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雨音を編む令嬢は、辺境の測量士と明日の水路を描く  作者: 銀細工ナギ


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2/20

第2話 乾いた町と無口な測量士

 雨は昼前にやんだ。


 雲の切れ間から差し込んだ光は、濡れた町を照らすには弱く、ヴァレルの屋根や石壁に薄い銀色を置いただけだった。雨水は道の端を流れ、乾ききった土へ吸い込まれていく。地面は喉を鳴らすように水を飲んだ。


 リゼットとエドガルは、町の南にある丘へ向かっていた。


 エドガルはほとんど口を開かなかった。歩きながら時折立ち止まり、測量器具を組み立て、地面に杭を打つ。彼の動きには無駄がない。風向き、斜面の角度、石の沈み方まで見ているようだった。


「ずいぶん静かな方ですね」


 リゼットが言うと、彼は杭を打つ手を止めずに答えた。


「必要なことは話しています」


「では、今は必要なことがないと?」


「あります」


 エドガルは丘の斜面を見上げた。


「ここは地図より低い」


「……それだけですか?」


「重要なことです」


 彼は懐から折り畳んだ紙を出した。王立土木局の古い測量図だった。そこには、現在の地図には描かれていない細い線が、丘の中腹から南東へ延びている。


「旧水路は、地滑りで埋まったのではありません。流路に沿って土が盛られている」


「人の手で?」


「おそらく」


 リゼットは地面に片膝をついた。朝の雨はまだ石の窪みに残っている。指先を水たまりへ近づけると、細い銀色の音の糸が立ち上がった。


 雨が落ちた音。泥を踏む音。鳥の羽ばたき。遠くで鳴る鐘。


 その中に、古い金色の糸が混じっている。


 リゼットは糸をつまんだ。


 冷たい水の音が、耳の奥で膨らんだ。


 ごう、ごう、と地下を流れる水。石壁に反響する足音。何人もの男が、重い道具を運んでいる。誰かが息を切らし、低い声で怒鳴った。


「急げ。役所の連中が来る前に、分岐を塞げ」


 別の男が答える。


「しかし、下の畑へ水が回らなくなれば――」


「水が欲しければ、オルデン商会から買えばいい」


 音の糸はそこで大きく震えた。


 続いて、鉄の板が引きずられる音。錠が落ちる音。最後に、幼い子どもの泣き声が聞こえた。


 リゼットは糸を離した。


「分岐があります」


 エドガルはすぐに測量図へ目を落とした。


「どの方向です」


「丘の下から南東へ。ただ、途中で塞がれています。鉄の扉か、板のようなものがある」


「水は?」


「流れています。細いけれど、まだ」


 エドガルは立ち上がり、丘の斜面を歩き始めた。リゼットも続く。乾いた草の間には、雨が降ったばかりなのに湿り気のない場所がいくつもあった。地下へ吸い込まれた水が、どこかで道を変えているのだ。


 やがて、斜面の途中でエドガルが足を止めた。


「ここです」


 彼の靴先には、半ば土に埋もれた石があった。石の表面に、古い水路の印が刻まれている。三本の波線。その中央だけが、鋭いもので削り取られていた。


 リゼットは石へ手を伸ばした。


 しかし触れる前に、斜面の上から声がした。


「そこに何をしている」


 振り返ると、革の外套を着た男が二人立っていた。腰には短剣があり、胸元にはオルデン商会の徽章が留められている。


「この丘は商会の管理地です。許可なく入ることは禁じられている」


「町の地図には公道と記されています」


 エドガルが測量図を掲げた。


「王立土木局の調査です。邪魔をしないでください」


 男たちは顔を見合わせた。


「調査なら、商会の案内を受ければいい。勝手に掘り返すのは困るな」


「掘ってはいません」


「その石に触れようとしていたでしょう」


 リゼットは男たちの背後を見た。斜面の上には、真新しい土が帯状に広がっている。その下から、かすかな水音の糸が伸びていた。


 誰かが昨夜、さらに土を足したのだ。


「ここに何があるのですか」


 問いかけると、男の一人がにやりと笑った。


「令嬢は屋敷で刺繍でもしていればいい。町の水のことは、商会が面倒を見る」


「面倒を見ているのに、井戸は枯れているのですね」


 男の笑みが消えた。


 エドガルが一歩前へ出る。背は高いが、威圧するような動きではなかった。ただ、リゼットの前に立つことで、彼女を守る位置を取っている。


「調査を妨害した記録を残します」


「何だと?」


「日時、場所、人数。徽章も確認しました」


 エドガルは淡々と記録帳を開いた。


「王立土木局へ報告します」


 男たちは舌打ちした。だが、王都の名を恐れたのか、それ以上近づこうとはしなかった。


「好きにしろ。水路など、見つかるものか」


 吐き捨てるように言い残し、二人は斜面を下りていった。


 姿が見えなくなるまで待ってから、リゼットは息を吐いた。


「あなた、怖くないのですか」


「怖いです」


 意外な答えだった。


「顔に出ませんね」


「出す必要がありません」


 エドガルは石の前にしゃがみ、周囲の土を慎重に払った。石の下から、細い空洞が現れる。そこへリゼットが耳を澄ませると、地中から水の音が返ってきた。


 今度は、声ではなかった。


 かつてこの水路を使った人々の笑い声。水桶を置く音。子どもたちが浅瀬で遊ぶ足音。失われた町の、穏やかな暮らしの音だった。


 その奥に、ひとつだけ新しい音が重なっている。


 金属をこする音。


「扉があります」


「位置は?」


「この石から、斜めに三十歩ほど下。土の中です」


 エドガルは地面へ杭を打った。


「今日は掘りません」


「なぜ?」


「道具が足りない。それに、相手はこちらを見張っている」


 リゼットは丘の上を振り返った。さきほど男たちが立っていた場所には、もう誰もいない。けれど、乾いた草が風とは逆に揺れている。


 誰かがまだ見ている。


「町へ戻りましょう。協力者が必要です」


「誰を?」


「水を失った人たちを」


 リゼットは、丘の下に広がるヴァレルを見渡した。枯れた井戸の前には、今日も人々が並んでいる。水桶を抱えた母親。痩せた老人。畑から戻った少年。皆、空を見上げていた。


 雨は降った。それでも、彼らの暮らしは潤わない。


 リゼットは銀糸の小瓶を握りしめた。


「水路を見つけるだけでは足りません。見つけた水を、誰のものか決めなければならない」


 エドガルはしばらく彼女を見た。


「あなたは、家名を使うつもりですか」


「いいえ」


 リゼットは丘の土を踏みしめた。


「町の人たち自身に、聞いてもらいます」


 エドガルは静かにうなずいた。


「なら、証拠を集めましょう」


 二人は並んで丘を下りた。


 背後の地中で、塞がれた水路が低く鳴っている。長い眠りから目を覚ました水は、まだ誰にも届かない。


 けれどその音は、昨日より確かに近かった。

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