのだ。
異様な男である。
どう見ても人とは思えない男。
身の丈は、優に七尺は超えているのではないだろうか。そして、それに相応した異常なほどの体躯。
更に目につくのは、人には在らざる肌の色であった。
青みがかった褐色の地肌。
その全身は無数の刀傷を負い、血にまみれた小袖から覗く筋肉が盛り上がっていた。
巨岩が数千年の雨風によって削られ、形成されたような巌をも凌ぐ筋肉の塊であった。
その筋肉を有する男の全身は、硬直し激しく震えていた。
途轍もない戦いが幕を下ろした直後なのであろう。それも生死を分かつ戦い。
未だに、自身の筋肉の弛緩に意識が回せないようであった。
この男と死闘を繰り広げ、これ程までに緊張をさせた者とはいったい何者なのであろうか。
下方に向けた大刀の切っ先から滴り落ちる鮮血が、大地をどす黒く染めている。
止めどない血の流れは、まるでその大刀が意思を持って吸い込んだのではないかと思うほどの量であった。
髪は乱れていた。元結が切れてしまったにしては、髪の毛は真っ直ぐではない。生まれながらの波打ったような髪質のようだ。
何よりも、髪の毛一本一本が針のように太く固そうであった。
更に驚くべき事は、前頭部の左右から二本の角らしき物が、上に向かって突き出ていたのである。
鬼であった。紛れもなく。
漸くの事。鬼は大きく息を吐き、身体から緊張を解いた。
それでも荒い息遣いは止まる事を知らない。
その時である。
どよんと、重々しく天が騒いだのである。
鬼は徐に天を仰いだ。
月から現れた黒球を発見すると、鋭い牙を剥き出しにして笑みを浮かべた。
「精々暴れ回るがいい」
一言呟いて、鬼はその場を後にした。
それでも風は止まない。
何故なら、鬼が背を向けた場所には、ふたつの死骸が横たわっていたからである。
ひとつは、胴体が上下に切断された人間らしかった。
左肩から右の腰に向かって切断されたのは、袈裟斬りによると思われる。
迷いひとつない、斬ることのみに徹した見事な太刀筋であった。
切断面から溢れ出た臓物が血泡を吹き、肋骨が月灯りを受けて白く輝いていた。
形りは侍のようであるが、老齢であるのか、それとも何らかの病でも患っているのか、成人の肉体が有しているであろう体内水分を多量に失った、木乃伊の様相を呈していたのだ。
しかしなから、その表情には満足感を得たような笑みが浮かんでいるようにも窺える。
そして、もうひとつの死骸。
やはり巌のような肉体を持つ鬼であった。
この鬼の地肌は、赤褐色であった。
赤い肌を持つ鬼と、青い肌を持つ鬼。違う肌を持つ鬼は、敵対関係にあるのだろう。
うつ伏せに倒れている鬼の胴体には首がなかった。
右の膝元には、大刀が刀身の半ば近くまで大地に突き刺さっている。
おそらく、首を落とされる事を覚悟しての仕業であろう。
その死骸の前方斜め一間ほど先に、切断された頭部が自分の胴体に向かって屹立していた。
角が二本生えている。
瞼は閉じていた。
去って行った青鬼よりは、一回り小さい鬼のようである。
何時しか、風は凪いでいた。
だが、生暖かさの度合いは変わらない。
鬼が立ち去ってから、四半刻にも満たない時間である。
薄を掻き分け、項垂れた一匹の雄狼が尻尾を股間に隠しながら姿を現した。
痩せ細った、小汚い狼である。
遠くから血の臭いを嗅ぎ付けたのであろう。
左目は閉じている。残された濁りきった右目
で、大地に横たわるふたつの死骸を確りと捉えていた。
狼は迷うことなく、死骸の食い応えだけを瞬時に判断して、鬼の元へと駆け寄ると、前足で鬼の肩を抑え付けた。
長い間。餌にありつけていなかっであろう狼は、辺りを気にする事もなく、丈夫そうには見えない犬歯を、首の切断面に突き立てていた。
鬼の肉塊である。
狼とて、これ程までに硬いとは想像もつかなかったのであろう。幾度も幾度も犬歯を突き立てたり、首を左右に振って引き千切ろうと悪戦苦闘した。そして漸く、僅かな肉片を口にすることが出来たのである。
狼は奥歯でゆっくりと咀嚼し、喉を鳴らして飲み込んだ。
余りの旨さに舌舐めずりした瞬間であった。
狼の全身を、痙攣が襲ったのである。
呼吸の間隔が早く、荒くなっていく。
右目の瞳孔が開いていた。
嘔吐が始まる。しかし、吐瀉物は出ない。
二度三度と嘔吐を繰り返した狼は、その場に倒れ込み、やがて意識を失ってしまった。
程なく。異変が起こった。
痩せ細り骨と皮ばかりの身体が、むくりむくりと膨らみ始めたのである。そればかりではない。涎の垂れた口の隙間から、犬歯がにゅっと鋭さを讃えるように、滑り出てきた。
そして失われていた左も含め、カッと目を見開いたかと思うと、すっくと立ち上がった。
汚れていた体毛は全て抜け落ち、白銀の美しい毛並みへと生え変わっていたのである。
生まれ変わった狼は、満月に向かって顔を向け、己の存在を世界に示すかのように、咆哮を上げていた。
それは過去に、群れで虐げられ、居場所を失くし、狼としての威厳さえ放棄し、臆病で哀れな一匹の山犬としての生き方に終止符を打つ、
得体の知れない自信に溢れた咆哮であった。
狼は何かに促されたように顔を右側に向けていた。
大地に屹立する鬼の瞼が見開かれ、鋭い眼光で狼を凝視していた。
狼は視線が合ったと同時に、諾と頷いて頭を下げた。
脳に直接訴えかけられた、指令のようなものを理解したのである。
狼は鬼の死骸を見下ろすと、肩にかぶり付いて胴体を裏返し、仰向にさせたのであった。
狼ごときが人体を、それも筋肉の塊である鬼を裏返しにする芸当など、尋常な事では出来る筈もない。しかし、この狼はいとも簡単にやってのけたのである。
鬼の血を、体内に吸収した所為であろうか。
仰臥された鬼の懐から、紐によって首に掛けられていた袋が零れ出た。
長さは六寸ばかりある。
狼はそれを口に咥えると、歯と前足を使って器用に中身を取り出した。
現れたのは遺骨のようで。白い水晶のような煌めきを放っていた。
狼はその遺骨を咥え、人間の死骸の元へと歩み寄っていった。
その死骸は目を見開き、天を仰いでいた。
伊賀上野城は、鈴鹿山地、信楽台地、大和高原、布引山地の山々に四方を囲まれた盆地の中央に位置していた。
服部川が北谷西方向に流れ、伊賀は霧が発生することが多かった。故に隠れ里としては最高の立地条件だったのである。
慶長十三年。
藤堂高虎が伊予から津そして伊賀へ転封となり、上野城と城下町を作り上げのである。
高虎は、伊賀者が他国に戦力として買われていくことを危惧し、抑止のために雇用を始めたのであった。
忍び町は伊賀者が屋敷を構えた場所である。
そんな伊賀者の中にあって、特に有名なのが服部半蔵であることは誰もが知っている。
隆盛を極めた徳川創成期であったが、現将軍である七代吉宗公が、紀州から連れてきた御庭番と呼ばれる忍びを重用したことにより、伊賀者は岐路に立たされていたのである。
伊賀上野城の南側に位置する、東西大手門が面する中町通りを南に進むと愛宕神社がある。
その向い側の鉄砲町に【愛宕庵】という蕎麦屋があった。
暖簾が掲げられた入り口の左脇に、明かに蕎麦屋とは関係のない、白い着物に緋袴を身に纏った巫子らしき娘が、朽ち欠けた机を前に醤油樽を逆さにした椅子に腰掛けていた。
一見すると、まだ小娘のような幼い顔立ちをしていた。十三四であろうか。
長い黒髪を後ろで束ね、紅い紐で結わえていた。
辻占であるらしい。
名は、よう。今年で一七歳になる。
伊賀の忍びの流れを受け継ぐ娘であった。
所謂。くノ一なのであるが、まだ見習いの域を出てはいない。
正式な任には、まだ一度も就いてはいない。というか、今はそんなに忍びが重用される時代ではないのだ。かといって、代々受け継がれてきた技を根絶やしにしてしまう分けにもいかない。それなりの準備を怠ることなく、子々孫々に伝えていくことが重要なのである。
そんな中、ようが日々の糧を得るがために占いというものを選んだのには大きな理由があった。
それは特殊な能力を有していたからである。
ようはその能力について、神様なのか仏様なのかは判らないが、自分だけに与えられた特別な贈り物であると捉えていた。
何故ならそれは、通常の人間では決して持つ事の出来ない能力だからである。
ようには未来が見えるのであった。
見えるとはいっても、それは動いている姿ではなく、二次元的な静止画として見えるため、正確には写るといった方が正しいのかもしれない。それでも、未来が見える事には何ら代わりはないのだ。
何かの因縁によって起こる事象。つまり、その原因となった場面が描かれ、続いて幸福な出来事であったり、不幸な結末であったりの場面が目の当たりに出来るのである。
しかしそれは、突然降って沸いたように脳裏に写し出される訳ではないし、自分自身の未来が見える事もない。
未来を知りたい相手と相対し、ひとつの重要な道具を用いる必要があるのだ。
いざ占いを始めてみると、ちょっとした疑問にもぶち当たる。
それは、相談者が本当に知りたい情報なのか判断に迷う事だ。
幼なじみであり、友人であるかえでに背中を押されるままに始めた事なので、最初は自信もないし、見えた事の因果関係が本当に正しいのか、その辻褄合わせの考察が確り出来ていないなどの準備不足もあったのだろう。迷いの連続であった。仕方なく閃きや直感で答えるしかなかったのである。
それでも結果的には当たっていたようで、文句や恨み言など言われた経験は無かったような気がする。運が良かったのだろうか?。
尤も。文句を言われようが、占いとゆうものは当たるも八卦当たらぬも八卦の世界なのであるから、開き直りも大事なのだと気付いたりもするのだ。
巫女の衣装を身に付ける事に関しては随分悩んだ。大袈裟だし、何よりも恥ずかしい。しかし、かえでは言った。
「何事も、見た目に人は騙されるのよ」と。
人を騙すってどうゆう意味?とは思ったが、確かに見た目は重要なのだろうと納得した経緯はある。
巫女がどうゆう形りをしていて、どんな仕事をしているかも詳しくは知らない。しかし今のご時世、古着屋に行けば大体は揃っているものだ。しかし巫女の衣装などそうそう有るわけもなく。仕方ないので、それらしい物を店主に誂えてもらった。急場凌ぎの感はあるが、想像以上に板についていると、かえでには褒めてもらった。多分お世辞であろうが。
確かに少し滑稽かもしれなし、恥ずかしい。 しかし、これも生業。曲がりなりにも伊賀のくノ一なのだ。変装はお手の物ということにしておこう。
目鼻立ちは整っている方だと思う。
多少吊り上った目をしているが、意地が悪そうには見えない。口角を上げ、何時も笑顔を絶やさない努力をしてきたのだから。
ようは幼い頃から母に言われ続けた「何時も笑っていれば、きっと幸せが訪れるよ」との教えを、ずっと守り続けてきたのだ。
その所為かは判らないが、いつの間にか笑窪が出来ていた。
それはまあいいのだが、顔立ちが幼顔で可愛いと言われるのには閉口する。可愛いと美しいはかけ離れた褒め言葉だからだ。やはり女として生まれたからには、誰でも美しいとか綺麗とか言われたいに違いないなのだ。
背丈は五尺二寸ある。今の時代、高身長の部類だろう。
体型はどちらかというと細身。些か小振りな胸には納得していないが、反面腰廻りは確りと肉付いていた。丈夫な赤子を産む自信だけはある。
ようには他にも懸念していることがあった。
幼さの残る面相が、父とも母とも余り似てはいない。体型にしてもそうだ。両親ともに小柄だし、母に至ってはやや貧弱な身体付きをしているのだ。
口さがない者からは、どちらにも似てないねと言われることは屡々であった。
少し悲しい気分にはなるが、まあそんな例もあるのだろうと気にしない事にはしている。
そんなこんなもありながら、今の日常を生きるようは、一刻も早く大人になりたいと思っているのだ。
別に、誰かに嫁ぎたいとかではない。
確かにそういう年齢にはなってはいるし、かえでを除いた同年代の娘はほぼ嫁しているが、やっと占いという天から与えられた生業に巡りあえたし、悩んだり困ってる人々の支えになりたいのだ。
ただ父の思惑がよく判らない。
父は、ように婿を勧められても、決して首を縦に振らない。娘をこのままくノ一として育てあげる腹積もりなのであろうか?。
何の為に?。これ以上、何を学ぶの?。
くノ一にとって最高の武器は、自身の身体である。男を手玉に取る手練手管を身に付ける必要があるのだ。
わたしはそんなこと、死んでも嫌だ。
そんなことの為に、厳しい修練に耐えてきたのではないのだ。
刀術や組み手、そして手裏剣術などを必死になって身に付け、強くなったと自分でも感じてはいる。しかしながら、もし実際に人を傷付けたり、死に至らしめてしまうなどの事態に陥れば、わたしはたどうなってしまうのだろう?。
そんな時に出会ったのが占いなのだ。
幸いなことに、母は理解を示し応援してくれている。だが、問題は父なのだ。
だから、相談も一切してはいない。
占いを始めたばかりの頃。幼さの残る顔立ちは、その筋の者には勿論だが、若い衆にも人気があるらしく。占いが目的ではない、冷やかしや軟派が目当ての男たちが多数押し寄せて来るのだった。何と暇な人間が多いのだろう。
可愛い小娘と侮った男たちは、からかい半分で、女房との閨の事やあそこが元気がないのだが、とか明け透けに聞いてくる者や、大胆にもようとの相性を占ってくれという輩が後を経たなかった。周りを男たちに囲まれた上に、未通女であるようが頬を紅潮させる様は、男心を擽り、楽しかったのだろう。
しかし。慣れとは恐ろしいものである。
利かん気の性格もあったのだろが、一々真面に応えるのも馬鹿らしくなってきた。それでも嘘の占いだけは出来ない。考えた末に、小さなしっぺ返しをすることにした。
大した怪我ではない場合は、わざと誘導したり。浮気がばれそうな状況に直面させたりなどである。しかし微妙な言葉のあやも忘れない。最後に「足元を掬われませんように」と品を作ってそっぽを向くのだ。
お調子者たちの鼻を明かすくらいは、神様も笑って許してくれるだろう。
わたしは悪い女?。
それだけわたしの占いは完璧なのだ。
若い娘たちの間では、あの巫女の言う通りにすれば間違いないと、好意的に噂が広まっているようだ。有難い。
ようが自分の能力に気付いたのは偶然によるものであった。
かえでの部屋で、他愛もない話しをしている最中の事。
「かえで。最近太ったんじゃない。何か顔が浮腫んでる気がするよ」
気の所為かもしれないが、ようは指摘した。
慌てたかえでは、手鏡を覗き込んだ。
ようは、かえでが持つ手鏡の裏面をぼんやりと眺めていた。
突然。鏡の裏面が光ったような気がして、ようは瞼を閉じた。すると、ぼんやりとではあるが、眉間の裏側辺りに何かが写し出されたのである。あっと思うまもなく、視界がはっきりとしてきた。
それは大木から落下したと思われる女が、右肩を押さえ、呻いてる姿だったのだ。
ようは驚いて瞼を開いたのだが、寸前にはっきりと見えた顔はかえでだったのである。
「太ってないよう」
何も知らないかえでが声をあげる。
かえでと目が合ったようは。夢か現か判らない現象に言葉も出ない。
意味の全く判らない出来事である。
不吉な事でもあるし、かえでに言ったところで馬鹿にされそうなので、胸に秘めたままにしておいたのだが。
何日か過ぎた日の事であった。
修練のため、ふたりが木の上に登って、単刀を振り回している時に事件は起こった。
枝が折れ、かえでが落下したのである。
あの時に見た場所。着ていた小袖の柄。
いずれも、あの瞬間に見た光景と一致していたのである。
吃驚して言葉も出なかったが、直ぐに冷静さを取り戻し、怪我の対処に専念したのは言うまでもない。
幸い。かえでの落ち方が上手だったらしく、大事には至らなかった。
安堵したようは、この不思議な体験が何なのか考える余裕が生まれた。
とはいえ、今の自分に理解出来る筈もなく。偶々という言葉でもって、またもや胸の中にしまい込んだのだった。
時は半月余りも過ぎていた頃である。
同様の事が、別のくノ一仲間の身にも起こってしまったのである。
これは最早、偶然などではない。
後日。ようは敢えて、自分から試みる事にした。自分の手鏡を使って、仲間相手にである。
怖かったが、間違いなどではなかった。
わたしには、未来を知る能力があるのだ。
自分の能力に確信は持てても、それを生業にする事には少なからず葛藤があったのは事実。
例え見ず知らずの他人であったとしても、その人の人生。それも生死に関わる場面を目の当たりにした場合、自分はその光景に耐えられるのだろうか?。そしてそれをどう受け止め、どの様に対処したらいいのか?。そもそも、そんな事に関わっていいものなのだろうか?。
何日も心に問いかけ、ようは悩み続けた。
そんな元気のないようを心配した母が、見かねて声を掛けてくれたのである。
ようは自分の能力に悩んでいる事。それをどうしたらいいのか?と打ち明けた。
母は真剣に受け止めてくれた。
「それはおようが、自分の能力に自信を持っているということよね。きっとあなたにはとんでもない神様が憑いているんじゃないかしら」
ようは、母の瞳を見つめた。
優しい瞳ではあるが、その奥底には遥か遠くを眺めているような寂しを感じた。
更に母は続ける。
「例え高名なお坊さんや陰陽師が道を示してくれても、決めるのは結局のところ自分自身だと思うの。人の生き死にはあなたが関与するわけじゃないし、それが定められた命運なら尚更の事。その能力が何故あなたに与えられたのか、おっ母さんには判らないけど、本当に困った人の為に使いなさい。あなたが思う道を示してあげたらどうかしら」
母は、寂し気に呟いた。
慈愛に満ちた母の言葉である。
ようは、どうしてそんなに寂しそうな顔をするのだろう?と訝しく思ったが、問いかけはしなかった。
占いを生業としよう。心は決まったとはいえ、決して両親や親しい友人知人の為には占わないと誓った。
それは、怖いからである。
もしも、愛する人々の最悪の場面を目の当たりにしたら、自分はきっと耐えられないに違いないのだから。
母のお弓はとても優しい。叱られた経験は皆無ではないだろうか?。異常だと思う。
素直な娘ではなかった筈だ。
酷い悪戯や悪さをしたとしても、母は悲しい顔はすれど、決して怒らない。その悪戯によってどれだけの人が迷惑を受け悲しみに暮れるのかということを、涙ながらに切々と諭し聞かせるのであった。
故に、ようはある日を境に、母にだけは決して悲しい想いをさせないよう心に誓ったのであった。
逆に父弥助は、ようを厳しく育てた。
くノ一として、一人前になって欲しかったのだろう。
「おまえのように見栄えのいい女は、男を誑かす術と忍びの技を身に付ければ最強のくノ一になれる」
下卑た笑みを浮かべながら、言っていたのを思い出す。
誑かすという言葉に反抗心を抱いたようは、戦いに於ける技術だけを身に付ける為に心血を注いだ。よって、そんじょそこらの男どもにも負けない腕を身に付けたという自信はあった。
それが唯一、父に感謝していることである。
そんな父が異常な行動をするようになったのは、ようが大人としての徴があった日を境に始まった気がする。
修練中。手解きを受ける際に、父の手がようの肌に触れる頻度が異常に増えてきたのだ。
親子であっても、修練に於いては仮想の敵同士。お互いの身体に触れることは何ら問題ないのであるが、何故か乳房や股関の秘所にやたらと触れてくるのだ。というか、露骨に撫で擦っている。明らかに好奇を帯びた嫌らしい目付きは、親として娘を指導するという真っ当な感情など一切窺えなかった。やがてようは、父に誘われても応じる事はなくなったのである。
両親の仲は余り良好ではないようだ。
夫婦喧嘩は絶えないのだ。
わたしの所為かもしれない。
男を誑かす術をように伝授しろと言われた母は、それを拒否したと以前に聞かされたことがある。
戦国時代や江戸幕府創成の頃ならば、自分の意思などなく生涯を忍びとして全うする事は当たり前であったのかもしれない。ようでさえ納得せざるをえない状況だったと思う。
しかし時代は変わった。世の中は徳川家のお蔭で平和になっているのだから。
修練は厳しかったが、振り返れば楽しいことが多かった。強くなっていくのが実感出来て嬉しかったのだ。
しかし母は、そんなわたしを見て憂いてた気がする。何が気に入らないのだろうか?。
やはり危険な生業だから?。
女だから?。
普通に生きて幸せになって欲しいから?。
きっと娘の事を心から案じているのだろう。
そんな母であるから、占いの仕事をしたいと打ち明けた時には、一も二もなく賛成してくれた。おまえにとって最高の仕事だよと…。
こうしてようは、母の為にもこの仕事を続けて行こうと決意したのである。
父の考えなど、少しも念頭になかった。
既に適齢期は過ぎている。
誰かを好きになって、嫁に行きたいと思っても父の目の黒いうちは無理だろうし、自分としても今はそのつもりはない。
想い人はいるのか?。
かえでとそんな話しをしたことは何度もあるが、決まって答えは否である。
でもその度に、チクりと心が痛むのは何故だろう?。多分いないよね。
ある男の顔が頭の片隅を過って行くのだが、慌てて首を左右に振って否定するのだった。
「まさかね」
わたしはこのままでいいんだ、ずっと母の側にいよう。
そんな事を考えながらも、占いの仕事に勤しむようであった。
そろそろ、八つの鐘が鳴る刻限であろう。
「もうすぐ丑の刻か」
そういえば。ようは不意に思い出した。
三日前の朝の出来事である。
この場所に来る途中の道で、ある男に呼び止められたのである。
何とも不思議な出来事であった。
「娘さん。すまんが…」
五十代と思われる百姓が顔をひきつらせ、申し訳なさそうに声を掛けてきたのだ。
「何でしょう?」
ようは、遥か手前にいる時から自分を見ている男に気付いていたので、訝しく思いながらも歩いていたのである。
「あんたは巫女さんではないかね?」
「えっ?」
確かにそうだが、その形りをしているわけではない。現場に着いてから着替えるのだから。
「巫女さんではないのかね?」
百姓は真剣であった。
その顔には、巫女であってほしいような、巫女であってほしくないような複雑な表情が現れていた。
「確かにわたしは巫女ですけど。どうして?」
ようが尋ねると。
「嘘じゃなかった」
百姓は驚きの声を上げると、ようの手を取って家の方へ足早に歩き出したのである。
「なっ。何ですか?」
柔にも心得があるようであるから、逆手に取って投げる事など造作もないのだが、敢えて付いて行く事を選んだ。
心がそうしろと言っていたから。
連れられてきた場所は、牛舎であった。
百姓は申し訳なさそうに手を合わせながら、牛舎の中へ入れと訴えているらしかった。
ようは渋っていた。何で牛舎に入るの?。
「およう。遠慮せずに入れ。時がない」
牛舎の中から声がした。
どうしてわたしの名前を知ってるの?。
不審に思いながらも百姓の顔を見ると、百姓自身もよく分かっていないらしく、首を振るだけであった。
ようは意味も分からないまま、恐る恐る牛舎の中へ足を踏み入れた。
二頭の牛がいた。
用心しながら、辺りを見回しても人影は見当たらない。
「わたしを呼んだのは誰?」
これは罠?。そんな考えも浮かぶ。しかし、誰が罠を掛けるというのか。他人から恨みを買った覚えもないが。占いでしくじって、その事の逆恨み?。そんな事を考えながらも、用心の為に、風呂敷の中に手を入れ短刀に触れた。
「物騒な物は必要ない。心配するな、おれは此処だよ」
一頭の牛の足元から声がした。
えっ、と思ってその方向へ目を向けるが、やはり人の姿はない。
いるのは、生まれたばかりの子牛のみであった。
ようが何気なくその子牛を注視すると、子牛は徐に顔を上げた。
ようの顔に怖じ気が走り、全身の毛穴という毛穴が開いていくのが分かった。
子牛は、明らかに人の顔を有していたのである。しかも笑っていた。
ようは言葉も出ない。立っていられるのが不思議なくらいである。
「およう。よく覚えておけ。この先、おまえには幾多の試練が振りかかるだろう。おまえが好むと好まざるとに関わらずだ。それをおまえがどう受け止め、どう行動しようと自由だが、母の想いだけは無にするな。それと、おまえは優し過ぎる余りに、人の痛みを重く受け止めるきらいがある。共感力が高過ぎるんだ。見た物。感じた事が全て正しいとは限らない。惑わされるな。見極めろ。さもないと闇に囚われる事になるぞ。話しは終わりだ。行け」
言うなり、人の顔を持った子牛は瞼を閉じ、藁に伏していった。息を引き取ったのである。
ようは茫然とした。
人の顔を持ち、言葉を話す子牛。そしてそれが言った意味の分からない話。
母の想いを無にするな?。そして闇に囚われるとはいったいどういう意味なのだろう?。
何とも不思議な出来事であった。
人面を有した子牛は件という。数日の寿命しかなく。ある使命を持った人間に、予言めいた事を語り聞かせる妖怪である。
ようは余りの気味悪さに、この事は誰にも話さなかった。
特に母の想いという言葉が気にはなる。
確かに母からは沢山の言葉や愛情を注いで貰ってはいるが、考えても重要な言葉とかは思い当たらないのだ。何か大切な事を忘れているのかもしれないけど。
今日は珍しく、相談者も少なかった。
人も途切れて随分と経っている。
「今日は、お仕舞いにしよう」
頃合いと思ったきょうが、仕舞い支度に入ろうとした時であった。
前に人影が立った。
かえでである。
ようは、目を細めて名を呼ぼうとしたが躊躇った。そういう雰囲気ではなかったのである。
かえでの目が笑っていない。
「およう」
かえでは、少し俯いた。
深刻な表情である。
「どうしたの?、何かあった?」
「お弓さんが、お袋さんが死ぬかもしれない。何者かに毒矢を射かけられたんだ」
「えっ?」
ようは、一瞬目の前が真っ暗になり卒倒しかけたが、机に両手を凭れかける事で、辛うじて身体を支える事が出来た。
かえでも、咄嗟に手を添えてくれる。
「片付けはわたしがするから、早く帰りな」
「う、うん」
八つの鐘が鳴った。悲しい響きに感じた。
低い位置に、霞が立ち込める洞窟のような空間の中。
女と思しき悲鳴が、耐える間なく反響していた。
悲鳴ではあるが、恐怖に怯えたり、極度の痛みに耐えているような悲鳴とは明らかに違うような気がする。
どちらかといえば悩ましげであり、艶やかで蕩けてしまいそうな、それでいてある種の苦痛に苛まれている際の悲鳴に近いかもしれない。
この悲鳴は、いったいどれだけの時間続いているのだろうか?。
時の流れなど有って無いような、異空間を感じさせる洞窟。
孤独と哀愁。そして虚無感が漂う異世界。
悲鳴を上げる女にとって、最早時間という概念も意味も持たない事なのかもしれない。
それほど途方もない時間を、女は費やしているに違いないのだ。
この空間は、岩を穿って造られた洞窟のようである。しかし何処にも出入口や、採光を取り入れる為の孔は存在しないようだ。
それでも、内部は薄っすらとではあるが、見通しが出来るようである。
大きさはというと。幅は直径にして凡そ六間強(約12m)、高さ二丈(約6m)もあり。西瓜を横に半分にした形をしていた。
霞で覆われた下底の中央に、高さ三尺(約90cm)、長さ一間半(3m弱)、幅七尺(2m強)の寝床のような平らな石台が置かれていた。
その石台の上に、黒っぽい艶を放つ瘤のような小山が無数に蠢いていた。
その蠢く瘤の内側から、奇妙な音が聞こえている。
ピチャ。ピチャ。ピチャ。
動物が舌で水を啜るような、微やかで湿っぽい音に似ている。
奇妙な音は一向に止むことはなく。そしてそれを書き消す大音響の女の悲鳴も止まない。
蠢く瘤の正体は餓鬼であった。
五寸(15cm)にも満たない大きさの餓鬼。
女の顔が、辛うじて餓鬼どもの塊から逃れている。
どうやらその餓鬼が、舌でその女の全身を舐め続けているらしい。
仰臥させられた女の四肢は、鉄で出来た鎖で繋がれていた。
鎖の先端は石台の四隅から生え出ているとしか考えられない状態にある。
女の年齢は二十代半ばくらいか。
正し、人であればの話しである。
何故なら、銀色に輝く長い髪の前頭部の左右から、小ぶりな角が二本生えているのである。
生成りであろうか?。
唇の隙間から鋭い犬歯も覗いている。そして零れ出る涎が顎を伝い、止めどなく流れ落ちていくのである。
瞳は虚ろに潤んでいた。
眉根を寄せ、瞼を閉じたままの表情は、恍惚状態に達しているのだろう。
餓鬼に全身を舐められている異常な光景。
おそらく初めは、不気味で身体中に怖気が走ったのかもしれない。しかしそれも時の経過により、非ざる反応へと変わっていくのは致し方ない事なのかもしれない。
怖気を越えた、女としての生体反応。
その頂きが絶え間なく波のように押し寄せて来る。苦痛以外の何ものでもない筈である。
生成りは、この仕打ちを三百年にも亘って行使され続けているのであった。
途方もなく、長い期間である。
眠ることすらも赦されないのだから、精神敵にも、肉体的にも普通の人間では耐える事は不可能であるに違いない。
餓鬼がいる。此処は地獄なのであろうか?。
とすれば、この生成りはいったい何の罪を犯して地獄に落とされたのであろう?。
生成りが仰臥させられた石台を取り囲んでいた霞が、フッと下底に吸い込まれ消えて行く。
辺りには、大人の拳大の大きさの丸石が多数敷き詰められていた。
すると、その丸石の隙間からボッと音をたて凄まじい炎が立ち上がった。
青白い炎である。
勢いは瞬く間に強くなり、石台の高さを凌駕していった。
慌てふためいた餓鬼どもが、一斉に叫喚を上げながら四散し、一匹また一匹と壁の中に溶け込むように消えていった。
炎は石台を取り囲むと、渦を巻いて、生成り目掛けて降下していく。
ひとつの巨大な塊りとなった炎は、容赦なく生成りを焼き尽くしていた。
生成りの名は、天陰観魅羅月明命という。
月読命の娘であった。
闇に紛れて人々に災いをもたらす妖怪どもを成敗するのが本来の使命であり、何事もなくその使命を全うしていたのだが、ある時に青天の霹靂ともいえる事件が身に振りかかってしまったのである。
1400年頃。室町時代の話しである。
妖怪を追って、高天原から地上に降り立った魅羅は、卯月という少年と運命の出会いを果たしてしまうのである。
美しい魅羅の容姿に心を奪われた卯月は、魅羅を己の物にするべく、妖怪との戦いの最中に天の羽衣を隠してしまったのである。
これでは高天原に戻る事が出来ない。そのうえ不覚にも大怪我を負ってしまったのである。
何とか妖怪を倒したものの、身動きの出来ない魅羅にとって、頼るべき相手は卯月しかいなかったのだ。
魅羅には神という立場がある。
そして卯月には、欲望を満たすが為に羽衣を隠してしまったという罪悪感は確かに存在していた。
だが、卯月は変わっていった。
魅羅の世話をしながら日常を過ごすうちに、何時しかそれは愛情へと変化していったのである。
魅羅としても、妖怪退治は当たり前の事であるから、愛するとか恋するとかの感情に心が支配される事など有ろう筈もない。況してや人間など所詮神の複製。下等の物としか思っていなかったし、ふれあいを持つ事があろうなど考えてもみなかった。
そんな中、出会ってしまった神と人間。
あろうことにも神である魅羅は、人の子を身籠ってしまうのであった。
やがて時は流れ。生まれた娘にも物心が付いき始めた矢先。高天原より迎えの使者がやって来たのであった。別れも突然である。
抗がおうにも、卯月の力などたかが知れている。どうする事も出来ない。
しかし卯月には、魅羅に会う為の最終手段が残っていた。まだ幼い娘を信頼の出来る巫女に預け、天の羽衣を駆使して高天原を目指すのであった。
そこから、卯月と魅羅の波乱万丈の物語が幕を開け、この話しに繋がるのである。
数百年にも及ぶ責め苦を受け続けてきた魅羅ではあるが、その最中であってさえ、脳裏には高魔原で氷塊にされ、死を余儀なくされた宇宙鬼童子の苦悶の表情が浮かんで離れなかった。故に、忌まわしい餓鬼どもに纏わりつかれ、全身を舐めまわされても耐えて来られたのかもしれない。
やがて炎が鎮火すると一陣の風が吹き、炭化した魅羅の遺灰は七色に輝きながら跡形もなく飛散し、洞窟内の空気に溶け込んでいった。それはまるで、時の狭間で迷う遺伝子の螺旋のようであった。
洞窟内が静寂に包まれた。
そしてほんの僅かな時をおいて、ピーンと空気が張りつめ、石台が振動し、再び魅羅の姿が現れた。四肢を鎖で拘束されたままである。
閉じた瞼がゆっくりと開いていく。
焦点が定かではない虚ろな瞳が、じっと天井を見詰めていた。
やがて魅羅は、徐に顔を左右交互に傾けてみる。此処が何処なのか、確認する余裕が出来たようである。
脳の活動も徐々に再開していく。
夢であったかとも思うが、どうやらそうではないらしい。
戒めをされた覚えはないが、果てしのない快楽と苦痛は、紛れもなく脳内と身体に記憶として刻まれているのだ。
宇宙鬼童子を失って数日。突然に意識を失った魅羅。目覚めた時には、一糸纏わぬ姿でこの場所に仰臥させられていたのだ。そして餓鬼どもによって屈辱的な仕打ちを受けるのである。
しかし何故なのか?、一切理解出来ない。
いったい何者による、何故の仕業なのか?。
全てが謎である。
また、あの屈辱が始まるのであろうか?。
そんな考えに耽っている時であった。
酷く重い冷気が漂ってくる気配を感じたのである。
魅羅は危機感を覚え、我知らず身を竦めようとしたが、四肢を拘束されているので叶わなかった。
魅羅の全身の毛穴が開き、そこから凍えるほどの刺激物が注入されたような感覚が生じた。
身体が反り返る。
内なる神経から内臓、そして筋肉組織に至るまで、高速の流水によって洗い流されるような感覚が魅羅の身体を蹂躙するのだった。
ほんのつかの間の出来事である。
身体を襲った、謎の衝撃が終わった。
魅羅は生まれ変わったような、新鮮な気分になっていた。
何気なく、左側に目を向ける。
いつの間にか、男が立っていた。
精悍な顔付きをしているが、体つきは細身で威厳らしきものは無く、強そうにも見えない。
大店の次男坊で、粋な遊び人といった風情である。
「だれ?」
魅羅の口が動いた。
久々に真面な言葉を発したので、何やらたどたどしいと、自分でも思うほどだった。
男は、如何にも世間知らずの女が好みそうな笑みを浮かべながら近いてくる。
しかし、足は全く動いてはいない。
男は魅羅の直ぐ傍まで近付くと停止した。
「ご気分は如何ですか?」
笑顔ではあるが、大して興味もなく、また感情のない問いかけだった。
「誰?」
もう一度訪ねた。今度は滑らかに話せた。
「あなたをここに幽閉した者です」
「ここ?。もしかして、ここは地獄なの?」
男は笑みを浮かべるのみだった。
「まさか、閻魔なの?」
「ご名答です」
魅羅は、半眼になって疑いの眼を向けた。
「信じられませんか?」
「わたしが聞いてる閻魔の風貌は、年老いていて、生前に悪行を重ねた者に対して恐れを抱かせる様な悪鬼の形相をしていると…」
「悪鬼とは随分酷い言いようですね。まあそれもわたしのひとつの顔ではあるのですが、今は別人格のわたしとしてここに来ています。謂わば職務上の仮の姿ということで、ご理解いただければいいかと。故に名も閻魔ではなく。閻羅とお呼びください」
「分身ということ?」
「まあそうですね。正確には覚醒分離と言います。わたしの場合、同時に存在しながらも独自の意思を持ち、行動をすることが可能です。あなたは運が良かった。閻魔ならこの程度では済まなかったでしょう。まっ、わたしの話しなどどうでもいいですがね。それにはっきりと言っておきますが、ここは地獄ではありません」
「えっ。地獄じゃない?。わたしは死んだわけではないのね。死んで罪を償っているのかと思った」
「あなたは死んだわけでもなければ、罪を償っているわけでもありません。あなたは閻魔の前で跪き、地獄行きだと宣告された記憶が御座いますか?」
「…」
魅羅は記憶を辿ってみた。
途方もない時が流れている。思い出されるのは断片的な映像ばかり。有らざる仕打ちを受けながら、悲鳴をあげ続けた記憶ばかりが脳裏を過るのだ。
「恐れ多くも、あなたは神であらせられます。閻魔ごときが地獄へ行けなどと宣告出来る立場にもありません。全てはあなたの御父君、月読命の指図で御座いますれば。つまり御父君は体のいい仕置きをわたしに依頼してきたのです。わたしとしてはいい迷惑ですよ」
面倒臭そうな口調ではあるが、大して迷惑には思っていないようだ。目が笑っている。
人の心と身体を苛み、優越感を味わう者が持つ、特有の目をしていた。
「父の…」
「ええ。大切な娘であるあなたが、よりにもよって鬼などと契りを交わしてしまったので、何か良い仕置きはないものかと、わたしに対処を求めてきたのです」
「今更言っても仕方ないけど、宇宙鬼様は初めから鬼だったわけじゃないのよ」
「それは、わたしには預かり知らぬことです」
「そうね。話しを戻すけど、ここはどういった場所になるわけ?」
「ここはあなたのような、やんごとなき方々の為に用意された特別な仕置き場なのです」
魅羅は気付いた。
「もしかして、おまえがこの場に現れたという事は仕置きが完了したという事なのかしら?」
魅羅に笑顔が浮かんだ。
「そう早とちりをしてはいけません。仕置きを始めてから、まだ三百年しか経過しておりませんので、何しろ御父君の指図は五百年なのですから」
「五百年?。そんなに…」
「軽い方です。御父君のお慈悲かと」
「ならば、あなたは何しに来たの?。ただのご機嫌伺いだなんて言ったらぶっ飛ばすから」
「そこです。世の中、上も下も良く出来ているものです。神の御心でしょうか…」
閻羅は含み笑いをしている。
「勿体振らないで、早く言いなさいよ」
「まあそう焦らないで。時は無限にございますから。実は、魔庫に封じ込められていた百八つの妖怪の魂が、何者かの手にによって解き放たれたらしいのです」
「魔庫から?。何者なのその犯人は?」
「どうやら鬼が関係しているらしいのですが、あなたは存じているのではないのですか?」
「何でわたしが?。三百年も此処に幽閉されてるのに。解るわけないでしょう」
「そりゃそうですね。失礼致しました」
「なるほど。それでわたしを解き放ち、妖怪退治をしろという事なのね」
「流石。話しが早い。頭のいい方です」
「世辞などいいから。早くこの枷をはずしなさいよ」
「その前に。わたしとしては解放する事は吝かではないのですが、御父君から正式な赦しは出ておりません。このまま自由を与えると、元の木阿弥に成りかねない。何か良い方法はないものかと…。全く、閻羅使いの荒い御父君です。なのでわたしは考えました。ある条件を引き換えに解放する事に致します」
「条件?」
閻羅は苦笑しながら、右手の平を魅羅に向けて、払うように動かした。
魅羅の四肢に絡み付いていた枷が、音も無く消失していった。
三百年も拘束されていた身体の自由を得た魅羅は、上半身を起こすと、左腕で乳房を隠しながら左膝を折り曲げた。
銀色の長い髪以外、体毛は一本も確認出来ない。
元から無いのか、それとも餓鬼どもの舌によって抜け落ちてしまったのかは判らないが、多分後の方ではないだろうか?。
「気の利かない男ね。羽織る物は無いの?」
多少の怒りを滲ませながらそっぽを向くのは、やはり恥ずかしいのだろう。今まで散々見られている筈なのに。
「羞恥心はお有りのようで。やんごとなきお方とはいえ、お転婆で通るあなたですから、裸体を見られても動じないと思っておりましたが、やはり女子で御座いますな」
閻羅が再び手を振ると、魅羅の膝上に、折り畳まれた白い襦袢と朱色の扱きが出現した。
「ほんとは湯浴みをしたい気分なのだけど、此処にはそんな場所見当たらないものね」
「ご懸念なく。あなたの身体は、仕置き直後の浄火炎により穢れは祓われております」
「そうなの?。でも、何だか身体中が火照るような感じがするのだけど…」
魅羅の頬はほんのりと紅く染まり。伏し目がちに呟く言葉は徐々に聞き取れなくなった。
「肉体組織や血液など劣化した機能は、先ほどの浄洗により再生させましたが、意識や神経的な繋がり部分に於いては、何ら操作はしておりません。もしかしたら、永き仕置きの影響なのかもしれませんね」
微笑む閻羅。何やら意味ありげに感じる。
実は魅羅が考えもつかない、取って置きの細工が仕掛けられているのであった。
「何が可笑しいの?。気になるわね」
納得いかない顔をしながらも、立ち上がった魅羅は閻羅に背を向け、扱きを口に咥えると、形の良い尻を晒しながら襦袢を羽織った。そして扱きを結わえようと俯いた時、あるものが目に付いたのである。
「これは何?」
胸の中央上部に、黒い痣の様なものがあったからである。それは勾玉を型どった刻印にも見える。
邪逆身勾玉と関係ある?。魅羅は思った。
扱きを結び終えると、閻羅に向かって振り返った。
脚を肩幅に拡げると襦袢の裾が割れ、腿が露わになりそうだ。
胸の谷間を際立たせた大きな乳房を支えるように、腕を組んだ姿は艶やかであり、内から溢れ出る自信が垣間見えた。
それは、今の今まで仕置きされていた人物とは思えぬ尊大な態度で、当然のように閻羅を見下ろす形となった。
「この痣のような形。勾玉に似てるわね。あなたが着けたのでしょう。何の積もりかしら」
魅羅は、邪逆身勾玉という神器を所有している事実があった。その事には直ぐに気付いたが、刻印の意味が解らない。
邪逆身の勾玉は本来、あらゆる魔の障りを吸いとると共に、己の神力に変換する事の出来る守護石なのである。
「それはあなたが娑婆で動き回る際に必要な、契約の為の刻印とお考えください」
「契約の刻印ねぇ。何から何まで気に入らないわね。まあいいわ、今まで素敵な仕置きを有り難う。充分に満足させてもらったわ」
未だに潤んだ瞳を輝かせながら、たっぷりと皮肉を込めて言い放つ。
月読命も呆れるはずだ。
閻羅は、苦笑を漏らした。
「その顔は何よ。またわたしの事笑ったわね」
やや吊り上がった切れ長の目で睨み付けながら、閻らを見下ろす。
頬に笑窪が生じているのは、さほど怒ってはいないようにも見える。案外可愛げがあるのではないだろうか。
閻羅は、意外な印象を受けた。
「大きな疑問がひとつあるのだけど」
「何でしょうか?」
「仕置きとはいえ、何故にこのような下劣極まりない仕置きになったのかしら?。是非にも理由を教えて欲しいものだわ」
「御父君の御指図で御座りますれば」
「飽くまで父の指図で通そうというのね。父が娘に対してこのような仕置きを依頼するものかしら?。何か魂胆があったのでしょう。白状なさいな」
閻羅に自然と笑みが零れる。
参りましたという苦笑であった。
「月読命といえども、仕置きの類いなど知る訳もなく、興味もお持ちではありませんでした。ただ依頼されたのは、今までの所業を悔い改めるような苦しみを与えて欲しいという一言で。話しを聞けば、宇宙鬼某という鬼との愛欲にまみれた日々が空虚であり、まやかしであると知らしめてくれればいいという事でした。全てを一任された訳ですから、仕置きの方は…まっ、わたしの趣味嗜好を取り入れ、無礼を承知で実行致しました。やんごとなきお方をいたぶるのは堪りませねな」
閻羅は全く悪びれず、子供のような屈託の無い笑みを浮かべる。
何処までが本気て、その本心は何処にあるのか?。そもそも、本当に閻魔であるのかさえ疑いたくなる、謎に満ちた男である。
「悪趣味な男。この手で舌を引き抜いてやりたい気分だわ。まあいいわ。以上よ、話しは終わり。わたしは娑婆に出してもらえるわけね」
閻羅は予備動作無く、魅羅と同じ高さまで浮上した。
魅羅はその行動に対し、眉間に皺を寄せ、不快感を顕わにした。
「先ほども申しましたように、まだ三百年しか経過しておらず。また御父君もあなたをお許しになってはおりませんので」
魅羅の顔色など一向に気にする様子もなく、笑みを湛えたまま言葉を繋いだ。
「あなたに、足枷をさせていただきます」
「何ですって?」
「足枷をさせていただくと申しましたが…」
「それはどうゆう意味?。足枷なんかされたら、妖怪退治など出来る訳ないじゃないの」
「ご安心を。実際に枷をするわけではありません。比喩で申しました。枷とは、謂わばあなたが逃亡せぬように、行動に制限を掛けさせていただくという意味です」
その言葉を聞いて、顔に怒りを滲ませた魅羅は、閻羅を蹴り付けた。
閻羅は揉んどり打って、数間も飛ばされた挙げ句、壁面に叩き付けられた。
確認した魅羅は、人差し指だけをのばした右手を真上に差し上げた。
「空移」
言葉を唱えると、その手を眼前に振り下ろしたのである。瞬間移動の呪文であった。
しかし、何も起こらない。
顔色をかえた魅羅は、もう一度試みた。
やはり、何も起こらない。
「どうして?」
「あなたの力は、ここでは何ひとつ行使出来ません」
痛みなど全く感じない素振りで、閻羅が魅羅の元に戻って来た。
「ここから逃れる可能性など、万にひとつも無いとご承知ください」
「ちっ」
万策尽きた表情で舌打ちする魅羅であった。
「もし仮にここを抜け出せたにせよ、あなたの器。つまり魄はもう存在しないのですから。降臨を成すこと自体不可能なのです」
「えっ?」
「驚かれるのも無理は御座いませんね。如何に神様と謂えども、三百年もの永きに亘り魂と魄を切り離してしまうと、魄は劣化してしまうものなのですよ」
「という事は、わたしは復活出来ないという事じゃない。どうやって娑婆に出ればいいの?」
「このままではそうです。しかしご安心ください。あなたの魄は御父君の元で厳重に保管されております。それに…。あなたが御降臨する為の依り代をご用意して御座いますので」
「依り代ですって?」
「あなたの魂を娑婆で受け入れる事の出来る依り代。あなたにとっても特別な器です」
「まさか妖怪の類いじゃないでしょうね」
「人間ですよ。特別ですが、正真正銘の人間です。そしてそれが足枷となるのです」
閻羅は含み笑いを浮かべる。愉しそうだ。
「随分と面倒臭い事考えるわね。しかしどうやら逃げ道は無さそう。それでいいわ」
魅羅は渋々と納得した表情を見せた。しかし内心では、ここさえ抜け出てしまえば、どうにでもなる、という望みは捨ててはいなかった。
「ご納得いただけたようですね」
「でっ、わたしはどうしたらいいの?」
「今すぐという訳ではありません。暫くここで鋭気を養っていてください」
「まだ待てというの?」
「今から待つ時間など、ほんの一時ですよ。あれをご覧なさい」
閻羅が指差した空間には、二尺(約60cm)ほどの大きさの丸い穴が空いていた。
漆黒の闇が口を開けているようだ。
「あなたは、映世身の内側を御覧になった事は無いのでしょう?」
映世身。それは魅羅が持つ神器のひとつ。妖怪を封じ、魔庫へと導く道具なのである。
「えっ。映世身?」
「ここは今、映世身と繋がっております。あの闇から光りが溢れた時こそ、あなたの出番なのです。お分かりいただけましたか」
魅羅の瞳が潤んでいた。
実に三百年振りの再開である。
名張の滝口は、赤目四十八滝の近くにある隠れ里である。
ようの住まいは、滝口に入って直ぐの右側三軒目にあった。
身分高き忍びは、城下町の外れに組屋敷居を与えられている。だが下忍である両親らは此処で暮らしているのであった。
僅か十五坪(60平米弱)ほどの家である。
玄関を入ると三和土になっていて、左側に竈門や水瓶かあり、右側は物置場になっていた。
六畳板の間の中央には囲炉裏があり。その奥が両親の寝間、右手がようの寝間であった。
家には誰も居らず。ひっそりとしていた。
ようの住まいから疎らに立ち並ぶ家々を通り過ぎると深い藪がある。それをかき分けながら抜け出ると、広めの平地に出る。
修練場であった。
本格的な修練は四十八滝で行う事になっているので、此処は簡易的な修練場なのである。
疎らに木が林立しているが、その中でも一際大きな木の枝に、ようは腰掛けていた。
母親のお弓が亡くなり、野辺送りを済ました日から三日が過ぎていた。
太陽は西に大きく傾いている。
ようの心には不安が渦巻いていた。
それは母が亡くなり、ようの目の前から消え去ってしまった事ばかりではない。死の間際に母から伝えられた言葉。それが大きな衝撃となっているのであった。
あの日。息急きって戻ったようは、布団に横たわるお弓の脇に膝間付いて声を掛けた。
「お・よ・う」
弱々しい声で名を呼んだお弓は、微かに瞼を開いた。しかし見えてはいないのだろう。
「おっ母さん。死んじゃ嫌だ」
「手を…」
「えっ?」
一瞬。その言葉が何を意味するのか理解出来なかった。だが、自分の手に触れたいのだと気付いたようは、布団の中に右手を差し入れた。
しかしお弓の表情は変わらない。しかも、ようが差し入れた手を握ろうとはせず、手首を押さえ付け、掌に指で忍び文字を書き始めたのである。
残された最後の力であったろのだろう。
指が必死に動く度に、悲しげであった筈のようの表情が次第に強張って行くのであった。
やがて。
「ご・め・ん・ね」
最後にお弓は呟いた。
ほとんど声にはなっていない。
唇がそう動いたように見えただけである。
お弓の目から涙が一筋零れた。
もう息はしていなかった。
「おっ母さん」
ようは木の上で、あの時の事を思い出していたのである。
毒に侵された母が、最後の力を振り絞って、ように伝えた言葉である。
それはふたつであった。
どちらも衝撃の内容であったのだが。特にふたつ目は、今後ように直接振りかかる事なので特に注意しなければならないのであろう。
いったいどうすればいいのだろう?。
また。牛の化け物が言っていた、振りかかる試練とはもしかしたらこの事なのだろうか?。そして母の想いとは如何なる言葉なのか?。
謎は深まるばかりである。
山の頂きに夕日が沈んでゆく。
突然に、声が掛が掛けられた。
「およう。隙だらけだぞ」
ようは吃驚して、振り返った。
消沈したようの心を労る、優しげでいて控えめな笑みを浮かべた市蔵が登ってきた。
全く気付かなかった。相変わらず、忍びの技に長けた市蔵である。
市蔵はひとつ年上の幼馴染みである。物心ついた頃からかえでを含め、三人で遊んでいた。
忍びを学び始めると男女は区別されるので、遊ぶ事は徐々に減ってはいったが、それでも折りをみては親交を深めてきたのである。
幼馴染みではあるが、ようにとって市蔵は特別な存在である気がしているのだ。
ようは、はにかむような笑顔を浮かべた。
嬉しかった。自分の事を案じていてくれたのだろう。
「市蔵。吃驚するじゃない」
市蔵は背が高い。六尺近くあるだろう。父親に似て筋肉質である。鼻が高く、口は大きい。
瞳は心を見透かされるのではないかと感じるくらい眼光が鋭い。しかし一見怖そうに見えるが、心根は穏やかで優しいのだ。
市蔵は枝が折れぬよう慎重に腰掛けた。それでも枝は軋みながら揺れる。
「小さい頃は、三人で座っても余裕だったんだけどな。おようの身体が重くなった所為で、今にも折れそうだったな」
「失礼ね。わたしが太ってるって言いたいの」
ようは肘で市蔵をこづいた。
「うそうそ」
ようには、市蔵の心使いが嬉しかった。
「ありがとね」
「何が?」
恥ずかしいのか市蔵は惚けた。昔から照れ屋のところがあったから。
「大丈夫か?」
「うん」
「無理すんなよ。泣きたきゃ、泣けばいい。お弓さんの代わりは誰にも出来ないけど。慰める事なら、かえでやおれにだって出来る。でもおれじゃ役にたたんだろうけどな」
「そんな事ないよ。そう言ってくれるだけで嬉しいよ。でも、涙も枯れちゃった」
ようは強がってみせた。
「そうか」
「市蔵」
「何だ?」
「おっ母さんの事なんだけど」
「うん」
「本当のおっ母さんじゃなかったよ」
「誰に聞いた?」
「死に際におっ母さんが教えてくれたよ。指文字でね」
「そうか。言わずにはいられなかったんだな。血は繋がらずとも、お弓さんは、ようのおっ母さんだよ。最後の優しささ。愛してたから言わなきゃ駄目だと思ったんだよ、きっと」
「余り驚かないね。もしかして知ってた?」
「ああ。随分前に、親父に聞いてたんだ」
「知ってて、ずっと黙ってたの?」
「そんな事言えるわけないだろう。仲のいい母と娘の関係、微妙にしてどうすんだよ」
「そうだよね。有り難う」
市蔵はようが見詰めついる事に気付き、照れくさそうに夕日を眺めた。
「でっ、どこの誰の子か判ったのか?」
「うん。近江の国にある鏡山という処の御鏡神社の娘だって」
「神社の娘か。それ聞くと、おようが占い始めたのも納得だな」
「何か不思議」
少しだけ笑顔が戻ったようだ。可愛いい笑窪が浮かんでいる。
「でっ、どうするんだ?」
「どうするって、何を?」
「何をって、行ってみないのか?」
ようは暫く俯いて考え込んだ。その顔には、決断出来ない苦悩が顕れていた。
「行ってどうするのさ。拐かされて十年以上も経ってるんだよ。わたしの事なんか、とうの昔に忘れてるよ」
拐かされたという言葉を使った自分に少し驚いて、母に申し訳ないと思ったが、事実であるし、拐かした張本人は父なのだ。
「そうかな。血の繋がらないお弓さんだって、ごめん…」
ようは、首を振った。
「いいよ。ほんとの事なんだから」
「お弓さんだって、おようの事たくさん愛してくれただろう。況してや、血を分けた実の親なら、今でも無事に生きている事を願い、会いたいと思っているに違いないさ」
「正直。今は考えられないよ。おっ母さん亡くしたばかりだもん」
とは思いながらも、あの日に出会った、人の顔を持つ子牛が語った言葉がやはり気になる。
母の想い。
その母とは、もしかしたら実の母の事ではないのだろうか?。とはいえである…。
「そうだよな」
ようは、フッと笑みを漏らした。
「どうした?」
「市蔵変わったなって…」
「ん。何だよ急に」
「子供の頃はさ。よく市蔵に虐められていたじゃない。おかめとかちびとか言われてた。いつも泣いてたもん。その度に市蔵はかえでに叱られてたっけ。もう遊んであげないよって」
「そうだったかな」
「わたしは市蔵に嫌われてるんだと思ってたもん。でもそれ以外は愉しかったよ。あの頃に戻りたいなあ。何も知らない頃に…」
空は夕焼けに染まっていた。
虐めるのは、ようが好きだからだ。
市蔵は思った。偽らざる本心だった。
好きな女には意地悪したくなる。
男は皆、天の邪鬼なのだから。
「夕日って寂しくなるよな。おれは嫌いだ」
そう言った途端。市蔵の身体が、突然揺らぎだした。枝から落下しそうな激しさである。
ようは慌てて市蔵の身体を抱きしめながら、落下を防ぐ為に幹へと押しやった。
辛うじて、幹に凭れ掛からせた市蔵の胸に、ようは抱き付く格好となった。
「市蔵」
「大丈夫だ。直ぐに治まるから」
「ほんと?」
暫くの間。身体を支え続けるようの心臓は、早鐘を打つように忙しくなっていた。
確か昔、これと似たような事があったような気がする。
ようは記憶を辿った。
六七年ほど前の、桜満開の日であった。
ようとかえでは市蔵の提案で、四十八滝まで出掛けたのだ。修練のない日である。
滝を見ながら、母に作ってもらった握り飯を頬張った後、鬼ごっこをしたり、水遊びをしたりして過ごした。水は冷たかったが、三人は存分に春の日を満喫したのだ。
疲れきった足を引き摺るように、家に向かっていた。刻限は八つ半を過ぎていただろう。
先頭は市蔵。その後をよう、かえでの順番で歩いている。
三人は会話をする気力もなく、ただただ無言で歩いていた。
修練を始めてから数年経ってはいたが、遊びとなると歯止めは効かない。
男の市蔵は体力的には、若干の余裕があったのだろう。時折振り返っては声を掛け、気遣う素振りを見せていた。
突然。市蔵が立ち竦んだ。
足元ばかり見て歩いていたようは、危うく市蔵にぶつかりそうになった。
「猪だ。逃げろ」
市蔵が叫ぶ。
この場合。「逃げろ」は正しくなかったかもしれない。案の定。最後尾のかえでは、力無い足取りで、今来た道を懸命に戻り始めた。
市蔵は振り返ってヤバいと思ったが、それよりも、ようが恐怖で立ち竦んだまま動けないでいるのだ。後方からは、猪の荒い息遣いと足音が近づいてくる。
「かえで。脇に避けろ」
市蔵は叫びながら、ようを抱き抱えた。
左はほぼ垂直の切り立つ崖で逃げ場はない。
右は急な斜面ではあるが、柔らかそうな山肌であった。
迷う事なく市蔵は斜面へと身を投げた。勿論。ようを庇ってである。
「うっ」
落下による痛みに耐えながら、坂を五間ほど転がり落ちてゆく。何とか盛土部分の所で止まる事が出来たのであった。
ようの下敷きになった市蔵は、背中の痛みに顔をしかめていた。そうとは知らぬようは、ゆっくりと瞼を開いた。
咄嗟の事で、ふたりの位置関係も理解出来ていなかったが、抱きしめられままの姿勢で左耳に市蔵の心臓の鼓動を感じていた。
何だろう、この気持ちは?。
「市蔵」
身動きしない市蔵を心配したようは、顔を上げて声を掛けた。
「痛え」
「大丈夫?」
身体を離そうとするようであったが、市蔵は硬直したかのように、腕を解こうとはしなかった。
仕方なく、ようは再び顔を預けた。
ようにはまだ、恋愛感情というものは芽生えてはいない。あるのは妙な安心感というか、安らぎのようであった。
しかし市蔵は違っていた。身体はもう一人前の男になっていた。当然。ある感覚が蠢き出していたのであった。何故ならようの太ももが、市蔵の股間を刺激していたからである。
ようの目が見開かれてゆく。小娘と謂えども、それが何であるのか判らない筈がない。「いっ、市蔵」
ようは、身体を引き剥がそうと試みる。
「あっ」
市蔵も慌てて両腕を離した。
立ち上がったようは、市蔵に背を向けた。
市蔵も痛みを忘れ、股間を押さえながら背を向ける。
ふたりの顔は真っ赤であった。
「ねえ。大丈夫?」
上から心配そうな声で、かえでが叫ぶ。
うっかり忘れていたが、どうやらかえでも無事に回避したようである。
安堵したと同時に、ようと市蔵は微妙な笑みを浮かべて、顔を見合わせたのである。
そんな出来事を思い出して、ようは懐かしさと共に恥ずかしさも甦り、堪らずに身体を離した。敢えて市蔵の股間を避けるように意識した自分が可笑しかった。
市蔵は両手で頭を抱えていた。痛みがあるのだろうか?。
「こんな事、度々あるの?」
「ああ。偶にね」
「いつ頃からなの?」
「ひと月くらい前かな。急に頭の中が闇に覆われたようになるんだ。痛みもあるし。でも直ぐに治まるから。もう平気だ」
「何ともなければいいんだけど。心配だよ。医者に診てもらったほうがいいんじゃない」
「そうだな」
市蔵はそう言って黙り込む。少し、顔に険が差したようにも見える。
「およう。弥助さんは帰って来ないのか?」
一瞬。ようは、怯えた様子を見せた?
「うん。そろそろ仕事が終わる頃だとは思うんだけど…」
「仕事だからしょうがないけど、お弓さんが死んだのに、顔も出さないとはな」
「仕方ないよ」
何か躊躇う市蔵だったが、意を決して話し始めた。
「もしかしたら、お弓さんを殺したのは弥助さんじゃないかって、親父が言ってるんだ」
ようは驚きもせす、ただ俯いている。
「驚かないんだな。知ってたのか?」
微かに、頤を揺らすようであった。
「お弓さんに飽きた弥助さんは、お弓さんを亡き者にした後、血の繋がりの無いおようを、自分の物にするに違いないって。昔から女を道具としか思っていない性格だったとね」
「おっ母さんが話してくれた秘密のもうひとつが、父には気を付けろだったの」
市蔵は奥歯を噛み締めた。何かを強く決意したかのように、沈みゆく夕日を睨み付けていた。
夜空は雲に覆われていた。
ようの家の裏側は、少し離れて茂みとなっている。
その茂みの中に何者かが潜んでいた。
木の幹に背を預け、じっと辺りの気配を窺っているようだ。闇を貫くように、ふたつの瞳から放たれる光りは、何かを覚悟した者の強い意志が感じられた。
市蔵である。
忍者刀を背負い、手首には棒手裏剣を収めた忍び籠手が巻かれていた。勿論。鎖帷子を着込み、腰には様々な武器を入れたであろう風呂敷包みが結ばれていた。
完全なる忍び支度である。
ようと分かれてから、軽く食事を取った市蔵は忍び装束に着替え、闇が訪れるのを待ってこの場に忍んだのであった。
弥助が今夜戻って来る保証はない。しかし、ようを守ると決めた以上やりとげなければ。
幾度にも渡って繰り返えされる瞬きは、緊張から来ているのは紛れもない事実であろう。
もしかしたら、弥助を殺してしまうかもしれないし、逆に自分が返り討ちにあうかもしれないのだから。万が一自分の命を失おうとも、ようの身だけは何としてもこの手で守り抜いて見せるのだ。
ようは薄い布団の上に、掻巻一枚にくるまりながら、左側を下にした姿勢で、入口に向かって横たわっていた。
胸には、刃渡り八寸の単刀を確りと抱きしめている。
正直。怖い。
市蔵の言葉が頭を過る。母が教えてくれた事と合わせて、もしも父が有らぬ行為に及んで来たとして、わたしはこの短刀で父をどうしようというのだろうか?。考えるのも辛い。
不安な気持ちが、波のように押し寄せる。
忍びとして百戦錬磨の父である。為す術もなく制御されるのではないだろうか?。
その時は舌を噛んで死のう。父親にこの身を汚されるくらいなら、そのほうがいい。
おっ母さんの元へ行こう。
そう思うと、自然に涙がでそうになる。
また頭の片隅では、そんな事をするわけがないと、信じる気持ちがないわけでもない。
父だって優しい時はあったのだから…。
堂々巡りの問答が繰り返される。
母の死によって、精神的にも肉体的にも疲弊しきっていたようであった。
やがて脳内の疲れも頂点に達し、次第に瞼が閉じてゆくのは致し方ない事であった。
八つが経過していた。
ようは寝息をたてている。
闇の中。板張りを軋ませぬように、足音を忍ばせて近付く影があった。
明らかに、忍びに長けた者の所作である。
影は枕元に立つと、ようの寝顔を見下ろしてほくそ笑んだ。
弥助である。
行動は素早かった。
弥助は、ようが胸に抱いた短刀ごと掻巻を剥ぎ取り、動きだす隙も与えずに馬乗りになっていた。更に、驚き抗おうと伸ばした両腕を捕らえ、自分の両膝で押さえ付けたのである。
ようにはもう抵抗の仕様がなかった。手首の急所を膝で圧迫され、痛みに顔をしかめる顔が弥助の男心を誘う。
弥助は下卑た笑いを浮かべながら、左手でようの首を鷲掴みにした。
「おまえ。おれが何をするのかを知っていたようだな。お弓からでも聞いていたか?。まあ、そんな事はどうでもいいが。武器を抱いて寝るのは基本中の基本。それはいい。だが、おれ相手には無駄だ。何年忍びをやっていると思っているんだ」
「お父っつぁん。おっ母さんを殺したのは、お父っつぁんなの?」
首を掴まれているので、声が掠れている。
「おれがお弓を殺した?。何を言ってる。おれがそんな事するわけがなかろう」
「でも。おっ母さんの死因は吹矢の毒だって。お父っつぁんは毒の専門だもん」
「誰に吹き込まれたのかは知らんが、無理な話しだ。おれはずっと京にいたんだからな」
「だったら、どうしてこんな真似するの?。わたしと血が繋がってないから?。拐かしてきた娘だから?」
「そうか。何もかも知ってるんだな。そうだ、おれは血の繋がった跡取りが欲しい。お弓は石女だったからな。だが本音を言えば、お弓に飽きたのは事実。おまえは若くて美しい。それに確りと肉付いた尻は、丈夫な子を産むだろう」
「そんな事でおっ母さんを…」
「そんな事だと。我々忍びはな、侍と違って家名より血を残す事が大事なんだ。例え下忍であろうともな。おまえには解らんだろうがな」
「そうだとしてもわたしは嫌。血は繋がってなくても、親子だもん」
軽く考えていた訳ではないが、もしかしたらという思いもないわけではなかった。
万全を配して、かえでの家に泊めてもらおうという考えがないわけでもなったが、全ては後の祭りである。
「およう。おれの子を産め」
「嫌っ。やめて、お父っつぁん」
ようは絶体絶命の窮地から逃れようと、暴れだした。
弥助は平手でようの頬を打ち据えた。
意識が飛ぶほどの強烈さはなかったが、動きを止めるには充分の威力だった。
「加減はしたぞ。人形のように黙っていられては、面白みがないからな」
ようの瞳から涙が零れ落ちた。
もう駄目だ、死のう。おっ母さんの元へ。
覚悟を決めたようは、瞼を閉じて舌を噛もうとした。
「おっと」
気付いた弥助は、右手で顎を押さえ口を拡げると、懐から手拭いを取り出して口中に無理矢理に押し込んだ。
ようには為す術もない。
弥助は舌舐りをすると、ようの小袖の襟に手を掛けると一気に押し開げ、巻いた晒をずり下げるのだった。
桃色の乳首を際立たせた、小振りながらも張りのある乳房が露わになった。
恐怖と羞恥心と屈辱感が渾然となって、ようの心を締め付ける。
母を殺され、まだ悲しみからも立ち直れないでいる時なのに。今度はよう自身が凌辱されようとしているのだ。それも育ての親にである。
これが試練だというの?。
こんな屈辱にも耐えて、生きなければならないの?。
弥助は、ようの乳房を鷲掴みにして揉みしだいた。
声も出せないようは、首を左右に振るしか抵抗の仕様がなかった。
弥助が乳房から手を放し、次の行動に移ろうとした瞬間であった。
空気を裂くような音がしたかと思うと、弥助の背中に衝撃が走った。
弥助は苦痛に顔を歪めるが、直ぐに怒りの形相を浮かべながら、立ち上がり振り返った。
窮地を逃れる事が出来たようは、弥助の背中を見て目を見開いた。
左の肩甲骨の上部(首下辺り)に棒手裏剣が深々て突き刺さっていたのだ。
僅かに開けてあった押し上げ窓を乗り越え、室内に入ったらしい市蔵が立っていた。
焦った表情をしている。
藪の中、気を抜いていた訳ではないが、弥助の姿を見逃していたのである。そして言い争う声を聞きつけ、急いで駆けつけたのであった。
「小僧。何をしたか解ってるんだろうな」
市蔵は憎しみと、間に合ったという安堵感が混在した目で弥助を睨みながら、忍者刀を抜き放った。
「おまえのような男に、おようを汚されて堪るか」
「利いた風な事をぬかすな。本音は、おまえもようを狙ってるんだろうが」
「ああ。好きだよ。それがどうした?。おれはおまえのような鬼畜とは違うんだ」
それを聞いたようは吃驚したが、内心嬉しくてたまらなかった。
「ふん。てめえみてえなひよっこが、おれに刃を向けるなんざ、百年早えんだよ」
弥助は、腰の後ろに手挟んだ短刀を抜き放った。刺さった棒手裏剣の痛みは相当であるのだろうが、それを微塵も感じさせないのである。
「およう。心配するな。おれが必ず助けるからな」
頷いたようであったが、内心は心配で堪らない。しかし今は信じるしかないのだ。
市蔵は明らかに竦み上がっていた。
勝てる見込みはあるのだろうか?。
一撃で仕留めようと、心臓を狙って放った棒手裏剣が外れてしまったのである。
緊張と焦りから生じた結果であった。
弥助は何の躊躇もなく、一歩また一歩と近付いて来るのだ。
市蔵はその威圧感に押されそうになっていたが、後ろは壁に阻まれているので後退は出来ない。呼吸を整えて、間合いに入るのを待つしかないと判断した。
「偉いぞ。如何なる時でも冷静でいる事だ。そして忍びはな、どれほど痛かろうが声を出してはならん。それを今経験させてやる。行くぞ、小僧」
「小僧じゃない。おれは伊賀の市蔵だ」
市蔵は床を蹴って飛び込み、振り上げた忍者刀を弥助の頭部に向けて振り降ろした。
相討ちでもいい。力任せの一撃である。
弥助は、市蔵よりもふた回りは小さい。しかし体格では劣るが、経験が違うのだ。
真っ向からその一刀を、右手だけで払って見せた。
市蔵は勢いの余り、弥助と交差してすれ違うが、何とか体勢を立て直して振り返った。
位置が入れ替わったが、弥助は間髪を入れずに斬り掛かった。市蔵が辛うじて受け止める。鍔元である。仮に弥助が手にしていたのが大刀であったなら、市蔵の刃は折れ、斬られていたかもしれない。それほど強烈な一撃であった。
鍔競り合いとなる。
「これがおまえの精一杯か。吉蔵に何を教わった?。吉蔵もたかが知れるな」
「くそっ。親父を馬鹿にするな」
怒りを込めて刀を押しやる市蔵であったが、不敵な笑みを浮かべた弥助は、市蔵の腹を思い切り蹴飛ばした。
市蔵は後ろに転がっていった。
「市蔵」
ようが声を掛ける。
弥助は敢えて追おうとはしなかった。
「およう。おれは死んでもおまえを守る」
立ち上がった市蔵は、斬り掛かっていく。
弥助は太刀を絡めようとはせず、身体を屈めて市蔵とすれ違い、元の位置に戻った。
しかし弥助はただすれ違ったわけではない。
短刀をひと突き入れていたのだった。
市蔵は顔を歪めていた。
右脇腹の忍び服が裂け、僅かばかり血が滲んでいる。もしも鎖帷子を着用していなければ致命傷になっていたかもしれない。
「市蔵」
ようが悲鳴を上げていた。
「かすり傷だ。心配ねえ」
強がりである。実際は震えていた。
「鎖帷子を着込んでいやがったか。命拾いしたな、小僧」
弥助は余裕綽々の態度で近付いていく。
「強がるな、もう仕舞いだ。おまえの相手などいつまでもやってられるか。おれは忙しいんだよ」
市蔵は痛みを堪えながら立ち上がった。
「大口を叩いた割にはこの体たらくだ。あの世に行って修行をし直せ」
弥助は、懐に隠していたくないを左手に握った。
背中の痛みは想像以上である。早く仕留めなけなければ自分が危うくなるのだ。
動いたのは弥助であった。
しかし、直ぐに弥助の動きが止まった。
市蔵が目を剥いている。
何が起こったのか理解出来ない弥助は、心臓の辺りに痛みを感じて目を落とした。
弥助の左胸から、矢が突き出ていたのだ。
弥助は振り返った。
ようが涙を溢しながら弓を構えていたが、やがて身体の力を失ったようにその場に崩れ落ちた。
ほぼ同時に、弥助も口から大量の血を吐いて倒れていったのである。
「およう」
市蔵は、ようの元へ走りよった。
「大丈夫か?」
ようは市蔵に縋りつくと、大声を上げて泣き叫んだ。
「お父っつぁんを殺してしまった」
事の重大さに気付いて、身体が震えだした。
「ようが悪いんじゃない。仕方なかったんだ。こうでもしないとおれが殺られて、ようの身が汚されていたかもしれないんだ」
市蔵は、抱きしめたようの背中を優しく撫で擦った。
暫くの間。ようの嗚咽は止まらない。
やがて、市蔵の顔に焦りの表情か浮かんだ。
親殺しは大罪である。見つかると裁きを受ける事になるからである。
「およう。辛いかもしれないけど、これは身を守る為に起こった不可抗力の事故だ。さあ、立って」
市蔵の支えを受けながら、ようは何とか立ち上がった。身体はまだ震えている。
「市蔵の怪我は?」
「心配すんな。掠り傷だよ。唾付けときゃ、直に治る」
「良かった…。でも、お父っつぁんが帰って来たのよく分かったね」
「隠れて見張ってたからな。でも中に入ったのには気付かなかった。間に合って良かったよ」
「うん。本当に有り難う。でも、これからどうしたらいいの?」
ようは顔を曇らせる。
「何処か、遠くへ逃げよう」
「逃げる?」
「ああ。どんな理由があるにしろ、親殺しは大罪だ。ただでは済まない」
「でも殺したのはわたしだから、市蔵は関係ないじゃない」
「何も言うな。おれがようを独りぼっちに出来る訳がないじゃないか」
市蔵が優しい笑みを浮かべる。
「市蔵」
ように笑みが浮かんだ。そして先ほど市蔵が言った「好きだ」という言葉を確かめようと、瞳を覗き込んだのである。
「さあ、急いで支度するんだ。余り荷物にならないように、最小限に留めろよ」
知ってか知らず知らずか、それとも恥ずかしいのか、市蔵は支度を促した。
仕方なく、ようは行動を起こしたのである。
ふたりだけの逃避行。
不謹慎ではあるが、心楽しい。今ように残された、唯一の生きる希望なのである。
部屋の隅に、ふたつの行李が重ねてあった。
ようは上の行李の蓋を開け、中から下帯やお気に入りの小袖と足袋などを取り出し、拡げた風呂敷に置いた。続けて下の行李からは巫女装束一式や鏡などをかき集めて風呂敷に納め、片掛にして胸元で結わい付けた。それから床板を外すと、壺の中から巾着袋を手にして、懐に納めた。
これでいい。納得して立ち上がると、市蔵が見詰めていた。
「いいか」
「市蔵は?」
市蔵は身体を反転させ、腰に結わえてある風呂敷包みを見せた。
「おれは最初から、運がよければこうなると想定して準備してたんだ。僅かな金子と、あとは忍び道具だけどな」
市蔵は得意気に笑うと、ように向けて右手を差し出した。
「行こう」
ようは市蔵の手に左手を重ねた。確りと握り返された手からは、温もりが感じられた。
ふたりは頷き合うと、明日という明るい未来を求めて、闇の中へと飛び出して行った。
ふたつの影が静かな足音をたてて、夜の闇を駆けていた。
市蔵とようである。
半刻余りも、走ったであろうか?。
通常。忍びが足腰を鍛える場合。山谷を駆け回ったりするので、自然と持久力が身に付く。
普段ならこの程度の時間であれば、それほど息を乱したりはしないのであるが、さすがに足の運びも重くなり、青息吐息に心の臓の動きも乱れていた。
市蔵は傷を負っているし、ように至っては父を殺したという動揺が痕を引いているのだ。
厚い雲に覆われてはいるが、今宵は満月である。ちょっとした曇の切れ間から漏れる月の光りがふたりの行く道を照らしていた。
ふたりの行く先は、近江の国である。
ようが生まれたとされる場所。
御鏡神社が目的の地なのである。
場所の見当は付くが、道はよく判らない。
取り敢えず北へ向かってはいるが、ここからが面倒なのである。何故ならこの先には、甲賀の地があるのだ。
今の世。表立って敵対している関係ではないが、夜道を駆け抜け、要らぬ騒ぎを起こしては面倒な事にも成りかねない。ふたりには後ろ楯など最早存在しないのだから。
ふたりは鈴鹿山麓を越える方法を選んだ。この辺りまでは依然にも来た事があるからだ。
前を走る市蔵の背に、ようの荒い息遣いが聞こえてくる。限界だろうか?。
市蔵は立ち止まって、振り返った。
「疲れたろ。少し、脚を休めよう」
「うん」
ようは、玉のような汗をかいていた。
「さあ、ここに」
ようの背中に優しく手を添えた市蔵は、路傍に転がる石に座らせた。
ようは竹筒の水を喉を鳴らして一気に飲み干すと、目を瞑って息を整える。
市蔵はその行為が、身体の機能を整える為なのか、心を落ちてかせようとしているのかは判らなかったが、どちらにせよゆっくり休ませた方がいいと考えた。
「水を汲んでくる。湧き水か川があるかもしれない」
ようの竹筒を受け取り、土手を下ろうとした市蔵の背に、立ち上がったようが縋り付いた。
「市蔵。わたしの事、独りぼっちにしちゃ嫌だよ。この先ずっと傍にいてくれるよね」
市蔵は振り返って、ようを抱きしめた。
「おれはようが好きだ。ずっと前から。独りぼっちになんかするもんか。例え嫌だと言われても、ずっと傍にいるから」
市蔵はほんの少し身体の隙間を開けた。
ようが躊躇いがちに顔を上げると、見詰める市蔵と目が合った。ようは恥ずかしそうに微笑んで瞼を閉じると、緊張に震えなからも、市蔵はゆっくりと顔を寄せて行った。
ふたりの唇が重なった瞬間。ようは時が止まったような気がした。
このままずっと…。例え本当の両親に会えなくても。この人と一緒にいられるなら。
ようは素直にそう思えた。
厚い雲の上にあった十五夜の月が、僅かに空いた隙間から全体を露にした。
抱き合うふたりに、煌々たる光りが降り注いだのである。
突然。市蔵が頭を抱え、崩れ落ちて行った。
「市蔵」
「痛え。頭が割れそうだ」
ようは、市蔵が痛みにのたうち回る姿を目の当たりにして、恐怖におののいた。
このまま死んでしまったらどうしよう。
漸くお互いの想いが通じ、これから幸せを求めて逃避行をしているのに。
苦痛に耐え続ける市蔵を、ただ見守るしかないようであったが、ふと気付いて我が目を疑ってしまった。
何?。
ようがそう思うのも無理はない。
一瞬。市蔵の顔が、この世の物とは到底思えない悪鬼さながらの形相に変わったような気がしたからである。
怖じ気が全身を駆け抜けた。
瞬きをする程度の、ほんの短い時間である。
今のは…。
やがて何事もなかったかのように、市蔵の顔は穏やかな表情に戻った。
苦痛も止んだようである。
「市蔵」
震える声での呼び掛けに、市蔵は身体を起こして息を吐いた。
「今までにない痛みだった」
顔が何となく険しい。痛みの所為か?。
「無理しないで、休もうよ」
立ち上がろうとする市蔵を手で押さえ付けながら、ようは不安な顔を向ける。
気の所為よ。わたしの心は今、決して正常じゃないんだから。
「大した事ない。もう平気だ。夜が明けて、弥助の死骸が見つかれば、おれたちふたりがいない事が知れ、間違いなく追っ手がかかるんだ。だから、少しでも距離を稼がなきゃならないんだ。解るだろ」
「うん」
その事に関しては理解は出来る。しかし、違和感が脳裏から離れないのだ。
「さあ、行くぞ」
ようは、動こうとはしなかった。いや、動けなかった。
「どうした?。時間がないんだぞ」
強い口調が、更に拍車をかける。
市蔵に一切の優しさが感じられないのだ。
それでも、このままではいられない現実もあるのだ。
「う、うん」
ようは、決意して先に走り出した。
直ぐに市蔵が追い抜いていく。
追い抜く寸前に見た市蔵の顔は無表情であった。
まだ痛みがあるから顔が強張っているのだ。
ようはそう思う事にした。
きっとあの時に見た形相は、わたしが父を殺した罪悪感と汚されずにすんだ安堵感が渾然一体となった心の不均衡がもたらした錯覚かもしれないのだ。
途切れそうな雲の端から、光りの粒が散乱している。間もなく、真昼のような明るさが大地を照らすのだろう。
杣道を走り続けるふたり。
不意に市蔵が立ち止まった。
連れて、ようも立ち止まる。
月が漸く雲を脱し、完全なる十五夜の姿を現していた。
市蔵は月を仰ぎ見ながら両腕を拡げ、身体全体に月光を浴びるような格好をしていた。
「市蔵?」
ようが呼び掛けても、市蔵は返事もしない。
「市…」
もう一度声を掛けようと、口を開いたようであったのだが思わず止めてしまった。
市蔵は何かに取り憑かれたように全身を震わせ、天を仰いだままで咆哮を上げたのである。
驚きの余り、ようは硬直してしまった。
いったい何をしているの?。
市蔵は俯いて、まま振り返った。
ようはその姿を見て、何かがおかしいと感じた。
市蔵じゃない。
何がどうという分けではないのだが、直感でそう感じたのである。
それは間違ってはいなかった。
市蔵の顔の皮膚が、何やら波打ってるように見えるのだ。そればかりではない。額の生え際辺りが、もそもそと蠢いているのだ。
さっきのように、顔が変わる?。
一瞬。そう見えただけだったから、気の所為だと思ってたけど。そう思わざるを得ないくらいの異変なのだ。
市蔵が顔を上げた刹那、頭から一本の角が生え出た。顔形も鬼と化している。
ようを見て、笑っていた。
恐怖に怯え後退りするようは、変わり果てた市蔵の姿に悲鳴を上げた。
「やっと出られた。やっぱり、娑婆の空気は旨いなあ」
姿こそ鬼ではあるが、どこか剽軽で惚けた感じの口調である。
鬼は笑いながら、ように近付いてくる。
ようは首を左右に振りながら、尚も後退りした。
「どうした。何故逃げるんだ?」
「あなたは市蔵なの?。どうしてそんな顔になっちゃったの?」
やっとのことで、ようは疑問を口にした。
「おれは市蔵だよ」
「…」
信用出来ないようは、じっと目を見詰める。
「ケケ。仕方ねえな、教えてやるよ。おれは天の邪鬼っていうんだ。そう怖がらなくてもいいよ。大した鬼じゃないから」
「天の邪鬼?。意味が判らない。市蔵は何処なのよ?」
「おまえの愛する男は、この中にいるから心配すんなって」
天の邪鬼は笑いながら、自分の頭をトントンと指でつついた。
「こいつ意地悪でよ。なかなかおれ様を出してくれねえんだ。よっぽどおまえに未練があったんだな。すげえ別嬪だもんな、おまえ」
「何いってるの。早く市蔵を返して」
恐怖心はあるのだが、ようも必死である。
「おれは形りは天の邪鬼だけど、間違いなく市蔵だぜ。だから、市蔵と交わした約束は、おれが交わした約束でもあるんだ。だからなっ」
満面の笑みを浮かべながら、天の邪鬼は手を差し出す。
「さあ、手を取れ。早く逃げようぜ」
「それ以上近付くな」
「聞き分けのない。おれ様を怒らせるなよ」
「市蔵はそんな言い方はしない」
ようは、腰に手挟んだ短刀の柄に右手を添えた。しかし抜く事は出来なかった。
命の遣り取りが、時を置かずにして、立て続けに起こるなど予想もしていない。未だ動揺は収まってはいない上に、目の前にいる者が市蔵だとしたら、刃は向けられないのだ。
「抜いてどうするつもりなんだ。お調子者だと思って、余り舐めないほうがいいぜ」
言うなり。天の邪鬼は奇声を発しながら、襲いかかってきた。
ようは咄嗟に身を翻して、藪の中に飛び込んだのであった。
天の邪鬼は、ニヤリと不敵な笑みを浮かべ、ゆっくりと後を追いかけた。愉しそうに。
ようは必死の形相で走る。
枝に身体中を引っ掻かれ、傷を負う事さえも厭わない。ただ一心不乱に、天の邪鬼から少しでも遠くに逃げなければ。それだけである。
どうして、こんな事になってしまったの?。
考えても、答えなど出るはずもない。
「およう。何で逃げるんだよ。独りぼっちにしないでって言ったじゃないか。あの言葉は嘘だったのか?。おれを置いていかないでくれよ。おまえの事大好きなんだから。喰っちまいたいくらいにな。ケケケ」
どの方向から発せられた声なのか判らない。
四方八方から拡散されたような天の邪鬼の声が響き渡る。
ようにはその声が、身が凍り付くほどに不気味で、恐ろしく感じていた。
前に注意しながらも、周囲の確認を怠りなく走るようであった。
何時しか、開けた丘に出ていた。
丘といっても、足場がいいわけではない。
ようは息が切れ、喉の渇きを覚えていた。
水を飲んで、それほど経過してはいない気はするが、極度の緊張感がそうさせるのだろう。
大分引き離した気はする。
確認のため、後ろを振り向いたのがいけなかった。疲労と緊張で思うように脚が上がらず、何かに躓いて転んでしまったのである。
「あっ」
両手を付いたので、顔の痛みは差程でもなかったのだが、左膝を何か固い物にぶつけたらしく、強い痛みを覚えた。
それでも危険が迫っているので、痛みに顔をしかめながらも立ち上がろうとしたのだが、嫌な予感がした。
前から、悪しき視線を感じたのである。
ようは、恐々としながらも視線を向けた。
笑った天の邪鬼が、目の前に立ち尽くしていたのである。
「慌てて走るから転ぶんだよ。ケケケ」
天の邪鬼は、右手を差し出した。
「ほら。手を貸してやるから立てよ。おれたちはこれからずっと一緒なんだから。ただし、おまえはおれの腹ん中だけどな」
ようは、立ち上がりながら叫んだ。
その叫びは、恐怖からくる叫びなのか、それとも己を鼓舞する叫びなのか、よう自身にさえ判らなかった。それでも無意識のうちに、逆手で愛刀を抜き放ち逆袈裟に斬り上げていた。
咄嗟に仰け反り、刃をかわしたつもりの天の邪鬼であったのだが、右手を引くのが遅れた為に指の先端が数本、地面に零れ落ちていった。
「痛えよう。何て事しやがる。愛しい男に向かって、酷え仕打じゃねえか」
聞く耳などあろう筈もない。
ようは左側の藪目掛けて走り出した。。
木々を縫い。枝を払い。一心不乱に駆け抜ける。
「何処行くんだよう」
行く手の先から、天の邪鬼の声が聞こえる。
ようは立ち止まり、右側へと方向を変えた。
しかしその先で、また声が聞こえるのだ。
そんな事が二度三度と繰り返えされ、ようは体力が削られていく恐怖に慄いていた。
「何処へ逃げようとも無駄な努力だぞ。おまえの身体から放たれる甘美な匂い。その香しい匂いがある限り、どんなに遠くへ逃げようとも、おれはおまえを探しだせるんだからな。ケケ」
ようは大木の陰に身を屈めた。
荒い息を吐きながら、辺りを伺う。
大量の汗を吸い込んだ小袖が重く感じるし、気持ちが悪い。
「匂うぞ。匂う。いっぱい汗をかいてるな。肌に絡み付いたその汗を舐めまわし、肉を喰らい尽くしてやる。何処からがいい?。乳房か、それとも…、ケケケ」
ようは混乱していた。何故、こんな風に声が聞こえるのだろう。奴はひとりの筈なのに。
走り出した時点では、後方から聞こえるのだが、直ぐに四方八方から聞こえるようになる。本当にいる場所がまるで判らなくなるのはどうしてなのだろう。
これは幻聴か、それともまやかしか?。
このままでは直ぐに捕まって、本当に喰われてしまうのではないか?。
ようの恐怖は、一層増すばかりであった。
「喰われてなんかやるもんか。生きなきゃ。心を強く持つのよ。本当の両親に会うんだ。そして、わたしが何の為に生まれて来たのかを確かめなくちゃ」
市蔵がこのような事になってしまった今、頼れる者はいない。故に生きる支えとなるのは、両親に会う事なのである。
どこまでやれるかは解らないが、戦うしかないのだ。ようは決心したが、方法が判らない。
兎に角、時間を稼ごう。
「静かだな。観念したのかな?」
声はするが、やはり場所が特定出来ない。
「わたしが見えてる?」
ようは叫んだ。
「勿論だ」
「嘘よ」
「嘘なもんか。ん?。ははあ。時間稼ぎだな。無駄な事はするな。今行くぞ」
ようは顔をしかめた。
無謀かもしれないが、ようは走り出した。
結局。何も考えはつかなかった。
膝の痛みは軽減し、息も整っていた。
取り敢えず逃げよう。きっと良い考えが思い浮かぶに違いない。運を天に任せよう。
油断なく全方向に気をくばりながら、木立の間を全力疾走で駆け抜ける。
ヒューと音立てて、背を風が抜け行く感覚がしたと思う間もなく、ようの身体は中に浮き、あっという間に地を転がっていた。
「あっ」
目の前に、天の邪鬼が立っている。しかも、手には風呂敷を掲げていたのだ。
「これ、な~んだ」
ようは肩を探ってみた。結わえてあった筈の風呂敷がなかった。
「返して。お願い」
「こんなもの。もう必要ないだろ」
天の邪鬼は、風呂敷を遠くに放り投げた。
ようは唇を噛みしめ、天の邪鬼を睨み付けるしかなかった。
大切な物が入っているのに。
悔しさが、怒りに変わった。
ようは、愛刀に手を添えた。
「もう無駄な事はするなよ。勝ち目なんてひとっ欠片もないんだぜ。指を斬られた事なんか、全然気にしてないからさ。ほら。もう血は止まったし。多分、また生えてくるだろうからな」
天の邪鬼は大して気にする様子もなく、右手の指先を見詰めた。
「だから。刀なんか抜かないで、楽しい鬼ごっこの続きをしようぜ」
「もう、うんざり。わたしが本気を出さないうちに、早く市蔵の身体から出ていきなさい」
「おおっ。大きく出たな。嫌いじゃないぜ、その性格。でもな、誰もが最後には泣き叫んで許しを乞う。おれはそれを見るのが、堪らなく好きなんだ。おようはどんな顔を見せてくれるんだ?。ああ、興奮するなあ。泣き叫ぶおようの顔。きっと可愛いんだろうなあ」
蔑んだ目を向け、ようは抜刀した。
「飽くまでやるというんだな。おれは全然構わないぜ。だったら、どっちが素早いか競争しようぜ。おれは無手でおようを捕まえてみせるから、おようはおれを八つ裂きにする覚悟で来ればいい。さあ、勝負だ。来い」
ふたりは睨み合い、仕掛ける瞬間を計っていた。だが、余裕のある天の邪鬼の目は笑っていた。
先にようが動いた。
天の邪鬼は、敢えて動かずに迎え撃つ姿勢をとる。
ようは逆手に握った愛刀を前に差し出し、左手は拳を握って、だらりと下げたまま突進したが、切っ先が届く寸前に握っていた左手を、天の邪鬼の顔目掛けて拡げた。
黒い玉が眉間に直撃し、破裂し飛び出した赤い粉が振りかかった。
天の邪鬼はその粉を浴びながらも、確りとようを受け止めていた。左手はようの刀を握った右手首を掴んでいる。
「捕まえた」
笑いながら、天の邪鬼はゆっくりと瞼を開いた。
ようは、愕然とした。
目潰しが完全に命中した筈なのに。
「ケケ。残念でした。決まったと思っただろ。急に頭の中で閃いたんだ。市蔵が気付いたんだろうな。恨むなよ悪気はないんだから。単なる習性だろ」
ようは抱きすくめられた呪縛から逃れようと踠くが、腕の力は岩に挟まれたように力強かった。
天の邪鬼は、顔をように寄せていく。
臭い息に顔をしかめた。気が遠くなりそうなように対し、長い舌を使って頬を下から上へと舐め上げたのである。
身を震わせて、ようは悲鳴を上げた。
「可愛いいなあ。見ろ、およう。おまえの大好きな市蔵の逸物が、ほら」
天の邪鬼は膨れ上がった股間をように見せるために、抱き締めた力を緩め身体の隙間を空けた。
「嫌っ」
怖じ気が走った。だがその瞬間を見逃さず、咄嗟にその膨れ上がった股間に強い膝蹴りを入れていた。
「うへっ」
股間を手で押さえ、悶絶する天の邪鬼の姿を
尻目に、ようは逃げようとした。だが、大切な風呂敷の行方を確認したばかりに、好機を逸してしまった。
あそこだと気付き、足を踏み出した時は遅かった。後足首を掴まれ、前のめりに倒れていたのである。顔面が草の生えた大地に、めり込むようにうち当たっていた。
強くぶつけた鼻から、血が吹き出ていた。
「痛えなあ。これから使わなきゃならねえ大事なもんなのに。優しさがねえな」
ようは、そんな言葉すら耳に入らない。
懸命に逃れようと這いずるその姿は、哀れで痛々しい。
天の邪鬼はようの右手を踏みつけ、刀を奪い取ると、またも遠くへと放り投げた。序でに、頬を平手打ちにした。
「危ない物は無くなったし、後はゆっくり楽しむだけだ。月明かりの下がいいな」
天の邪鬼は、ようの足首を掴んだまま歩きだした。
仰向けで引き摺られるようはなす術もなく、ただ木陰から漏れる月を見上げていた。
裾は捲れ、白い脚ばかりか褌さえも露になっている。身体中のそこここが擦り傷だらけであった。
藪を抜けて、平地に出た。
十五夜の光りを遮る物はない。
「ここでいいか。月明かりが気持ちいいなあ」
ようの足首を放した天の邪鬼は、正面に立って見下ろした。
「観念したのかな。ケケケ」
愉快気に褌をずらすと、逸物を露にした。
ようの目は虚ろで、何ひとつ反応しない。
天の邪鬼は屈んで、ようの両脚を掴むと大きく拡げ、その間に跪いた。
ようは、天の邪鬼が何かに夢中になり、意識を反らす時を待っていた
上半身を起こし、黒い玉を顔面目掛けて叩き付けたのである。
二度目である攻撃は、見事に的中した。
まさに欲望に支配された天の邪鬼は、ようの心を読む事を怠ってしまったのであった。
勝ち誇ったまま引き摺り歩く際に、目を離したのをようは見逃しておらず、密かに袂に入れていた目潰しを手に隠していたのである。
「くそ」
仰向けになり、目を押さえながら苦しむ天の邪鬼の股間を、ようは思い切り踏みつけた。
悲鳴が上げる。
更にようは、股間に手を添えた天の邪鬼の鼻柱を蹴り付けた。
鼻血を撒き散らしながら、ひっくり返ったのを見て、よう自体も顔をしかめた。
思いの外、顔骨が固かったらしい。
ようは痛みに耐えながらも、市蔵の忍者刀を抜き放った。心臓を貫こうと考えたのであるが市蔵の顔が浮かんで出来なかった。
唇を噛みしめたようは忍者刀を投げ捨て、鞘を掴んで天の邪鬼の顔を何度も何度も打ち据えていた。
涙が溢れ落ちる。
「ごめんね。市蔵」
初めのうちは痛みに声をあげていた天の邪鬼であったが、顔が変形するくらいになると意識を失ってしまったようである。
動転して気付かなかったようであったが、反応しなくなった天の邪鬼に気付いて、漸く手を止めた。
天の邪鬼は白目を剥いていた。
ようは、肩を大きく上下させていた。
荒い息を吐きながらも、恐る恐る天の邪鬼の顔を覗き見た。大きく膨れ上がった瘤から痛々しさを感じた。死んでしまったのかとも思ったのだが、微かに胸部が動いている。呼吸をしているのは間違いない。
ようは慌てて走り出した。
今のうちに、少しでも遠くへ逃げよう。
それしか頭になかった。
このまま天の邪鬼を生かしておいてもいいのかという懸念はある。だが、市蔵はどうなってしまうのだろう?。それが怖い。
もしかしたら、この衝撃で奴が死に、市蔵の姿に戻るかもしれないではないのだろうか?。
走りながら、そんな淡い期待さえ膨らむ。
風呂敷の事も短刀を失った事さえも、一切念頭にはなかった。
これから行く先には、いったいどのような運命が待ち構えているのであろうか?、
月はただ、ようの行く道を怪しく照らし続けていた。
続く。




