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22話 愛人令嬢は終わりです(前編)


 ブルーノから贈られたインクは普段から宰相執務室で使用していたが、羽根ペンについてはクロムウェル邸の自室の引き出しに大切にしまい込み、これまで一度も使用したことがなかった。


 道具は使った方がいいことはわかっているのだが、万が一破損してしまったら、と思うととても使う気になれなかった。その代わり、毎夜眠りにつく前に手に取ってはじっくりと眺めて、それで満たされた気分を味わっていた。


 けれどイリスは気がついた。今がきっと、大事にしてきた羽根ペンを使う絶好の機会だ。羽根ペンだけではなく、インクも、レターセットも、きっとこのときのため――ブルーノに自分の気持ちを伝えるために与えられたものだと思える。


 いつも執務室の机の上に置きっぱなしになっているインク瓶を、今日だけは大事に持ち帰る。大切にしてきた羽根ペンで試し書きを繰り返して、一生懸命に考えた文章を丁寧に綴り、ようやく一通の手紙を書き上げる。


 便箋が十二枚も入ったレターセットだったのに、何度も書き直したせいでうっかり便箋だけ使い切ってしまった。けれどこれならきっと、イリスの気持ちも伝わるはずだ。


(私では、ブルーノさまには相応しくないかもしれない……)


 手紙を書いている最中も、何度も同じことを考えていた。


 これまでずっと『愛人令嬢』と呼ばれてきたイリスは、本当はブルーノの隣に相応しくないのかもしれない。彼の傍にはイリスよりもお似合いの素敵な女性が立つべきで、周りもブルーノに相応しい美しく完璧な令嬢を望んでいるのかもしれない。


(でも私は……もっと、ブルーノさまのことが知りたいです)


 けれどイリスは、もっとブルーノと同じ時間を過ごしたい。

 傍にいたい。彼の良いところも悪いところも知りたい。


 ブルーノと、真剣に向き合ってみたい。


 そんな素直な気持ちを、一通の手紙に懸命に詰め込んだ。今のイリスの正直な想いを綴った。まだ生まれたばかりで小さくつたない恋心だけれど、少しでもブルーノに届いてくれたら、と精一杯に心を込めた。


 あとはこの手紙を、ブルーノに渡すだけだ。


(き……緊張、します……!)


 広い廊下に流れる真冬の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。


 いつ手紙を渡そうかと緊張状態のまま仕事に臨むと書字に影響しそうなので、今日の作業が始まる前にブルーノにこれを渡してしまおうと、今朝のイリスは随分早くに王宮を訪れた。


 住み込みで勤めている人たちはすでに動き出しているが、自分の邸宅や屋敷から通ってくる人たちは、まだまばらな時間帯。――いくらなんでも早すぎる時間だ。


 門番を務める騎士の他には、まだ誰ともすれ違っていない。とはいえ真冬はどこも寒いし、他に行く宛てもないので、宰相執務室でブルーノの出勤を待たせてもらおうと考える。……が。


(って、ブルーノさま……!? なぜこんなに早く……!?)


 肌寒い回廊を歩いて宰相執務室へ向かっていたイリスだったが、歩きながらふと顔を上げると、視界の先にブルーノの姿を発見した。


 驚いたせいで反射的に柱の陰に隠れてしまう。手紙を渡すまで――今日最初にブルーノに会うまでもう少し時間的猶予があるとばかり思っていたのに、突然その瞬間がやってきたことに緊張して、思わず身を隠してしまう。自分でも早く渡したいと思っているのか、先送りにしたいと思っているのか、よくわからない。


 そわそわ、どきどき、と心臓が忙しなくざわめき始める。伯爵家の令嬢たるもの、本当はどんなときでも凛と気高い姿を示し、どんな相手にも堂々と振る舞う気丈さを保つべきだと思う。けれど恋というものは、淑女の気品ある振る舞いを軽率にかき乱してくるものらしい。胸がときめくような恋を夢見てきたイリスだが、実際はなかなかコントロールが難しいと思い知る。恋とは、実に厄介なものだ。


 しかしずっと物陰に隠れたままでもいられない。回廊も寒いので風邪を引く前に、と一度だけ深呼吸すると、意を決して一歩踏み出す。


 ところが、ブルーノに声をかけるべく柱の陰から出ようとしたイリスよりも一瞬早く、とある女性が大きな声を張り上げた。


「考え直してくださいませ、ブルーノさま!」


 回廊の端から端まで響き渡るような高い声に、思わずびくっと飛び跳ねる。ブルーノの名を親しげに呼んでいるが、どうやら機嫌がよろしくないらしい女性の声音に、ざわざわと嫌な予感を覚える。


 咄嗟に元の場所に戻って再び身を潜め、柱の陰からそろりと様子を窺ってしまう。


 覗き見や立ち聞きなんて、それこそ貴族令嬢にも気品ある淑女にも相応しくない行動だろう。だがよく見ると最初の場所から一歩も移動していないブルーノと、実は最初からブルーノの前にいたと思わしき女性の姿を確認すると、つい『隠れておいて良かった』と思ってしまう。


(ローラ=セルデン子爵令嬢……)


 ブルーノと話していたのはセルデン子爵家の二番目の令嬢、ローラ=セルデンだった。彼女は王太子ジェラルドの二十五回目の生誕を祝う夜会で、恋人であるクリフ=ウォーリーに色目を使って誘惑したとして、大勢の前でイリスを糾弾した張本人である。


(そういえば夜会のときも、ブルーノさまを名前で呼んでおりましたね……)


 本来であれば公爵家の当主、そして自国の宰相であるブルーノを呼ぶ際は、家名に敬称をつけるか役職名で呼ばなければならないところ。しかし思い返してみると、ローラは以前もブルーノを名前で呼んでいた。そしてそれは、本日も同様である。


(親しい間柄、なのでしょうか……)


 ブルーノの口振りからローラと特に親しい気配は感じられなかった。むしろ確証のない噂話だけで他人を非難することに、若干の嫌悪を抱いている空気さえ感じられた。だがイリスが知らないだけで、二人は意外と親しい関係なのかもしれない。


「イリス=クロムウェル伯爵令嬢は、常に誰かと――複数の男性と、関係を持っておりますの」

「!」


 ローラが放った一言に反応し、ぴくりと身体が緊張する。彼女がブルーノに訴え始めたのは、イリスが誰かと、しかも複数人とただならぬ関係にある、というものだった。


「イリスさまは、愛人令嬢なのです」

「愛人令嬢……?」

「そうですわ。イリスさまのような不誠実でふしだらな女性は、ブルーノさまに相応しくありません」

「……」


 勝手なことばかり訴えるローラに、つい意気消沈してしまう。


 彼女の主張はイリスの不名誉な噂を掘り起こして強調するような内容だ。悪い噂は収まりつつあると思っていたのに、こうして他人の口から伝わるところを目の当たりにするということは、実は『偽りの恋人作戦』があまり効果を発揮していなかった、と捉えることもできる。せっかく協力してくれていたのに、ブルーノに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


 だがそれ以上に、ブルーノの耳に再びこの噂が入ることが――〝イリスが不誠実でふしだらな愛人令嬢である〟と言葉になってブルーノに伝わることが、何よりも悲しい。


 怒りや悔しさ、恥ずかしさもあいまって、この場から逃げてしまいたくなる。大事に握りしめてきたブルーノへの手紙は、やはり彼に渡さない方がよいのでは、と急に怖気づいてしまう。


「……二つほど質問があるのだが」

「はいっ! どのようなことでもお聞きくださいませ!」


 偶然とはいえ、勝手に盗み聞きをしているイリスの感情など、二人は知る由もない。そのまま先へ進んでいく会話を立ち聞きするのはいけないと頭では理解しつつ、やはりその場から動けないまま、じっと耳をそばだてる。


「セルデン子爵令嬢は、イリスが『愛人』と会っているところを、その目で見たことがあるのか?」

「え……」


 ブルーノの質問が意外だったのか、ローラが静かに言葉を失う。そしてそれを聞いていたイリスも、思わず目を見開いて固まってしまう。声にこそ出なかったが、喉の奥に消えていった音は、ローラの発したそれとまったく同じだった。


「もしあるのなら詳しく教えてほしい。もちろん、貴重な情報を提供してくれたセルデン子爵令嬢には迷惑がかからないよう、万全の配慮をする」

「それは……えっと……」

「イリスはいつ、どこで、誰と密会していたんだ?」

「いえ、あの……」


 ブルーノが捲し立てるようにローラを問い質す。淡々としているが勢いも感じられるブルーノの様子に、ローラが困惑の表情を浮かべたまま数歩後退する。彼が聞いているのはイリスの情報であってローラの事情ではないというのに、まるで自分が責められているような反応だ。


 しかしローラが答えられないのは当然だ。イリスは恋人や婚約者、妻がいる男性と個人的に会ったことがない。二人きりになったことさえない。誤解を招くような状況にならないよう、常に細心の注意を払っているからだ。


 ならばローラは、一体どこで何を見たというのだろう? ――そう考えたのはブルーノも同じだったようだが、同時にこれ以上の追求が無意味だとも感じたらしい。


「何か思い出したら、いつでも教えてくれ」

「……はい」


 ブルーノが強制的に話を終わらせると、あんなに語気を強めていたローラが、緊張から解放されたようにほっと安堵の息を零した。


 おそらくブルーノも、ローラがこれまでもこれからも『答え』を用意できないことを察知していたのだろう。だから『適当な作り話をすれば、後々自分の首を絞めることになる』と示唆して話を打ち切ることで、彼女に逃げ道を用意した。


 面倒事を回避しつつ、相手が穏便な選択をするようさり気なく誘導するところが、ブルーノの優秀かつ優しいところだと思うイリスだ。


(ブルーノさま……ありがとうございます)


 それにブルーノの話運びは、イリスの身の潔白を前提としたものだった。不名誉な噂など一切信じていないと示してくれる態度に、イリスは今日も安心できる。ほんわりと優しい気持ちになれる。彼はイリスが見ていない場所でも、ちゃんとイリスの味方でいてくれるのだ。


「クリフ=ウォーリー伯爵令息との恋人関係は、解消したらしいな」

「! は、はい……!」

(えっ? そうだったのですか……?)


 ブルーノが突然話題を切り替えてローラに問いかける。すると彼女の表情が、ぱあぁっと明るくなった。


 ローラとクリフの交際にまったく興味がなかったイリスは、夜会の翌日二人に謝罪の手紙を送ったきり、その後の情報を一切追っていなかった。だがローラとクリフは夜会の日からこの数か月の間で、交際を終了させていたらしい。ブルーノがその情報を知っていることも含めて、ただただ驚いてしまう。


 しかしブルーノの指摘に対して、ローラはなぜか嬉しそうな笑みを浮かべている。先ほどまでの怯えた表情は消え、らんらんと目を輝かせてブルーノに一歩近づく。


「その通りですわ。ですからわたくし、こうしてブルーノさまのお傍に……」

「もう一つの質問だ」


 うるうると目を潤ませてブルーノを上目遣いに見つめ始めたローラだったが、ブルーノの次の質問で再び表情が強張った。


「セルデン子爵令嬢は、なぜ俺の名前を気安く呼ぶんだ?」

「……え?」

「特に親しいわけではない。昔なじみや親戚というわけでもない。ほぼ初対面の君に、馴れ馴れしい呼び方を許したつもりはないのだが」

「っ……!」


 ローラを見下ろすブルーノの指摘と視線は、真冬の回廊の温度をさらに低下させるほど極寒だった。


 本来は子爵家の令嬢であるローラが、公爵家の当主であるブルーノを馴れ馴れしく下の名前で呼ぶことは許されない。だがこれまでのブルーノにその点に触れる様子がなかったので、二人は親しい間柄なのかもしれない、と考えていた。


 しかしどうやら違うらしい。ブルーノの口調と表情から察するに、ローラが勝手にそう呼んでいるだけのようだ。


「俺には、イリス=クロムウェルという大切な女性がいる。彼女に誤解されたり、余計な心配をかけさせたくないんだ」


 ブルーノが語る言葉の一つ一つに、どきどきと心臓が高鳴る。嬉しさのあまり顔が火照ってしまう。


 ブルーノはイリスが物陰から聞いていることを把握していないはずだ。それでも彼は、こうして堂々とイリスへの想いを語ってくれる。見聞きされていると思っていないからこそ、大胆な台詞を口にしているのかもしれないけれど。


「もちろん、何か困りごとがあるのなら相談には乗る。だがその場合はまず公的機関を頼るか、セルデン子爵を通して面会の申請をしてほしい。以降、待ち伏せして接触するような真似は遠慮してほしい」


 ブルーノの説得の台詞から驚きの事実を知る。なんとローラはブルーノに会うために、朝からこの場所で彼を待ち伏せしていたらしい。


 確かにこの回廊はイリスが通ってきた王宮のエントランス側とも、ブルーノが寝泊まりしているゲストルーム側とも繋がっていて、さらにこの先にある宰相執務室に向かう際に通る場所でもある。出勤するブルーノがいつどちらの方向からやってくるのかわからなかったローラは、朝早くから分岐点となるこの場所に待機し、ずっと彼を待ち伏せしていたようだ。


 そんなローラの行動に、ブルーノが嫌悪感と不信感を抱く気持ちはよくわかる。正直あまり気持ちのいいものではないし、長時間の待ち伏せが原因で体調を崩されても困る。真冬のルファーレ王宮の回廊は、身体の芯まで凍えるような寒さだ。


 よって面会を希望する場合は、然るべき手順を踏んでほしい。個人的なかかわりを持つ気はない。――ブルーノは、明確にそう説明したと思うのだが。


「そんな……ブルーノさま……!」


 うるうると目に涙を浮かべたローラが、再度ブルーノの名を呼ぶ。その懇願を耳にしたイリスが、話が通じない人だと思った瞬間、ブルーノも呆れたように、


「……話が通じないご令嬢だな」


 と呟いた。



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