舞踏会のためのステップ、あるいは「個」の境界線
学園の地下深く、隠された練習室には、重苦しくも甘い空気が満ちていた。
石造りの壁に反響する軽やかなステップの音。しかし、それは優雅な舞踏の調べとは言い難い。時折、床を強く踏みしめるレオナの足音が、静寂を切り裂くように響く。
「お嬢様、違います。そこは魔力で強引に身体を運ぶ場所ではありません」
冷徹な声が降ってくる。ジークは完璧に整えられた礼服を纏い、背筋を伸ばしてレオナの前に立っていた。その紫の瞳には、一切の妥協も許さぬ執事としての規律と、それを遥かに上回る深い情念が混ざり合っている。
「……計算では、この角度と力加減で最短距離を移動できるはずよ」
「ダンスは計算ではありません、レオナお嬢様。……いえ、レオナ。貴女が守ろうとするのは学園のルールですか? それとも、相手との調和ですか?」
ジークがレオナの背に手を添える。その瞬間、レオナの全身に電流のようなものが走った。戦場では魔獣の猛攻を受けても平然としていられた彼女が、ジークの掌の熱にだけは、どうしても平常心を保てない。
かつて辺境の村で泥だらけになって笑い合っていた幼馴染。自分の「全貫通」という異端の力も、前世の記憶という狂気も、すべてを受け止めてきた男。今の彼は、執事の仮面を被っているが、その奥にある眼差しは、獲物を狙う獣のように熱く、そしてどこか悲しげだった。
「……私の手を。もっと柔らかく」
ジークは彼女の手を執り、自らの胸元へと導く。
レオナは息を呑んだ。ジークの心音が、すぐ近くで鼓動している。規則正しく、しかしその奥には激しい情熱を隠し持つ、生身の男の鼓動だ。
練習室の端で、エリオットが呆れたようにため息をついた。
「おいおい、ダンスの特訓じゃなかったのかよ。なんか、見てるこっちが恥ずかしくなるような空気だな」
「オスカー、お前もそう思うだろ? この二人、主従関係にしては距離が近すぎないか?」
エリオットの指摘に、オスカーは苦笑しながら模擬剣をいじっていた。
「いいんじゃないか。レオナがこうして、誰かに身を委ねることを学んでいるんだ。……戦いだけが彼女の世界じゃない。それだけでも、この舞踏会には意味がある」
しかし、レオナにはオスカーたちの会話など耳に入っていなかった。彼女の意識は、ジークに完全に支配されていた。
ジークの手が、レオナの腰を抱き寄せる。距離はゼロに等しい。彼の身体から漂う、わずかなハーブの香りが、彼女の思考を鈍らせる。
「……ジーク。貴方、どうしてそんなに慣れているの?」
「……お嬢様の護衛として、あらゆる社交場での振る舞いを学んでおけと、大奥様に言われておりましたので」
ジークは視線を逸らした。だが、レオナは見逃さなかった。彼の耳が、微かに赤く染まっているのを。
レオナは胸の奥で小さな高鳴りを感じた。復讐と、システムの破壊と、強くなること。それしか頭になかった彼女の辞書に、「ときめき」という項目が、今この瞬間、勝手に書き加えられていく。
(……この感情は何? バグ? それとも、ただの魔力酔い?)
彼女が自問自答していると、ジークが不意に力を込めた。
「レオナ。舞踏会では、多くの貴族が貴女を値踏みします。あの連中は、貴女の強さも、貴女の意志も理解しない。ただ、貴女を『檻』に入れたがっている」
ジークの言葉には、強い怒りが滲んでいた。
「私は、貴女がその檻を壊すことを望んでいる。ですが、そのために貴女が傷つくことは――耐え難い」
ジークがレオナの耳元で囁く。
「お嬢様。今夜は私のリードにだけ、身を任せてください。……たとえ、この学園のすべてが敵に回っても、貴女を守るために私はここにいます」
その言葉は、誓いだった。
レオナはその時、悟った。この男にとって、自分はロゼリア家の令嬢でも、復讐に燃える魔導士でもない。ただのレオナという一人の女として、彼の中に存在しているのだと。
その瞬間だった。
レオナの視界の端で、不自然な赤い光が明滅した。
それは、空間そのものを構成する魔法式がエラーを起こしたかのような、禍々しい輝き。
『警告:特異点レオナ・フォン・ロゼリア、過剰な感情値(ときめき・愛着)を検出。対象『ジーク』との同期率上昇を確認。排除プロトコルの優先度を最大に引き上げます』
無機質な機械音声が、脳内に直接響き渡る。
レオナは目を見開いた。彼女の魔力操作技術を以てしても、この「システム」の警告を消すことはできない。世界の意志が、彼女という存在を「バグ」として処理しようとしている。
「……ッ!」
レオナが足を踏み外し、バランスを崩す。ジークが即座に彼女を支えた。
「お嬢様!? どうされましたか!」
ジークの顔色が青ざめる。彼はレオナの異変に、誰よりも早く気づく。
「いえ……なんでもないわ。少し、魔力が揺れただけ」
レオナは強がって笑った。だが、彼女の心臓は激しく波打っていた。システムは、彼女が「戦士」として孤高であるうちは放置していた。しかし、彼女が「人間として愛すること」を覚えようとしたとき、それを許さないのだ。
「……ジーク。もし、明日。もし私が、みんなと違う行動をとっても、驚かないで」
ジークは黙ってレオナを見つめた。その瞳には、すべてを察したかのような深淵があった。彼は何も問わず、ただ力強く、レオナの肩を抱き寄せた。
「お嬢様。私がついています。たとえ神の意思が貴女を否定しようとも、私は貴女の味方です。それが、私の生涯の誓いですから」
その言葉を聞いた瞬間、レオナの胸の奥で、炎のような決意が燃え上がった。
復讐でも、生存でもない。この男の隣で生きるため、私はこの世界そのものを書き換える。
二人の影が、練習室の壁に重なる。
ダンスのステップは、最初こそぎこちなかったが、やがて呼吸が合い、一つの完璧な旋律を刻み始めた。エリオットとオスカーが「ようやくまともになったな」と笑う。その穏やかな日常の裏で、世界を支配する赤い警告灯が、刻一刻とレオナの幸福を削り取ろうとカウントダウンを刻んでいる。
レオナは深く息を吐き出し、ジークの手を握り締めた。
(……明日は、私のための舞踏会。誰にも、この時間を壊させない)
練習室の冷たい空気が、まるで二人の抱く熱情を閉じ込めるかのように、静かに凪いでいた。




