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 竹内は手を震わせながら読み終えた手紙を坂井の手元に帰した。手紙の上にまた一つ、大きな染みができる。

「なあ、これは本来刑事の言うべき台詞じゃないかもしれない。でも、聞かせてくれ。なんで自首なんかしたんだ? そうすれば、疑われることもなかったのに」

 その言葉に、坂井は詰まる。しわだらけのTシャツが濡れていく。消え入りそうな、いや実際消えかかった声でポツンと呟いた。

「……読んでなかったんですよ」

 その言葉は、最後まで思うようにならない現実を物語る。

「読んでなかったんです。だから、詩織を殺したってことに耐えられずに自首したんですよ」

「そうか」

 それを聞いた竹内は一瞬目を組んだ拳に落とす。目じりにぐっと力を込めて二、三度瞬いた。そうして、新たなる疑問をぶつける。

「でも、後で呼んだんだろう? 一体どうして手紙に書いてある通りにしなかったんだ?」

 坂井は体をわなわなと震わせる。そうして、手紙に右手を叩きつけた。

「できるわけないじゃないですか! そんな、そんなこと」

 クシャっとなった手紙を右に力なく放り投げる。

「そんなこと、できるわけがないじゃないですか。だってこれは、詩織が残した、唯一自分の思いを書き記した手紙なんですよ! 詩織の思いのこもった手紙なんですよ! そんなもの、処分するなんてとんでもない!」

 次第に語気を荒げていく坂井を見て、竹内は席を立った。無言で坂井の視線をかいくぐり、床に落ちた手紙を拾う。

「そうか。君の被害者に対する思いはよくわかったよ。たぶん、これは君が持つべきものだ」

 手渡された手紙を、戸惑いながらそれをズボンにしまった。再び正面に座りなおした竹内が拳を組んで坂井を見つめる。

「それにしても、どうして自首なんてしたんだ? 自殺幇助でしかないだろ、君のしたことは。どうして人を殺したなんて」

 その台詞に坂井は俯く。回想しているかのように机を貫いて足元を見た。

「たとえ、たとえ詩織が俺のことを許したとしても、俺が、俺が詩織を殺したという事実に変わりはないんですよ。それだけは、絶対に変わらないんです。それに……」

 ああ、そうだ。どうして俺は詩織を殺すなんて選択をあそこでしてしまったのだろう。

「それに、俺にはあそこで殺さないっていう選択肢もあったはずなんです。その選択肢を捨てて、最終的に詩織を死に追いやったのは、やっぱり俺なんですよ」

「そうか」

 竹内はそれしか言わなかった。坂井の考えはわからない。それは、自分を責めることじゃないのではないかと思う。けれど、人を殺したことがない俺にはたぶん坂井が何を考えていたのか、一生分からないのだろう。そんな俺に、何かを言う権利なんてない。励ましの言葉なんて存在しない。気休めにもならない。竹内はそう思っていた。

「それに、これは僕の推測でしかないんですけど、詩織の頭なら、背景をわざわざ十五夜にするなんてしなかったはずなんです。ひょっとしたら、ちょっとぐらい気づいてほしくて、だからアリバイが崩れるような写真を撮ったのかもしれない。そんなふうに思うんです。実際のところ、どうだったんでしょうか」

「愚問だな」

 坂井の嘆きとも取れるようなその質問を、竹内は一切の躊躇なく吐き捨てた。

「そんなこと俺は知らない。被害者が気づいてほしかったのか、ひょっとしたら君を罠にはめるつもりだったのか、それとも考えてなかったのかなんて、わからないことだからな。それに」

 竹内は少し坂井から視線を外して何かを懐かしむような表情をした。

「それに、真実を知ることで悲しむ人が増えるなら、傷つく人が増えるなら、そんな真実は知らない方がいい」

 それは、まぎれもなく竹内の本心だった。捜査中、ずっと貫いていた竹内の信念だった。土下座してまで永井に頼み込んだ理由だった。それを、坂井は何となく、聞き流してしまっていた。聞こえてはいたけれど、鼓膜に届きはしたし文字列を認識してもいたけれど、それでも脳が認識するより先にどこかに消え去ってしまうような、そんな気がして、何を言えばいいのかわからなくなってしまった。何を話しても、全て偽りになってしまう。そんな気がした。

 何を話せばいいんだろう。自分のこと、詩織のこと、それともこの刑事のこと。どれも、違う気がする。俺は、何を話したかったんだ。何を話そうと思っていたんだ。わからない。ここで何を話したとしても、ずっと後悔するような、そんな気がする。頭が働いてくれない。考えたくない。坂井はそんなことを考えて固まっていた。それを竹内はじっと見つめていた。

 どれほどの時間が経ったかはわからない。ただ、坂井ははっと思い出したかのように竹内に語り掛けた。何となく、聞いてしまいたくなった。

「ねえ、刑事さん」

「なんだ」

 坂井は横を向いて、コンクリートの壁を見つめていた。

「月がきれいだって、来る途中で話しましたよね」

「そういえば、そんな話もしたな」

 竹内としては、何も考えずに行った台詞だった。いや、アリバイ崩しのことを考えていたから何も考えていなかったわけではなかったのだが、坂井はそこに意味を見つけ出したかのように言う。

「今夜は月齢十六、十六夜なんです」

「だから、満月に近かったのか」

「ええ」

 少し、坂井は黙った。竹内もその空気に呑まれる。

「十六夜の語源は、ためらうっていう意味なんです。これは、十五夜よりも少し遅く出てくるから、月がためらっているように感じるからなのだとか」

「よく知ってるな。流石は天才と呼ばれただけのことはある」

 その言葉に、坂井は無言で通した。けれど、ほんのり頬が朱に染まる。

「俺も、躊躇していればよかったんでしょうか。そうして、詩織を殺さなければよかったんでしょうか」

 坂井は思う。結局、俺はどうすればよかったんだろうと。詩織を殺した方がいい。死なせてあげた方がいい。そう判断して踏み切ったわけだったけれど、本当はどっちが正しかったんだろうか。殺さない方がよかったのではないだろうか。そんなことを思ってしまう。

 もしもの仮定をしてみたところで、詩織が戻ってくるはずもない。死者は生き返らない。やってしまったことも元には戻らない。けれど、どうしても、そうしなければよかったのではないかと思ってしまうのだ。

「わかんねえよ、んなもん。というかそれも愚問だろうが」

 ぶっきらぼうに竹内は言う。本当は、刑事としては、人が死ぬということは否定しなければならない悪なのだろう。殺人犯は悪。自殺も悪。そういうことになっている。でも、どうしても、目の前にいる坂井を見ていると、どうしてもそんな気にはなれなかった。

「死んだ人間が幸せだったかどうかなんて、その本人にしかわからない。そんなこと、考えるもんじゃない」

「そう、ですよね」

 それを見て、ほっとしたかのように坂井は呟いた。この刑事の言う通りかもしれない。そんなことを考えたところで意味はない。少しだけ、そう思えた。

 もう、取調室に音を立てるものは何もない。夜も更けて、車が走り去る音や、警察官たちの喧騒も聞こえない。すすり泣く音もとっくに止んだ。そんな沈黙の中、どうやって時間を計ればいいのだろう。もう、ずいぶんと長い時間が経ったような、そんな気がする。体感時間にして一時間くらいだろうか。竹内は、こうして何も言わない坂井と向かい合っていた。

「あの、刑事さん」

「なんだ?」

 意を決した坂井が口を開く。

「おかしなお願いだってことはわかってます。でも、あの、アリバイの写真のことなんですけど、俺が脅して撮らせたってことにしてもらえませんか」

 とうとう来たか。そう、竹内は思う。ひょっとしたら、切り出してこないんじゃないか。そう思っていたころだった。そして、もしも切り出してこられた場合の対応を、すでに竹内は決めていた。ずっと前、鈴木に一人で事に当たらせてくれと頼んだ時から、腹の中は決まっていた。

「真実のままだとすれば、君の罪は自殺幇助罪だ。別にそこまで重くはならない。でも、殺人罪だとかなり重くなるぞ」

 けれど、まずは建前を説明する。けれど、坂井はきっぱりと決まった顔で言い切った。

「わかってます。覚悟の上です。それに、刑事さんに不正をさせるってことも。でも、その上で、やっぱり頼みたいんです」

「それは、被害者のことを考えてか?」

「ええ、そうです。俺は罪の意識に耐えられずに自首してしまったけど、それでも、詩織は真実を明らかにされることを望んでなかった。詩織のためにも、そうしてあげてほしいんです」

 それが、動機。自首したけれど、決して動機を口にしなかった理由。すべてを失ってまで、坂井が守りたかったもの。それが、今、竹内の手の中にゆだねられていた。少し自嘲気味に坂井は言う。

「それに、きっとこれは報いなんですよ。今までずっと、責任から逃げ続けた俺の。期待されて、それが怖くて逃げだした俺に対する報いなんじゃないかと思ってるんです」

「本当にいいんだな」

「はい」

 竹内は坂井の赤く染まった目を見つめる。坂井も竹内を見つめ返した。その目に浮かんでいた表情は、真剣の二文字、ただそれだけだった。

「君が、本当に、心の底からそれを望むというのなら俺は……」

 その続きは十六夜に誘われ、どこかへと消えていった。

これにて『十六夜に誘われ』は完結です。ここまでお読みくださった皆様、ありがとうございました。ぜひまたどこかでよろしくお願いします。それでは。

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