PROLOGUE ― 影を歩く魔女
PROLOGUE ― 影を歩く魔女
【アルヴェリア王国】
大陸の中央に広がる、古くから魔法とともに栄えてきた国。
王国の中心には、王都アルヴェリアがある。
白い石造りの城壁に囲まれた大都市。
中央には王宮がそびえ、その周囲には商業区、居住区、魔法研究区が広がっている。
街のいたるところには魔法灯が設置され、夜になっても通りには淡い光が灯っていた。
魔法を扱える者は、決して珍しくない。
だが、誰もが同じように魔法を学べるわけではなかった。
優れた才能を持つ者は、王国直属の魔導士や研究者への道を進む。
そのための最高学府として、王都の北側――
小高い丘の上に、アルヴェリア王立魔法学院が建っていた。
高い石壁に囲まれ、いくつもの尖塔が立ち並び、空へ伸びる巨大な時計塔が見える。
そして、地下には古代魔法を研究するための施設まで存在していた。
王国中から集められた魔導士の卵たちは、そこで魔法の基礎から高度な術式、魔法史、古代魔法までを学んでいる。
学院は、魔導士にとって憧れの場所だった。
同時に、その才能を厳しく選別する場所でもあった。
昼間なら、訓練場から魔法が弾ける音が聞こえ、図書館には古代語の書物を抱えた学生たちが行き交っている。
けれど――
その日の学院は、異様なほど静かだった。
中庭にいた学生たちは、誰も口を開かなかった。
昨夜から降り出した小雨のせいではない。
雪のように白く、やや青白い透明感のある肌。
腰近くまで届く漆黒の長い髪。
黒い軽装鎧の上に、黒いロングケープを羽織っている。
腰には、魔導士には少し大ぶりな短剣。
そして――
彼女の周囲だけ、影が不自然に揺れていた。
少女の名は、ルティス。
彼女が扱う魔法は、炎でも、水でも、風でもない。
影。
そして――
幻。
誰も教えていないはずの魔法だった。
「……本当に、これで終わりなんですね」
ルティスは、背後にそびえる学院を見上げた。
「ルティス」
背後から声がした。
振り返ると、学院の教師たちが数人立っていた。
その中央には学院長。
冷たい表情で、ルティスを見つめている。
「最後にもう一度だけ確認する」
学院長が言った。
「禁じられた影魔法を使用したのは、お前だな?」
「……はい」
「なぜ使用できた?」
ルティスは少し黙った。
「……人を助けるためです」
「そうではない」
「でも――」
「影魔法は、そもそもお前が扱うための魔法ではない」
学院長の声が、低く響いた。
「通常の魔術体系には存在しない。学院で教えることも、研究することも、本来なら許されていない」
ルティスは黙って学院長を見つめた。
「影魔法は、かつて戦場で使われた」
学院長は続ける。
「敵の影を縛り、身体の自由を奪い、魔力そのものへ干渉する。扱い方を誤れば、人間の命を容易に奪うことができる」
周囲の教師たちが、わずかに顔を強張らせる。
「だからこそ――」
学院長はルティスを見据えた。
「影魔法を使う者は、昔から『魔女』と呼ばれてきた」
「魔女……」
「恐れられ、忌み嫌われ、そして――その力を持つ者の多くが、討たれてきた」
中庭に、重い沈黙が落ちた。
「それほどの魔法だ」
学院長の視線が、ルティスの手へ向けられる。
「それを、お前は使った」
「……あの子を助けるために」
「分かっている」
学院長は静かに答えた。
「お前が人を殺すために使ったのではないことも、我々は理解している」
「だったら――」
「だが」
学院長が言葉を遮った。
「問題は、なぜお前が使えたのかだ」
ルティスは息を止めた。
学院で影魔法を教えた者はいない。
正式に学んだ記録もない。
それなのに――
自分は、その魔法を昔から使用できた。
使用できることを今まで隠し続けていたのだ。
「……分かりません」
「そうだろうな」
学院長は目を伏せる。
「だからこそ、危険なのだ」
ルティスは拳を握った。
「あのままでは、あの子が……」
「ああ」
学院長は静かに頷いた。
「お前があの生徒を救ったことは事実だ」
そして――
「それでも、我々は影魔法を見過ごすことはできない」
学院長の声が、ほんの少しだけ揺れた。
「お前には魔導士としての才能があった」
ルティスは何も答えなかった。
「だが、その力の存在を見過ごすことはできない」
「……人を助けても?」
「それでもだ」
ルティスの唇が震えた。
「じゃあ……あの子を見殺しにすればよかったんですか?」
学院長は答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
しばらくして、低い声で言った。
「……その問いに、私から答えを与えることはできない」
ルティスは拳を握った。
「私は間違っていません」
学院長は静かに目を閉じた。
「だが、学院長として決めなければならない」
周囲の教師たちが姿勢を正す。
学院長はルティスを正面から見据えた。
「アルヴェリア魔法学院の名のもとに――」
一瞬だけ、言葉が止まった。
そして、
「ルティスを、学院から永久追放とする」
その瞬間。
ルティスの胸の奥で、何かが崩れた。
何年も過ごした場所。
魔法を学び、笑い、失敗し、友と過ごした場所。
それが今日――
自分の居場所ではなくなった。
ルティスは何も言わなかった。
ただ、学院長の横を通り過ぎる。
門へ向かって歩く。
誰も引き止めない。
重い扉が開く。
外の冷たい風が、頬を撫でた。
ルティスは一度だけ振り返った。
見慣れた学院の校舎。
何度も歩いた廊下。
何度も見上げた塔。
そして――
窓の向こうにいる、生徒たち。
誰かが泣いているのが見えた。
ルティスは目を逸らした。
そして、一人で歩き出した。
あのとき。
魔物に襲われた生徒を救うため、ルティスは影魔法を使った。
敵の視界を奪い、幻を見せ、自分の姿を影の中へ消した。
そして短剣で、生徒に迫っていた魔物を倒した。
結果として、生徒は助かった。
それでも学院の判断は変わらなかった。
学院長が自分を気にかけてくれていたことは、痛いほど分かった。
『死罪』でも『永久牢獄』でもなく、『永久追放』で済んだのだ。
だからこそ――
ルティスは何も言えなかった。
「……さようなら」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
学院なのか。
過去なのか。
それとも――
ここに残していく何かなのか。
ルティスは、行く当てもない街道を歩き続けていた。
街へ続く道を、一人で。
雨は次第に強くなっていた。
黒い髪から雫が落ち、濡れたケープが身体に張りつく。
これからどこへ行くのか。
何をすればいいのか。
まだ、何一つ決まっていない。
ただ歩くことだけが、今の彼女にできることだった。
しばらくして――
「……?」
ルティスが足を止めた。
何かがおかしい。
雨音の中に、かすかな違和感が混じっている。
音ではない。
気配。
まるで、誰かに見られているような――
ルティスはゆっくりと周囲を見渡した。
街道の脇には、雨に濡れた草原が広がっている。
人影はない。
木々も、風に揺れているだけだった。
そして――
ふと、足元に違和感を覚えた。
泥の中に、何かがある。
「……?」
ルティスはしゃがみ込んだ。
雨に打たれた土を、そっと手で払う。
すると――
土の下から、黒いものが現れた。
古びた箱だった。
両手にすっぽり収まるほどの小さな箱。
けれど、ただ古いだけではない。
土の中に埋もれていたはずなのに、表面にはほとんど傷がない。
黒い金属のようにも見える。
木のようにも見える。
材質すら、ルティスには判断できなかった。
箱の表面には、見たことのない紋様が刻まれている。
古代文字にも似ていた。
だが、魔法学院で学んだどの文字とも違っていた。
そして――
箱の中央に、小さな円形の紋章がある。
そこだけが、淡く光っていた。
雨に濡れているにもかかわらず、その光は消えない。
むしろ――
ルティスが触れようと指を伸ばした瞬間。
光が、わずかに強くなった。
「……私に、反応してる?」
ルティスは手を止めた。
胸の奥が、かすかにざわめく。
知らないはずなのに。
初めて見るはずなのに。
なぜか――
この箱を知っているような気がした。
ルティスは、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が箱に触れた。
――カチッ
小さな音がした。
それは、鍵が開く音だった。
箱の蓋が、ひとりでにゆっくりと開いていく。
中から、淡い光が溢れ出した。
雨音が、遠くなったように感じる。
ルティスは息を呑んだ。
箱の中にあったのは――
古びた鎖のついた、小さな円盤。
金属とも石ともつかない、不思議な素材で作られたペンダントだった。
直径は手のひらほど。
中央には、星を思わせる奇妙な針。
その周囲には、いくつもの円環が重なっている。
円環には、古代文字がびっしりと刻まれていた。
そして――
その七か所に、小さな宝石が埋め込まれている。
紅。
碧。
翠。
碧空。
紫。
黄金。
そして――漆黒。
ルティスは息を止めた。
宝石の横には、それぞれ異なる文字が刻まれている。
その中には、見覚えのある言葉もあった。
Ignis。
Aqua。
Gaia。
Aeris。
Volt。
Lumia。
そして――
Umbra。
「……宝玉の名前?」
ルティスは、ペンダントを手に取った。
その瞬間。
――カチッ
中央の針が動いた。
北でも、南でもない。
針は、まるで何かを探すようにゆっくりと回転する。
そして――
ある一点で止まった。
赤い宝石が、淡く輝いた。
その周囲に刻まれた古代文字まで、赤く浮かび上がっていく。
「Ignis……」
ルティスが呟く。
針の先は、街道の先――
遥か彼方の山々を指していた。
「……方角を示してる?」
ルティスはペンダントを裏返した。
裏側にも、古代文字が刻まれている。
だが、その意味までは読み取れない。
ただ、中央には一つだけ、奇妙な紋章が刻まれていた。
七つの円。
その中心に、一本の細い線。
そして、その円だけが――
黒く塗り潰されている。
「……Umbra」
その名前を口にした瞬間。
ペンダントの光が消えた。
いや。
正確には――
黒い宝石だけが、光を吸い込むように暗くなった。
「……?」
胸の奥に、鋭い痛みが走る。
「……っ!」
ルティスはペンダントを握りしめた。
その瞬間、視界の中に、何かが浮かんだ。
一瞬だけ。
ほんの一瞬。
銀紫の少女。
白い服。
こちらを見ている。
悲しそうな顔。
けれど――
最後には、ほんの少しだけ笑った。
そして。
『……ルティス』
声が聞こえた。
自分の名前を呼ぶ声。
「……誰?」
少女は答えない。
ただ、静かにこちらを見つめている。
次の瞬間。
その姿は消えた。
雨音が戻ってくる。
ルティスは胸元を押さえた。
「……今のは……何?」
答えはない。
ただ、手の中のペンダントだけが、静かに赤く輝いていた。
Ignis。
その名を示すように。
ルティスはしばらく、そのペンダントを見つめていた。
そして――
鎖を首にかけた。
ペンダントを胸元へしまう。
服の下に隠しても、わずかな温かさが伝わってきた。
まるで――
ずっと昔から、そこにあったもののように。
けれど、ルティスにはその意味が分からない。
なぜ自分が、このペンダントを知っているように感じるのか。
なぜUmbraという名前に、胸が痛むのか。
なぜ、あの少女は自分の名前を知っていたのか。
何一つ分からなかった。
ただ一つだけ。
このペンダントが示す先には――
何かがある。
そして、それは自分に必要なものな気がした。
ルティスは立ち上がった。
雨は、いつの間にか弱くなっていた。
雲の切れ間から、月明かりが差し込んでいる。
その光の下で、ルティスの足元の影が――
ほんの一瞬だけ、彼女とは違う形に揺れた。
ルティスは気づかない。
胸元のペンダントだけを握りしめる。
「……Ignis」
小さく呟く。
そして、街道の先を見つめた。
行く場所は決まった。
初めてだった。
学院を出てから、初めて自分で選んだ行き先だった。
ルティスは歩き出す。
その胸元で、古代のペンダントが静かに揺れていた。
七つの宝玉。
それらを巡る旅が、やがて世界の隠された歴史と――
ルティス自身の封じられた記憶を、一つずつ明らかにしていくことを。
彼女はまだ知らない。
そして――
その旅の先で、自分が何を選ぶことになるのかも。
――物語は、ここから始まる。
―― PROLOGUE END




