18話 私は都合がいいようです(前編)
「その上、はじめて本気で付き合っている相手が『ブルーノ・マスグレイヴ』だと……!?」
「あ、いえ、それは……」
「イリス?」
なおも続くカーティスの勘違いを否定しようと一歩踏み出す。しかしその訂正だけはブルーノに素早く制止された。
少し不機嫌な声に呼び止められたイリスは、ブルーノと視線が合ったことでハッと我に返った。
(勢いで、恋人のふりだと言ってしまうところでした……!)
それまでのカーティスの言い分は、ただの迷惑な勘違いなのでいくら訂正してもいい。イリスとしてはすべてを全否定したいぐらいだ。
だがブルーノとの交際の件は、社交界に広めることを前提に二人で話し合って決めた嘘だ。こちらも同じ偽りではあるが、むしろ積極的に広まった方がいいものなので、ここで訂正などしてはならない。
(でも『付き合っている』という噂はちゃんと広まっているのですね……よかったです)
カーティスの一言から、イリスがブルーノと『はじめて』『本気で』『交際している』という情報が拡散していることを知る。まるでイリスの初恋が社交界中に知られているようでなんとなく気恥ずかしい気持ちもあるが、二人で決めた作戦が順調に浸透しているというのは朗報だ。
だが目の前の問題については、まったく安堵している場合ではない。
「ミハエルから、君がブルーノと二人で歌劇鑑賞をしていたと聞いたときは、衝撃でしばらく気を失ったほどだ」
「さ、さようでございますか……」
イリスとブルーノがデートをしていたとの情報を聞き、カーティスは失神してしまったらしい。なんだか申し訳ないことをしたような気分になるが、冷静に考えたらイリスが気の毒に思う必要はない。大きな衝撃を与えられたり多大な迷惑を被っているのは、こちらの方だ。
「イリス=クロムウェル嬢」
むむむ……と唸りながら考えごとをしていると、大股で傍に寄ってきたカーティスが突然イリスの手を取り、ぎゅっと力を込めてきた。
突然の接近と接触に、イリスの背筋にぞわりと悪寒が走る。握られた手にうっすらと汗をかいているのがまた気持ち悪い。
「妻とは別れる。だから君もブルーノと別れて、私と一緒にならないか?」
「え……えっ……!?」
「もちろん愛人ではない。私の本妻になってほしいんだ!」
突然の申し出とあまりの気色悪さに、身体が硬直して動けなくなってしまう。外は雪が降っていて凍えるような気温だというのに、イリスの背中からはだらだらと妙な汗が流れ始める。
できることならイリスの方が今すぐ気を失いたいぐらいだ――と、何の解決にもならない逃避作戦を考えていると、つかつかと傍へ近寄ってきたブルーノが、カーティスの手からイリスを引き剥がした。そのままぐいっと肩を押されてよろめいたカーティスには目もくれず、ブルーノがイリスの腰をぎゅっと抱きしめる。
「冗談でも笑えないな、レティード公爵」
まとわりついたカーティスの手が離れるだけでも十分ホッとしたが、ブルーノの腕に身体を引き寄せられて存在が強く感じられると、より深い安心感を得られる。彼のあたたかな体温に、不安な気持ちをじんわりとほどかれる。
「お前には聞いていない、ブルーノ! イリス嬢から離れろ!」
「離れるはずがないだろう。イリスは俺の大切な恋人だ」
ブルーノに簡単に押しのけられたことに苛立って声を荒らげるカーティスだが、ブルーノはその訴えも一蹴する。そしてイリスは、彼が堂々と言い放った一言に照れて、別の意味で動けなくなってしまう。
(大切な、恋人……)
大人二人が大声で牽制し合う緊迫した状況だというのに、イリスは一人、別の緊張感に囚われている。ブルーノの宣言に心が揺れて、どきどきとときめく。
(……って、違います! 今のも演技でした!)
迫真の演技に圧倒されてその気になりかけたイリスだったが、すぐに我を取り戻す。
そう、これはカーティスをはじめ、周りを欺くための演技だ。イリスは真剣な交際をしていると示すことで不名誉な噂を払拭するため、ブルーノは恋人がいると装うことで結婚を望む声から逃れるために、二人で始めた『期間限定の偽りの恋』なのだ。
現実を思い出したイリスは、すぐに頭を振って雑念を追い払う。ブルーノの熱愛の演技に、共犯者のイリスが見惚れてどうする。
「というより、呼び捨ての次は『お前』か……もう取り繕う余裕もないんだな」
ブルーノもカーティスも『公爵家』の当主なので、爵位そのものは同列である。しかし宰相という国政の重役を担うブルーノは、政治の舞台では立場が一段上になる。
むろん、年配者は敬うべきだろう。だが必要以上にへりくだることで宰相の立場が軽んじられ、そのわずかな綻びに端を発して組織の序列や秩序が乱れる可能性もゼロではない。よってブルーノは、丁寧すぎる敬語をあえて封印して周囲に接しているようだ。
だがカーティスは違う。彼は組織的にはブルーノよりも下の立場となるため、最低限ルファーレ王宮内にいるときはブルーノに敬称をつけるか役職で呼ぶべきところだ。お前、などという無礼な呼び方は、本来許されるものではない。
自身の犯した罪が露呈し、さらに発端となったイリスとブルーノの密着を目の当たりにし、感情を制御する余裕がなくなってきたのだろう。ブルーノに指摘されても鼻を鳴らしてふんぞり返るばかりか、それを無視してイリスに声をかけてくる。まるで自分の主張が正しい、とイリスだけに訴えかけるように。
「イリス嬢。君は、ブルーノに利用されているんだ」
指摘されてもなおブルーノを呼び捨てにするカーティスの荒い鼻息と眼光に怯え、再び背中に変な汗をかく。けれどその後にくっついてきた『利用』という単語に引っかかったせいか、イリスの動きがぴたりと止まった。
「ブルーノは字があまり上手じゃない。というか、下手くそだ」
「……え」
カーティスの口から放たれたのは、拍子抜けするような台詞だった。思わず間抜けな声が出る。
「今までは己の秘書官に任せて、巧妙に隠してきたんだろう。だが君の書く字が綺麗で読みやすいと知ったブルーノは、君を利用しようと考えた」
「え……え、っと」
「ブルーノは自分の仕事を手伝わせたいがために、君を宰相執務室に通わせているんだよ」
カーティスは、ブルーノの弱点をイリスに大暴露したつもりでいるらしい。それを知ったイリスが幻滅する、ブルーノに利用されていると気づいて怒ったり悲しんだりする、そしてそのままブルーノを嫌いになって、彼の元から離れることを期待しているのだろう。
だがイリスにとっては真新しい情報ではない。それどころか、ブルーノの偽恋人になって四日目には、彼の口から知らされていたことだ。
「あの……存じ上げておりますよ?」
「……は?」
(というより私、そのためにここを訪れているのですが……)
イリスはすべてを知った上で、自らの意思でこの宰相執務室を訪れている。ブルーノから依頼を受け、彼の仕事の手伝いをするためにルファーレ王宮に通っているのだ。
むしろカーティスは、どうしてイリスが何も知らないと思ったのだろうか。週に数度ここへ通って仕事を手伝っている時点で、イリスがブルーノの苦手分野を把握した上でそれを補っている、とわかりそうなものだが。
カーティスはそれほど錯乱しているのだろうか。それとも、自身の罪が露呈したことを認めたくないのだろうか。あるいは、こうして必死に話を逸らそうとしているのだろうか。
――理由なんてどれでもいい。
イリスにとって大事なことは、ブルーノやギルバート、クロムウェル伯爵家の家族、ジェラルドをはじめとする王族の面々、そしてイリス自身の『普通の日常』が保たれること。人を傷つけたり苦しめたりするような悪質な嘘や噂に振り回されず、穏やかな日々を送ること。
それに敬愛するブルーノの仕事が、少しでも楽になること。彼が正しい評価を受けること。ブルーノが密かに感じている重圧や重責の苦しみや不安が、少しでも和らいで楽になること、なのだ。
「では、私からもお訊ねしますね」
ブルーノの腕からするりと離れて、正面からカーティスへ向き直る。ブルーノがハッと驚く気配を感じたが、それでもイリスは真っ直ぐに前を見つめた。ブルーノ=マスグレイヴという人物を誤解しているカーティスに、イリスからも知ってもらいたいことがあったからだ。
「レティード公爵閣下は、ブルーノさまがなぜ文字を書くのが得意ではないのか、ご存知でしょうか?」
「は?」
イリスの質問を耳にしたカーティスが、呆気にとられたようにぽかんと口を開いて動かなくなる。そんなカーティスの動揺を感じ取ったイリスだったが、少し待ってみても質問に答える様子がなかったので、構わずに自身の話を続けることにした。
「答えは『頭の回転が速すぎて、考える速さに字を書く速さが追いつかないから』です」
「!」
イリスが示した答えに驚いたのは、カーティスよりもむしろブルーノらしかった。すぐ傍でブルーノが息を呑む音が聞こえたのでちらりと視線を上げてみる。目を見開いてイリスを見下ろすブルーノににこりと笑みを浮かべると、再びカーティスに向き直った。
「おっしゃる通り、ブルーノさまの字は決して読みやすいとは言えません」
常に政治の表舞台に立っているわけではないイリスだ。貴族令嬢として社交辞令を述べたり本音を覆い隠す術は一通り身に付けているが、本当は嘘もお世辞も忖度も得意ではない。だから『ブルーノさまの字は綺麗ですよ!』だなんて言うつもりはない。
その代わり、尊敬や親愛の気持ちをありのままに伝えることは躊躇わない。波風が立たないように、悔しい感情や悲しい気持ち、不名誉な噂に対する反論をのみ込むことは多いが、素敵だと思ったことは素敵だと口にするし、嬉しい気持ちや楽しい感情はできるだけ素直に伝えたいと思っている。
だからこれは、今のイリスがブルーノに感じている素直な気持ちだ。
「ブルーノさまは、本当は丁寧に字を書くことにも使えるはずのその時間を、国王陛下をはじめ王族の皆さま、国民や部下の皆さまのことを考える時間に充てているのです」
「……イリス」
まだほんの数か月間ではあるが、彼と同じ時間を過ごしているうちに、気がついたことがある。
実はブルーノは字が下手なのではない。字を『正しく』『丁寧に』書くことよりも『素早く』書くことを優先しているせいで、読みにくくなっているだけなのだ。
つまり本来は丁寧な字を書くことができる。普通に読める文章も書ける。なのに綺麗な字を書くことを重視していない理由は、ゆっくりと丁寧に字を書く時間さえ思考を巡らせる時間に変えているから。書字というほんの少しの時間すら、周りのことを考えるために使っているから。
それが宰相・ブルーノ=マスグレイヴという人なのだ。




