第0話「行ってきます」
少しずつ大きくなる電子音につられるように、ゆっくりと意識が浮かんできた。
自分には眩しい世界を睨みながら、今日も時間をかけて体を起こす。
蹴り飛ばされた布団を見ると、いつも思うことがある。
(………。)
いや、あるんだ。
あるはずなのに言葉が出ない。
「はぁ…。」
──今日は、学校に行きたく無い。
おもむろに朝に吐いた言葉を反芻しながら、外出の準備をする。
白いシャツの袖に腕を通し、ボタンを止めながら、リュックに財布を放り込む。
黒だか紺だかわからないズボンに足を通して、
ギリギリまで充電していたスマホをポッケに入れて、リビングに向かった。
酷く静かな食事。
秒針の音が珍しく耳を刺す。
パンは、寝ぼけた味覚では味のしない粘土のような質感で、勢いよく水で流し込んだ。
チクタクチクタクと……、時計の音がいい加減煩わしい。
パンを握りしめて時計に目をやった。
時計は面白くなさそうに10時23分を指している。
重い体を椅子から引き剥がす。
スマホの充電と時刻を確認して、ゆったりと足踏みで部屋にリュックを取りに行った。
ハンガーからジャンパーをむしり取って羽織ると、冷たい質感が体を覆ってくれて心地よかった。
やけに軽いリュックを背負って、俺に呆れて眠ってしまった母親の方に言った。
「行ってきます。」
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──思ってもいないことを言った。
学校に行く気などさらさらなかった。
初めから、何も。
「……?」
「あ。」
シャツの上から三番目のボタンを掛け違えていることに、靴を履くまで気づかなかった。
何をやっているんだか。
上手く取れないボタンを止め直し、玄関の扉を開けた。
雪が溶け切ったばかりの街は、春のフリをしながら、中身はまだ冬のままだ。
サドルを払い、錆かけている自転車の鍵穴に、鍵を刺して捻った。
二年前に買った自転車で、しばらく漕ぐとキリキリ音が鳴って、通行人に変な目で見られた。
……考えすぎか。
雪が溶け切ったばかりだからか、未だ空気は冷え込んでいて、自転車のハンドルを握る手が悴んで痛い。
行き先なんてどこにもない。
ズボンのポケットで、重たい財布の感触が伝わった。
レジでモタモタするのが嫌で、お札ばかり使った結果、無駄に小銭が溜まってしまった財布だ。
これからどうしようか、なんてことは、やっぱり何も考えていなかった。
今を凌いで、重荷を増やすだけ。
今日も俺は、いつもと変わらない。
「でも…まぁ。」
「せめて温かいものが欲しい……。」
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自転車のハンドルから手を離し、歩道の脇に止める。
冷え切った両手に息を吹きかけ、スマホを取り出す。
12:30という数字を横目に、最寄りの自販機を調べた。
案外、自販機というのはそこらじゅうにあるもんだと思っていたが、最寄りでも自転車で10分ほどかかりそうだ。
随分と減った車通りを見ると、都心部からはずいぶんと離れたところに来てしまったからだろう。
──とても、清々しい気分だ。
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「はぁ、はぁ、、、」
「やっと着いた……」
自販機だ!
自転車を止め、ポケットから重たい財布を引き抜いた。溜まりに溜まった小銭を数枚、自販機の投入口へと滑り込ませる。
赤くライトの灯った「あったか〜い」の文字の下、一番端にあるコーヒーのボタンを押し下げた。
ガコン、と鈍い音がして、取り出し口に真っ暗な缶が落ちてくる。
屈んで拾い上げた。
じわりと手のひらに熱が広がり、悴んでいた指先がジーンと痺れるように温まっていく。
待ち侘びた感触だ。
いつもなら甘いミルクティーを選ぶところだったが、今日はなぜだか、いつもより少しだけ冒険して「ブラック」と書かれたやつを買ってみた。
缶を開けると、冷たい空気の中に白い湯気と、少し焦げたような苦い匂いが立ち上る。
口に含むと、寝ぼけた頭を刺すような強い苦味が広がった。
美味しくはない。
それでも、じっと缶を握りしめたまま、俺はしばらくその場所から動けずにいた。
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本当にこれからどうしようか。
高校一年生のガキ。
人の視線や反応が怖いから、表立って悪いことをする根性が無いし、良いことをする勇気も無い。
いじめられているわけでも無いし、虐待されているわけでも無い。
ただ、誰も俺を見てくれている気がしない。
無言の暴力が怖い。
他人の視線が怖い。
俺は、俺は──そんな奴じゃないのに。
それを「何もしないことの言い訳にしているクズ」がはたして一人で生きられるのだろうか。
「はぁ……。」
………つくづく、自分が嫌になる。
気がつけば、空になってきた缶コーヒーを握りつぶして、捨てた。
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何もすることがないから、とにかく自転車を漕いだ。
あんなに冷え切っていたはずの体は、坂道を上るうちにじっとりと汗をかき始めていた。ジャンパーの内側にこもる熱がひどく不快だ。
前から吹き付ける風は耳がちぎれそうなほど冷たい。
振り返っても、もう見慣れた街並みは見えなかった。
今頃、学校では5時間目のチャイムが鳴っているだろうか。
誰もいない教室の俺の机を、先生やクラスメイトはどんな目で見たのだろう。
いや、きっと誰も気にしてすらいないんだろう。
そう考えると、ふと笑みが溢れた。
どこへ向かっているのか、俺も分からない。
それでも、足を止めれば「思考が飽和する」ような気がして、俺はただペダルを回し続けた。
──他人が怖い。
何を考えているかが不明瞭だし、
無償の愛とやらを与えてくれた人なんていない。
この世の何よりも不確かで、
もし、自分が勇気を出して話しかけて、自分を否定されたら?
俺は生きていける気がしないんだ。
だから、それを言い訳にしている。
「…はは…はははっ!」
でも、もうそんなことはどうでもいいんだ。
いつものように思考が流れては消えて…、気づけば辺りは森になっていた。
雪が溶けたばかりのこの時期、こんな寂しい場所には熊が出るかもしれない。
人間が怖いなんて考えていたはずなのに、野生の命の気配を想像した途端、急に背筋が寒くなった。
さっきまで鳴り響いていた自転車のキリキリという音が、獣を刺激するんじゃないかと生きた心地がしない。
気づけば、太ももがちぎれそうになるほど、がむしゃらにペダルを回していた。さっきまでより、明らかに自転車の速度が上がっている。
情け無い。
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太ももが痛みに悲鳴を上げ始めた頃、不意に目の前が開けた。
あぁ。湖だ。
自転車を手で押しながら、俺は湖に歩き出した。
平日の昼間だというのに、そこには少なくない人間の姿があった。
カメラを首に下げた老人に、所在なさげにベンチに座る大人。
学校という枠組みから外れてここにいる俺と同じように、どこか世界の隙間に迷い込んでしまったような人々が、静かに散らばっている。
自転車を脇に停めた。
ズボンがじんわりと湿っていくのを感じながら、砂浜に直接座り込む。
寄せては返す水面を見つめていると、自分は長い夢を見ているだけで、本当はここにはいないんじゃないかとさえ思った。
──他人よりも、自分が嫌いなんだ。
自分の嫌なところは、他の誰よりも知っているもので、それを自覚して悪循環に陥る自分が嫌いだ。
それでも、それを理解しない自分よりはマシなんだろう。
とにかく、自分が気持ち悪い。
俺はどうしたら良いんだろう。
なんでここまで来てしまったんだろう。
自分は本当はどうしたいんだろう。
考えれば考えるほど自分のことがわからなくなる。
でも、こんな自分が「なぜ、まだ生きているのか」に関しては絶対的な理由がある。
「強く生きる勇気も、死ぬ勇気もないからだ。」
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自嘲混じりの呟きは、不意に沸き起こった周囲のざわめきにかき消された。
おもむろに視線を上げると、さっきまでバラバラに佇んでいた大人たちが、湖の一点に向かって駆け寄っていくのが見えた。
静寂が破れ、人だかりができる。その視線の先、冷たい水面が激しく波立っていた。
誰かが溺れている。
次の瞬間、俺の体は砂を蹴っていた。
ヒーローになりたいわけではなかった。
運動不足でヘトヘトで、勇気の無い俺が…なんでこんな無謀なことをしようと思ったかは分からない。
──死ぬ理由を見つけたのかもしれない。
勢いのまま、俺は冷徹な湖へと飛び込んだ。
身体を突き刺す水の圧倒的な質量が、ジャンパーを、シャツを、一瞬で重い鉛に変えていく。
息が詰まるほどの拒絶反応の中で、暴れる影へと手を伸ばし、懸命にその身体を抑え付け──抑え──……
──抑え付けられない。
水を吸った衣服が重く、手足が思うように動かない。
しがみついてくる絶望的な力に引きずり込まれ、視界が激しく泡立つ。
こっちの息も限界なんだ。
助けられる側なんだから大人してくれ。
肺が焼けるように熱い。
一心不乱に手足を動かすが、水の冷たさは容赦なく体力を奪い去っていく。
──死が、もうすぐそこに。
怖い。
うざったい。
柄にもないことをするとすぐこうだ。
もがく気力すら奪われ、冷たい水底の暗闇へと、意識は呆気なく沈んだ。
やっぱり、思ってもいないことを言ってしまった。
全くもって、家に帰るつもりなんてなかった。
これで終わりか。
こんな物で終わりなのか。
最後まで情けないな──……
────…
─…
これが一度目の死だった。
死ぬシーンは上手く書けなかったので、いつか書き直すと思います。




