第1話:婚約破棄の夜、泥のドレスと虹の嘘
「汚い。私の視界に入るな」
婚約者の王子から投げられたのは、宝石ではなく、冷たい泥。
家族からも見捨てられ、泥の中に沈んだ私の手を取ったのは、この世で最も美しく、恐ろしい「魔王」でした――。
燦然と輝くシャンデリア。名だたる名家が揃い、芳醇なワインと音楽が流れる王城の夜会。
ここは、魔力が「色」として顕現する国、ソラリア王国。
その中心で、エルセ・フォン・アラバスター公爵令嬢は、生涯忘れることのない「冷気」に晒されていた。
「――エルセ。貴様との婚約を、今この瞬間をもって破棄する」
第一王子ジュリアンの冷酷な声が、祝祭の調べを切り裂いた。
その隣には、派手な虹色の魔力を纏わせ、勝ち誇った笑みを浮かべる男爵令嬢ミエルが寄り添っている。
「殿下……それは、どういう……?」
エルセは震える唇で問い返した。
彼女の髪は、月光を溶かしたような白銀。そしてその瞳は、透き通るような透明。
この国において、鮮やかな魔力を持たない「無色」は、魂の欠陥品を意味した。
「言葉通りの意味だ、この泥人形め! 見ろ、隣にいるミエルを。彼女の魔力は、世界を祝福する七色の虹だ。それに比べてお前はどうだ? 魔法を使っても色一つ出せぬ、空っぽの器ではないか」
周囲の貴族たちから、さざなみのような嘲笑が広がる。
「公爵家の娘でありながら、無色の欠陥品とは。アラバスター家の汚点だな」
「いつも地味なドレスばかり着て……王太子の隣に立つ資格など、初めからなかったのよ」
心無い言葉の礫が、エルセの胸を執拗に叩く。
エルセは、決して怠けていたわけではなかった。
王国の安寧を願い、誰よりも早く登城し、目に見えない「濁り」をその身に受けて浄化し続けてきた。色が持てないのは、すべてを包み込み、無に帰すための代償だった。
だが、その真実を知る者は誰もいない。
「殿下、私は……ただ、この国のために……」
「黙れ! 見苦しい言い訳をするな。貴様が執務のふりをして城の魔力を吸い取っていたことは分かっているのだ。ミエルが教えてくれた。お前が密かに、王室の繁栄を羨んで呪いをかけていたことを!」
「そんな……嘘です……!」
エルセはミエルを見た。ミエルは気弱そうなフリをして、王子の腕に抱きつく。
「ジュリアン様、怖いです……エルセ様のその、何の色もない『空っぽの瞳』で見つめられると、呪われてしまいそうで……」
「ああ、可哀想に。安心しろ、ミエル。今すぐこの場から追い出してやる」
ジュリアンが指を鳴らす。
次の瞬間、ミエルの放った「虹色の魔法」が爆発的な輝きを放ち、エルセを襲った。
どさり。
衝撃に飛ばされたエルセの体は、会場の端に飾られていた大鉢の泥水の中に突っ込んだ。
純白だったはずのドレスが、どろどろの泥に染まっていく。
銀糸の刺繍は汚れ、髪には枯れ葉が絡みつく。
かつて「公爵令嬢」と呼ばれた娘が、一瞬にしてゴミ同然の姿に成り果てた。
「ふん、お似合いだ。泥の中で、その無価値な一生を呪いながら死ぬがいい」
ジュリアンは背を向けた。
ミエルがエルセを見下ろし、王子に聞こえないほどの低い声で囁く。
「……ねえ、エルセ様。あなたのその『浄化』の力、邪魔だったの。これからは私が、あなたの手柄を全部奪って『聖女』になってあげるわ。あなたはそのまま、森の魔物にでも食べられちゃいなさい?」
くす、と。
毒蛇のような笑い声が耳に残る。
エルセは立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。
父であるアラバスター公爵さえも、目を逸らして冷たく告げた。
「……一族の恥さらしめ。お前の籍は既に抜いた。二度と、私の視界に入るな」
守るべきものは、すべて奪われた。
身分も、名誉も、家族も、そして信じていた婚約者さえも。
城の外へ、衛兵によって文字通り「放り出された」エルセを待っていたのは、冷たい冬の雨だった。
ずぶ濡れになりながら、エルセは泥だらけのドレスを引きずって歩く。
向かう先は、人間が足を踏み入れてはならない「境界の森」。
捨てられた者たちが、死を待つ場所。
(――ああ、お母様。私は、間違っていたのでしょうか……?)
意識が遠のいていく。
雨の音さえ聞こえなくなり、すべてが白く塗り潰されようとした、その時だった。
ザッ、ザッ。
落ち葉を踏みしめる、重厚な足音が聞こえた。
それは、弱り果てた獲物を狙う獣の音ではない。
もっと、暴力的で、圧倒的で……そして、恐ろしいほどに気高い、魔力の波動。
「……こんなところで、何を眠っている」
低く、深く響く声。
エルセが重い瞼を微かに持ち上げると、そこには。
すべてを飲み込むような「漆黒の霧」を纏い、闇そのもののような外套を揺らす、一人の男が立っていた。
暗闇の中で、その瞳だけが紫水晶のように、禍々しくも美しく発光している。
「あ……あ……」
声が出ない。
だが、男は躊躇いもなく、泥にまみれたエルセの体を引き寄せた。
男の指先が、エルセの頬を撫でる。
その瞬間、彼の纏う「死の魔力」が、エルセの「無色」と触れ合い、かつてないほどの温かな光を放った。
「誰にも触れられぬ私の闇を、ただの『透明』が包み込むとは……」
男――隣国の若き皇帝、レオンハルトは、低く、愉悦に満ちた笑みを漏らした。
彼はそのまま、気を失ったエルセを軽々と横抱きにする。
「拾ってやろう、小さな宝石。お前を捨てた者たちが、自らの愚かさに絶望し、血を吐いて這いつくばるその日まで――お前は、私だけのものだ」
それは、呪いよりも重く、甘い、救済の宣言だった。
エルセを乗せた馬車が、漆黒の霧と共に、闇の向こうへと消えていく。
彼女を捨てた王国が、その瞬間から、急速に「色」を失い始めていることなど、今はまだ誰も知る由もなかった。
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次は、冷徹皇帝の「重すぎる溺愛」がついに幕を開けます。
どうぞお楽しみに……!




