第2話 乾いた町と無口な測量士
雨は昼前にやんだ。
雲の切れ間から差し込んだ光は、濡れた町を照らすには弱く、ヴァレルの屋根や石壁に薄い銀色を置いただけだった。雨水は道の端を流れ、乾ききった土へ吸い込まれていく。地面は喉を鳴らすように水を飲んだ。
リゼットとエドガルは、町の南にある丘へ向かっていた。
エドガルはほとんど口を開かなかった。歩きながら時折立ち止まり、測量器具を組み立て、地面に杭を打つ。彼の動きには無駄がない。風向き、斜面の角度、石の沈み方まで見ているようだった。
「ずいぶん静かな方ですね」
リゼットが言うと、彼は杭を打つ手を止めずに答えた。
「必要なことは話しています」
「では、今は必要なことがないと?」
「あります」
エドガルは丘の斜面を見上げた。
「ここは地図より低い」
「……それだけですか?」
「重要なことです」
彼は懐から折り畳んだ紙を出した。王立土木局の古い測量図だった。そこには、現在の地図には描かれていない細い線が、丘の中腹から南東へ延びている。
「旧水路は、地滑りで埋まったのではありません。流路に沿って土が盛られている」
「人の手で?」
「おそらく」
リゼットは地面に片膝をついた。朝の雨はまだ石の窪みに残っている。指先を水たまりへ近づけると、細い銀色の音の糸が立ち上がった。
雨が落ちた音。泥を踏む音。鳥の羽ばたき。遠くで鳴る鐘。
その中に、古い金色の糸が混じっている。
リゼットは糸をつまんだ。
冷たい水の音が、耳の奥で膨らんだ。
ごう、ごう、と地下を流れる水。石壁に反響する足音。何人もの男が、重い道具を運んでいる。誰かが息を切らし、低い声で怒鳴った。
「急げ。役所の連中が来る前に、分岐を塞げ」
別の男が答える。
「しかし、下の畑へ水が回らなくなれば――」
「水が欲しければ、オルデン商会から買えばいい」
音の糸はそこで大きく震えた。
続いて、鉄の板が引きずられる音。錠が落ちる音。最後に、幼い子どもの泣き声が聞こえた。
リゼットは糸を離した。
「分岐があります」
エドガルはすぐに測量図へ目を落とした。
「どの方向です」
「丘の下から南東へ。ただ、途中で塞がれています。鉄の扉か、板のようなものがある」
「水は?」
「流れています。細いけれど、まだ」
エドガルは立ち上がり、丘の斜面を歩き始めた。リゼットも続く。乾いた草の間には、雨が降ったばかりなのに湿り気のない場所がいくつもあった。地下へ吸い込まれた水が、どこかで道を変えているのだ。
やがて、斜面の途中でエドガルが足を止めた。
「ここです」
彼の靴先には、半ば土に埋もれた石があった。石の表面に、古い水路の印が刻まれている。三本の波線。その中央だけが、鋭いもので削り取られていた。
リゼットは石へ手を伸ばした。
しかし触れる前に、斜面の上から声がした。
「そこに何をしている」
振り返ると、革の外套を着た男が二人立っていた。腰には短剣があり、胸元にはオルデン商会の徽章が留められている。
「この丘は商会の管理地です。許可なく入ることは禁じられている」
「町の地図には公道と記されています」
エドガルが測量図を掲げた。
「王立土木局の調査です。邪魔をしないでください」
男たちは顔を見合わせた。
「調査なら、商会の案内を受ければいい。勝手に掘り返すのは困るな」
「掘ってはいません」
「その石に触れようとしていたでしょう」
リゼットは男たちの背後を見た。斜面の上には、真新しい土が帯状に広がっている。その下から、かすかな水音の糸が伸びていた。
誰かが昨夜、さらに土を足したのだ。
「ここに何があるのですか」
問いかけると、男の一人がにやりと笑った。
「令嬢は屋敷で刺繍でもしていればいい。町の水のことは、商会が面倒を見る」
「面倒を見ているのに、井戸は枯れているのですね」
男の笑みが消えた。
エドガルが一歩前へ出る。背は高いが、威圧するような動きではなかった。ただ、リゼットの前に立つことで、彼女を守る位置を取っている。
「調査を妨害した記録を残します」
「何だと?」
「日時、場所、人数。徽章も確認しました」
エドガルは淡々と記録帳を開いた。
「王立土木局へ報告します」
男たちは舌打ちした。だが、王都の名を恐れたのか、それ以上近づこうとはしなかった。
「好きにしろ。水路など、見つかるものか」
吐き捨てるように言い残し、二人は斜面を下りていった。
姿が見えなくなるまで待ってから、リゼットは息を吐いた。
「あなた、怖くないのですか」
「怖いです」
意外な答えだった。
「顔に出ませんね」
「出す必要がありません」
エドガルは石の前にしゃがみ、周囲の土を慎重に払った。石の下から、細い空洞が現れる。そこへリゼットが耳を澄ませると、地中から水の音が返ってきた。
今度は、声ではなかった。
かつてこの水路を使った人々の笑い声。水桶を置く音。子どもたちが浅瀬で遊ぶ足音。失われた町の、穏やかな暮らしの音だった。
その奥に、ひとつだけ新しい音が重なっている。
金属をこする音。
「扉があります」
「位置は?」
「この石から、斜めに三十歩ほど下。土の中です」
エドガルは地面へ杭を打った。
「今日は掘りません」
「なぜ?」
「道具が足りない。それに、相手はこちらを見張っている」
リゼットは丘の上を振り返った。さきほど男たちが立っていた場所には、もう誰もいない。けれど、乾いた草が風とは逆に揺れている。
誰かがまだ見ている。
「町へ戻りましょう。協力者が必要です」
「誰を?」
「水を失った人たちを」
リゼットは、丘の下に広がるヴァレルを見渡した。枯れた井戸の前には、今日も人々が並んでいる。水桶を抱えた母親。痩せた老人。畑から戻った少年。皆、空を見上げていた。
雨は降った。それでも、彼らの暮らしは潤わない。
リゼットは銀糸の小瓶を握りしめた。
「水路を見つけるだけでは足りません。見つけた水を、誰のものか決めなければならない」
エドガルはしばらく彼女を見た。
「あなたは、家名を使うつもりですか」
「いいえ」
リゼットは丘の土を踏みしめた。
「町の人たち自身に、聞いてもらいます」
エドガルは静かにうなずいた。
「なら、証拠を集めましょう」
二人は並んで丘を下りた。
背後の地中で、塞がれた水路が低く鳴っている。長い眠りから目を覚ました水は、まだ誰にも届かない。
けれどその音は、昨日より確かに近かった。




