16話 宣戦布告を受けまして
声だけではなく本気で不満そうな表情も向けられるが、今回ばかりはイリスも怯んでいられない。
「ブルーノさまをスキャンダルに巻き込むわけには参りません」
「もう手遅れですよ、イリスさま」
「でも……!」
「ギルバートの言う通りだ、イリス。ここで泣き寝入りしてどうする」
イリスはなおも食い下がろうとしたが、ギルバートとブルーノから同時に窘められた。二人から関係を終わらせる選択は無意味だと諭されると、自分の判断に自信がなくなってしまう。
しゅんと頷くイリスの顔を見つめたブルーノが、椅子の背もたれに身体を預けてはぁ、とため息を零した。
「確かに、事情を知らない他人に『イリスの行いではない』と証明するのは難しいことかもしれない。だがこれは、明らかな『宣戦布告』だ」
「宣戦布告……?」
イリスがオウム返しに問いかけると、ブルーノが低く頷く。
「考えてもみろ。この手紙をジェラルド殿下に届けた人物は、なぜイリスの名前を使ったと思う?」
「!」
言われてみれば確かにそうだ。ジェラルドへのラブレターの差出人に、なぜイリスが選ばれたのだろう。
仮に王太子であるジェラルドを陥れるためだとしても、接点なんてほとんどないイリスが相手では決定打に欠ける。父・ハロルド=クロムウェル伯爵が強大な権力を持つわけでもないので、スキャンダルを起こしたところですぐに揉み消される。理由としてはやや弱い気がするのだ。
「犯人はどうして、メモや書き置きのみで公文書には一切使用していないインクの存在を知っていたと思う?」
ブルーノの疑問は一つではない。イリスの使うこの特別なインクは、一見すると黒色だが、よく見ると木苺色のような赤の色彩と金色の粒子を帯びるため、公の文書には一切使用していない。インク瓶どころか、そのインクを使って書いた文字すらこの宰相執務室から外に出ていないのだ。
なのにどうして、ラブレターの真の差し出し人はこれがイリスだけの特別なインクだと知っていたのだろう。
「それになぜ、宰相である俺の執務室に忍び込むという危険を侵したと思う?」
犯人がこの部屋に忍び込んでインクの中身をこっそり抜き取ったのは、ほぼ間違いない。だがここは宰相・ブルーノ=マスグレイヴの仕事部屋だ。日々重要な書類や機密文書が扱われるこの部屋に忍び込んでまで、インクを得たがったのはどうしてだろう。
「私か、ブルーノさま……あるいは両方を陥れたい、と思っている方がいる……?」
「そういうことだ」
イリスの答えに、ブルーノがうんざりとした様子で頷く。
頭と胃の痛くなるような話だが、どうやらイリスの名前を使ってジェラルドにラブレターを書いた犯人には、どうしても宰相執務室に侵入し、イリスの名前を使って犯行に及びたい『理由』があるようなのだ。
「ただの悪戯や冗談ではなく、明らかに俺たちを狙って――……」
ブルーノが自身の考えを口にしかけたが、そこで話を中断せざる得ない状況となった。
ドンドンドン、と扉を叩く音が、室内に重く響き渡る。
『宰相閣下! イリス=クロムウェル伯爵令嬢は、こちらにご在室でしょうか!』
「……思ったより早いな」
扉の向こうから知らない男性の大きな声が聞こえてくる。名前を呼ばれたイリスの肩が、びく、と跳ねると同時に、ブルーノが椅子からのそりと立ち上がった。
「ギルバート、少し時間を稼げるか? その間にイリスを説得する」
「かしこまりました。でもあまり長くは持ちませんよ」
「わかっている」
手短なやりとりを交わすと、ギルバートがすぐに扉へ向かっていく。相手はイリスを探しに来たようなので、今日ばかりは扉を閉めていて正解だった……と考えていると、傍へ近付いてきたブルーノに手首を掴まれ、ぐいっと身体を引っ張られた。
「……イリス」
「!」
ギルバートが開けた扉の隙間からイリスの姿が見えないよう、位置を誘導されたのだと思った。だがイリスの予想は外れていた。
ブルーノの体温を感じるとほぼ同時に、彼に身体を抱きしめられていると気がつく。
突然の抱擁に驚き、イリスの全身が硬直した。
「すまない、巻き込んだのは俺の方だ」
「え? そ……そんな……! ブルーノさまは何も……!」
イリスを抱きしめたブルーノが後悔を滲ませた声で謝罪するので、照れと恥ずかしさを感じながらも彼の腕の中で懸命に首を振る。
今回の件はどう考えてもブルーノのせいではなく、イリスの油断が招いた失態だ。それは誰の目にも明らかなのに、ブルーノがいつになく情けない声でイリスを強く抱きしめてくる。
まるでイリスが口走った、約束は今日限りで終わりにして別れたことにしよう、という提案に怯えるように。離れることは許さない、と宣言するように。
「俺のような若輩者が『宰相』の地位に就くことを面白くないと思う奴は、この王宮内に腐るほどいる」
「ブルーノ……さま?」
「国王陛下と王太子殿下の意向を酌み、命令を確実に遂行することを最優先して、女性の誘いにも派閥争いにも興味を示さない。――そんな俺を疎ましく思っている奴も、決して少なくないんだ」
ブルーノがぽつりぽつりと語り出すと、イリスの動きが自然と止まる。その言葉のひとつひとつに、不思議と意識が引き寄せられる。
まるでこれまで聞いたことのないブルーノの不安や憂いといった〝弱い部分〟を、こっそりと教えてもらっているような気分になって。
深みのある低い声にどきどきと緊張していると、抱擁をほどいて少しだけ身体を離したブルーノがイリスの顔を覗き込んできた。高身長のブルーノがイリスを見つめる視線に、また少し心音が加速する。
「俺は、君に甘えてしまった」
「……え? 私に、ですか……?」
イリスが首を傾げると、ブルーノが低く頷いた。
「理不尽な状況に頽れない芯の強さがあって、己の意見もしっかりと主張できる。だが身の程は弁えていて礼儀正しく、立ち振る舞いも美しい」
ブルーノが面と向かってイリスを褒めるので、びっくりして背中と腰に力が入る。全身が棒のように硬直して、表情筋まで強張ってしまう。
「そんなイリスなら、と安易な気持ちで『恋人役を引き受けてほしい』と提案してしまった。政治抗争に巻き込む可能性も予測できていたのに、イリスならば大丈夫だという直感を信じて、俺の都合に巻き込んでしまった。……これでは、俺が君を傷つけたのと同じだ」
「そのようなことは……! 悪いのは、私かもしれませんのに……!」
先に立たない後悔を吐露するブルーノの主張を、必死に首を振って全力で否定する。
そんなことはない。ブルーノが気に病む必要なんてないし、彼が悪いなんてことは絶対にあり得ない。
ブルーノと出会って、彼の仕事を手伝うようになって、今のイリスはこれまでにないほど充実した日々を過ごしている。ブルーノがイリスに手を差し出してくれたおかげで、毎日が幸福に満ちている。
イリスが密かに夢見ている『本物の恋』や『恋愛結婚』にはまだまだ遠いけれど、陰で愛人令嬢と揶揄されてきたイリスにも、幸福になれる可能性があると示してくれる。
そんなブルーノが、イリスを傷つけただなんて、絶対にあるはずがない。今回の件に落ち度があるとするのなら、間違いなくイリスの方だ。
(いえ、それも違いますね)
自分を責めそうになるイリスだが、すぐにそんなはずがない、と思い直す。
悪いのは間違いなく手紙を書いた犯人だ。他人の執務室に忍び込むことも、少量だろうとインクを盗むことも、他人の名前を使って勝手に手紙を送りつけることも、決して許される行為ではない。どう考えてもイリスもブルーノも被害者だ。
ならば二人が言うように、イリスとブルーノが離れ離れになることは何の意味もない。
泣き寝入りなんてしている場合じゃない。
やるべきことは、他にある。
「こうなった以上、犯人を見つけてこの目で真実を確認し、しかるべき処分を与えたい。野放しにすれば、いずれ国政に多大な影響を与える可能性もある。叩くなら早い方がいい」
「――はい」
ブルーノの宣言に強く頷き、顔を上げて彼の目をじっと見つめる。その視線から、イリスの心境にも変化が生まれたこと、こんな悪質な企てに負けたくないと思っている感情を読み取ったのだろう。
イリスの返答を聞いたブルーノの青い瞳の奥にも、強い闘争の炎が灯る。
「イリスに協力してほしい。こんな状況になって辛いだろうが、あと少しだけ、俺に力を貸してほしいんだ」
「かしこまりました。……大丈夫です。私は、ブルーノさまの味方です」
「そうか、よかった」
ブルーノの確認にしっかりと頷くと、彼もようやく表情を綻ばせてくれた。だからギルバートに告げていた『イリスを説得する』というのは『とことん巻き込むことに同意を得る』という意味だった――と思っていたのだが。
「ちゃんと口説く前に逃げられたら、どうしようかと焦った」
「え……?」
「だがイリスが頷いてくれるなら、まだ俺にも猶予はあるな」
意味深な言葉を呟いたブルーノに、せっかく緊張がほどけて決意に満ちていた気持ちが一瞬だけ吹き飛ぶ。
ぱちぱちと目を瞬かせてブルーノを見上げるが、彼はもう一度イリスをぎゅっと抱きしめるだけで満足したらしく、すぐにイリスを解放してくれた。ただし愛おしい相手に向けるような、やけに熱い視線だけはしっかりと残して。
「用件はなんだ」
「! マスグレイヴ宰相閣下……!」
呆然とするイリスを置き去りに、部屋の入り口に近づいたブルーノが扉をガチャリと開けて外へ声をかける。部屋を出てすぐの場所でああでもないこうでもないと会話をしていたギルバートと文官らしき男性を見下ろすと、ブルーノの登場に驚いた男性の肩がビクッと飛び跳ねた。
しかし男性にも己に与えられた職務があるのだろう。ブルーノの冷たい視線にたじろぎながらも、どうにか自身の用件を口にする。
「貴族院中央政務室より、イリス=クロムウェル伯爵令嬢からお話をお伺いしたい、との要請が出ております。イリス嬢は至急、中央政務室へご同行願います」
「許可しない」
男性の用件は、ルファーレ国政の最上層である『貴族院』の中枢――『中央政務室』がイリスに事情を聞きたがっている、という内容だった。早い話が、『偉い人が呼んでいるからついて来い』という意味である。
だがブルーノはその要望をばっさりと切り捨ててしまった。
「いつから中央政務室に調査と取り調べの権限が与えられたんだ? 宰相である俺は何も聞いていないし、許可した覚えもない」
「し、しかし……!」
ブルーノの言う通りだ。確かに貴族院はルファーレ王国の議会内で強い発言力を持ち、さらにその中央政務室に所属する上流貴族には特に大きな権力が与えられている。
しかしその貴族院を含め、すべての院および政務を取りまとめるのが『宰相』だ。つまりブルーノが知らない権限や許可していない職権は行使できないし、当然、罪人でもなんでもない人物を取り調べることは許されない。
「そもそもイリス=クロムウェル嬢は今、しかるべき手続きを踏んで宰相執務室付きの秘書官という扱いになっている。であれば、まず俺に話を通すのが筋だろう? 誰の指示でイリスを連れ出そうとしている?」
「い、いえ……それは、その……」
さらになる正論を突きつけられ、男性があわあわとたじろぐ。
部下の失態は上司の責任なのだから、部下であるイリスが何かをしたというのなら、まず先に上司である自分に話を通せ、というのがブルーノの言い分であるが、これには男性も困ったらしい。誰の命令でここへ来た? と問われ、このままでは分が悪い、と感じたのだろう。
その場から勢いよく後退した男性が、がばっと腰を折って頭を下げる。
「か、確認してまいります……っ」
そう口にするや否や、踵を返した男性が一目散に廊下の向こうへ走り去っていく。質問に対する回答をまったく得られなかったことに不満げな表情を見せたブルーノが、はぁ、とこれ見よがしにため息をついた。
「ったく……もう少し詰めてから来ればいいものの」
「ブルーノさまがその剣幕で睨めば、大抵の輩は尻尾巻いて逃げ出しますよ」
「そこまで怖くはないだろ」
「ご自身の怒った顔、鏡で見たことあります?」
ギルバートに苦笑いを零されたブルーノが、鼻から小さく息を漏らす。
そんなやりとりを室内で聞きながら考えごとをしていたイリスだったが、喧騒が収まったことで思考が明瞭になると、イリスの頭の中に『ある可能性』が閃いた。
「ブルーノさま、ウォルトンさま」
廊下にひょこっと顔を出したイリスは、今後の作戦を立て始めていた二人に声をかける。
「もしかしたら、犯人を見つけ出す方法を思いついたかもしれません」
「本当か……?」
「ええ。いくつか検証してみないといけないこともありますが……」
もちろん絶対に大丈夫だと言い切れるほどの自信があるわけではない。だがイリスの知識と経験上、上手くいく可能性の方が高いように思う。そのためには事前の確認と準備も必要だが、ブルーノとギルバートの協力があれば成功率は高いと踏んでいる。
そう前置きすると、顔を見合わせたブルーノとギルバートが大きく頷いた。
「話してくれ」
「はい」
再び三人で室内に入り、パタンと扉を閉める。
その軽やかな音こそが、偽物のラブレターの秘密を紐解く最初の合図のような気がした。
 




