第1話 雨音を盗む依頼
雨は、誰のものでもない。
そう思っていたのに、リゼット・アルヴェインは、窓を打つ雨粒の一つ一つが、誰かの記憶を抱いていることを知っていた。
古い屋敷の北塔。その最上階にある小さな工房で、リゼットは銀糸を張った木枠に耳を澄ませていた。外では朝から細い雨が降り続いている。屋根を叩く音、石畳を跳ねる音、雨樋を流れ落ちる音。それらは混ざり合い、普通の人にはただの雨音にしか聞こえない。
けれど、リゼットの指先には、音が糸のように見えていた。
淡い灰色の雨音が空から垂れ、屋根の端で細く束ねられ、排水溝へ流れていく。その中に、ひときわ古い金色の糸が混じっていた。
彼女は息を止め、指先でそっとつまむ。
――ごう、と水の底で鳴る音。
石壁の向こうを、膨大な水が走っている。誰かの足音。鉄の蓋を閉める音。低い男の声。
「……今年も、井戸は枯れる」
そこで糸はぷつりと切れた。
リゼットは目を開けた。銀糸の木枠には、細い金色の線が一筋だけ残っている。
「また、同じ水路……」
この町、ヴァレルは三年続きの干ばつに苦しんでいた。畑はひび割れ、家畜は痩せ、共同井戸の前には毎朝長い列ができる。かつて町を潤していた水路が失われたからだ。
記録によれば、水路は百年前の地滑りで埋まり、再発見の見込みはない。だが、雨音に残る記憶は、ときに土よりも正直だった。
リゼットは金色の糸を小瓶に収めた。瓶の中で、糸はかすかな水音を立てる。
そのとき、階下から使用人の声が響いた。
「お嬢様、お客様がお見えです!」
「こんな朝に?」
「王都からの方だそうです。測量士を名乗っております」
王都。
その言葉に、リゼットは反射的に窓を振り返った。
アルヴェイン家は、かつてこの地方一帯を治めた子爵家だった。しかし父が残した借金と、維持できなくなった領地の負担で、屋敷の家具は一つずつ売られている。爵位は残っていても、家名はもう空の器に近い。
そんな家に、王都の測量士が何の用なのか。
リゼットは濃紺の外套を羽織り、階下へ向かった。
玄関広間には、背の高い男が立っていた。黒い髪は濡れていて、灰色の目は窓の外ではなく、床に広げられた町の地図を見ている。王都の紋章が刺繍された鞄と、使い込まれた測量器具。華美なところは何もない。
「リゼット・アルヴェイン嬢ですね」
男は顔を上げた。
「エドガル・ノルド。王立土木局の測量士です」
「わざわざ王都から、没落しかけた子爵家へ?」
「依頼があるからです」
エドガルは一枚の封書を差し出した。封蝋には、ヴァレルを実質的に支配する商会主、オルデンの印が押されている。
「町の有力者、オルデン商会からの依頼です。失われた水路の位置を調べ、再利用できるか確認してほしいと」
「商会が、町のために?」
「依頼書には、そう書かれています」
言葉の端に、わずかな疑いがにじんでいた。
リゼットは封書を受け取らず、地図を見下ろした。古い地図の中央には、町を横切る青い線が描かれている。だが途中で線は途切れ、現在の地図にはその先が何も記されていない。
「あなたは、私に何を求めているのですか」
「雨音を読む力があると聞きました」
広間の空気が冷えた。
リゼットの力は、アルヴェイン家に伝わる秘術だった。雨や霧に残った音を糸として読み取る。過去の会話や足音を拾うこともできるが、彼女はそれを人の秘密を暴くためには使わなかった。水路や橋、道に残った音だけを追う。それが亡き母から受け継いだ約束だった。
「誰から聞いたのです」
「町の井戸番です。あなたが、枯れた水路の近くで何度も雨を待っていると」
「それで、私を雇いたいと?」
「正確には、協力を求めたい」
エドガルは地図の一点を指した。町の外れ、乾いた丘の下だった。
「王立土木局の記録では、旧水路はこの辺りで南へ向きを変えています。しかし現地には痕跡がない。土砂崩れだけでは説明がつきません」
「隠された可能性がある、と?」
「水路が消えた年から、オルデン商会は町の井戸と水売りを独占しています」
雨音の中で聞いた男の声が、リゼットの脳裏によみがえった。
今年も、井戸は枯れる。
あれは予言ではなく、計画を語る声だったのかもしれない。
「私はアルヴェイン家の令嬢です。商会主に逆らえば、残った領地も失います」
「あなたが何もしなくても、いずれ失います」
冷たい言い方だった。けれど、エドガルの灰色の目には嘲りではなく、事実を告げる静けさがあった。
リゼットは封書を受け取った。紙の端に、雨で濡れた跡がある。
「報酬は?」
「王立土木局から、調査協力費が出ます」
「家名への礼儀ではなく、働いた分だけ?」
「そうです」
その答えが、妙に気に入った。
リゼットは地図を巻き、銀糸の小瓶を外套の内側へしまった。
「では、条件があります。私を助手扱いしないでください。水路を見つけるのは、私の力だけでも、あなたの測量だけでもない」
エドガルは一瞬だけ目を細めた。
「対等な協力者として?」
「相棒として」
短い沈黙のあと、彼はうなずいた。
「承知しました」
二人が屋敷を出ると、雨は少し強くなっていた。
石畳の隙間から立ち上る霧の中に、無数の音の糸が揺れている。リゼットには、その奥で一本の古い金色が、丘の下へ続いているのが見えた。
けれど、その糸には水音だけではなく、鉄の錠前が閉じる音と、誰かが急いで土を踏み固める音も絡んでいた。
失われたのではない。
誰かが、失われたことにしている。
リゼットは雨の向こうを見つめた。
「エドガルさん」
「何です」
「この依頼、ずいぶん雨音を盗みたがっている人がいるようです」
彼は黙って丘の方を見た。
「なら、盗まれる前に見つけましょう」
二人の足元で、雨水が細い溝へ流れ込んだ。
その溝の底から、遠い昔の水路が、かすかに鳴った。




