ACT 1:最初の一歩
「夜明けが、再び東の地平線を赤く染め始めた。」
「この惑星を照らす星の光が、ゆっくりと果てしなく広がる森を撫でていく。露に濡れたままの葉々が、朝の訪れとともに目を覚ましていく。」
「柔らかな風が吹き抜け、空へ向かってそびえ立つ巨大な木々を揺らしている。」
「生い茂る葉の間では、見たこともない生物たちの声が互いに響き合い、新たな一日の到来を告げていた。」
「遠くでは、山々が緑豊かな谷を取り囲むように、雄大な姿を見せている。その地は、未だ人間の手に触れられたことがない。」
「澄み切った川が大地を切り裂くように流れ、朝の光を反射して、まるで無数の水晶のように輝いていた。」
「一見すれば……」
「……この世界は、あまりにも平和だった。」
「生命に満ちている。」
「まるで、戦争というものを知らないかのように。」
「血というものを知らないかのように。」
「そして、滅びというものを知らないかのように。」
「しかし……」
「……その穏やかな静寂の裏側で……」
「……運命は、すでに動き始めていた。」
「ゆっくりと。」
「誰にも知られることなく。」
【石炭紀・280年|3月7日|06:33】
朝露が、まだ葉の先に残っていた。
柔らかな風が吹き抜け、朝の光に照らされた広大な田園を揺らしている。
一人の少女が、肩に鍬を担ぎながら緑の作物の間をのんびりと歩いていた。
口には一本の小さな草をくわえている。
どう見ても、仕事中の人間とは思えないほど呑気な表情だった。
「いやぁ……農家の生活って、こんな感じなんだな」
少女は周囲を見渡す。
「早起きして、風に吹かれて、泥まみれになって……」
彼女はため息をついた。
「まあ、まだ私にはイケてる顔があるからいいけど。これがなかったら、とっくに農家なんて引退してるね」
少女は一人で笑った。
その時。
視界の端に、誰かの姿が映った。
田んぼの真ん中に立っている。
こちらに背を向けたまま、微動だにしない。
少女は、すぐにニヤリと笑った。
「へへへ……」
「ターゲット発見」
彼女は秘密任務でも遂行するかのように、しゃがみ込んだ。
「よし、今日は絶対に勝つ」
「作戦。父さんを驚かせる」
「難易度。簡単」
「成功率。百パーセント」
自分自身に向かって親指を立てる。
「神レベルのイタズラ・スキル、起動!」
少女はゆっくりと歩き始めた。
一歩。
また一歩。
そして……
「おい、父さん!」
バシャァン!!
人影が、そのまま田んぼへ倒れ込んだ。
少女は飛び跳ねて喜んだ。
「ハハハハ! 引っかかった!」
「ついに! ついに父さんに勝った!」
勝利のポーズを決める。
「今日という日を歴史に刻もう」
「リオン・プランク、人生初の完璧なイタズラ成功!」
しかし……
反応がない。
少女の笑い声が止まった。
「……」
「え?」
彼女は倒れた人影を見る。
「まさか……」
近づいていく。
そして目を見開いた。
「は?」
「これ……藁人形じゃん!」
数秒後。
「……」
「つまり私、今……藁袋にイタズラしたの?」
背後から声がした。
「そうだ」
「そして俺は、今日一番悲しい光景を目撃してしまった」
リオンは飛び上がった。
「うわっ!」
振り返る。
そこには、鍬を持った男が立っていた。
リオンは男を指差した。
「父さん!?」
男は笑った。
「まさか、俺がそんな単純な罠に引っかかると思ったのか?」
リオンは田んぼの藁人形を指差した。
「だって……後ろから見たら父さんにそっくりだったんだもん」
「自分の父親と藁人形の区別もつかないのか」
「そんなこと言わないでよ。精神的にダメージ受けるんだけど」
男は小さく笑った。
「お前はまだまだ簡単に読まれるな」
リオンは腕を組む。
「オーケー。まず、それには異議を申し立てたい」
「なぜ?」
「父さんが強すぎる」
「お前がまだ初心者だからだ」
「はぁ!?」
リオンは自分自身を指差した。
「私が? 初心者?」
「そうだ」
「おいおい、私にもプライドってものがあるんだけど」
「落とす前に下げておけ」
「朝っぱらから毒舌すぎない?」
男はただ笑った。
「俺に勝ちたいなら、格好だけに頼るな」
リオンは眉を上げる。
「つまり、私に格好良さがあることは認めるんだ?」
「認めていない」
「……」
「自信だけは一人前だが、実力はまだロード中だ」
リオンは黙り込んだ。
「なんで急に煽ってくるの?」
「事実だからだ」
「父さん、NPCのくせに台詞が辛辣すぎるんだけど」
男はさらに大きな声で笑った。
「だから、もっと練習しろ」
リオンは泥の上に座り込み、ため息をついた。
「今日は私の負け」
「誰に?」
「藁人形と父さん」
「ずいぶん珍しい戦績だな」
「絶対に復讐するから」
「待ってる」
「本当に?」
「いや」
「ひどっ」
二人の笑い声が田んぼの中に響いた。
リオンと父親は田んぼの端に並んで座り、ゆっくりと色を変えていく朝の空を眺めていた。
柔らかな風が二人の間を通り抜け、草原を小さな波のように揺らしている。
リオンは目を細めながら空を見上げた。
「父さん……」
「ん?」
「あれ、何?」
父親はリオンが指差した方向を見る。
「光っているやつか?」
「うん」
リオンは眩しそうに目を細める。
「なんであんなに明るいの? 目が痛くなるんだけど」
父親は小さく笑った。
「あれはトラピスト1だ」
「トラピスト1?」
「ああ」
父親は静かに空を見上げた。
「人類がこの惑星で暮らせる理由の一つだ。この星の光とその恒星系が、ここで生命が存在することを可能にしている」
リオンはしばらく黙っていた。
「じゃあ……あれがなかったら、私たちは存在しなかった?」
「まあ、そういうことだ」
リオンは再び空を見上げた。
「すごいな……」
そして突然、父親に抱きついた。
「父さん」
「ん?」
「父さんって、たまに変だけど……」
父親は眉を上げる。
「たまに?」
「オーケー。結構」
「……」
「それに、すぐ知ったかぶりするし」
「リオン」
「へへ、冗談」
リオンはさらに強く抱きしめる。
「でも、リオンは父さんのこと大好きだから」
「ずっと」
しばらくの間、父親は何も言わなかった。
その笑顔が、ゆっくりと消えていく。
「……」
リオンは父親の顔を覗き込んだ。
「父さん?」
「ん?」
「どうしたの?」
「何が?」
「さっきの顔、変だった」
父親はすぐに顔を背けた。
「何でもない」
「でも、父さん……悲しそう」
「少し昔のことを思い出しただけだ」
「思い出?」
父親は答えなかった。
ただ、もう一度空を見上げる。
「忘れろ」
数秒後、父親は立ち上がり、鍬を手に取った。
「さて」
「え?」
「仕事の時間だ」
リオンは瞬きをした。
「マジで? 今、感動的なシーンだったのに、いきなり仕事?」
父親は小さく笑った。
「植物は家族ドラマなんて気にしない」
「ひどすぎる」
「稲を刈ってこい」
「了解、ボス」
リオンは自信満々に立ち上がった。
「でも、その前に……」
彼女は鍬を持ち上げる。
「新しい技を見せてあげる」
父親は怪訝そうに見る。
「技?」
「そう」
リオンは誇らしげに笑った。
「史上最速の収穫技!」
鍬を空中へ放り投げる。
「よく見てて!」
鍬が空中で高速回転する。
そして……
ブンッ!
弧を描き、まるでブーメランのように飛んでいく。
数本の稲が綺麗に刈り取られた。
鍬はそのままリオンの手へ戻ってくる。
彼女は勝利のポーズを決めた。
「ブーン!」
「効率的。格好いい。そして時間の無駄もない」
「父さんも、私が天才だって認めるしかないね」
父親はただ微笑んだ。
「終わったか?」
リオンは誇らしげに頷く。
「もちろん」
父親はいくつかの稲を手に取った。
そして、何気ない動作で……
一度、触れただけ。
その瞬間。
目の前の一帯が、綺麗に倒れた。
リオンは固まった。
「……」
「……」
「父さん」
「ん?」
「今の何?」
「稲刈りだ」
「違う」
リオンは田んぼを指差した。
「それ、稲刈りじゃない」
「ズルじゃん」
父親は笑った。
「お前は動きが多すぎる」
「でも格好良さは大事でしょ」
「見せ物ならな」
「おい!」
父親は再び仕事に戻った。
「良い技というのは、一番派手なものじゃない」
「一番正確なものだ」
リオンは父親の収穫を眺める。
そして、自分の技を見る。
「……」
「今日の結論」
「私はまだ負けてる」
父親は笑った。
「今日のところはな」
リオンは目を細める。
「明日は勝つ」
「待ってる」
「本当に?」
「いや」
「父さん!」
二人の笑い声が、再び田んぼに響いた。
トラピスト1の光がゆっくりと地平線の向こうへ沈み始め、広大な田園を柔らかな橙色に染めていく。
一日の仕事を終え、リオンと父親はようやく収穫を終えた。
二人は畑の中央に立ち、積み上げられた収穫物を眺めていた。
リオンの父親は安堵の息を吐く。
「どうやら、十分な収穫になったな」
リオンは誇らしげに笑い、汗を拭った。
「当然でしょ。私がいるんだから」
父親は横目で見る。
「お前は手伝うより騒いでいた時間のほうが長いがな」
「え? それが仕事のスタイルってやつだよ」
二人は小さく笑った。
質素な一日だった。
それでも、二人にとってその日は十分に意味のあるものだった。
今回の収穫があれば、少しだけ生活を楽にできる。
片付けを終えた後、父親はいくつかの荷物をまとめた。
「リオン」
「ん?」
「街へ行って収穫物を売ってくる」
「一人で?」
父親は頷いた。
「お前は家に残れ」
リオンは眉を上げる。
「なんで?」
「家を守れ」
「何から?」
「野生動物」
少し間を置いて。
「あるいは、悪意を持った人間からだ」
リオンはゆっくり頷いた。
父親は、彼女にショットガンを手渡した。
「本当に必要な時だけ使え」
リオンは少し驚きながら受け取った。
「マジで? 私がこれ持ってもいいの?」
「お前なら考えて使えると信じている」
リオンは小さく笑った。
出発する前に、父親はポケットから小さな物を取り出した。
一本のペンだった。
「これをお前にやる」
リオンは困惑した。
「……ペン?」
「ああ」
「父さん、私に武器を渡したあと、次はペン?」
父親はただ微笑んだ。
「そのペンは大切なものだ」
「捨てるなよ」
リオンはペンを手の中で転がした。
「でも、ただのペンじゃん」
「そのうち分かる」
リオンがさらに尋ねようとした時には、父親はすでに車へ向かっていた。
「気をつけろよ」
「父さんもね」
車はゆっくりと動き始め、リオンの父親を街へと運んでいった。
リオンは車が遠ざかっていくのを見つめた。
そして、手の中のペンを見る。
「ペン……」
肩をすくめる。
「変なの」
しばらくして。
「たぶん、役に立たないな」
何も考えず、リオンはそのペンをゴミ箱へ放り込んだ。
そして家へ戻った。
やがて夜が訪れる。
リオンは簡単な夕食を作り、テレビの前に座った。
いつものように娯楽番組が流れている。
リオンは番組を見ながら小さく笑った。
「今日はまあまあだったな」
しばらくすると、疲労が彼女を襲った。
リオンはソファで眠りについた。
時間が流れる。
家は静寂に包まれた。
そして……
キィィィィ……ザザッ……
テレビからノイズが響いた。
画面が点滅する。
信号が乱れ始めた。
キィィィ……ザザッ……
家の照明が何度か明滅する。
外では、風が止まった。
そして遠くから……
本来なら存在するはずのない、不気味な音が聞こえてきた。
キィィィ……ザザッ……
テレビから響くノイズが、眠っていたリオンを目覚めさせた。
彼女はまだ半分眠ったまま、目を開ける。
「ん……何だよ……」
テレビには黒い影だけが映り、耳を塞ぎたくなるような激しい静電ノイズが響いていた。
ザザザザッ……ザザッ……
リオンはため息をつき、リモコンを手に取った。
「壊れるなら、こんな夜中に壊れないでよ……」
テレビの電源を切る。
部屋が一瞬で静かになる。
リオンは立ち上がり、窓へ向かった。
外を見る。
空が明るくなり始めていた。
遠くからトラピスト1の光がゆっくりと差し込み始めている。
しかし……
家の周囲には、どこか異様な空気が漂っていた。
静かすぎる。
リオンは道のほうを見る。
「父さん、まだ帰ってないの?」
時計を見る。
「マジ?」
あくびをする。
「まさか……」
疑うように目を細める。
「父さん、街で女の人とデートでもしてるんじゃ……」
一人で頷く。
「もう、あの年で帰宅が遅い言い訳を探すとか……」
しかし、その時。
ドォン!
遠くから小さな爆発音が聞こえた。
リオンの動きが止まる。
「……」
数秒後。
消したはずのテレビが、再び音を発した。
ザザッ……
リオンは困惑しながら画面を見る。
「これ……偶然じゃないよね?」
彼女は家の外へ出て、周囲を確認した。
朝の風は、どこか違っていた。
その時。
空からエンジン音が聞こえてきた。
ブォォォォ……
木々の向こうから、一機のヘリコプターが姿を現した。
強烈なライトが、リオンの家を照らす。
「何だよ、これ?」
リオンは眩しそうに目を細めた。
ヘリコプターがゆっくりと降下する。
武装した数人の兵士が地上へ降り立った。
リオンはすぐに警戒した。
そのうちの一人が近づいてくる。
「お嬢さん」
リオンは眉を上げた。
「はい?」
「我々はある人物を探している」
「誰?」
兵士は検索データを見せた。
「年配の女性と、赤ん坊だ」
リオンは黙った。
「年配の女性……と、赤ん坊?」
「ああ。この周辺で見たことはあるか?」
リオンは首を横に振った。
「ない」
「本当に?」
「うん」
ポケットに手を入れる。
「見てたなら言ってるって」
兵士は疑わしそうにリオンを見る。
「ここには一人で住んでいるのか?」
「いや。父さんと一緒」
兵士たちの表情が変わった。
互いに顔を見合わせる。
「何かおかしい」
リオンは眉をひそめた。
「え?」
兵士の一人がリオンの顔を注意深く見る。
「この子……」
「似ている」
リオンはすぐに割り込んだ。
「ちょっと待って」
「私、あなたたちが探している女性の子供じゃないからね」
兵士たちは黙った。
リオンは両手を上げる。
「本当だから。変な推理を始めないでよ」
「私はただの農家」
自宅を指差す。
「あなたたちの問題なんて何も知らない」
兵士はまだ納得していない。
そこでリオンは彼らの通信装置を指差した。
「でも、一つ聞きたい」
「何だ?」
「この辺りの信号をおかしくしたの、あなたたち?」
兵士は一瞬黙った。
そして答えた。
「そうだ」
「この地域で稼働している電子機器を探知するために、信号妨害を使っている」
「ターゲットを見つけるためだ」
リオンは森のほうを見る。
「じゃあ、さっきの変な音も……」
「あなたたちが原因?」
兵士は答えなかった。
ただ、リオンを真剣な目で見つめる。
「何か怪しいものを見つけたら、すぐに報告しろ」
リオンは無表情で答えた。
「はいはい。分かったよ」
しかし、頭の中では一つの疑問が渦巻いていた。
なぜ、彼らは女性と赤ん坊を探している?
そして、なぜ信号障害が発生した直後にここへ来た?
兵士たちは数歩後退した。
そのうちの一人が装置から小さな紙を取り出す。
「これを持っていろ」
リオンは困惑しながら受け取った。
「写真?」
「ああ」
「何のため?」
「これを見れば、誰を探せばいいのか分かる」
リオンは写真を一瞥した。
「謎の老女と赤ん坊……」
肩をすくめる。
「朝からずいぶん普通じゃない事件だね」
誰も笑わなかった。
兵士たちは無表情でリオンを見ている。
「軽く考えるな」
そう言い残し、兵士たちはヘリコプターへ戻った。
エンジンが始動する。
ローターの風が、家の周囲の草を激しく揺らした。
リオンは黙って彼らを見送った。
ヘリコプターはゆっくりと空へ上昇し、木々の向こうへ消えていった。
「……」
「オーケー」
リオンは手にした写真を見る。
「一体、何が起きてるんだ?」
家へ戻る。
先ほどまでとは、空気がまるで違っていた。
リオンは座り、写真をじっくりと見つめた。
女性の顔。
その目。
身につけている服の細部。
すべてが見覚えのないものだった。
なのに……
なぜか、嫌な感じがする。
「私……これに似たものを見たことがある?」
眉をひそめる。
その瞬間……
キィィィン……
鋭い痛みが頭を貫いた。
リオンはすぐに頭を押さえる。
「うっ……」
呼吸が荒くなる。
「何……」
「何なの、これ……」
痛みがさらに強くなる。
視界がぼやける。
手にした写真を強く握り締める。
一瞬。
リオンの表情が変わった。
困惑ではない。
もっと本能的で、荒々しい何か。
理性の外側から湧き上がるような感覚。
彼女は写真を乱暴に引き裂いた。
ビリィッ!
紙片が床に落ちる。
しかし、リオンの動きが止まった。
写真の裏側。
そこには、小さな装置が隠されていた。
発信機。
リオンは荒い呼吸のまま、それを見つめる。
「つまり……」
「これが原因だったのか」
迷うことなく装置を握り潰す。
バキッ!
機械の駆動音が止まった。
リオンは黙り込んだ。
ゆっくりと、正常な思考が戻ってくる。
自分の手を見る。
「……今、何が起きた?」
答えはない。
ただ、静寂だけが残っていた。
数分後。
リオンは家の屋上にあるバルコニーへ出た。
空を見上げる。
トラピスト1の光が、周囲の世界を照らし始めている。
しかし今は、その景色を見ても平和だとは思えなかった。
リオンは遠くの森を見る。
そこには何かがある。
何かが隠れている。
理由は分からない。
それでも、彼女の感覚は告げていた。
あの森に答えがある。
その頃……
家から遠く離れた森の奥。
完全武装した数十人の兵士が、静かに立っていた。
彼らはリオンを監視している。
誰も口を開かない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
彼らは偶然ここへ来たのではない。
リオンは依然として、自宅のバルコニーから森を見つめていた。
「変だな……」
「なんで、誰かに見られてる気がするんだ?」
小さく息を吐き、テーブルへ戻る。
「まあいいや。先に飲み物飲もう。考えすぎかも」
手を伸ばして、テーブルの上のグラスを取ろうとする。
しかし、その拍子に肘が何かへ当たった。
ガタン!
椅子の横に置かれていたショットガンが落ちる。
リオンの目が見開かれた。
「ちょっと……」
バァン!
銃声が朝の静寂を打ち破った。
リオンは固まる。
床に落ちた銃から、薄い煙が立ち上っている。
「……」
「やっちゃった」
リオンはゆっくり森を見る。
「今、何か撃った?」
しかし、彼女の立っている場所からは何も見えない。
彼女は知らなかった。
遠くの木々の陰に、兵士たちが潜んでいたことを。
そのうちの一人が、偶然放たれた弾に倒れていた。
兵士たちが一斉に動く。
「接触!」
「位置がバレた!」
「ありえない。あの距離から、正確にこちらを撃っただと?」
「ターゲットは我々の存在を察知した!」
彼らは互いに合図を送る。
しかし、リオン本人は何も知らない。
彼女にとっては、ただの間抜けな事故だった。
「本当に、物を適当に置くのやめないとな……」
だが兵士たちにとって……
リオンは、もはや普通の農家の少女ではなかった。
彼らは彼女を脅威と判断した。
兵士の一人が照準装置を構える。
いくつもの赤いレーザーが現れた。
そして、その一つがリオンの額にぴたりと止まる。
リオンはその光に気づいた。
「……」
額に触れる。
「何これ?」
数秒後。
本能が叫んだ。
危険。
リオンは即座にその場から飛び退いた。
バァン! バァン! バァン!
銃弾がバルコニーを撃ち抜いた。
リオンは驚愕する。
「マジで!?」
家の中へ飛び込み、扉を勢いよく閉める。
「私、ただ飲み物飲みたかっただけなんだけど!」
「なんでいきなり撃たれるの!?」
銃弾が家の外壁を打ち抜く。
リオンは状況を理解しようとしながら、メインルームへ走る。
「オーケー」
「相手は武器を持ってる」
「私を狙ってる」
「そして、どう考えても稲を買いに来た人たちじゃない」
窓の陰から外を覗く。
「強盗?」
少し考える。
「うん」
「それなら筋は通る」
「家の持ち主として、私はここを守らないと」
リオンは小さく笑った。
「幸い、変なアイデアならたくさんある」
リオンは防衛の準備を始めた。
最初の罠。
隠し警報ワイヤー。
いくつかの侵入経路に細いワイヤーを張り、金属製の物体へ接続する。
「これを踏めば、少なくとも位置は分かる」
カン! カン!
誰かが通れば、すぐに音が鳴る仕組みだ。
二つ目。
農業用スモーク。
植物用の噴霧器を改造し、濃い霧を発生させる。
「攻撃するんじゃない」
「ただ、視界を奪うだけ」
三つ目。
滑走路。
玄関付近に特殊な農業用液体を撒く。
「エリート部隊みたいな格好で来ても……」
「歩き方くらいは忘れないでね」
四つ目。
囮の扉。
本物の入口に見える偽の侵入口を作る。
「頭がいいなら警戒する」
「頭が悪ければ……」
「入ってくる」
五つ目。
改造農業ドローン。
畑の監視に使っている小型ドローンを取り出す。
「ごめんね、小さい相棒」
「今日は農業用じゃない」
「この家の警備員になって」
ドローンが起動し、家の周囲を飛び始める。
リオンは完成した防衛設備を見渡した。
そして息を吸う。
「オーケー」
「なんで撃たれてるのかは分からない」
「相手が誰なのかも分からない」
「でも、こいつらが入ってくるつもりなら……」
自信ありげに笑う。
「まず、この家を突破してみな」
木々の向こうでは、兵士たちがゆっくりと接近していた。
彼らが見ているのは、怯えた少女ではない。
理解できないターゲットだった。
そして、彼らはまだ気づいていなかった。
田園の中央に建つ小さな家が、ただの住居ではなくなっていることに。
それはすでに、リオン・プランクが作り上げた戦場になっていた。
兵士たちの足音が、さらに近づく。
小さな家は、今や戦場の中心となっていた。
壁の向こうで、リオンは小さなドローンの映像を緊張した表情で見つめている。
「まだ結構いるな……」
彼女は息を吸った。
「オーケー」
「これを生き延びたら、自分に美味しいものを奢ろう」
小さなボタンを押す。
玄関がゆっくりと開いた。
数人の兵士が整然とした隊形で侵入する。
「エリアクリア」
「各部屋を確認しろ」
しかし、数歩進んだところで……
カン!
金属音が響いた。
兵士の一人が足を止める。
「何だ?」
次の瞬間。
リオンが作った簡易警報が、家中から一斉に鳴り響いた。
カン! カン! カン!
兵士たちが一斉に周囲を見回す。
「陽動だ」
「引っかかるな!」
だが、遅かった。
天井と壁際から、農業用の濃霧が噴き出す。
シューーーッ……
視界が一気に悪くなる。
「視界低下!」
「探知装置を使え!」
リオンが扉の陰から覗く。
「罠その一」
「うるさいけど効果はある」
兵士たちは部屋から出ようとする。
しかし、リオンが仕掛けた滑りやすい液体によって足元を取られ、何人かがバランスを崩した。
隊形が崩れる。
「散開するな!」
「奴は我々を分断しようとしている!」
しかしリオンは、すでに次の手を打っていた。
別のワイヤーを引く。
バキッ!
収納棚が倒れ、侵入口を塞いだ。
何人かの兵士が反対側に閉じ込められる。
「通路が塞がれた!」
リオンは小さく笑った。
「小さな家」
「大きな問題」
だが、経験のある兵士たちはすぐに障害物を破壊した。
そして再び前進する。
「こいつは環境を利用しているだけだ」
「ターゲットを侮るな」
リオンは焦り始めた。
「マジで?」
「なんで頭のいい人だけ残ってるの?」
彼女は家の奥へ後退する。
その時、農業用ドローンが飛び出した。
「ごめん」
「今日は作物の監視じゃないから」
ドローンが兵士たちの視界と通信を妨害する。
しかし、一人の兵士がドローンを撃ち落とした。
「ドローン撃墜」
リオンは消えた画面を見る。
「うわぁ……」
「対主人公スキル持ちだ……」
兵士たちはさらに近づいてくる。
一方、罠にかかった兵士たちの何人かは動けなくなり、追跡を続けられなくなっていた。
残った兵士の数は減っていく。
だが、最後まで立っているのは、最も止めることが難しい者たちだった。
一人の兵士が廊下へ姿を現す。
「終わりだ」
リオンは後退を止めた。
背後には壁しかない。
出口はすべて塞がれていた。
右を見る。
左を見る。
何もない。
「オーケー」
「ここは主人公が『まだ奥の手がある』って言う場面だ」
少し黙る。
「……」
「ないけど」
兵士が近づく。
銃のレーザー照準が光る。
しかし、その瞬間。
リオンの背後にある暗い部屋で、何かが動いた。
影が現れる。
リオンは叫ぶ暇すらなかった。
「え――」
次の瞬間。
何かがリオンの身体を掴み、隠し部屋の中へ引きずり込んだ。
扉が閉まる。
兵士たちは足を止めた。
「ターゲット消失」
「探せ」
彼らは家中に散らばり、捜索を始める。
一方、暗い部屋の中では……
リオンが床へ転がり落ちた。
荒い息を吐く。
そして、自分を引き込んだ人物を見る。
その日初めて。
リオンは、冗談を言うべきなのか、怖がるべきなのか分からなかった。
なぜなら……
自分を救った存在は……
彼女が知っている人間ではなかったからだ。
リオンの身体が、壁の裏にある狭い部屋へ引きずり込まれる。
バタン!
鉄製の扉が固く閉じた。
リオンは慌ててショットガンを構える。
「誰だ!?」
影が銃口を押さえた。
「下ろせ」
その声。
聞き慣れた声だった。
「……父さん?」
リオンは目を見開いた。
次の瞬間、何も考えずに父親へ抱きついた。
「父さん!」
「無事だったんだ!」
「どこにいたの!?」
父親は娘を抱き返し、優しく頭を撫でる。
「すまない……」
「遅くなった」
リオンは父親の胸を軽く叩く。
「父さんのバカ」
「ちょっと行ってくるって言ったじゃん」
「もう朝になってる!」
「外には頭のおかしい連中までいて、私、撃たれたんだよ!」
父親は薄く笑った。
「帰る途中で足止めされた」
「奴らはすでに主要道路を封鎖していた」
「だから、裏道から入った」
父親は二人が立っている狭い通路を指差した。
「このトンネルは、この家が建つよりずっと前から存在している」
リオンが質問するより先に……
ドォォン!!
部屋全体が揺れた。
天井から埃が落ちてくる。
遠くで金属を破壊する音が響いた。
「アルファチーム!」
「床を破壊しろ!」
「ターゲットを逃がすな!」
父親の表情が一瞬で変わった。
「時間がない」
父親はリオンの両肩を掴む。
「よく聞け」
「質問していい」
「ただし、時間はほとんどない」
リオンは涙を拭った。
「じゃあ……」
「なんで私の名前、リオン・プランクなの?」
「変な名前だよね」
「どうして他の名前じゃなかったの?」
父親は数秒黙った。
そして、小さく笑った。
「プランク……」
「それは、宇宙の多くの自然法則の基礎となる、最小単位の一つだ」
「どれほど大きなものでも……」
「始まりは、とても小さなものなんだ」
父親はリオンの目を見つめる。
「昔、お前を見つけた時……」
「お前は、まだ赤ん坊だった」
「小さくて」
「弱くて」
「何もできなかった」
「それでも、俺は信じていた」
「いつか、お前が何かもっと大きなものの始まりになると」
「だから、お前にプランクという名前を与えた」
リオンは俯いた。
「……」
「父さん……」
再び轟音が響いた。
ドォォン!
天井の一部に亀裂が走る。
兵士たちの足音が、さらに近づいてくる。
リオンは拳を握り締めた。
「本当は……」
「何が起きてるの?」
「奴らは誰?」
「どうして私を追ってるの?」
父親は目を閉じた。
まるで、これから口にする言葉が、この世で最も重いものだと言わんばかりに。
「リオン……」
「父さんから話さなければならないことがある」
「お前は……」
「俺の実の娘じゃない」
部屋が静まり返った。
「……」
リオンは呆然と父親を見る。
「え?」
「父さん……」
「冗談、だよね?」
父親はゆっくりと首を横に振った。
「違う」
リオンも激しく首を横に振る。
「違う」
「嘘だ」
「そんなの信じない」
「父さんが嘘をついてる」
もう一度話そうとした、その時。
父親が手を上げた。
「頼む」
「最後まで聞いてくれ」
リオンは唇を噛み締めた。
涙が頬を伝い始める。
「父さんは、お前を……」
「森の中で見つけた」
「まだ赤ん坊だった」
「一人で」
「そして……」
父親は深く息を吸った。
「お前の母親は……」
「……もう亡くなっていた」
その言葉は、リオンの世界を粉々にした。
身体から力が抜ける。
涙が止まらない。
「嘘……」
「そんなの……」
「私……」
「私には母さんが……」
「……いるんだよね?」
答えはなかった。
ただ、静寂だけがあった。
リオンは顔を覆った。
泣き声が漏れる。
「私……」
「母さんのこと……」
「一度も知らないのに……」
ドォォン!!
遠くで床が崩れ始めた。
兵士たちの声が近づいてくる。
「下にいるぞ!」
「進め!」
父親はリオンの両頬を優しく掴んだ。
「リオン」
「父さんを見ろ」
リオンは泣き続ける。
「俺を見ろ」
ゆっくりとリオンが顔を上げる。
「泣いてもいい」
「でも、歩くことをやめるな」
「お前の人生は、まだ始まったばかりだ」
「俺は、お前を育ててこられたことを誇りに思っている」
リオンは唇を噛み締める。
「父さん……」
男は優しく笑った。
いつもの笑顔。
毎朝見てきた笑顔。
それを見れば、すべてが大丈夫だと思えた。
その時。
通路の隅から一本のペンが転がってきた。
ペンはリオンの目の前で止まった。
リオンの目が見開かれる。
「ペン?」
「でも……」
「これ、捨てたはずなのに……」
父親は深いため息をついた。
「本当に捨てたのか?」
リオンはゆっくり俯く。
「……うん」
「それは普通のペンじゃない」
「それは……」
「お前の母親の形見だ」
リオンは固まった。
震える手でペンを拾い上げる。
両手で付着した埃を丁寧に拭う。
まるで、その小さな物が世界で最も大切な宝物であるかのように。
「私……」
「ごめん……」
「本当に、ごめんなさい……」
しかし、二人がそれ以上話すことはできなかった。
ドン! ドン! ドン!
銃弾が通路を撃ち抜いた。
父親はすぐにリオンの手を掴んだ。
「行くぞ!」
二人は、地下の真空チューブへ接続された円筒形のカプセルへ走る。
扉が開く。
父親はリオンを中へ押し込んだ。
「これを」
封筒を渡す。
「中に指示がある」
「全部、その通りにしろ」
「戻ってくるな」
リオンは手紙を強く握る。
「じゃあ、父さんは?」
父親はただ笑った。
「誰かが、奴らを止めなければならない」
「嫌!」
リオンはすぐに外へ出ようとした。
しかし……
バタン!
カプセルの扉が閉じた。
「父さん!」
「開けて!」
リオンは透明なガラスを力いっぱい叩く。
「父さんも入って!」
「父さん、私を置いていかないで!」
男はただ、ガラスの向こうに立っていた。
そして、ゆっくりと手を透明な壁へ当てる。
「ありがとう……」
「俺の娘でいてくれて」
自動カウントが始まった。
10……
「父さん!」
9……
「お願い!」
8……
「一人になりたくない!」
7……
「父さん!」
涙が止まらない。
6……
男は、それでも笑っていた。
5……
「強くなれ」
4……
「生きろ……」
3……
「自分自身のために」
2……
リオンは赤くなった手で、何度もガラスを叩き続ける。
1……
真空システムが起動した。
ゴォォォォォォッ!!
カプセルが地下トンネルを高速で走り去っていく。
後方のガラス越しに、リオンは父親が一人で立っている姿を見ていた。
やがて数十人の兵士がトンネルへ侵入する。
閃光が部屋を埋め尽くした。
銃声が響く。
父親の姿が、光と粉塵の向こうへ消えていく。
リオンが最後に見たもの。
それは、あの笑顔だった。
幼い頃から、ずっと彼女のそばにあった笑顔。
そして、その朝。
リオンと父親の生活は……
永遠に終わった。
森は再び静寂に包まれた。
朝露はまだ葉に残り、トラピスト1の光が木々の隙間を通り抜け、誰にも踏み荒らされていない谷を照らしている。
突然……
岩壁が小さく震えた。
グググ……
狭い亀裂がゆっくりと開き、その奥から隠された金属製のトンネルが姿を現す。
数秒後……
ゴォォォッ!
真空カプセルが飛び出し、やがてレールの上でゆっくりと停止した。
扉が開く。
プシューッ……
リオンが震える身体で外へ出る。
手には、まだ手紙が握られていた。
ペンはポケットの中にある。
しかし、その二つを持っていても、胸の苦しさは消えなかった。
再び涙が溢れる。
リオンはその場に膝をついた。
静かな森の中で、声を上げて泣いた。
「父さん……」
数分前の記憶が、何度も頭の中を駆け巡る。
最後の笑顔。
最後の眼差し。
そして、最後に自分の名を呼んだ声。
リオンは俯いた。
もう……
帰る家はない。
毎朝、田んぼで待っていてくれる人もいない。
優しく名前を呼んでくれる人もいない。
残されたのは、自分一人だけだった。
しばらくして、リオンはゆっくりと涙を拭った。
深く息を吸う。
「違う……」
「父さんは、私に泣き続けてほしくないはずだ」
ゆっくりと立ち上がる。
茂みの向こうには、一台の古びたバイクが停められていた。
父親のものだった。
まるで、すべてが起こるずっと前から準備されていたかのように。
リオンは近づいた。
そして、そっとハンドルを撫でる。
父親から渡された手紙を取り出した。
手はまだ少し震えていた。
最初の折り目を開く。
そこには、いくつかの短い指示が書かれていた。
そして、一つの目的地だけがはっきりと記されていた。
エース市。
リオンは、その名前をしばらく見つめていた。
「……」
何も言わず、手紙を再び折りたたむ。
バイクに鍵を差し込む。
エンジンが唸り声を上げた。
ヴルルルル……
リオンは一度だけ、背後の森を振り返った。
すべてが変わった場所。
「父さん……」
「約束する」
「私は、生き続ける」
バイクはゆっくりと森を離れていく。
家を離れ。
幼少期を離れ。
そして、二度と会うことのできない人を残して。
リオン・プランクの旅は……
今、始まったばかりだった。
【ACT 1 END】




