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レイモンド・テーゼ  作者: 厨二坊
プロローグ
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1/4

第0話「行ってきます」

 少しずつ大きくなる電子音につられるように、ゆっくりと意識が浮かんできた。


 自分には眩しい世界を睨みながら、今日も時間をかけて体を起こす。

 蹴り飛ばされた布団を見ると、いつも思うことがある。


(………。)


 いや、あるんだ。

 あるはずなのに言葉が出ない。


「はぁ…。」


──今日は、学校に行きたく無い。


 おもむろに朝に吐いた言葉を反芻しながら、外出の準備をする。


 白いシャツの袖に腕を通し、ボタンを止めながら、リュックに財布を放り込む。

 黒だか紺だかわからないズボンに足を通して、

 ギリギリまで充電していたスマホをポッケに入れて、リビングに向かった。


 酷く静かな食事。

 秒針の音が珍しく耳を刺す。


 パンは、寝ぼけた味覚では味のしない粘土のような質感で、勢いよく水で流し込んだ。


 チクタクチクタクと……、時計の音がいい加減煩わしい。


 パンを握りしめて時計に目をやった。

 時計は面白くなさそうに10時23分を指している。


 重い体を椅子から引き剥がす。

 スマホの充電と時刻を確認して、ゆったりと足踏みで部屋にリュックを取りに行った。


 ハンガーからジャンパーをむしり取って羽織ると、冷たい質感が体を覆ってくれて心地よかった。


 やけに軽いリュックを背負って、俺に呆れて眠ってしまった母親の方に言った。


「行ってきます。」


---


──思ってもいないことを言った。


 学校に行く気などさらさらなかった。

 初めから、何も。


「……?」


「あ。」


 シャツの上から三番目のボタンを掛け違えていることに、靴を履くまで気づかなかった。


 何をやっているんだか。


 上手く取れないボタンを止め直し、玄関の扉を開けた。


 雪が溶け切ったばかりの街は、春のフリをしながら、中身はまだ冬のままだ。

 サドルを払い、錆かけている自転車の鍵穴に、鍵を刺して捻った。


 二年前に買った自転車で、しばらく漕ぐとキリキリ音が鳴って、通行人に変な目で見られた。


……考えすぎか。


 雪が溶け切ったばかりだからか、未だ空気は冷え込んでいて、自転車のハンドルを握る手が悴んで痛い。


 行き先なんてどこにもない。


 ズボンのポケットで、重たい財布の感触が伝わった。

 レジでモタモタするのが嫌で、お札ばかり使った結果、無駄に小銭が溜まってしまった財布だ。


 これからどうしようか、なんてことは、やっぱり何も考えていなかった。


 今を凌いで、重荷を増やすだけ。

 今日も俺は、いつもと変わらない。


「でも…まぁ。」


「せめて温かいものが欲しい……。」


---


 自転車のハンドルから手を離し、歩道の脇に止める。


 冷え切った両手に息を吹きかけ、スマホを取り出す。

 12:30という数字を横目に、最寄りの自販機を調べた。


 案外、自販機というのはそこらじゅうにあるもんだと思っていたが、最寄りでも自転車で10分ほどかかりそうだ。


 随分と減った車通りを見ると、都心部からはずいぶんと離れたところに来てしまったからだろう。


──とても、清々しい気分だ。


---


「はぁ、はぁ、、、」

「やっと着いた……」


 自販機だ!


 自転車を止め、ポケットから重たい財布を引き抜いた。溜まりに溜まった小銭を数枚、自販機の投入口へと滑り込ませる。


 赤くライトの灯った「あったか〜い」の文字の下、一番端にあるコーヒーのボタンを押し下げた。


 ガコン、と鈍い音がして、取り出し口に真っ暗な缶が落ちてくる。


 屈んで拾い上げた。

 じわりと手のひらに熱が広がり、悴んでいた指先がジーンと痺れるように温まっていく。


 待ち侘びた感触だ。


 いつもなら甘いミルクティーを選ぶところだったが、今日はなぜだか、いつもより少しだけ冒険して「ブラック」と書かれたやつを買ってみた。


 缶を開けると、冷たい空気の中に白い湯気と、少し焦げたような苦い匂いが立ち上る。

 口に含むと、寝ぼけた頭を刺すような強い苦味が広がった。


 美味しくはない。

 それでも、じっと缶を握りしめたまま、俺はしばらくその場所から動けずにいた。


---


 本当にこれからどうしようか。


 高校一年生のガキ。

 人の視線や反応が怖いから、表立って悪いことをする根性が無いし、良いことをする勇気も無い。


 いじめられているわけでも無いし、虐待されているわけでも無い。

 ただ、誰も俺を見てくれている気がしない。


 無言の暴力が怖い。

 他人の視線が怖い。

 俺は、俺は──そんな奴じゃないのに。


 それを「何もしないことの言い訳にしているクズ」がはたして一人で生きられるのだろうか。


「はぁ……。」


 ………つくづく、自分が嫌になる。


 気がつけば、空になってきた缶コーヒーを握りつぶして、捨てた。


---


 何もすることがないから、とにかく自転車を漕いだ。


 あんなに冷え切っていたはずの体は、坂道を上るうちにじっとりと汗をかき始めていた。ジャンパーの内側にこもる熱がひどく不快だ。

 前から吹き付ける風は耳がちぎれそうなほど冷たい。


 振り返っても、もう見慣れた街並みは見えなかった。


 今頃、学校では5時間目のチャイムが鳴っているだろうか。

 誰もいない教室の俺の机を、先生やクラスメイトはどんな目で見たのだろう。

 いや、きっと誰も気にしてすらいないんだろう。

 そう考えると、ふと笑みが溢れた。


 どこへ向かっているのか、俺も分からない。


 それでも、足を止めれば「思考が飽和する」ような気がして、俺はただペダルを回し続けた。


──他人が怖い。

 何を考えているかが不明瞭だし、

 無償の愛とやらを与えてくれた人なんていない。


 この世の何よりも不確かで、

 もし、自分が勇気を出して話しかけて、自分を否定されたら?

 俺は生きていける気がしないんだ。


 だから、それを言い訳にしている。


「…はは…はははっ!」


 でも、もうそんなことはどうでもいいんだ。


 いつものように思考が流れては消えて…、気づけば辺りは森になっていた。


 雪が溶けたばかりのこの時期、こんな寂しい場所には熊が出るかもしれない。


 人間が怖いなんて考えていたはずなのに、野生の命の気配を想像した途端、急に背筋が寒くなった。

 さっきまで鳴り響いていた自転車のキリキリという音が、獣を刺激するんじゃないかと生きた心地がしない。


 気づけば、太ももがちぎれそうになるほど、がむしゃらにペダルを回していた。さっきまでより、明らかに自転車の速度が上がっている。


 情け無い。


---


 太ももが痛みに悲鳴を上げ始めた頃、不意に目の前が開けた。


 あぁ。湖だ。

 自転車を手で押しながら、俺は湖に歩き出した。


 平日の昼間だというのに、そこには少なくない人間の姿があった。


 カメラを首に下げた老人に、所在なさげにベンチに座る大人。

 学校という枠組みから外れてここにいる俺と同じように、どこか世界の隙間に迷い込んでしまったような人々が、静かに散らばっている。


 自転車を脇に停めた。


 ズボンがじんわりと湿っていくのを感じながら、砂浜に直接座り込む。

 寄せては返す水面を見つめていると、自分は長い夢を見ているだけで、本当はここにはいないんじゃないかとさえ思った。


──他人よりも、自分が嫌いなんだ。


 自分の嫌なところは、他の誰よりも知っているもので、それを自覚して悪循環に陥る自分が嫌いだ。

 それでも、それを理解しない自分よりはマシなんだろう。


 とにかく、自分が気持ち悪い。


 俺はどうしたら良いんだろう。

 なんでここまで来てしまったんだろう。

 自分は本当はどうしたいんだろう。


 考えれば考えるほど自分のことがわからなくなる。


 でも、こんな自分が「なぜ、まだ生きているのか」に関しては絶対的な理由がある。


「強く生きる勇気も、死ぬ勇気もないからだ。」


---


 自嘲混じりの呟きは、不意に沸き起こった周囲のざわめきにかき消された。


 おもむろに視線を上げると、さっきまでバラバラに佇んでいた大人たちが、湖の一点に向かって駆け寄っていくのが見えた。

 静寂が破れ、人だかりができる。その視線の先、冷たい水面が激しく波立っていた。


 誰かが溺れている。


 次の瞬間、俺の体は砂を蹴っていた。


 ヒーローになりたいわけではなかった。

 運動不足でヘトヘトで、勇気の無い俺が…なんでこんな無謀なことをしようと思ったかは分からない。


──死ぬ理由を見つけたのかもしれない。


 勢いのまま、俺は冷徹な湖へと飛び込んだ。


 身体を突き刺す水の圧倒的な質量が、ジャンパーを、シャツを、一瞬で重い鉛に変えていく。

 息が詰まるほどの拒絶反応の中で、暴れる影へと手を伸ばし、懸命にその身体を抑え付け──抑え──……


 ──抑え付けられない。


 水を吸った衣服が重く、手足が思うように動かない。


 しがみついてくる絶望的な力に引きずり込まれ、視界が激しく泡立つ。


 こっちの息も限界なんだ。

 助けられる側なんだから大人してくれ。


 肺が焼けるように熱い。

 一心不乱に手足を動かすが、水の冷たさは容赦なく体力を奪い去っていく。


──死が、もうすぐそこに。


 怖い。


 うざったい。

 柄にもないことをするとすぐこうだ。


 もがく気力すら奪われ、冷たい水底の暗闇へと、意識は呆気なく沈んだ。


 やっぱり、思ってもいないことを言ってしまった。

 全くもって、家に帰るつもりなんてなかった。


 これで終わりか。

 こんな物で終わりなのか。


最後まで情けないな──……


────…

─…


 これが一度目の死だった。

死ぬシーンは上手く書けなかったので、いつか書き直すと思います。

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