【閑話】万咲希の初恋 後編
前回の往診から、万咲希はどうも調子が悪かった。
体の、ではなく心の。
あの日のことを思い出すだけで胸がザワザワして、集中力がプツンと切れてしまう。
今まで勉強一筋だった万咲希には初めての経験だ。
たとえば往診や夕食の買い出しのために外に出たとき、決まって華陽の姿を探してしまう。
数少ない往診のときは、いつもより早起きして意味もなくソワソワしてしまう。
そんな自分の意味不明な行動に、万咲希はとても戸惑っていた。
「はぁ……」
今日はその往診の日。
またも早く目が覚めてしまい、自室で勉強をしていた。
「どうした、万咲希。ため息などついて。具合でも悪いのか? 」
今朝の朝食当番である朔矢が、じゃがいもの芽を取りながら眉を寄せた。
一見不機嫌そうに見えるけれど、これは心配しているときの顔であると優秀な弟子は知っている。
包丁を置いて万咲希のほうに体を向けた朔矢は、少しだけ膝を曲げて、万咲希の顔をのぞき込んだ。
「顔色は良さそうだが……。ふむ、目元に薄く隈ができているな。眠れていないのか?」
「い、いえ! きちんと寝ていますよ! 体調管理は仕事のうちですし、なにより師匠のお手を煩わせるつもりは──」
「万咲希」
しどろもどろになって返答する万咲希をたしなめるように遮り、朔矢は腕を組んだ。
眉間のシワが濃くなる。
「いくら体調管理をしていても、具合が悪くなることはある。それは仕方の無いことで、そしてもちろん、俺はお前が体調を崩しても煩わしいと思うことはない。心配はするが」
「師匠……」
ありがたい師匠のお言葉に、万咲希はじわりと涙を滲ませ──
「相変わらずの石頭ね、朔ちゃんは」
台所の窓から聞き慣れた声が聞こえ、二人はびくりと肩を震わせた。
見れば、血の気のない蒼白い顔がニョっと窓の外に浮き出ている。
あまりに不気味だったので、滲んだ涙も引っ込んでしまった。
「ゆ、ゆずさん。いつから聞いていたんですか」
薬師のまとめ役である、雪女のゆずきだ。
「うーん、万咲希くんがため息をついた辺りかしら?」
「そんな前から……」
なぜ気がつかなかったのだろう。
苦い顔をする万咲希を横目に、朔矢は火を止めてゆずきを見た。
「ゆずき殿、悪いが万咲希の悩みを聞いてやってくれないか。内容からして俺では力不足だろうから」
「あら、尊敬する師匠の方が良い気もするけど……。そうね、たしかにあなたはこの手の相談は苦手そう」
クスクスと笑いながら、ゆずきは玄関の方へと歩き出した。
台所の料理音をバックに、万咲希とゆずきは居間の囲炉裏を囲んでいた。
万咲希から『最近自分の身に起きている不思議な経験』について真剣な面持ちで聞いていたゆずきだったが、全て聞き終えると柔らかな笑みを浮かべた。
「うん、やっぱり。万咲希くん、それは恋ね」
「はあ!? 恋って誰が誰を?」
「そりゃ、あなたが鈴の音の娘ちゃんを、よ」
当然だとばかりに頷かれ、万咲希は言葉を詰まらせた。
(恋? 俺があの子に? また彼女とはほんの数回会っただけなのに?)
恋とはそんな軽い気持ちでするものだろうか。
納得いかない自分とは別に、どこか腑に落ちる自分もいる。
万咲希は「ううん」と小さく唸ると、困ったようにゆずきを見上げた。
「もし本当に恋だとして、彼女には心に決めたひとがいるって聞きました。俺の入る隙なんて……」
そう言って眉を下げる万咲希に、ゆずきは人差し指を振ってみせた。
「恋の成就にライバルは必要ないわ。意中の子を射止めたいのなら、ごちゃごちゃ考えずにその子だけを追いなさい。取り繕ったりしないで、ありのままの自分でぶつかるのよ。大丈夫、あなたは十分魅力的だわ」
その言葉は万咲希の心を強くさせた。
ゆずきと別れ、往診に向かう後ろ姿は決意にみなぎっている。
朔矢はそんな愛弟子の様子にホッとした。
常に自信満々な彼が、ここ最近では不安げな表情ばかり浮かべていたので、師匠として心配だったのだ。
しかし、どうやらもう大丈夫のようだ。
往診を終えたあと、万咲希は華陽に真っ直ぐな目を向けてこう言った。
「君の病気はとても厄介だから、俺が一生をかけて君の病を治す方法を探す。絶対に」
「一生? それって……」
互いの瞳がかち合う。
新たな芽の息吹く音が聞こえた気がした。




