23話 愛人令嬢は終わりです(後編)
この流れで名前を呼べる根性はすごいと感心するイリスと違い、ブルーノはローラに対して驚くほど無感情だ。というより、彼女がこれほどまでに話が通じないわがままな令嬢であることを、ブルーノは最初から把握していたらしい。
「セルデン子爵令嬢が『他人の恋人にばかり興味を持つ』という噂は、本当のようだな」
「えっ……」
ブルーノの指摘にローラの肩がびくりと跳ねる。そのまま表情を強張らせ、硬直してしまう。
初めて耳にする『噂』だったのでイリスはまたも仰天したが、どうやらローラ本人は身に覚えがあるらしい。ふるふると首を振って、ブルーノの腕に縋りつこうとする。
「違います! 私はただブルーノさまが心配で……!」
「俺の心配? ついさっき、恋人と別れたからブルーノさまのお傍に、と自分で口にしたのに?」
「! そ、それは……!」
ローラの発言に早くも綻びが生じ始める。
彼女は先ほど、クリフとの交際が終了したのでブルーノの元へやってきた、と口にした。だがそれは彼女がたった今口走った、ブルーノが心配だから、という理由とは矛盾する。自分がブルーノと懇意になりたいのか、イリスと親密だと噂のブルーノを心配する親切心なのか、目的がちぐはぐで主張が定まっていない。
いや、もしかしたら『両方』なのかもしれない。彼女はきっと、これまで女性に一切の興味を示さなかった堅物宰相・ブルーノ=マスグレイヴが恋人を持った、と耳にしたことで『悪い癖』に火がついた。
ブルーノに興味を持った。
ブルーノを手に入れたくなった。
そのために、邪魔なイリスを排除しようとしている、とも考えられる。
「噂通り、本当に見境のない女性なのだな」
ふとブルーノが言い放った言葉に、イリスの心臓がどきりと跳ねた。
(その台詞は……)
ブルーノの一言は、以前ローラがイリスに投げつけた毒のある台詞とまったく同じものだった。あの夜、ローラに見下げられて踏みつけられるような言葉に密かに傷ついたイリスだったが、こうして時を経てブルーノが言い返してくれたことで、やっと胸のつかえがとれる。
イリスの噂は完全に言いがかりだが、ローラの噂はおそらく事実だ。なぜならブルーノは人の噂を鵜呑みにすることはなく、自分の目と耳で真実を見定めることを徹底する人である。そのブルーノが『噂通り』と評するのだから、きっとそう判断する確証があるのだろう。
「イリスは清廉潔白で優しい人だ。当然、愛人などという不道徳に走るような女性ではない」
これ以上嘘の噂を吹聴しないよう、ブルーノが強い言葉でイリスを擁護する。――イリスへの真っ直ぐな想いを示してくれる。
「本当のイリスを知ろうともせず、噂だけで彼女を判断し、陰で悪く罵る者とは関わりたくない。これ以上、イリスや俺の周りをうろつくのはやめてくれ」
「そんな……ブルーノさま……!」
「理解ができないようなら、君の代わりにセルデン子爵を呼び出して説得することもできるが?」
「!」
ブルーノの冷たい台詞と視線が、なおも縋りつこうとするローラをきっぱりと拒絶する。
なおも自身の意見を貫き通そうとするのであれば、父であるセルデン子爵に話をつける、と宣言され、とうとう彼女も諦めたようだ。
「申し訳、ございません……。……失礼いたします」
ようやく頭を下げて謝罪の言葉を呟いたローラが、涙を拭いながら回廊を走り去っていく。
そっちはゲストルーム側に続く通路なので王宮のエントランスからは遠ざかってしまいますよ……と、ささやかな情けをかける余裕もないほど、ローラの逃げ足は俊敏だった。
「……まったく。セルデン子爵は一体どういう教育を……っと、イリス?」
ぶつぶつと独り言を呟きながら宰相執務室へ足を向けかけたブルーノだったが、ふと視線を上げたことで、物陰に隠れるイリスの存在に気づいたらしい。回廊には隠れる場所なんてほとんどないので当然といえば当然だが、これで二人の会話を立ち聞きしていたことをブルーノに知られてしまうこととなった。
「も、申し訳ございません……」
はしたないことをしてしまった、と恥ずかしくなってそっと俯く。いや、違う。イリスは自分の行動と同じぐらい、直前に耳にしたブルーノの台詞にも恥ずかしい思いをした。先ほど感じた顔の火照りが、未だに引いていない。
「ど、どうしたんだ!? 顔が赤いぞ? まさか、具合でも悪いのか?」
「い、いえ……。その……ブルーノさまのお言葉に、照れておりました」
イリスの傍に近寄ってきて顔を覗き込んだブルーノが、慌てたように問いかけてくる。だから心配させまいと包み隠さず理由を伝えると、一瞬だけ動きを止めたブルーノが、すぐに破顔して頷いた。
「ああ、聞いていたのか」
「申し訳ございません。立ち聞きするつもりはなかったのですが……」
王宮のエントランスから宰相執務室へ赴く場合、どうしてもこの通路を通る必要がある。一応、一旦二階に上がって上階で通り過ぎ、別の階段から一階に下りて引き返してくるという迂回ルートもあるが、大幅に時間を使うので実行をためらった。
と、釈明しようとしたイリスだったが、その前にブルーノが優しく微笑んでイリスの頭を撫でてくれた。
「いや、いいんだ。むしろ聞いていてくれて助かった。後で説明する手間が省ける」
「説明してくださるおつもりだったんですね」
「当たり前だろう。さっきも言ったはずだが、俺はイリスに誤解されたくない」
イリスが先ほどの会話を聞いていたことを知ったブルーノは、自身の考えをもう一度言い聞かせるよう、はっきりとそう宣言した。
「君に不信感を与えたくない。だから誤解の火種になりそうなことは、すべて自分の口で報告して説明する。イリスが俺を受け入れてくれなくても、この先もずっとだ」
「あ……そのこと、なんですが……」
真剣な表情のブルーノが『この先も』と口にしたことで、ふと思い出す。ここにきてまだ朝の挨拶すらしていないことも思い出したが、今のイリスには朝の挨拶よりも、優先したいことがあった。
イリスが早い時間から出勤した理由は、ブルーノに渡したい手紙があるから――彼に伝えたい想いがあるからだ。
それまで大事に握りしめていた手紙を両手で支えて、ブルーノの目の前へずいっと差し出す。
「これを、ブルーノさまに」
白い封筒。罫線上を歩く小さな猫。きらきらと輝くインクで記したブルーノの名前。クロムウェル家の紋章で捺した赤い封蝋。イリスの『特別』だけで綴った、たった一つの秘めたる想い。
その存在を認めたブルーノが、驚いたように目を丸くした。
「手紙……?」
「はい。その……お返事を、書きました」
「……」
「私にはこれしか取り柄がないですし、文字で書く方が伝わるのでは、と思いまして……」
イリスの説明を聞いたブルーノも、この手紙の中に、先日の告白に対する『答え』が記されていると気づいたのだろう。
ブルーノに告白を受けた夜から、ちょうど一週間が経過したところ。イリスがブルーノの仕事を手伝うのは週に二日か三日なので、あれからまだ二度しか会っていない。告白の返事は春まで待ってもいいと宣言していたブルーノなので、これほど早くイリスから返事があるとは思ってもいなかったはずだ。ブルーノにとっては急展開らしく、顔を上げてみると表情が固まっている。
彼の緊張につられるようにイリスも身を固くする。それでもどうにか照れを隠すように、
「書くときよりも、渡すときのほうが緊張しますね」
とはにかむと、固まっていたブルーノがようやく動き出した。
「あ、でもここでは恥ずかしいので……。執務室でお読み頂けますと……」
「……わかった」
イリスのお願いにブルーノがしっかりと頷いてくれる。受け取った封筒をじっと見つめつつ無言で歩き出したブルーノの後を追って、イリスも宰相執務室へと向かう。
ほう、と吐く息が白い。少し離れて歩く二人の間に、キンと冷たく澄んだ空気が通り過ぎていく。
王宮の回廊を巡る風が頬を撫でると、身震いするほどの冷たさを覚える。だが雪の香りを含んだ冬風の舞は、緊張で火照った身体を冷ますにはちょうどいい気がした。
◇◆◇
執務室に入ったその場所で、すぐに手紙を開いて読み始めたブルーノの俊敏さにびっくりする。そしてイリスの手紙を読み終わったブルーノに、突然強い力で抱きしめられことにはさらにびっくりした。
「ブルーノさま……!」
「嬉しい。ありがとう、イリス……本当に嬉しい」
ブルーノの声がイリスの鼓膜を震わせると、イリスも自然と彼の背中に手を回していた。
「私も、ブルーノさまのお気持ちが嬉しいです」
――イリスが綴った手紙は、それほど長い文章ではなかった。
イリスを見つけてくれたことへの感謝、居場所を与えてくれたことへの感謝、イリスを好きだと言って真っ直ぐに気持ちを伝えてくれる喜び、素敵な贈り物を選んでくれたことの喜び、イリスがブルーノに惹かれているところ。そしてこの恋心が、まだ始まったばかりだということ――。
伝えたいことはいっぱいあった。おそらく便箋十枚を全部使っても伝えきれないほど、たくさんの気持ちで溢れている。イリスの中で、それほどブルーノが大きな存在になっている。
けれど今のイリスが一番伝えたいことは、ブルーノがイリスに向けてくれる気持ちが嬉しいことと、彼の想いに応えたいこと。真剣に交際してほしいという想いを受け入れ、ブルーノの手を取ると決めたことだ。
「ブルーノさまは、私に付きまとう『愛人令嬢』の噂を鵜呑みにせず、私自身と真摯に向き合ってくださいました」
「……イリス」
「私もそんなあなたに惹かれているのです」
イリスが素直な気持ちを伝えると、身体を抱きしめていたブルーノが腕の力を緩めてくれる。
少し身体を離すと、至近距離でじっと見つめ合う。
とくとくと心臓が高鳴っている。灰色がかったなめらかで美しい銀髪の奥で、深海のように静かな青い目が、イリスの心を知りたがっている。手紙でもしっかりと伝えたけれど、言葉でもちゃんと聞きたい、と訴えてくる。
「好きだ、イリス。だから俺の、本物の恋人になってほしい」
「……はい」
ブルーノに改めて確認されたのでこくりと顎を引く。
「つたない私ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
イリスが自分の言葉ではっきりと応えると、ブルーノが緊張の表情を緩めて優しく微笑んだ。
その美貌に見惚れてしまう。体温が勝手に上昇する。
頭の中がふわふわと揺れていたせいか、ふと身を屈めて首を傾けたブルーノの行動に……少しだけ反応が遅れてしまった。
「!」
ぼんやりとしていたイリスの額に、ブルーノの唇がそっと押し当てられた。
それはほんの一瞬だけ。あっと言う間の出来事。
感覚を確かめる間もなく離れたので、イリスの勘違いかと思うほど。でも。
「本物の恋人になると、こうして触れ合えるのか……嬉しいな」
突然のことで何が起こったのか理解できずにいると、ほんの数センチ離れたブルーノが至近距離でくすくすと笑った。
その笑顔に、たった今額にキスをされたのはイリスの勘違いじゃないと教えられているようで……。
――イリスの足から、カクンと力が抜ける。
「イ、イリス……!?」
「こ、腰が抜けてしまいました……」
視界から急にイリスが消えたのでブルーノも驚いたのだろう。もちろんイリスも驚いた。額とはいえ、まさか突然、キスされるなんて。
掃除が行き届いた床の上にへたり込んでいると、ブルーノがその場に身を屈めてイリスの身体を抱きしめてきた。
「ほら、掴まれ」
「え、い、いいです! 大丈夫です、立てます!」
「足に力が入らないんだろ? 仕事の時間までソファで休んでていいから」
「大丈夫ですから、本当に……!」
心配したブルーノがイリスを抱き上げようとしてくれるが、さすがにそれは遠慮したい。イリスとて乙女だ。ようやく本物の恋人になったばかりで、まだお互いの知らないところもいっぱいあるのに、まず体重から知られる、などという状況は絶対に避けたい。
いやいやと首を振るイリスと、しゃがんだ状態で楽しそうに迫ってくるブルーノだったが、そんな二人の真後ろで、ふと扉がノックされた。
コンコンと響く音に返答する前に、ガチャ、と扉が開く。
「おはようございます、ブルーノさま。今日は一段と寒――……って。……え?」
宰相執務室を訪れたのはギルバートだった。普段はブルーノの返事を待つ彼だが、今朝は王宮の廊下もかなりの寒さなので、事前に暖炉へ火がくべられている部屋へ入り、一刻も早く暖を取りたかったのだろう。
しかしいざ入室してみると、部屋に入ってすぐの足元でイリスとブルーノがしゃがんだ状態で抱き合っている。こんなところで一体何を……? と、ギルバートが胡乱な視線で問いかけてきた。
「ギルバート」
いたたまれなくなったイリスは目を泳がせたが、ブルーノは至って平然としていた。それどころか。
「俺はお前を、空気が読める奴だと思っている」
「……」
「……」
「……」
「今朝はとても寒いので、温かいお茶を淹れて参りますね! 一旦失礼します!」
空気が読める奴だと言われたので、空気を読まざるを得なくなったのだろう。イリスとしてはここはむしろ読まずにいてほしかったが、ブルーノとギルバートの主従関係は強固だった。
にこりと笑顔を浮かべたギルバートが、くるりと回れ右をして部屋を出ていく。
「……ごゆっくりどうぞ」
「ウォルトンさまあぁ……!」
パタン、と扉が閉まると同時に大絶叫してしまう。
そんなイリスの困惑など気にもせず、嬉しそうな表情で再び強く抱きしめられる。
麗しい微笑みでイリスに迫ってくるブルーノを見ていると、この笑顔には絶対に勝てない、と思うイリスだった。




